未練とは、過去に縛られることではない。逆である。未来を選べなくなることだ。
人は失ったものを忘れられないから立ち止まるのではない。失ったものの続きを、どこかで求め続けてしまうから前へ進めなくなるのである。だからこそ、悪夢は未練を喰らう。そして、狩人は未練の中を歩き続ける。
「……行きましょうか」
あやめさんは巨大な瀉血の槌を軽々と肩へ担ぎ、穏やかに立ち上がった。
「ええ」
私はあやめさんに手入れされたノコギリ鉈を握り直す。
私たちは崩れた教会を後にし、冷たい雨が降り続く石畳の街へ足を踏み出した。
夜は静かだった。静かすぎると言うべきだろう。獣の咆哮も、人の悲鳴も聞こえない。その沈黙こそが、この悪夢では最も危険な兆候だった。
「比名子ちゃん」
「はい」
「こういう静かな夜ほど、化物は人の心を待っているの」
「心を、ですか?」
「ええ。恐怖でも後悔でもいいわ。心がほんの少し揺らいだ瞬間に、彼らは牙を立てるのよ」
つまり、怪物は肉を喰らう存在ではない。精神の綻びへ入り込む存在なのだ。だから狩人に必要なのは腕力ではない。
何度絶望を繰り返しても、自分自身を見失わない精神構造――強固な思想そのものなのである。そんな重い話をしながらも、あやめさんはクスリと微笑んだ。
「だからね、比名子ちゃん。もし怖いお化けが出たら、私の後ろに隠れて『お豆腐の味噌汁が食べたい』とでも考えておきなさい。心が大豆に占有されていれば、化物も付け入る隙がないわ」
「……あやめさん、それ大豆に精神を乗っ取られてるだけじゃありません?」
ふっと張り詰めた空気が緩む。
そんな他愛のない日常の笑いを交わしながらも、私の視線は彼女の横顔を静かに観察していた。穏やかな口調とは裏腹に、彼女の指先は瀉血の槌の柄を硬く握りしめている。
その瞬間だった。路地裏の闇が、大きく蠢いた。石壁を引き裂きながら現れたのは、人とも獣とも判別できない巨大な異形。
幾本もの腕を継ぎ接ぎしたような歪な肉塊の、その頭部だけが、泣き叫ぶ子供の顔をしていた。
『また、お母さんが来てくれるよ』
『ねぇ、お腹空いたよ』
『まだかな』
何十、何百という幼い声が重なり合い、雨の夜に響き渡る。
その声を聞いた瞬間、あやめさんの足がぴたりと止まった。彼女の瞳から、先ほどまでの穏やかさが音もなく消えていく。
「こうやって喋るタイプの怪物は恐ろしくないですね」
怪物が怪物である条件は『不明』『沈黙』『無敵』であることだと誰かが言っていた。
「……比名子ちゃん。少しだけ、離れていて」
声が震えていた。恐怖ではない。それはあまりにも深い罪悪感の響きだった。
積み重ねた年月の果てにも癒えなかった傷が、目の前の怪物によって容赦なく抉られている。怪物は記憶を映す鏡だ。だからこそ、この悪夢では最も醜い敵ほど、自分自身に似ている。
あやめさんは静かに槌の柄を胸へ突き立てた。鈍い音が響き、鮮血が流れる。瀉血の槌は彼女の血を吸い上げながら巨大な棘を纏い、その質量を倍以上へと膨れ上がらせていった。
「私はね……」
彼女は独り言のように呟く。それは、この戦場で彼女が紡ぐ哲学対話のようでもあった。
「この痛みが好きなの。罪は消えない。だから毎回、自分の血を払う。誰かを守る資格なんて、本当はない。それでも守りたい……その矛盾を忘れないために、私は血を流し続けるの」
その思想が、彼女の力になる。
強者とは能力を持つ者ではない。能力へ理由を与えられる者だ。だから瀉血の槌は重い。彼女が背負う罪の重さ、そのものなのだから。
「あの怪物は、あやめさんの傷」
あやめさんが鋭く踏み込む。血の巨槌が怪物の腕をまとめて粉砕した。しかし、怪物は歪に笑う。
『お母さん。また置いていくの?』
その一言だけで、あやめさんの動きが凍りついた。迷い。それは戦場においては致命傷だ。怪物の巨大な爪が、無防備な彼女へ振り下ろされる。
「っ!」
考えるより先に体が動いていた。
私は激しく地面を蹴る。ノコギリ鉈を変形させ、一瞬で長柄へと切り替えた。遠心力を乗せた一閃が、あやめさんの頭上に迫っていた獣の腕を根元から切り裂く。
激しい返り血が、冷たい雨へ混じって飛び散った。
「比名子ちゃん!」
「考えるのは後です!」
私は叫びながら、怪物の懐へと滑り込む。これこそが、今この瞬間に必要な助け合いだ。
「今は、戦いを」
怪物が咆哮する。
私は低く潜り込み、ノコギリの刃で奴の膝を断ち切る。体勢を崩した怪物の隙を見逃さず、呼吸を整えたあやめさんの瀉血の槌が、頭上から一閃、豪快に振り下ろされた。
私たちの武器は対照的だった。
私の刃は正確に急所だけを裂き、あやめさんの槌は、その罪ごと叩き潰す。
思想が違う。だから戦い方も違う。しかし、目の前の悲劇を終わらせること――その一点において、私たちの目的は美しく重なっていた。
怪物が最後の断末魔を上げる。
肉塊は音を立てて崩れ、黒い灰となって雨へ溶けていった。
激しい静寂が戻り、あやめさんはその場へ糸が切れたように膝をついた。
「大丈夫ですか」
私は急いで駆け寄る。
「ええ……」
そう答えながらも、彼女は震える手で私の肩へと触れてきた。
「怪我は? どこも、されてない?」
「ありません。大丈夫です」
「本当に? 腕は? 動く?」
「大丈夫です、ほら」
「痛くない? どこも痛まない?」
「ええ、どこも」
「頭は? どこか打ったりしていない?」
あまりに必死なその様子に、私は緊張の糸が解け、思わず小さく笑ってしまった。
「大丈夫ですよ、あやめさん。どこも痛くありません」
その瞬間だった。あやめさんは心底安心したように大きく息を吐き、そのまま私の肩へ、ぽすんと額を預けてきた。
「……よかった。本当に、本当によかった……」
その声は震えていた。それは紛れもない母親の声だった。けれど、何かが違う。一人の少女を守りたいという純粋な想いを、どこかで超えている。
私の肩に伝わる彼女の微かな震えを静かに観察しながら、私は胸の奥が冷たくなるのを感じていた。
まるで、私という存在を失えば、自分自身まで完全に壊れてしまうかのような危うさ。
私はその温もりを受け止めながら、静かに思う。
優しさとは、人を救う思想である。しかし、その優しさが「自分自身を救うための手段」へ変わった瞬間、それは誰かを包み込む手ではなく、二度と離したくないと願う檻にもなり得るのだ。
つまり、愛と支配は、最初から別々のものではない。どちらも「失いたくない」という、全く同じ願いの種から生まれるのだから。
雨は止まない。怪物の灰は石畳を静かに流れていく。私は隣で寄り添うあやめさんを見つめ、小さく息を吐いた。
戦いが終わったそれだけでは、勝敗は決まらない。敵を倒すことは結果でしかない。その結果にどのような意味を与えるのか。その答えを選ぶ瞬間こそが、人間にだけ許された勝利なのである。
雨は相変わらず降り続いていた。石畳を濡らす規則的な水音だけが、崩れかけた教会の静寂を満たしている。
私は血に濡れたノコギリ鉈を軽く払い、ゆっくりと折り畳んで腰のホルダーへ戻した。
あやめさんもまた、先ほどまでの禍々しい質量を消し去るように、瀉血の槌を元の姿へと戻していく。そして、その重い鉄塊をいつもの慣れた動作で静かに肩へ担いだ。
「今日はすっかり助けられてしまったわね。面目ないわ」
あやめさんが困ったように眉を下げて笑う。その藍色のエプロンには、怪物の返り血が黒いシミとなって点々と残っていた。
「いいえ。危ないところを先に庇ってくれたのはあやめさんです。お互い様ですよ」
「ふふ、じゃあそういうことにしておこうかしら。でも、比名子ちゃんがあんなに男前に鉈を振り回すものだから、私、少しときめいちゃった」
「からかわないでください。必死だったんですから」
私がむっとしたふりをすると、あやめさんは嬉しそうに声を立てて笑った。
そんな日常の笑いを挟みながら、私は彼女の様子を静かに観察していた。
服の汚れを払う手元はいつも通り穏やかだが、その指先はまだ微かに強張っている。私たちは互いに死線を越え、助け合い、こうして生き延びたのだ。
狩人同士、多くの言葉はいらなかった。
教会を出ると、雨脚は少し弱くなっていた。
しかし、暗い街並みの向こうには、悪夢の夜がどこまでも深く続いている。
「比名子ちゃん」
不意に、あやめさんが私を呼び止めた。
「はい?」
私は足を止め、振り返る。
彼女はいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。昼間、教会の厨房で夕食の支度をしながら見せていたものと全く同じ、優しくて、柔らかくて、誰かを心から安心させる笑顔。けれど、その瞳の奥だけは、光の届かない深い海の底のように、酷く静かだった。
「今日は、とても楽しかったわ」
その言葉に偽りがないことを、私は直感的に理解した。この悍ましい悪夢の世界で。血を浴び、怪物を狩り、命を削り合いながら、それでも「楽しかった」と言えてしまう。
それは明らかに正常な精神ではない。しかし、彼女の温もりに救われた私もまた、それを否定することはできなかった。
「……はい。私もです」
私が静かに頷くと、あやめさんは少しだけ目を細めた。そして、明日の天気や夕飯の献立でも尋ねるような、ごく自然で、ありふれた声音のまま、決定的な問いを投げかけてきた。
「ねえ、比名子ちゃん。もしも……の話よ?」
一拍。雨音がやけに大きく聞こえる。
「もし私が、本当は人を喰った妖怪だったら。しかも、それが一度や二度じゃなくて。たくさんの人を喰べて、たくさんの命を壊して、どうしようもない罪を重ね続けてきた……本物の怪物だったとしたら」
彼女は相変わらず笑っていた。けれど、その笑顔は答えを欲しがっている子供のそれではない。私の覚悟の重さを、ただ正しく確かめようとする者の眼差しだった。
「あなたは――私を、殺せる?」
沈黙が降りる。悪夢の夜のすべてが、一瞬で凍りついたかのように止まる。
私はすぐには答えられなかった。「殺せる」と機械的に告げれば、狩人としては楽になれる。
「殺せない」と情に流されれば、人としては優しくいられる。けれど、そのどちらも今の私には欺瞞でしかなかった。
私は冷たい空気をゆっくりと胸に吸い込み、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「……分かりません」
それが、今の私の偽らざる答えだった。
「あやめさんがどんな過去を歩いてきたのか、何を守りたくて、何を後悔しているのか。私はまだ、その全部を知ったわけじゃありません。だから、今は決めません」
私は腰の武器へとそっと右手を添える。
「知った上で。あなたの全部を知った上で、それでもなお、あなたを止めなければいけないと私が判断したなら……その時は、誰の命令でもなく、私の意思でこの刃を振るいます」
誰かに正義を借りるのではない。妖怪だからという記号で片付けるのでもない。
自分で知り、自分で迷い、傷つきながらも最後に選ぶ。その選択の責任だけは、他の誰でもない、私自身のものだからだ。
あやめさんは、じっと私を見つめていた。
雨粒が彼女の頬を伝い、静かに落ちていく。やがて、彼女は満足したように小さく笑った。
「そう。それなら安心ね。……きっと、あなたは最後まで『狩人』でいられるわ」
それだけを言い残し、彼女は静かに背を向けた。血に濡れた藍色のエプロンが、夜の雨の帳の向こうへ、溶けるように遠ざかっていく。私はその背中を見送りながら、一人、悪夢の街に立ち尽くしていた。