喰べられ続ける、歓びを   作:あばなたらたやた

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七話:争いの中心

 

 放課後の掃除時間は、私にとって少しだけ心が落ち着く時間だ。パサパサと乾いた砂や色褪せた落ち葉を、竹箒で静かに掃き集めていく。

 

 カサ、カサ、という規則正しい音だけが、静まり返った渡り廊下に響いていた。周りを見渡せば、他の生徒たちはだるそうにお喋りをしながら手を動かしている。

 

 そのありふれた日常の光景が、私に「自分はまだ、人間の世界に留まっていられている」という都合のいい錯覚を与えてくれた。けれど、世界は私にその贅沢な錯覚を長くは許してくれない。

 

 じわり、と視界の端の空間が、油が水に混ざるように歪んだ。現実の薄皮を破って這い出てきたのは、人間の負の感情や未練がどす黒く固まった醜悪な妖怪。それは、他の生徒たちには目もくれず、まっすぐに私だけを見据えた。

 

 私の内に流れる、近江汐莉さんの血肉という“極上の御馳走”の匂い。それに狂った獣が、長い牙から涎を垂らして飛びかかってくる。

 

 身構え、悪夢の中で培った狩りの呼吸を無意識に整えかけた、その瞬間だった。

 私の視界を、鮮烈な青が遮った。

 ——近江汐莉さん。私に不老不死という永遠の祝福を与え、そして同時に、取り返しのつかない呪いを縛り付けた、理の外なる人魚。

 

 彼女が細く白い手を優雅に一振りするだけで、空間が爆ぜた。襲いかかってきた妖怪の肉体は、抵抗する間もなく呆気なく肉塊へと変わり、凄まじい勢いで弾け飛ぶ。

 

 パシャリ、と嫌な音がして、飛び散った返り血が汐莉さんの美しい青い髪と、白いセーラー服の肩口を容赦なく濡らした。

 

「大丈夫ですか? 比名子」

 

 汐莉さんは何事もなかったかのように振り返り、聖母のような、どこまでも澄んだ慈愛の微笑みを私に向けた。

 

 私のために戦ってくれた、その純粋な、100%の善意。それが嬉しくて、同時に、私のせいで今日も彼女の手を汚させてしまったという泥のような罪悪感が、胸の底へ深く深く溜まっていく。

 

「ありがとう、汐莉さん。でも血塗れだね、どうしよう」

 

 私が申し訳なさそうに彼女の服を見つめると、汐莉さんはまるでお気に入りの玩具を見守るようにおかしそうに目を細めた。

 

「妖怪の血は見えませんし、すぐに消えますよ」

「そうなんだ、よかった。じゃあゴミ捨て行ってくるね」

 

 私は感情の起伏を一切そぎ落とした、いつもの無口なトーンで答える。

 本当は、床にこびりついた見えない血の臭いや、毎晩の悪夢の中で幾度となく味わった鉄の味が鼻腔の奥にフラッシュバックして、吐き気がしていた。

 

 狂いそうな罪悪感が頭を支配し、今すぐにでも、スカートのポケットに隠したあの黒い拳銃を引き抜き、自分の頭を吹き飛ばしてすべてをリセットしたい衝動に駆られていた。けれど、親切な彼女にそんな異常な自己破壊衝動を見せるわけにはいかない。

 

 私は集めた落ち葉やゴミが入った、ずっしりと重いポリ袋を両手に持ち、足早にその場を離れて校舎裏のゴミ捨て場へと向かった。

 

 冷たい冷気を感じたのは、木々の陰に差し掛かった時だった。西日に照らされた緑の隙間に、鮮やかな、燃えるような赤髪が揺れていた。

 

「……美胡ちゃん?」

 

 私の大親友であり、過去や記憶を捏造してまで私の「幼馴染」として隣に居続けてくれる妖狐、社美胡ちゃん。

 なぜ彼女がここにいるのか。胸を突く嫌な予感に急かされ、私はとっさにゴミ袋を抱えたまま、古い木造の物置の影へと身を隠した。息を殺し、隙間からそっと二人の様子を窺う。

 

 いつの間にか、汐莉さんが美胡ちゃんの前に立っていた。

 

 私に「今」生きてほしいと願う人魚と、私に「長く」生きてほしいと願う妖狐。

 私の知らないところで、二つの巨大な異形が、私という存在を巡って対峙していた。

 

「こんなに散らかして、何のつもり?」

 

 美胡ちゃんの声が響いた。それは、いつも学校で私に向けてくれる甘く弾んだものとは、完全に一線を画していた。

 

 低く、地を這うような、本物の「土地神」としての冷徹な威圧を孕んだ声。対する汐莉さんは、すっと青い瞳を細めて、どこか愉快そうに首を傾げる。

 

「おや、見えるんですか。貴方からは何も匂いはしないのに」

「アンタからは最初から臭いがあったよ。人を喰らい続けた化物の臭いが」

 

 美胡ちゃんの手の爪が、怒りで獣のように鋭く伸びていくのが見えた。美胡ちゃんが元は冷酷な人喰いの妖怪であることを、私は知っている。けれど、今の彼女は必死に爪を隠し、人間の理の中に溶け込もうとしている。他ならぬ、私達のために。

 汐莉さんは、そんな美胡ちゃんの頑なな姿を憐れむように、冷ややかに笑った。

 

「こんなに人と似ているなんて、去勢でもされたんですか? 我々は妖怪。人喰いをやめるなんて狂気の沙汰です」

「アンタはそうなんだろうね、私は違う。お前とは、違う」

 

 美胡ちゃんの金色の瞳が、激しい拒絶でギラリと細くなる。物置の影で、私はぎゅっと自分の腕を強く抱きしめた。

 二人の言葉が、鋭い刃になって私の胸を突き刺す。二人とも、私を守るために、私を愛しているがゆえに、こうして醜く互いを罵り合っている。

 

 もし、あの家族旅行の日に私だけが生き残っていなければ。私が死んでいれば、この二人がこんな風に傷つけ合うこともなかったのに。

 

「手懐けられた獣風情が随分と大きな口を叩く」

 

 汐莉さんの声から、完全に温度が消え失せた。彼女の背後から、現実の空気を凍らせるほどの濃厚な殺意と、海の底のような圧迫感が立ち上る。

 

「今ここで消してしまいましょうか?」

「それがお前の獣性だ、半魚人」

「獣が獣性を語りますか、毛皮素材さん」

 

 美胡ちゃんは一歩も引かなかった。むしろ、どんなに偽りだと罵られようとも、人間の真似事をしてでも私の隣に居続けるという、狂気じみた執念で汐莉さんを睨みつける。

 

「人間の理の中には絶対に入れない。朽ちて死ね、ひとりぼっちで」

 

 向けられる凄まじい殺気の応酬に、私の身体は小さく震えていた。私を愛してくれる、二人の人外。その愛はあまりにも優しく、そしてどこまでも歪んでいて、世界を壊すほどに昏い。

 

 苦しい。胸の奥が焼けるように痛くて、罪悪感で呼吸が詰まりそうだ。なのに。私はこの悍ましくも美しい二人の拒絶合いから、どうしても目を離すことができなかった。

 

「ふふ、ねぇ、君。寄生虫の話を知っていますか?」

 

 汐莉さんの鈴を転がすような声が、静まり返った校舎裏に響く。その声は酷く穏やかで、だからこそ、含まれた毒の鋭さが際立っていた。

 

「宿主の脳に入り込んで、考え方を少しずつ変える虫。本人は気づかない。自分で決めたと思ってる。自分の意思だと思ってる。でも実際は違う。虫に都合のいい方向へ。少しずつ誘導されているだけ。怖い話ですよね、本人が幸せなら問題ないって顔をしてるところが。しかもその虫。宿主を愛しているつもりらしいんですよ。貴方は案外、獣より虫の方が向いてるんじゃない?」

 

 美胡ちゃんの「記憶の捏造」を、脳を蝕む寄生虫と吐き捨てたのだ。美胡ちゃんが私に植え付けた、温かい幼馴染としての思い出。

 それが、彼女の都合のいいように誘導された偽りであると、汐莉さんは冷ややかに嘲笑う。

対する美胡ちゃんは、怒りで我を忘れることはなかった。むしろ、低く、喉を鳴らすようにゆっくりと笑い返す。

 

「なるほどね。私の記憶の捏造の話か。じゃあ私も一つ言いたいことがあるよ。火事場に飛び込む犬の話を知ってる?」

 

 美胡ちゃんの金色の瞳が、怪しく明滅する。

 

「主人を助けるために燃え盛る家へ飛び込む忠犬。立派よね、勇敢。みんな感動する。でも、その犬は火を消せない。ただ飛び込むだけ。炎の中へ、何度も、何度も、何度も主人を助けるために。そして結局、主人も死ぬ。犬も死ぬ。でも周りは拍手する。『なんて優しい犬だったんだ』って」

 

 一歩、美胡ちゃんが汐莉さんに足を進める。

 

「半魚人。アンタが比名子を不死にした時。誰か拍手してくれた?」

 

 その言葉に、胸の奥が痛んだ。あの自動車事故の日。

 汐莉さんがその血肉を私に与えてくれたお陰で生き残った。それは美胡ちゃんの言う通り、消せない炎の中に飛び込むような、無謀で、凄惨な救済だった。

 私は今、苦しい。でも汐莉さんの善意からくる施しだったのなら、これ以上ない皮肉だ。

 汐莉さんの瞳が、すっと、凍りつくように細くなる。

 

「ええ。してくれましたよ。比名子が泣きながらね」

「そうでしょうね。それを後悔できる心があるなら、こんな事にはなっていない」

「面白いことを言いますね」

 

 汐莉さんの微笑みに、明らかな棘が混ざる。

 

「自分が何人食べてきたかも数えられない狐が」

「確かに私は殺した人を覚えてない」

 

 美胡ちゃんはあっさりとそれを認めた。元人喰いの怪物の本性を隠そうともせず、しかし、凛とした声で言い放つ。

 

「でも、今は違う。比名子は食べない。他の人も。絶対に」

「人間に情でも湧いたんですか? まぁそれなら合点が行きます。貴方みたいなタイプは欲しいものほど壊せない。だから盗む。だから偽る。だから幼馴染を演じる。あなたが作った思い出の中でしか、比名子はあなたを選ばないから」

 

 心臓を直に掴まれたように、美胡ちゃんの笑みが完全に消えた。物置の影で、私は息をするのさえ忘れていた。

 

 汐莉さんの言葉は、美胡ちゃんの最も恐れている真実を正確に射抜いていたのだろう。偽りの過去がなければ、私は美胡ちゃんの隣にいない。しかし、美胡ちゃんの反撃は、それ以上に冷酷だった。

 

「人魚の寓話も知ってるよ。嵐の日に船乗りを助ける人魚の話。溺れていたから助けた。善意だった。感謝された。だから次も助けた。その次も、そのまた次も。だけど船乗り達は航海を舐め始めた。どうせ人魚が助けてくれるから。死なないから。そしてある日、人魚は間に合わなかった。全員死んだ。半魚人、あなたの善意はね。いつも自分が上位者でいられる前提なの」

 

 美胡ちゃんの冷徹な分析が、汐莉さんの価値観での「100%の善意」の皮を剥ぎ取っていく。

 

 私を不死にしたことで、私は死に慣れ、毎晩の悪夢で人間性を摩耗させている。汐莉さんの善意が、私をまともな人間でいられなくした。

 

「ふふ、貴方よりはマシですよ。ええ、私は少なくとも比名子を比名子として大切に思ってますよ」

「そう? ふん、へぇ」

「何かおかしいんですか?」

「いや、不思議だなーって思ってさ」

 

 美胡ちゃんは、底知れない笑みを唇に浮かべた。

 

「比名子をまともな人間でいられなくした奴が、比名子を愛していると言うんだからさ」

 

 その言葉は、汐莉さんにとって致命傷になり得る一撃だった。自分の与えた祝福が、比名子を壊しているという現実。だが、汐莉さんもまた、一歩も引かずに冷たい笑みを深めてみせる。

 

「比名子を人間として扱っているつもりの狐が、比名子の人生を全部書き換えているのも十分面白いですよ。言葉と行動が一致していない」

 

 二人の距離は、もう互いの呼吸が届くほどに近い。日に照らされた影が、おぞましい怪物の形をして混ざり合っているように見えた。

 

「貴方は比名子の過去を書き換えた」

 

 汐莉さんが静かに言う。

 

「アンタは比名子の未来を書き換えた」

 

 美胡さんが淡々と応じる。

 

「どちらが重罪でしょうね」

 

 美胡ちゃんの問いに、汐莉さんは思考の隙さえ与えず、即答した。

 

「比名子に選ばれなかった方がね」

 

 ——その瞬間だけ。

 二人の顔から、一切の笑みが消え失せた。

ひゅう、と放課後の校庭を冷たい風が吹き抜けていく。

 物置の影で、私はただ、じっと自分の胸元を片手で押さえていた。二人が見つめているのは、互いの姿でありながら、その実、その奥にある「私」という存在だけだ。

 

「さぁ、死ぬか。お前」

「妄想もほどほどに。貴方にはできませんよ」

 

 過去を奪った狐と、未来を奪った人魚。

 二人の怪物の、逃げ場のない愛の天秤。その中心に立たされているのは、他ならぬ、生き残ってしまった私だった。

 だからだろうか、対決する二人の前に飛び出したのは。

 

 私の胸を、汐莉さんの魚の爪が貫き、背中からは美胡ちゃんの獣の爪が切り裂いていた。

 

「私のために、争わないで」

 

 二人の驚愕した顔を見ながら、私は悪夢へ落ちる。死んだ後に見る、いつもの悪夢の世界へ。

 

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