喰べられ続ける、歓びを   作:あばなたらたやた

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八話:悪夢の世界

 

 冷え切ったコンクリートの匂いが、鼻腔の奥で凝固している。

 

 目を覚ますと、世界はいつも通り、色を失った灰色の天蓋に覆われていた。頬に触れる空気は、生者の体温を拒絶するようにただただ硬く、冷たい。

 

 指先を動かし、革の手袋の感触を確かめる。腰に据えたノコギリ鉈のずっしりとした質量。懐にある拳銃の、鉄の冷徹な重み。それらは私の肉体の一部であり、同時に、私がすでに人間の領域からどれほど遠くへ歩み去ってしまったかを示す、厳然たる目盛りでもあった。

 

 鋭いものが肉を裂き、骨を砕く瞬間のあの鮮烈な解放感の裏側で、いつも引き裂かれるような痛みを伴うのは、遺される彼女たちのことだ。

 

 飛び散った私の血肉を浴びて、汐莉さんと美胡ちゃんは今頃、どんな顔をしているだろう。強固な「死の不在」という呪いは、私から終わりを奪うだけでなく、彼女たちの時間に消えない傷跡を刻み続ける。

 

 胸の奥に、澱のような悲しみが沈殿していく。だが、その感触さえも、悪夢の乾いた風がすぐに掠め取っていった。

 

 懐から、古びた『手記』を取り出す。ページを繰る音だけが、静寂のなかに吸い込まれていく。

 

『移設型バリスタの破壊』

 

 簡潔な文字が、この歪んだ空間の明瞭な意志を告げていた。正面を強固な装甲で固められた、巨大な殺戮の機構。背後に回り込まなければ、刃は届かない。周囲を徘徊する、意思を持たぬ有象無象の影。

 

 バリスタ。その単語を目にしただけで、肉体が過去の「死の記憶」を呼び覚まし、微かに慄えた。

 音を置き去りにして迫る投射物。

 

 肉体を容易く両断し、生命というあやふやな概念を爆散させる圧倒的な質量。

 私は何度もあの光に貫かれ、そのたびに肉体を再構築してきた。

 

 死は苦痛だが、同時にあまりにも確実な減数法だ。けれど、この終わりのない試行錯誤の果てに、私は何を削り落としているのだろう。

考えを振り切るように、私は歩き出す。

 

 靴底が舗装の剥がれた地面を叩く、規則正しい音だけが、この孤独な世界での私の生存証明だった。

 

 不意に、鉄の錆びた匂いに混じって、異質な風のうねりが鼓膜を震わせた。

 肉を裂く硬質な音。獣の濁った咆哮。

 日常の裏側に隠された、暴力の不協和音。速度を速め、崩れたビルの影から路地を覗き見る。

 

 そこにいたのは、決してここにいるはずのない、あるいは、私が何よりもこの泥濘に足を踏み入れさせたくなかった、二人の影だった。

 

 青い髪をなびかせ、現実の法を歪めるように立つ汐莉さん。

 赤い髪を激しく揺らし、土地の因果を縛るように爪を振るう美胡ちゃん。

 

 二人は背中合わせになり、うねるような影を纏った異形の獣たちと対峙していた。

 

「何こいつら!? ただの獣の癖に!」

 

 美胡ちゃんの鋭い声が、硝子を割るように響く。その金色の瞳には、苛立ちと、この空間の不条理に対する明確な拒絶が宿っていた。

 

「存在質量がかなり多い。こちらの攻撃は通じていますし、相手の攻撃を防げますが、削り合いでは押し負けるでしょう」

 

 汐莉さんの声はどこまでも平坦で、それゆえに酷く冷徹だった。青い瞳は、目の前の命のやり取りを、まるで確定した数式を眺めるように見つめている。けれど、その指先は微かに震えていた。

 

「かといって逃げる隙もないしっ」

 

 獣たちの波状攻撃が、容赦なく二人を圧迫していく。空間そのものが彼女たちを排斥しようとするかのように、影が密度を増していく。二人がここにいるという事実そのものが、私の罪の具現化のようだった。私を守るために、彼女たちはこの永遠の夜に捕らわれてしまった。

――これ以上、私のせいで、誰の時計も止まらせはしない。

 

「行かなきゃ」

 

 思考よりも先に、肉体が地を蹴っていた。

 世界が加速する。ノコギリ鉈を握る右手に、どろりとした殺意の熱が流れ込む。

跳躍。獣たちの死角、その無防備な背後へと滑り込む。

 

「えいっ」

 

 遠心力を乗せて、鉈を振り下ろした。

カチリ、と機構が噛み合う金属音とともに、刃が伸長する。変形を交えた一連の軌跡は、すでに私の意志を超えて、最適化された死の舞踊へと昇華されていた。

 

 獣の強靭な肉が、紙細工のようにズタズタに切り裂かれる。飛び散る黒い血が、私の頬を濡らした。それは熱を持たず、ただ冷ややかに、私の人間性を侵食していく感覚。

 

 地に伏せ、なおも身悶えする獣の頭部に、滑らかな動作で散弾銃の銃口を突きつける。

迷いはない。

 引き金を引く。

 轟音。

 

 飛び散る火花と硝煙の匂いが、路地を満たした。肉の塊へと還ったそれを見下ろしながら、私はゆっくりと息を吐き出す。戦っている瞬間だけが、私の内側にある生き残ってしまったという罰を、麻酔のように痺れさせてくれる。

 

 皮肉なことに、私はこの地獄でしか、自らの呼吸を肯定できない。銃口から立ち上る紫煙の向こう側で、二人が目を見開いて私を見ていた。

 

 私は、自分がかつて「日常」と呼んでいた世界の住人としての仮面を、精一杯手繰り寄せる。口の端を引き上げ、肉体を馴染ませるように、微笑を作った。

 

「大丈夫? 二人とも」

 

 声は、我ながら驚くほど穏やかに響いた。まるで、放課後の教室で友人に声をかけるかのように。

 

「ごめんね、悪夢の世界に巻き込んじゃって」

 

 私の言葉は、静まり返った路地に、ひび割れた器のように虚しく響いた。

 救いたいと願う独善と、死にたいと願う崩壊。その矛盾の狭間で、私たちの視線が交錯する。そこには言葉にならない、けれど決定的な価値観の断絶が、静かに横たわっていた。

 

「ここは、現実の裏側にある歪み」

 

 私は二人を見据えたまま、努めて淡々と、けれど彼女たちの動揺を塗りつぶすように言葉を紡ぎ出した。

 

 ここには言葉の意味を吟味するような時間はない。ただ事実だけを、私の声という頼りない糸で繋ぎ止めていく。

 

「人のトラウマや未練が具現化した、時間の狂った世界。死んでも現実で死ぬことはないけれど、ここで刻まれた恐怖も、戦いの経験も、すべては魂に残り続ける」

 

 二人は怪訝な表情を浮かべ、あるいは私を値踏みするように視線を交わしたが、多くは語らなかった。私の言葉が真実であるかどうかを疑うよりも先に、この空間が放つ圧倒的な「異物感」が、彼女たちの本能に理解を強要していたからだ。

 

 説明を求めながらも、二人は私の先導に従い、静かに歩みを進める。私はノコギリ鉈を軽く振り、刃に付着した獣の残滓を払った。

 

 冷え切ったアスファルトの冷気が、靴底を通じて微かに体温を奪っていく。

 この先に待つものの気配が、肌を刺すような微震となって伝わってきた。

 

「この悪夢を終わらせるには、この階層の楔を打たなきゃいけない。今回は――バリスタ」

 

 進むにつれて、建物の壁面には生々しい弾痕が目立つようになっていく。それは銃弾などという生易しいものではなく、大砲のそれに近い。

 

 正面からの接近は死を意味する。音を置き去りにして迫る、圧倒的な火線。何度も肉体を両断され、そのたびに再生を繰り返した記憶が、私の背筋を冷たく這い上がった。

 

「正面は強固な装甲に守られている。だから、回り込む。雑魚を散らしながら、背後に」

 

 

私は二人に背を向けたまま、静かに、けれど明確な確信を持って歩き続けた。

 

 彼女たちを巻き込んでしまった罪悪感は消えない。けれど、今の私にできることは、この血生臭い路地の先にある脅威を、一秒でも早く解体することだけだった。

 

 

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