■喰べられ続ける、歓びを   作:あばなたらたやた

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四話:夏祭りと吐き気

 

 窓から差し込む午後の陽光が、埃の粒子を白く照らし出している。その平穏な光景が、私にはひどく滑稽に思えた。

 

 机に突っ伏して、私は重い瞼を閉じる。網膜の裏側には、昨晩の「悪夢」の残滓がこびりついて離れない。

 

 ヴィクトリア朝の街並みを模した、あの陰惨な路地裏。ノコギリ鉈の重厚な刃が獣の脊椎を断った時の、手に伝わる確かな抵抗感。溢れ出した粘り気のある返り血の熱さ。

 あそこでは、痛みと殺意だけが、私の凍りついた心臓を無理やり動かしてくれる。

 

「――ねえ、比名子。放課後は、二人で屋上に行きませんか?」

 

 不意に、鼓膜を優しく撫でるような声がした。冷たくて、透き通った、深い海の底から響いてくるような水音の声。

 

 顔を上げると、そこにはクラスメイトの制服を完璧に着こなした汐莉さんが立っていた。窓外の光を吸い込んで、彼女の青い髪が現実離れした輝きを放っている。

 

「今日は風がとても気持ちいいです。それに今の比名子はなんだか顔色が優れません。体調が良くなるまで私がずっと隣で守ってあげましょう」

 

 汐莉さんは聖母のような微笑を浮かべ、私の頬に触れようと指を伸ばす。その慈愛に満ちた瞳の奥には、狂おしいほどの善意が詰まっている。彼女は本気で、私を救っているつもりなのだ。

 

 不死身を喰らうという無垢で残酷な輝き。

 彼女にとって私のこの絶望は、永遠という長い時間の中で、いつか自然に消えゆく一時的な「風邪」のようなものに過ぎない。

 

「……別に。一人で大丈夫」

 

 冷たい声で拒絶しようとしたが、その言葉は横から割り込んできた暴力的なまでの熱量にかき消された。

 

「ちょっと! 近すぎじゃない、転校生さん?」

 

 ぐい、と背後から首に腕を回され、私の体は強引に後ろへ引き倒された。鼻腔を突いたのは、汐莉さんの磯の香りとは正反対の、冬の陽だまりのような、どこか野性味を孕んだ獣の匂い。

 

「比名子の隣は、もう私が予約済みなんだよねぇ!」

 

 美胡ちゃんが、私の肩にぐりぐりと顎を乗せて、見せつけるように頬を寄せてきた。結い上げた 赤い髪が私の首筋をくすぐる。彼女の金色の瞳は、侵入者を威嚇する野獣のように鋭く細められ、汐莉さんを射抜いていた。

 

「比名子の大親友、社美胡でーす! あ、比名子、今日の昼休みのこと忘れてないよね? 屋上なんて寂しい場所より、中庭で一緒に購買のパン食べようよ。私がサクッとゲットして半分こしてあげるからさ」

「大親友、ですか」

 

 汐莉さんが、薄く、冷たく笑った。

 その瞬間、彼女の瞳の奥が、太陽の届かない深海のような暗がりに沈む。周囲の気温が、わずかに下がった気がした。

 

「『食べる』ことが大好きな貴方らしい誘い方だすね、美胡さん。でも、比名子に必要なのは静かな空間だと思いますよ、私と二人なら、それができます」

「感じ悪っ! あんたこそ、親切な顔して比名子のこと飼い殺しにしようとしてるの丸見えだから。ねぇ比名子、私たちはお互い隅から隅まで詳しく知ってるよね!? 私の方がいいもんね!?」

「ふふ、口から本音が漏れてますよ。比名子は私の半身も同然。あなたのようなどこの馬の骨とも知れない異物が混ざると、彼女が汚れてしまいます」

 

 二人の視線が、私の頭上で激しく火花を散らす。向けられるのは、執着と、独占欲と、歪んだ嗜好。

 どちらも「愛」という言葉で装飾されているけれど、私にとってはどちらも、私の残った人間性を少しずつ削ぎ落としていく鋭利な刃物と変わりない。

 

「どっちでもいい……」

 

 私は二人の腕を、力なく振り払った。二人とも、私の中にある空洞なんて見ていない。ただ、自分の愛というエゴを投影するための器として、私を奪い合っているだけだ。

 

「どっちでもいいから、静かにしてほしいな。眠りたいんだ」

 

 そう、早く夜が来ればいい。

 人外たちが甘い言葉で私を切り刻もうとするこの教室よりも、異形が剥き出しの殺意で襲いかかってくるあの悪夢の中の方が、ずっと息がしやすい気がした。

 

 

 

 放課後の校舎は、西日に照らされてオレンジ色に燃えている。その活気に満ちた熱気が、今の私には酷く疎ましかった。

 

 汐莉さんが転校の手続きとかで職員室に呼び出されている隙を突いて、美胡ちゃんは私の手首を「今のうち!」と強引に掴み、校門へと連れ出した。彼女の掌から伝わる体温は、人間とは思えないほど温かく、そして力強い。

 

 校門を一歩踏み出せば、そこには暴力的なほどにありふれた「日常」が広がっていた。

 

 下校する生徒たちの無邪気な笑い声。部活動に励む若々しい掛け声。遠くの幹線道路から響く、絶え間ない車の走行音。

 

 今日はいつもより街に人が多く、そして誰もが幸せそうに口角を上げているように見えた。家族連れ、恋人たち、友人同士。彼らのまとう幸福な空気。それを見せつけられるたびに、私の脳裏にはあの日失った「かつての日常」が、呪いのようにフラッシュバックする。

 

 父の低く落ち着いた笑い声。母が私の髪を撫でてくれた手の感触。

 

 あの日、すべてが朱色に染まり、鉄錆の臭いに塗りつぶされる前の、温かな食卓の記憶。

幸せそうな人々を見ることは、私にとって、自分が決定的に損なわれ、二度とあちら側へは戻れないという事実を突きつけられる拷問と同じだった。

 胸の奥が、焼け付くように熱い。

 

「……ごめん、美胡ちゃん。ちょっと、お手洗いに行ってくるね」

 

 喉の奥までせり上がってきた酸っぱいものを必死に飲み下し、私は震える声でそれだけを告げた。一秒でも早く、この「光」の当たる場所から逃げ出したかった。

 

「あ、うん。分かった。ここで待ってるから、ゆっくりでいいよ」

 

 美胡ちゃんの返事を背中で受け止めながら、私は逃げるように校舎の隅にあるトイレへと駆け込んだ。個室の鍵を閉めた瞬間、堰を切ったように胃の中のものが溢れ出した。

 

「おえっ……、げほっ、う……っ、はぁ、はぁ……」

 

 吐き出しても吐き出しても、胸の奥に居座るどろりとした虚無感は消えてくれない。

 涙が溢れて、視界がぐちゃぐちゃに滲む。

 苦しくて、辛くて、悲しい。けれど、何よりも一番恐ろしいのは、こんなに心が悲鳴を上げているのに、私の肉体はあの「祝福」のせいで死ぬことすら許されず、内臓の傷も粘膜の荒れも、無慈悲な速度で再生し始めてしまうことだった。

 

 一通り吐き終えると、私は冷たい水で何度も口を濯ぎ、鏡の中の自分を睨みつけた。

 真っ白な顔色。微かに赤くなった目元。丹念に肌を叩き、服の乱れを直し、深い呼吸を繰り返して心拍数を無理やり落とす。

 

 美胡ちゃんは鋭い。私の僅かな変調も見逃さない。この状態で戻れば、彼女に余計な心配をかけてしまう。彼女の太陽の如き暖かさに今の私は耐えられる自信がなかった。

 

 十分な時間をかけて、完璧な「普通の女子高生」を演じ直し、私は彼女の待つ場所へと戻った。

 

「お待たせ、美胡ちゃん。……行こうか」

 

 できるだけ軽やかに、平静を装って声をかける。美胡ちゃんは、歩道の縁石に腰掛けていた体を弾ませ、いつものような屈託のない笑みを浮かべて私を振り返った。

 

「あ、比名子! おかえり。ねえ、今日の夏祭りがあるんだけど、一緒に――」

 

 美胡ちゃんの言葉が、唐突に途切れた。

笑顔が凍りつき、彼女の金色の瞳が、獲物の傷を察知した肉食獣のように鋭く細められる。

 

 私の顔を、特に隠しきれなかったであろう目元の粘膜を凝視した瞬間、彼女の顔から血の気が引き、蒼白になっていくのが分かった。

 …… ああ、失敗した。

 どんなに繕っても、彼女の前では無駄だったんだ。

 

「比名子……」

 

 彼女が震える指を伸ばそうとする。その瞬間に溢れ出した彼女の「心配」という名の熱量が、今の私にはあまりにも眩しすぎて、直視すれば心が焼き切れてしまいそうだった。

 

「ごめんね。夏祭り、やっぱりやめておくね」

 

 彼女が何かを言いかける前に、私は拒絶の言葉を叩きつけ、視線を地面へと落とした。私のために怒り、悲しんでくれる優しき少女。その純粋な愛さえも、今の私にとっては、生を繋ぎ止めてしまう「呪い」でしかなかった。

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