■喰べられ続ける、歓びを   作:あばなたらたやた

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五話:理の外なる者

 

 薄暗い自室の隅で、私はただ時計の針が刻む音を聞いていた。

 

 今日は地元の夏祭りだ。窓の外からは遠く、太鼓の音が響いてくる。家族といった記憶のある祭りの音。

 美胡ちゃんは申し訳なさそうな顔をして

 

「……ごめんね。無理しなくていいよ。また、明日ね」と。彼女は人間に寄り添う術を知っている。だから、私の絶望に触れないように、賢く身を引いた。

 

 それで良かった。私はただ、このまま暗闇に溶けて、死ぬことさえ許されない肉体の重さを数えていたいだけだったのだから。しかし、その静寂は文字通り叩き壊された。

 

「比名子! 夏祭りです!! 行きますよ!!」

 

 窓ガラスがガタガタと鳴り、鍵をかけていたはずのサッシが外側からこじ開けられる。月光を背負って部屋に侵入してきたのは、青い髪を夜風になびかせた汐莉さんだった。

 彼女は私の返事も待たず、ベッドの上で丸まっている私の腕を掴み、強引に引き起こす。

 

「……嫌だ。行かないっ」

「嫌です、駄目です、一緒に遊びます。比名子。知っていますか? 食べ物は幸せを噛みしめていないと、深みが出ないのです。不幸な味は、どうにも後味が苦くていけません」

 

 彼女の瞳に、私の意思を尊重するという選択肢は存在しなかった。汐莉さんはどこから持ってきたのか、浴衣一式を私の膝に放り投げる。

 

「さあ、着替えてください。それとも私が剥きましょうか?」

 

 抵抗する気力さえ、彼女の過剰な熱量に削り取られていく。私は感情を排し、ただ指示に従う機械のように、用意された布に袖を通した。

 

「随分と綺麗な肌をしてますね。けど、焼けた臭いがします」

「うん、昔はすごい火傷があったんだけど、悪夢が明けたら無くなってた」

 

 祭りの会場は、人の熱気と屋台の匂いで溢れていた。

 汐莉さんは、目に入るもの全てに無邪気な、そして無神経な言葉を投げかけていく。

 

「比名子さん、見てください! あの赤い玉(りんご飴)を頬張る子供たち。なぜあんなに必死に砂糖の塊を舐めているのでしょう 効率が悪いと思いませんか?」

「……それが楽しいからじゃないかな。普通は」

「普通。素晴らしい響きです。では私もその『普通』を摂取しましょう」

 

 彼女はリンゴ飴を買い、それを私の口元に突き出した。私は反射的に口を開く。甘ったるい砂糖の味が、ざらりと舌の上で転がった。

 

「美味しいですか?」

「……わからない。甘いだけ」

「ふふ、正直ですね」

 

 彼女は楽しそうに笑い、私の手を握って人混みの中を進む。握られた手のひらは、私よりずっと熱い。皮肉なものだ。死ぬことを忘れた化け物の方が、死にたがっている人間よりもずっと「生命」に満ちている。だが、その熱が私の凍りついた記憶を溶かしてしまった。

 

 ふと視界の端に、浴衣を着た小さな女の子を肩車している父親の姿が映った。母親が隣で笑いながら、女の子の口元に綿菓子を運んでいる。

 

 

 あの日も、あんなふうに笑っていた。

 その瞬間、アスファルトの焼ける匂いと、鼓膜を突き破るような急ブレーキの音が脳内で再生された。視界が歪む。肺が酸素を拒絶する。

 

「……っ」

 

 私は汐莉の手を振り払い、逃げ出した。背後で彼女が私の名前を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、止まれなかった。華やかな提灯の光が、血の色に見えた。

 

 たどり着いたのは、祭りの喧騒が届かない、波音だけが支配する神社の裏手だった。私は古い石階段に蹲り、膝を抱えて震えた。

 心臓はうるさいほど動いている。人外の血が混じった私の体は、これほどの苦痛の中でも、健康そのものに鼓動を刻み続けている。

 

「比名子。逃げ足まで『普通』にならなくていいんですよ」

 

 いつの間にか、汐莉さんが目の前に立っていた。彼女は息一つ乱さず、青い瞳でじっと私を見下ろしている。

 

「なぜ泣くのですか? 貴方の家族が死んだのは、もう終わったことでしょう?」

「……終わってない。私は、ずっとあそこに置かれたままなんだ」

「不可解です。肉体はこれほど完璧に再生した。傷跡一つない。致命傷から回復するし、死なない、欠けない、朽ちない。素晴らしい力です」

「素晴らしい、力」

「そこで私と貴方の理解と親睦を深めるために質問です」

「なに?」

「みんな死んだとしても、自分だけ生き残って、ラッキーだと思わないんですか?」

 

 彼女の声には、嘲笑も悪意もなかった。ただ、道端に落ちている石の重さを問うような、純粋すぎる空虚があった。私は顔を上げ、彼女の透き通るような瞳を睨みつけた。

 

「……一人では、意味がないんだよ」

「意味?」

「大切な人が全員消えてしまえば、人は立ち上がることができなくなる。繋がりがないと、人は進めないんだよ。私だけが生き残っても、それはただ、出口のない箱の中に閉じ込められたのと同じ。……ラッキーなんて、一度も思ったことない」

 

 汐莉さんは、私の言葉を咀嚼するように少しだけ首を傾げた。そして、ゆっくりと腰を落とし、私の濡れた頬に冷たい指先を触れさせる。

 

「繋がり、ですか。貴方たちは、自分以外の何かに依存しないと存在を定義できないのですね」

 

 彼女は満足そうに微笑んだ。その笑みは、救済のようでもあり、奈落のようでもあった。

 

「わかりました。では、私がその『繋がり』になりましょう。貴方が一人で立てないなら、私が一生、貴方の重力になります。……ああ、早く食べてしまいたい。そんなに悲しそうに私を見つめる貴方は、きっと最高に甘いのでしょうね」

 

 彼女の指が、私の首筋に這う。私はその殺意に近い愛撫を拒むこともできず、ただ遠くで上がる打ち上げ花火の音を、他人事のように聞いていた。

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