勝敗とは、力の差だけで決まるものではない。
本質的には、「どこで戦うか」を選んだ時点で勝負の半分は終わっている。海の王者が陸で牙を折られることもあれば、空を支配する鳥が水底で溺れることもある。つまり強さとは絶対値ではない。環境を含めて初めて成立する、相対的な概念なのである。
その事実を、私は目の前で思い知らされていた。
――轟音。
あやめさんの瀉血の槌が大地へ叩き付けられ、爆ぜた石畳の破片が弾丸のように飛び散る。
汐莉さんは最小限の動きで身を翻し、槌の軌道から綺麗に外れた。しかし、彼女が避けた先には、すでにあやめさんが回り込んでいる。
速い。いや、違う。単純な速度ではない。それは圧倒的な「経験」の差だ。何百、何千という死を積み重ねた者だけが持つ、「次に相手がどこへ逃げるか」をはじめから知っている先乗りの動き。
「っ――」
血を纏った巨槌が横殴りに振り抜かれ、汐莉さんは両腕を交差させて受け止める。鈍い衝撃音と、骨が軋む嫌な音が雨音に混ざった。彼女の身体はそのまま派手に吹き飛ばされ、教会の壁へと叩き付けられる。石材が雨のように降り注いだ。
「……なるほど」
瓦礫の中から、汐莉さんは泥にまみれながらも静かに立ち上がった。潰れた左腕が、ぐじゅり、と不気味な音を立てながら一瞬で再生していく。その人外の復元力を、私は静かに見つめていた。
「再生能力は健在。流石ね」
「……その力」
あやめさんは余裕の笑みを崩さない。だが、汐莉さんの呼吸は僅かに乱れ、肩が上下していた。傷は治る。しかし、受けた衝撃の痛みや蓄積する疲労までは消せない。
再生は万能ではないのだ。
「人魚さん」
あやめさんは槌を肩へ担ぎ、静かに語りかける。二人の間で、再び静かな哲学対話が始まった。
「貴方は、自分が強い理由をその不滅の『能力』だと思っている」
「事実です。私はあなたたちとは構造が違います」
「違うわ。断言してもいい」
あやめさんは一歩、また一歩と、滴る血の槌を携えて進む。
「狩人を支えるのは能力じゃない。何度も失敗した経験、何度も死んだ経験、何度も後悔した経験……その泥塗れの年月だけが、最後に確実な一撃を放つ武器を振るわせるの。つまり、強さとは能力じゃない。選び続け、足掻き続けた人生そのものよ」
「…………」
汐莉さんは答えない。いや、答えられなかった。海は圧倒的な生命力を与える。だから彼女は正面から力で押し潰す戦いしか知らず、命を削りながら「負け方」を積み重ねる必要がなかった。
だがここは海ではない。足場も、水流も、深海の圧力もない。ただ冷たい石畳だけが続く、あやめさんという狩人の射程範囲圏内だった。
「――終わりです」
汐莉さんが最後の抵抗として、水刃と血槍、泡を圧縮した無数の弾丸を一斉に放った。教会が消し飛ぶほどの神秘の奔流。しかし、あやめさんは避けない。
傷付き、血を流しながらも、その全てを正面から受け止めて前へ出る。
「傷付くことを恐れ、それでも前へ」
振り下ろされた巨槌。轟音が響き、私は反射的に目を閉じた。
次に視界が開けたとき、教会の柱へ叩き付けられていたのは汐莉さんだった。右肩から胸元までが大きく裂け、青い血が静かに石畳を濡らしている。再生が、ついに追いついていない。
「……」
長い沈黙。雨だけが降り続ける中、あやめさんはゆっくりと槌の血を払い、元の姿へ戻して腰に収めた。
「勝負はついたわ。私は貴方を殺せる。でも、それは目的じゃない」
汐莉さんは悔しげに目を閉じ、小さく息を吐き出した。
「……認めます。今回は、私の負けです」
その一言は屈服ではなく、現実を正確に捉える知性だった。「海なら違いました」と呟く彼女に、あやめさんは「あら、それはそうでしょうね」とクスリと笑う。
「でも、安心したわ。負けを認められる人は、次はもっと強くなるから。ここで退けないなら比名子ちゃんを任せられないので、ここで終わらせるつもりだったけれど、貴方はちゃんと、自分の限界を知っている。それは生命として一番大切な資質よ」
あやめさんのどこか母親のような笑顔に、汐莉さんはふいっと顔を背けた。その様子を見ていた美胡ちゃんが、緊張の解けた声で私に囁く。
「言い様、半魚人。あやめさんもっとやっちゃっていいよ」
「美胡ちゃん、不謹慎」
「うぅ、ごめん」
そんな他愛のない日常の笑いが、戦場に残ったピリついた空気を和ませてくれた。しかし、悪夢の夜はそれを許さない。
獣は理性を持たない。だからこそ、血と殺意と死が濃く漂う場所へ、本能のままに必ず現れる。
――グルルルルルルルルルッ!!
教会の天井を完全に突き破るほどの咆哮。
雨雲の向こうから、月明かりを覆い隠す巨大な狼の異形が落下してきた。数階建ての建物ほどもある巨体、人間の腕を無理やり縫い合わせたような前脚。
裂けた腹からは臓物が蠢いている。
「戦いと血の匂いに誘われたのね」
あやめさんが槌を握り直す。その表情にあるのは、恐怖ではなく狩人の覚悟だ。
「さぁ、狩りましょう、比名子ちゃん。現実へ戻るために」
「はい、あやめさん!」
私は自然と笑っていた。役割は理解している。あやめさんは巨獣を「止める人」。私は「殺す人」。思想も戦い方も違うからこそ、私たちの助け合いは完璧に噛み合う。
あやめさんが真正面から突撃し、自らの胸を貫いて膨張させた血槌で、巨獣の狂暴な前脚を真正面から打ち砕いた。骨が砕ける轟音。獣が苦悶に吠える。
「比名子ちゃん!」
「いけます!」
私は石畳を蹴り、雨を切り裂いて加速した。瓦礫を踏み台にして巨獣の肩へと一気に駆け上がる。
「ッ!!」
変形させたノコギリ鉈が唸りを上げ、巨大な首筋へ刃を深々と食い込ませる。肉を削り、骨を噛む確かな手応え。
暴れる獣に振り落とされながらも、空中で回転して綺麗に着地する。その瞬間には、すでに次の隙を突いたあやめさんの槌が唸りを上げていた。
作戦など立てていない。それでも噛み合うのは、積み重ねた死が互いの次の一手を理解させているからだ。
巨獣が最後の力を振り絞り、喉の奥で赤黒い光を膨らませる。
「危ない!」
「比名子ちゃん。狩人はね――誰かに託せるから、一人より強いのよ!」
あやめさんが一歩前へ出て盾となる。その言葉を合図に、私は再び獣の背を駆け上がった。首、肩、そして頭蓋の頂上へ。
「これで――終わり」
全身全霊を込めて振り下ろしたノコギリ鉈が頭蓋を割り、同時に下から振り上げられたあやめさんの血槌が獣を挟み撃ちにする。
轟ッ、と空間が震え、巨獣の身体は真っ二つに裂けて灰となり、夜風へと溶けていった。
激しい雨の音が、残った血を洗い流していく。
「終わったわね」
「はい。また一緒に狩りましょう、あやめさん」
「ええ。そうね。その前に今度は現実で、一緒に美味しいご飯を作りましょうね」
その温かい言葉に、私は心からの笑みを返した。直後、世界が白く染まっていく。教会も、石畳も、雨も、すべてが霧のように溶けていく。
次に目を開けたとき、私は合宿所の布団の中にいた。
窓の外では、小鳥が爽やかに朝を告げている。
「夢……」
そう呟きながら、そっと自分の右手を握りしめてみる。ただの夢だと思うには、あまりにもあの静かな戦いの記憶と、誰かと背中を預けて戦った手の平の温もりが、鮮烈に残りすぎていた。