先ほどまで私の脳髄を内側から引き裂かんばかりに暴れていたあの猛烈な激痛が、まるで最初から存在していなかったかのように、嘘みたいに綺麗さっぱりと晴れ渡っていた。
視界は驚くほどにクリアで、頭の中は信じられないほどすっきりと整理されている。汐莉さんの白く冷たい指先が口内に残していった、忘却と陶酔の甘やかな残り香が、今も私の脳の隅々を心地よい麻薬のように浸し、じんわりと痺れさせていた。
何かとても大切で、けれど同時に酷くおぞましく、私を内側からじわじわと焼き殺そうとしていた致命的な重荷。
それを彼女の底知れない人魚の神秘によって、跡形もなく削ぎ落としてもらったような、圧倒的な解放感と気分爽快感。
私はもう、自分の両足が本当にこの世界の地面に着いているのかさえ気にならないほど、健やかで、どこか万能感すら漂う軽い心を取り戻していた。
「うん、もう全然大丈夫。ありがとう、汐莉さん」
私はソファーから立ち上がると、心配そうに──あるいは愛おしそうに私を見つめる汐莉さんに微笑みかけ、そのまま何事もなかったかのように厨房へと足を戻した。
その後は、あやめさんの手伝いに戻り、夕食の配膳から、山のように積み上がった食器の後片付けまで、一通りのやるべきことを淡々と、完璧にこなしていった。あやめさんは相変わらず、私を見るたびにふわりと柔らかく、慈愛に満ちた笑みを投げかけてくれたけれど、もう私の胸の奥が、彼女の小さくて温かい背中に対して過剰にざわつくことはなかった。
美胡ちゃんが必死に用意してくれた生温くて優しい偽りの日常と、汐莉さんが冷徹に施してくれた都合の良い忘却の呪い。
その二つの歪で、けれど私にとってはこれ以上なく心地よい愛の檻に二重に守られて、私は何一つ汚れていない、完璧に無垢な「八百歳比名子」のままで、合宿所の静かな夜を迎えることができたのだ。
「おやすみなさい、美胡ちゃん。おやすみなさい、汐莉さん」
部屋の明かりを消し、割り当てられた部屋のふかふかとした布団の中に潜り込む。枕元から漂うい草の匂いに包まれながら、心地よい疲労感に身を任せる。
家族を失った凄惨な事故の絶望も、自分が人間に紛れる大妖怪であるという歪な違和感も、すべては脳の奥底に立ち込める白い霧の向こう側。
私は過去の傷なんて何一つ背負っていない、ただの健やかで、どこにでもいる普通の女子高生として──深く、深く、意識の底にある暗闇へと吸い込まれるように沈んでいった。
──そして、私は唐突に「そこ」で目を覚ました。
バシャバシャと、冷たい雨が容赦なく頭上から降り注いでいる。
辺りに立ち込めているのは、石炭の煤煙と、鉄錆のような生々しい返り血の匂い。どこかの中世の街並みを思わせる、古びた石畳の狭い路地裏。
現実の生ぬるい幸福や退屈な日常とは真逆の、脳髄を直接鷲掴みにして暴力的に震わせるほどの、強烈な「生の歓び」と「殺意」に満ちた、いつもの血生臭い悪夢の世界。
私は気づけば、ずっしりとした凶悪な重量感を持つノコギリ鉈の柄を、手のひらが軋むほどの力で強く握りしめていた。手の皮に馴染む、ザラついた金属の冷たさと、これまでに吸わせてきた化物たちの血の感触。
頭を悩ませるツギハギの記憶も、ここには存在しない。こここそが、私の本性が爪を研いで待つ唯一の戦場。今夜も貪欲に、ただ己の悦びの赴くままに、暗闇に蠢く獣どもを一人残らず狩り尽くしてやろうと、歓喜に震える唇の端を吊り上げた──その、刹那だった。
濡れた石畳をひたひたと一定のリズムで踏み鳴らす、場違いなほどに静かで、淀みのない足音が、暗闇の奥から聞こえてきた。
私は一瞬で笑顔を消し、鋭い狩人の視線で夜闇の深淵を射抜く。
引き裂かれる肉を求めて牙を剥く異形の化物か、あるいは私と同じように命を懸けた極限の殺し合いを望む、飢えた同類の狩人か。
ノコギリ鉈をいつでも最速で振り抜けるよう、腰を落として低く構え、その近づいてくる影が、壊れかけた街灯の微かな頼りない光に照らされた瞬間──私は、息をすることさえ忘れて完全に硬直した。
漆黒の夜闇の中。無数の死体と返り血に濡れた石畳の上に、ぽつんと、あまりにも不自然に佇んでいたのは。
「あら……比名子ちゃん? こんなところで、奇遇ね」
合宿所のあの藍色のエプロンを、血の雨に濡らしながら纏ったままの姿で。
昼間と何一つ変わらない、おっとりとした、けれどその奥に底知れない絶望の翳りを帯びた歪な慈愛の笑みを浮かべる──千羽あやめさんだった。
私は低く構えていたノコギリ鉈の刃を、冷たい雨の滴る石畳へとゆっくりと下ろした。
この悪夢の世界に蠢く敵対者や、正気を失った獣たちには、例外なく特有の兆候がある。それは、暗闇の中でらんらんと不気味に輝く、昏く禍々しい『赤い光』。だが、目の前に佇むあやめさんの双眸には、その赤さは微塵も存在しなかった。彼女の瞳は昼間と同じように、どこまでも深く、濁った平穏を保っている。
「あやめさん……どうして、ここにいるんですか。現実の、合宿所じゃないのに」
「比名子ちゃんこそ、そんな物騒なものを持ってどうしたの?……ふふ、お互い、聞きたいことは山ほどあるみたいね」
私たちは雨の当たらない崩れかけの教会へと移動し、冷たい石床に腰を下ろして、静かに情報交換を始めた。
話を聞けば、あやめさんもまた、私と全く同じようにこの終わらない悪夢の夜に囚われ、何百、何千という死を繰り返してきた「狩人」なのだという。
「私はね、この大きな槌を振るって、あの子たちを潰して回っているのよ」
あやめさんが傍らに置いたのは、歪なトゲを無数に生やしたモーニングスターのような、重苦しい鉄塊の武器だった。──『瀉血の槌』。
あやめさんがそれを愛おしそうに撫で、己の胸へとその柄を突き刺す。
衣服を破り、肉を裂く鈍い音が響いた瞬間、彼女の血を吸い上げた槌が、禍々しく巨大な血の棘を纏った巨槌へと変形した。
そのおぞましい光景に、私はごくりと息を呑む。
「あやめさん、その武器は……」
「自分の血を対価にするの。痛いけれど、慣れるとこれが一番落ち着くのよ。……ねえ、比名子ちゃん。お昼間、私が『お母さんだった時がある』って言ったのを覚えているかしら?」
「はい……。少し、辛そうな顔をしていました」
血の槌を傍らに立てかけ、あやめさんは自分の過去をぽつりぽつりと、静かな声で語り始めた。
「私にはね、血の繋がらない、夫の連れ子がいたの。純粋で、私のことを本当の母親だと信じて、いつでも後ろを付いてくるような、健気で可愛い女の子だったわ。あなたくらいの歳のね」
あやめさんの声が、微かに震える。
「でもね、私はどうしても、その子を愛せなかった。心の底から湧き上がる醜い憎しみを抑えられなかったのよ。だからね……私は、あの子を暗い部屋に閉じ込めて、静かに、誰にも気づかれないように餓死させたの」
「餓死……そんな」
「そう。あの子は最後まで、私を信じて『お母さん、お腹が空いたよ、開けて』って、弱々しい声で泣きながら扉を叩いていたわ。……その報いかしらね。あの子が完全に息絶えた瞬間、私の後頭部は、内側から激しく破裂したのよ」
あやめさんは自嘲気味に笑い、自分の後頭部に手を当てた。
「純粋に私を慕って、愛してくれた女の子を、自分の醜いエゴで殺してしまった最低の母親。それが私の本当の正体。この悪夢は、そんな私に与えられた永遠の罰であり、同時に、あの子への未練の塊なの。……でもね、比名子ちゃん」
そこまで一気に語り終えると、あやめさんは私の方へと向き直り、私の両手をその温かい手でぎゅっと包み込んだ。昼間、厨房で感じたあの包容力が、血生臭い悪夢の教会の中で、より一層の濃度を持って私を包み込む。
「あなたが昼間、私のことを『お母さん』って呼んでくれた時、胸の奥が張り裂けそうなくらい嬉しかったの。記憶を失って、寂しくて、誰かの温もりを求めて彷徨っているあなたを見て……私、どうしても放っておけなくて。あなたを絶対に守らなきゃいけないって、激しいくらいの庇護欲が湧き上がってきたのよ」
「私を、守る……?」
「ええ。これはね、純粋にあなたを愛おしいと思う私の気持ち。……それと同時にね、あなたを救うことで、私が失ってしまったあの温かい日々を、もう一度取り戻せるんじゃないかっていう……そんな希望を、あなたに抱いてしまっているの」
あやめさんの瞳に、ギラリとした、けれど酷く純粋な光が宿る。それは執着であり、同時に絶望の底で見つけた一筋の救いとしての希望だった。
「比名子ちゃん。現実のあの狐の神様や、人魚の女の子が、あなたをどう歪めて縛り付けようとしているのかは知っているわ。あの子たちは、あなたの傷を利用しているだけ。でも、私は違う」
「あやめさん……」
「この悪夢の中でも、現実の日常でも、私はあなたの味方。もう誰にも、あなたを傷つけさせないし、利用させない。私が、あなたの本当の、理想のお母さんになってあげる。だから……私と一緒に、すべてを取り戻しましょう?」
あやめさんの瞳が、真っ直ぐに私の瞳を射抜く。その言葉は、狂気に満ちた悪夢の世界で、あまりにも優しく、そして致命的なほどに歪んだ、私への絶対的な愛の告白だった。