喰べられ続ける、歓びを   作:あばなたらたやた

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九話:悪夢の世界・序

 

 私の説明が終わるか終わらないかのうちに、汐莉さんは小さく拍手を打った。その青い瞳には、恐怖も混乱も一欠片すら浮かんでいない。

 

「なるほど、目的があるなら簡単ですね。さっさと壊してここから出ましょう。比名子、案内してください」

 

 歌うような、どこまでも陽気な声音だった。彼女にとって、この不条理な世界も、私を生かすための都合の良い舞台装置に過ぎないのだろう。その迷いのなさが、今は酷く冷酷に思えた。

 

「ちょっと、待ちなさいよ」

 

 遮ったのは美胡ちゃんだった。彼女は汐莉さんを鋭く睨みつけ、それから私の両肩をがっしりと掴んだ。金色の瞳が、激しい焦燥と心配で揺れている。

 

「比名子さ、さっき『死んでも死なない』って言ったわよね? それって、何度もここで殺されたってこと?」

「美胡ちゃん、私は大丈夫だから。慣れてるし――」

「慣れてるとかそういう話じゃない」

 

 美胡ちゃんは私の言葉を怒声で掻き消した。掴まれた肩に、人喰い妖狐としての、恐ろしいほどの指圧がかかる。それは痛みの形をした、彼女の純粋なまでの執着だった。

 

「比名子の心も体も、これ以上すり減らさせない。こんな悪夢、私が全部噛み砕く。健やかに生きれるように」

「おやおや、お優しい獣ですね」

 

 汐莉さんがクスクスと、鈴を転がすような声で笑った。一歩前に出た彼女の青い瞳が、美胡ちゃんを冷ややかに見下ろす。

 

「でも、美胡さん。あなたの言う『長く』のために、比名子をこの薄暗い場所に引き留めるのですか? それは酷というものです。比名子に必要なのは『今』この苦痛から解放されること。そのためには、目の前の敵をすべて蹂躙し、さっさと前へ進むのが一番合理的でしょう?」

「黙れ、半魚人。あんたのその無駄な善意のせいで、比名子は死ぬことすら許されない身体になったんでしょうが! 今を生きろ? 笑わせないで。このノンデリ人魚」

「ノンデリとは酷いですね。比名子は生きています。私の祝福のなかで、今もこうして美しく脈打っている。それ以上の真実がどこにありますか? 彼女が最優先です」

「あの、二人とも――」

 

 私の制止など、最初から二人の耳には届いていなかった。二人は私を境界線にして、互いの譲れないエゴをぶつけ合っている。

 

「私は比名子を守る。ここでこれ以上、傷一つだって負わせない。邪魔をするなら、あんたから喰い千切ってやる」

 

 美胡ちゃんが牙を剥き、獣の気配を膨らませる。

 

「あら、できるものならどうぞ。ですが今は、その有り余る食欲をバリスタとやらに向けた方が効率的ですよ。比名子を無傷で帰したいのでしょう?」

 

 汐莉さんは美胡ちゃんの威嚇を柳のように受け流し、すでに戦うこと、敵を屠ることへとその意識を鋭く研ぎ澄ませていた。

 

 二人の会話は平行線のまま、凄まじい熱量で加速していく。

 

 私を救いたいという祈りと、私を縛りたいという呪い。そのどちらもが、私という存在を置き去りにしたまま、この悪夢の夜をさらに深く塗り潰していくようだった。

 

「いい加減にしなさいよ。比名子をそんな風に道具みたいに言うのは、私が絶対に許さない!」

「道具だなんて滅相もない。比名子は私のすべてですよ。だからこそ、最速でこの悪夢を排除すると言っているのです」

 

 美胡ちゃんの赤い髪が怒りで逆立ち、汐莉さんの青い瞳が冷徹な光を湛える。

 水と油。

 決して交わることのない二人の正義が、狭い路地で火花を散らし、互いを侵食し合っていく。その熱量が高まれば高まるほど、私の存在は歪みの中に置き去りにされていった。

 

 彼女たちは、私のために怒っている。私のために戦おうとしている。それは分かっている。けれど、この永遠のような夜の中で、その純粋すぎる愛はあまりにも重く、そして酷く鈍かった。

 

 私は、ため息さえつかなかった。ただ、右手を動かした。懐から引き抜いた拳銃の、冷え切った銃口を、迷いなく自らの左胸へと押し当てる。

 

「え――」

「比名、」

 

 二人が何かに気づき、言葉を失うよりも早く。

 私は、人差し指に力を込めた。

 ――ドンッ!

 

 鼓膜を震わせる爆音。火花が散り、硝煙の匂いが一瞬で辺りを支配する。鉛の弾丸が容赦なく肋骨を砕き、肉を裂き、私の心臓を貫いた。

 

 どろりとした鮮血が胸元から溢れ出し、地面のコンクリートを汚していく。視界が急速に明滅し、膝の力が抜けて、その場に崩れ落ちた。死の衝撃。

 脳が強制的にシャットダウンされかける、あの悍ましい暗黒がすぐそこまで迫る。

 

「比名子!!」

 

 美胡ちゃんが悲鳴のような声を上げて、弾かれたように私を抱きとめた。その手は激しく震えていて、金色の瞳には涙さえ浮かんでいる。

 

「嘘、なんで、どうしてそんなことするのよ……!」

「比名子、今すぐ再生を……っ」

 

 いつも余裕を崩さなかった汐莉さんの顔から、完全に色が消えていた。彼女の青い髪が、焦燥に駆られて激しく揺れる。その手が私の胸の傷口に触れ、自分の血の祝福を無理矢理にでも注ぎ込もうと躍起になっていた。

 

 ドクン、と、私の中で「人魚の呪い」が脈打った。瞬く間に肉が、骨が、血管が、不気味なほどの速度で融解し、再結合を始める。死の淵から、無理やり生の領域へと引き摺り戻される。

 

 激痛と、それ以上の深い倦怠感。

 私は血の混じった息を吐き出しながら、ゆっくりと上体を起こした。

 衣服は赤く染まったままだが、傷口はすでに塞がっている。驚愕と深い傷心を顔に張り付かせたままの二人を、私はただ静かに見つめ返した。

 

「……今は、真剣にやってね」

 

 私の声は、ひどく掠れていたけれど、この空間の誰よりも冷たく、そして平坦だった。

 

「喧嘩は、現実でもできるから」

 

 驚きに目を見開く二人の前で、私はゆっくりと立ち上がり、ノコギリ鉈の柄をきつく握り直した。

 

 彼女たちはまだ分かっていない。ここがどれほど異常で、どれほど確実な地獄であるかを。

死を軽んじているわけじゃない。ただ、私はもう、古狩人の技術を継承した「狩人」なのだ。生きるために、守るために、この悪夢ではただ貪欲な獣にならなければ生き残れない。

 

 戦場に、甘えも私情もいらない。

 私は二人に背を向け、バリスタが鎮座する路地の奥、血の匂いが一段と濃くなる暗闇へと、一歩を踏み出した。

 

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