期待していた「日常の崩壊」は、あまりに呆気なく、それでいて歪な形で訪れた。
教室の扉が開いた瞬間、私の鼻腔を突き刺したのは潮騒の匂いだった。
壇上に立つ彼女――近江汐莉は、クラス中の視線を吸い込むような青い髪をなびかせ、昨日と同じ、底の知れない笑みを浮かべている。
ここで、やるの?
私は机の下で、無意識に指先を震わせていた。彼女がその指先一つで校舎を薙ぎ払い、私を食らい、この平穏を赤く染め上げる光景を幻視する。あるいはその過程で、今度こそ私の息の根が止まるかもしれない。
心臓が速鐘を打つ。恐怖ではない。それは、何年も忘れていた、熱を帯びた「高揚」だった。だが、汐莉さんは私を一瞥もせず、まるで石ころか何かを避けるように私の横を通り過ぎた。
彼女が座ったのは、私の真後ろの席だ。
「初めまして、比名子」
背後から、鼓膜に直接注ぎ込まれるような甘い声。私は椅子を軋ませて振り返った。
「……なんで初対面の転校生が、私の名前を知っているの?」
「細かいですねー、全く」
汐莉さんはケラケラと、鈴の鳴るような音を立てて笑う。周囲の生徒たちは、転校生が早々にクラスの浮き草である私に話しかけたことに、奇妙なものを見るような視線を送っていた。
「貴方を美味しくしに来たんですよ」
彼女は身を乗り出し、私にだけ聞こえる音量で囁いた。食欲と愛着が混ざり合った、捕食者の言葉。
私はそれを聞き、唇の端が自然と吊り上がるのを感じた。
「ふふっ、良いかも」
意外だったのか、汐莉さんがぱちくりと瞬きをして動きを止める。私の瞳に宿った期待の色が、彼女の予想を超えていたらしい。
「私は苦しく、辛く、悲しく、絶望の中で理不尽に死ねば、みんなも許してくれる。……だから、貴方が私を終わらせてくれるなら、それは望むところだよ」
死ぬことが許されないこの身体を、誰の目から見ても「かわいそうな被害者」として処刑してくれるなら、それは私にとって唯一の救済だ。
汐莉さんは何も言わず、ただ深海のような瞳で私を凝視していた。
昼休み。
屋上へ続く階段の踊り場で、私は膝の上に弁当を広げていた。
当たり前のように私の隣を陣取った汐莉は、色とりどりのおかずが詰められた私の弁当箱を覗き込み、無神経な明るさで問いかけてくる。
「ねえ、これは何ですか? このピンクの、くるくる巻かれた肉のようなものは」
「ハム。……こっちは、玉子焼き」
「ほう。人間の食べるものは、なぜこうも無駄に形を整えるのでしょう」
「美胡ちゃんが教えてくれたんだ。綺麗に作ると、少しだけ味がマシになるって」
私は小さく笑って答えた。
美胡ちゃんあの日以来、私の空虚な生活に唯一『色』を添えようとしてくれた存在。
「へぇ」
汐莉さんの声から温度が消えた。彼女は箸を動かす私の手元を、静かに、何かを値踏みするように見つめている。
「……美胡ちゃんは、食べないでね」
私が釘を刺すと、汐莉さんは心底つまらなそうに鼻を鳴らした。
「まずそうだから要りません。それより比名子、貴方は彼女のことをどう思ってるですか? あの肉塊」
「大切な友達だよ」
私は迷わずに答えた。世間一般で言う「友情」が、どれほどの価値を持つのかは今の私にはわからない。
けれど。
「事故の後、みんな私を『面倒な存在』として扱った。同情するか、腫れ物に触れるように遠ざけるか。……だけど、あの子だけは違った。私と同じ目線で、私を見続けてくれた。だから友達」
美胡の瞳にあるのは、執着だ。それは汐莉さんの「食欲」に近いものかもしれない。
けれど、聖人のような同情を向けられるより、よっぽど救いがあった。
「同じ、目線……」
汐莉さんは私の言葉をなぞるように呟き、それから不敵な笑みを浮かべて私の顔を覗き込んだ。
「ならば、私ももっと貴方に近づかなければなりませんね。……比名子、その玉子焼きというのを一つ寄越しなさい。貴方が友を想う味が、どれほど甘いのか確かめてあげます」
彼女は私の返事も待たず、私の箸を奪って玉子焼きを口に放り込んだ。不味そうに、けれどどこか嬉しそうに。私はそれをただ、感情の欠落した瞳で見守っていた。
汐莉さんは、私の平穏をかき乱すことを「遊び」だと思っているようだった。彼女には、人間が持っているはずの『踏み込んではいけない領域』という境界線が欠落している。
「ねえ、比名子。昨日の夜とか一人で泣いたりしてたんですか? もししてなくても、そういう夜はどんな気分でした? やっぱり『死ねなくて残念』という絶望ですか? それとも『私に会えて嬉しい』という興奮?」
午後の授業中、ノートの端に書かれた殴り書きが私の机に滑り込んでくる。教師の朗読を背景に、汐莉さんは前のめりになって私の横顔を覗き込んできた。
その瞳は、水槽の中の生き物を観察する子供のように、残酷で無垢だ。
「……静かにして。授業中だよ」
「いいじゃないですか、こんな退屈な知識。比名子の心の傷を抉る方が、よっぽど有意義な時間です。さあ、答えてください。あの時、私に少しだけ期待したでしょう?」
彼女の言葉は、私が意識の底に沈めていた泥を、無理やりかき混ぜる。事故の光景、家族の遺影、再生を繰り返す忌々しい肉体。
汐莉さんはそれらをまるで、色鮮やかなおもちゃのように弄んでいく。
「……やめて」
「おや、不愉快ですか? それはいい。もっと嫌な顔をしてください。比名子が苦しめば苦しむほど、その魂は熟成されて、最高の調味料になるんですから」
汐莉さんは楽しそうに、私の椅子を足先でコツコツと叩いた。クラスメイトたちの視線が、時折こちらを向く。好奇、困惑、そして蔑み。
学校という社会において、私は「変わった転校生に絡まれる、暗くて気味の悪い女」という記号に固定されていく。
ああ……苦しい。
胸の奥が、冷たい氷を飲み込んだように締め付けられる。自尊心を削られ、プライバシーを蹂躙され、人前で惨めに扱われる。普通の人なら、怒り狂うか、泣き叫んで逃げ出すような状況。けれど、その不快感が深まるほど、私の内側には奇妙な安らぎが広がっていった。
これがいい。もっとやって。私を辱めて。もっと惨めにしてほしい。
家族を捨てて、自分だけが生にしがみついている。その罪に対して、私は常に報いを探していた。
美胡ちゃんが向けてくれるような太陽のような寄り添いは、私の罪を一時的に忘れさせてしまう。それは救いであると同時に、私をさらなる罪悪感へ突き落とす劇薬だ。でも、汐莉さんは違う。
彼女は私の痛みを慈しみ、私の絶望を「美味しそう」だと笑う。私が苦しむことを、彼女は正解だと言ってくれるのだ。
「……嫌だ、汐莉さん。貴方は、本当に最低の妖怪」
私は、絞り出すような声で彼女を拒絶した。けれど、私の口元は、自分でも気づかないうちに微かに緩んでいたのかもしれない。
「ふふ、最高の褒め言葉です。もっと私を嫌ってください。その憎しみが、いつか愛に変わって私に食べられるまで、私は何度でも貴方の傷口を広げてあげますから」
汐莉さんは満足げに背もたれに寄りかかり、ハミングを漏らした。刺すような苦しみが、熱を帯びて背筋を這い上がる。
この不愉快さこそが、今の私を「人間」として繋ぎ止める、唯一の罰のように感じた。
この不死身の体は記憶の劣化も少ない。それはつまり家族の死が消え失せないことを意味する。
底なしの呪い、底なしの海、存在するすべてを受け入れる。ありとあらゆるものを。
なんとなく、ふわりと言葉が出てくる。
「善行が常に賢明であるわけではなく、悪行が常に愚かであるわけでもない」
「それでも私たちは常に善であろうと努力する」
「うわっ、びっくりした」
汐莉さんは私の独り言に言葉続けた。
「汐莉さんも知ってたの?」
「ええ、有名な言葉です」
「妖怪なのに?」
「妖怪は人を騙り、惑わせ、喰らうもの。それができない妖怪は雑魚ですよ? 貴方とバトルして負けた妖怪は力しか取り柄のないやつだったでしょう?」
「貴方もその一人だよ。今から力の差を教えようか?」
「貴方が学友を殺せるなら、構いませんよ」
酷い妖怪。でも、だからこそ心を奪われる。