崩れかけた教会の天井から、ぽたり、ぽたりと冷たい雨粒が石床へ落ちる。
その音だけが静寂を刻み、返り血の匂いと湿った石の臭いが薄暗い空間を満たしていた。
雨は、世界を洗い流すためには降らない。むしろ逆だ。洗い流せないものだけを、こうして色濃く浮かび上がらせるために降る。悪夢とは、忘却に敗れた記憶が最後に辿り着く墓場なのだから。
私は「瀉血の槌」と呼ばれる禍々しい武器を、手慣れた様子で、けれど酷く静かに撫で続けているあやめさんを見つめていた。
その指先の動き、微かな衣擦れの音。彼女のすべてを視界の端で静かに観察しながら、私は胸の内で言葉を探していた。
探していた、という表現は正確ではない。言葉はある。けれど、その言葉へ辿り着くための道だけが、白い霧に覆われているのだ。
沈黙を破ったのは、あやめさんの小さなくしゃみだった。
「――っしゅ。あら、失礼。ちょっと埃っぽいわね、ここ」
「あやめさん、あんな物騒な武器を愛おしそうに撫でながらくしゃみされると、ギャップで脳がバグりそうです」
「ふふ、失礼ね。これでも手入れは欠かせないのよ? ほら、比名子ちゃんもノコギリ鉈、少し刃が錆びついてるじゃない。貸してみて」
あやめさんは私の手からそっと重い鉈を受け取ると、懐から出した油布で器用に刃を拭き始めた。
怪異を屠るための鉄塊を挟んで、そんな日常の笑いと、ごく自然な助け合いが交わされる。その温かさが、かえって私の心を少しだけ素直にさせた。
「……あやめさん」
「なあに?」
「私も、一つだけ話してもいいですか」
あやめさんは手を止め、穏やかに微笑んで小さく頷いた。
「もちろんよ」
私は静かに息を吸う。
言葉にするだけなら簡単だ。しかし、人は事実を語るだけでは、自分を語ったことにはならない。
何を失い、その喪失から何を選び続けてきたのか。
そこにこそ、人間の思想は宿る。
「私も……家族を失いました。小さい頃です。事故で。お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも」
そこまでは言えた。けれど、その先が続かない。頭の奥底で何かが軋む。まるで開けてはいけない扉を、誰かが無理矢理押し開こうとしているような不快な感覚。
「……あれ」
思い出せない。何を思い出そうとしていたのかさえ分からない。それでも確かな違和感だけが、胸の内側を冷たく撫でていく。
「どうしたの?」
「いえ……思い出そうとすると、霧がかかるんです。記憶がない、というより……そこだけ世界が白く塗り潰されているみたいで」
それは恐怖ではなかった。むしろ、奇妙な安心感だった。思い出せないから苦しくない。苦しくないから、こうして普通に笑っていられる。要するに、私は何かを失ったことで、今こうして「幸福」になっているのだ。
それは救済なのか。それとも、人間性を削ることで成立した歪な幸福なのか、私にはまだ分からなかった。
「あやめさん。私、寂しかったことだけは覚えているんです。理由は思い出せないし、景色も、泣いた記憶も曖昧なのに。それでも、心の奥底にぽっかりと空いた穴だけは、今も変わらず存在していて。……だから昼間、あなたが頭を撫でてくれた時。少しだけ……安心しました」
あやめさんの肩が、小さく震えた。
彼女は何も言わず、ただ私のノコギリ鉈を握る手に、そっと自分の手を重ねてくれた。その指の温かさは、どんな慰めの言葉よりも雄弁に私を助け、支えてくれる。
やがて私は、ゆっくりと視線を上げた。
「でも。私は、それだけで貴方を信じることはできません」
「……どうして?」
あやめさんの問いは優しかった。責める響きではない。純粋に、私の深淵を知りたいという問いだった。
「人は優しいから正しいわけではありません。逆も同じです。残酷だったから、その人の全部が間違っているとも思えません。つまり……私は、人間と妖怪を区別したくないんです」
自分でも驚くほど、その言葉は自然に口から出た。
「みんな私を愛してくれています。守ると言ってくれるんです。それなのに妖怪だから狩る。人間だから助ける。優しくしてくれたから信じる。方法が歪だから否定する。その考え方は、きっと簡単です。でも、簡単だから正しいとは限らない」
私は手元に戻ってきたノコギリ鉈に視線を落とした。この刃は数え切れないほどの怪物を裂いてきた。血を浴びるたび、この武器は「狩人」という役割だけを私に強いてきた。だが、狩人とは、本当にただ思考を放棄して刃を振るう者のことなのだろうか。
違う。
刃は答えではない。答えを出した後に振るわれる、最後の選択に過ぎない。
「私は、相手を知りたい。どんな人生を歩いて、何を後悔して、何を守ろうとして、どうして今ここにいるのか。そこまで知って、それでも止めなければいけないなら……その時、自分で決めて刃を振ります」
それこそが責任なのだ。
誰かに正義を借りることではない。種族という名前に判断を委ねることでもない。
自分で知り、自分で迷い、自分で選ぶ。その苦しみごと引き受ける。それが、私の選ぶ狩人という生き方だ。
あやめさんは長い沈黙の末、どこか寂しげに、けれど愛おしそうに小さく笑った。
「比名子ちゃん。あなたは優しいのね」
「違います。断じて違います。これは優しさじゃありません……怖いだけです」
私は強く首を振った。
「もし私が、誰かを『妖怪だから』という理由だけで殺して、後からその人に守りたかった誰かがいたと知ったら……私は、その選択を一生背負えません。だから知るんです。知った上で選ぶ。その結果がどんなに苦しくても、その責任だけは、誰にも渡したくない」
あやめさんは静かに目を伏せた。そして、自嘲するように微笑む。
「そういう子だから……昼間、あなたを見た時、放っておけなかったのかしらね」
彼女の声は静かだった。しかし、その静けさの奥には、何百年もの孤独が沈殿しているのを、私の静かな観察は見逃さなかった。
「あなたみたいな子だった。貴方みたいな我が子を失った……いいや、殺した。私が殺した」
その言葉は、懺悔ではなかった。後悔でもない。
長い長い年月を積み重ねた果てに、それでも決して消え去ることはなかった、「未練」という名の真実に他ならなかった。