喰べられ続ける、歓びを   作:あばなたらたやた

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30:愛を語る者

 最初に動いたのは、あやめさんだった。

 私と汐莉さんの間へ、迷いのない足取りで静かに歩み出る。それは怒りではなく、明確な覚悟の表れだった。

 

 戦闘とは、ただ相手を傷つける技術ではない。自らの思想を証明する手段に他ならない。だからこそ、本当に戦える者ほど、その佇まいは静かで深い。

 

「あやめさん……?」

 

 私が思わず声を漏らすと、あやめさんは振り返らないまま、傍らに携えた瀉血の槌へそっと右手を添えた。

 

「人魚さん。少し戦いましょう」

 

 雨音だけがその提案を聞いている。

 

「貴方が勝てば、私を殺してください。私が勝てば……そうね、現状維持させてもらおうかしら。まだ合宿のお仕事が残っていますから。明日の朝食の仕込みもあるし、お味噌汁の出汁も引かなきゃいけないの」

「……あやめさん、この状況で明日の朝食の心配ですか?」

「あら、大事なことよ? 子どもたちには、ちゃんと美味しいものをいっぱい食べてもらわないと。おかわりもたくさん用意してあるんだから」

 

 クスリと場違いに微笑むあやめさんの言葉に、美胡ちゃんが背後で「この人、大物すぎるでしょ……」と頭を抱える。

 そんな張り詰めた空気の中での日常の笑いに少しだけ救われつつも、私は息を呑んだ。

 

 この人は本気なのだ。怪異を屠る狩人としてではない。合宿所で料理を作り、笑顔で「おかわりはありますよ」と言っていた、あの優しいパートのお姉さんとしての日常を守るために、その命を賭けようとしている。

 あやめさんは、まっすぐに汐莉さんを見据えた。

 

「それに、貴方が本当に比名子ちゃんを守れるのかどうか……私がこの目で確かめないとね」

 

 空気が変わる。深海のように冷たかった神秘が、一段と重く沈んだ。

 汐莉さんは小さく笑う。いや、それは笑ったというより、人間の感情を精緻に模倣した表情を作っただけのように見えた。

 

「……随分と上から目線ですね。貴方程度の妖怪が、私に勝てるとでも?」

 

 その一言に込められていたのは傲慢ではなく、冷徹な事実だった。

 私は知っている。汐莉さんは人魚だ。理の外に立つ、妖怪という枠組みそのものを超越した神秘。

 人が熊に勝てないように、低級の妖怪もまた人魚という上位存在には勝てない。それが世界の絶対的なルールだ。けれど、あやめさんはどこまでも優しく笑った。

 

「ええ。私は妖怪。だけど――」

 

 あやめさんは瀉血の槌を持ち上げると、その柄を自分の胸へ迷いなく突き立てた。

 ぐしゃり、という不快な肉声。

 

 鮮血が激しい雨と混じり、黒い石畳を赤く染めていく。槌は歓喜するように彼女の血を吸い上げ、無数の鋭利な棘を纏った巨大な血槌へと変貌した。

 

 何度見ても、私はこの凄惨な光景に慣れない。しかし、彼女にとって武器とは命を奪う道具ではなく、その代償を自ら支払う「覚悟の形」なのだ。

 

「私は妖怪だけど、狩人なの。その意味を、教えてあげる」

 

 ズン――っ!!

 世界が圧搾されるような感覚に、私の身体は本能的に地面へ伏せようとしていた。

 汐莉さんが、ただ一歩前へ出ただけ。それだけで教会の壁が悲鳴を上げて軋み、雨粒が空中で静止し、石畳に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。

 

 底知れぬ深海。そこにいるだけで圧死するほどの絶対的な水圧。生命の存在を許さない領域そのものが、人の姿を借りて歩いているのだ。

 

「私が上、貴方は下です」

 

 それは身分の話ではなく、生物としての階層の宣告だった。しかし、あやめさんは一歩も退かなかった。血槌を強く握り直す。

 

「そうね。でも、人間はね――上を向いて歩く生き物なのよ」

 

 その言葉が終わるより早く、空気が爆ぜた。

雨が激しく弾け飛び、私の視界から青と紅の二つの影が完全に消失する。次の瞬間、教会の鐘楼が根元から派手に吹き飛んだ。

 

「比名子! 危ないっ!」

 

 美胡ちゃんが叫びながら私の腕を掴み、崩落する瓦礫の陰へと力強く引き倒してくれた。

 お互いの身体を庇い合うようなその助け合いがなければ、衝撃波だけで吹き飛ばされていただろう。

 

「美胡ちゃん、ありがとう……!」

「お礼は後! それより、何が起きてるのこれ……!」

 

 私は瓦礫の隙間から、激突する二人の姿を静かに観察しようとした。だが、速すぎる。激しい雨と衝撃の突風が視界を遮り、かろうじて色彩の残像だけが追える状態だった。

 

 これは単なる速度の戦いではない。何百年もの間、死を繰り返し、殺し続けて辿り着いた、経験の極致同士のぶつかり合いだ。そして私は理解した。

 これは妖怪同士の醜い殺し合いではない。

 「守る」という己の思想を証明するための、純粋な決闘なのだ。

 理の外から絶対的な生存を与えようとする人魚。

 犯した罪の果てに、その先を見届けようとする狩人。

 

 私を守るという結論だけは同じなのに、二人の信念は決して交わらない。

 

 激しい衝撃音が響く中、二人の哲学対話が雨音を引き裂いて耳に届く。

 瀉血の槌の横薙ぎの一撃を、汐莉さんは細い腕一本で真正面から受け止めていた。

 

「力が足りませんね。それが、人間を真似る妖怪の限界です」

「ええ、これは力比べじゃないわ」

 

 あやめさんが微笑むと同時に血槌が爆ぜ、無数の血刃が汐莉さんへ降り注ぐ。しかし、それらはすべて彼女の周囲に展開された薄い水膜に触れただけで、虚しく砕け散った。

 

「無意味です。あなたは勝つ方法を探していますが、私は負ける可能性がありません」

 

 汐莉さんの冷徹な言葉に私は息を呑む。確かに傷一つつかない相手に対して、勝敗は最初から決まっているように思えた。だが、あやめさんはさらに自分の胸へ槌を突き刺し、血を流して武器を膨張させる。

 

「だから貴方は、人を守れないのよ」

 

 その一言に、汐莉さんの深海色の瞳が初めて僅かに揺れるのを、私の静かな観察は見逃さなかった。

 

「何を言っているんですか?」

「強さとは、負けないことじゃない。失う覚悟を持つことよ。私は死ぬかもしれない。だから必死になれるし、相手を理解しようと思える。貴方は失わないから、失う人の痛みを最後まで理解できない。死から学ぶことができない」

 

 教会の壁が、汐莉さんの放った蒼い奔流に飲み込まれて消失する。

 

「理解する必要はありません。死人に自由も尊厳も未来もありません。すべては生きていることが前提です」

 

 汐莉さんは一歩一歩、空間を軋ませながら近づいてくる。

 

「だから私は比名子を生かします。嫌われても、憎まれても、監禁して自由を奪っても、生きているならそれが正しい。私は死ぬ自由より、生きる拘束を選びます」

 

 それが、汐莉さんの歪で絶対的な愛の形。存在そのものを最優先する思想。

 その圧倒的な言葉の重発に対し、あやめさんは切なげに小さく笑った。

 

「なるほど。だから貴方は――比名子ちゃんと同じ視座に立てないのね」

 

 世界が静止したかのように、汐莉さんの動きが止まった。

 

「……どういう意味ですか」

「同じ視座。それは母親に似ているの。母親って子どもをただ生かす存在じゃない。子どもが、いつか自分なしでも自分で生きられるように、最後には手を放してあげる存在なのよ」

 

 あやめさんの静かな声は、どんな物理的な一撃よりも重く汐莉さんの胸に突き刺さる。

 

「抱き締め続けることは愛じゃないわ。歩けるようになった子をいつまでも抱きかかえているのは、親の安心であって、子どもの幸せじゃない。……私はそれを知らず、憎み、潰した。愛とは相手が自分なしでも歩ける未来を信じること。それを忘れた瞬間、愛はただの『支配』になるのよ」

 

 その言葉に、汐莉さんは初めて完全に沈黙した。その絶対的な正論を前に、彼女の瞳が激しく動揺している。

 

「……違います」

 

 小さく絞り出された否定。しかし、その声は先ほどまでの絶対的な神聖さを完全に失っていた。

 

「違いません。私は失敗した母親だから分かるの。だから、もう二度と同じ失敗だけはしたくない。比名子ちゃんは私が守り、慈しみ、その背中を見る」

 

 その瞬間、汐莉さんの足元から、感情の昂りに呼応するように濁流のような蒼い神秘が噴き上がった。それは怒りとも悲しみともつかない、彼女が初めて見せた生々しい「感情」の嵐だった。

 

「……黙りなさい。あなたに、私の愛を語る資格はありません」

 

 深海を模した蒼い光と、罪を背負った紅い血。二つの相容れない神秘が、悪夢の夜空で再び激しく激突した。

 

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