別れとは、終わりではない。
本質的には、その人から受け取った価値観だけが、自分の中へ残り続ける現象である。だからこそ、人は別れを惜しむ。姿は離れても、その生き方や言葉だけは心の中へ残り続けるのだから。
二泊三日の合宿は、表向きは何事もなく無事に終わった。
朝から慌ただしく全員で荷物をまとめ、部屋の掃除を終え、玄関前へ重いキャリーケースを運ぶ。
「ちょっと半魚人! 荷物重いなら半分持つって言ってるじゃん!」
「結構です。人魚の筋力を侮らないでください」
「意地張って落としても知らないからね!」
そんな美胡ちゃんと汐莉さんの日常的なやり取りを遠目に見ながら、みんなでテキパキと片付けを進める助け合いの喧騒。その賑やかな光景を少し離れた場所から眺めながら、私は一人、静かに厨房の裏口へと足を運んだ。
そこには、見慣れた藍色のエプロンを身に着けたあやめさんが佇んでいた。
昼間の穏やかな、お料理上手なお姉さんの笑み。そして悪夢の中で私を庇い、血を流して戦った狩人の凄絶な横顔。
私は、そのどちらもが偽りのない「千羽あやめ」の本物なのだと知っている。
「あやめさん」
「あら、比名子ちゃん」
パチリと目が合う。
それだけで、お互いが何を話しにここへ来たのか、言葉を交わさずとも理解してしまった。彼女の立ち姿を静かに観察しながら、私は胸の奥にある寂しさをそっと噛み締める。
「今日で、お別れですね」
「ええ、そうね」
短い返事。けれど、その一言には確かに、昨日までの激戦を共にした戦友としての寂しさが滲んでいた。
「色々と、ありがとうございました。あやめさんの作ってくれたご飯、本当にどれも美味しかったです」
「ふふ、ありがとう」
あやめさんはいつものように優しく目元を緩めた。
「凄惨な狩りも、一緒にできたものね」
「はい……本当に」
誰にも聞こえない声で、悪夢の出来事を共有する。
きっと現実に戻った今、美胡ちゃんにも、そしてあの汐莉さんにさえ、あの夜の詳細は分からない。
あれは、私とあやめさんという二人の狩人だけが、あの降る雨の中で分かち合った特別な記憶だった。
「比名子ちゃん」
不意に、あやめさんの表情が少しだけ真剣なものへと変わった。
「最後に、一つだけ伝えておきたいことがあるの。年長者としての、ちょっとしたお節介ね」
「……何ですか?」
あやめさんは私の胸元を、まるで何か見えない匂いでも確かめるかのように静かに見つめた。
「貴方はね、あの人魚さんの『寵愛』を深く受けているわ」
「寵愛……ですか?」
聞き慣れない言葉に、私は小さく首を傾げた。あやめさんは真摯な眼差しで深く頷く。
「最初は確信が持てなかった。でも、あの悪夢での彼女の執着を見て気付いたのよ。きっと昔、貴方は幼い頃に人魚さんと会っている。そして……彼女の血を、体内に与えられたのでしょう?」
「っ――」
私は思わず息を呑んだ。
昔。幼い頃。断片的な記憶の霧の向こう側。
どこまでも広がる青い海。誰かの優しい笑顔。波に揺れる美しい青い髪。けれど、その景色に手を伸ばそうとするとすぐに霞がかかり、輪郭を失ってしまう。
「私……覚えて、いません」
「ええ。思い出せなくていいのよ。それもまた一つの現実だから」
あやめさんは私を責めず、その喪失すらも優しく受け止めてくれた。けれど、彼女の口から告げられた次の言葉は、私の世界を根底から揺るがすものだった。
「でもね、一つだけ間違いない事実があるわ。……おそらく、人魚さんは貴方を『喰べる』ことは難しいでしょうね」
「……え? どういう、意味ですか」
思わず声を裏返して聞き返す私に、あやめさんは遠い空を見上げるようにして静かに紡いだ。
「私たち妖怪にとって、血には絶対的な意味があるの。血を与えるという行為は、自分の命を相手に分け与えるということ。だからね……血を分け与えた相手の肉体は、その妖怪にとって『致命的に不味い』のよ」
「――」
言葉が出なかった。頭の中が真っ白になる。
汐莉さんは、ずっと言っていた。私を最高に幸せにしてから、一番美味しい状態で喰べるために傍にいるのだと。それが、彼女のたった一つの願いなのだと。
「つまりね」
あやめさんは、静かにその矛盾の結論を口にした。
「人魚さんは、自分で自分の願いを絶対に叶えられない矛盾を抱えているの。きっと、聡明な彼女のことだから、薄々そのことに自分でも気付いているはずよ」
その言葉は、優しく、けれど鋭い刃となって私の胸に深く刺さった。
「だから、ちゃんと話し合いなさい。……『手遅れ』になってからでは、遅いのだから」
その一言には、かつて我が子を自らの手で失い、取り返しのつかない後悔の時間を何百年も繰り返してきたあやめさんだからこその、痛切な重みがあった。
愛したかった、守りたかった、謝りたかった。そう思ったときには、もうすべてが終わっている。
「後悔だけは、未来へ持っていかないでね」
私は何も答えられなかった。ただ、胸に去来する複雑な感情を堪えながら、小さく頷くことしかできなかった。
「おーい! 比名子ー!」
その時、少し離れた駐車場から、美胡ちゃんの元気な声が響いて張り詰めた空気を割り裂いた。
「早く乗らないとバス出ちゃうよー! 半魚人が『比名子を置いていくならこのバスのタイヤをパンクさせます』とか物騒なこと言い始めてるから早く来てー!」
「もう、美胡ちゃんたら……」
思わずクスリと笑ってしまう。あやめさんも「ふふ、賑やかでいいわね」と、いつもの穏やかなお姉さんの顔に戻っていた。
振り返ると、引率の先生が時計を見ながら手を振っている。その隣で、汐莉さんもまた、あの深海色の瞳で静かにこちらを見つめていた。
「行かなきゃ」
「ええ。元気でね、比名子ちゃん」
「はい。あやめさんも、お元気で」
私は深く頭を下げた。今度こそ、本当の感謝を込めて。
踵を返し、バスへと向かって一歩を踏み出す。もう振り返りはしなかった。振り返れば、せっかく前を向いたこの別れが、いつまでも終わらなくなってしまう気がしたから。
バスのステップを上がりながら、私は無意識に、窓際の席に座る汐莉さんの背中を静かに観察していた。
『人魚さんは、貴方を喰べることは難しいでしょう』
『話し合った方がいい』
『手遅れになることもあるのだから』
あやめさんの残した言葉たちが、冷たい澱のように胸の奥へ静かに沈んでいく。その矛盾の答えは、私にはまだ分からない。けれど、一つだけ確かなことがある。
相手の真実に目を瞑り、知らないまま歪な願いに付き合い続けることは、本当の優しさではない。
相手を正しく知ること。その上で、自分の意思で進むべき答えを選ぶこと。
それこそが、私が千羽あやめという最高の狩人から受け継いだ、これからの在り方だ。