次の飼い猫は私?! 幼馴染とはいえ、なんで大嫌いな女のためにこの私が…… 作:顔のない女
旅館に到着したのは午前と午後の境目にあたる、中途半端な時間だった。
チェックインにはあまりに早い時間だったが、流石にこの量の荷物をもって水族館に直行は無理があるため、先に荷物だけ預かってもらうことにした。
ちなみにこの旅館の件が当日まで私が気づかなかった場合、朝から一人で荷物を預けに行くつもりだったそうだ。
…………マジで馬鹿すぎる。
そしてフロントの案内を受け、二人で客室へと荷物を運ぶ。
通されたのは川沿いの和室だった。
大きな窓の向こうには生命力に溢れた山々と、陽光を反射する川面が広がっている。
葵は「わぁ……!」と歓声を上げて窓に張り付いたが、私はそれどころではなかった。
室内の異常な光景に気づき、戦慄する。
「あの……なんでベッドが一つしかないんですか?」
「あっ、ほんとだ!」
部屋の隅に鎮座しているのは、大きなダブルベッドがたった一つ。
「佳織と莉子の二人に予約を任せたんだけど、もしかして選ぶ部屋をミスっちゃったのかな?」
「…………」
葵が嘘を吐いているようには見えない。
つまり、佳織がこれを仕組んだとみて間違いないだろう。
まさか、ここまでふざけた事をやってくれるとは思わなかった。
本当にイライラさせてくれるのが上手い。
流石は私の親友だ。
おにぎり6列では到底割に合わないので、プラス4列を別日に買って来させてやろう。
「けど、これだけベッドが大きかったら、二人でも全然問題なさそうだよね」
葵は至って純粋なトーンでそう言ってくる。
だが、こっちはそんなの願い下げだ。
「いえ、貴女は床で寝ててください」
「えっ――なんで?!」
「シンプルに他人と一緒の布団に入って寝るなんて、絶対に嫌なんです。そもそも何でちょっと前まで私に嫌がらせを続けた人なんかと……」
「うっ……それはぁ」
葵がバツの悪そうな顔をしていた。
返す言葉もないのだろう。
「まあ、いいです。ここで言い合っていても時間の無駄ですから、さっさと水族館へ向かいましょう」
強引に話題を転換すると、葵は現金にもぱっと表情を明るくした。
本当に分かりやすいやつだ。
「そ、そうだね! そうしよう!」
そうして私たちは旅館を後にした。
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水族館の入り口に立った瞬間、私の体に奇妙な感覚が走った。
変に落ち着かない。
うまく言語化できないが、体の奥から何かがざわついている。
なんだ……この妙に気持ち悪い違和感。
理屈ではなく、本能のようなものが反応していた。
「玲香、早く早く!」
先を急ぐ葵の背中を追いながら、私は自分の掌を一度強く握りしめた。
大丈夫だ。
体に異常があるわけではない。
ただの気の迷いだと自分に言い聞かせ、最初の巨大な水槽の前に立った。
藍色の水の中を、巨大な魚の影がゆったりと横切っていく。
「久しぶりにきたけど、やっぱり綺麗だよね。内装は昔と比べたら、結構変わってるような気もするけど」
葵の呟きに私は頷きもせず、視線を水槽の端へと逸らした。
「葵はここに来たことがあるんですね」
「えっ?」
葵は意味が分からないといった様子で私を凝視した。
「?……何か私、変な事を言いましたか?」
「えっと……今の言い方だと、まるで自分は初めてきたみたいな感じに聞こえちゃって」
「私は水族館なんて、初めてきましたけど」
「……あぁ、なるほどね。玲香は本当に覚えてないんだ」
「はい?」
「確かに今も玲香の体が震えちゃってるし、小さい頃に一度ここへ来たのがそんなに怖かったんだ。可愛い♡」
そう言いながら葵は屈託のない笑顔を浮かべ、私のそばに寄って無造作に手を差し出した。
「何ですか、その手は」
「手を繋いであげようかなって思って」
「は?」
その瞬間、脳内の怒りゲージが沸点まで跳ね上がった。
私から葵の印象がまぁまぁ最悪なこの段階で、よくもそんな舐めた言葉を口から出せたものだ。
人様をいまだに子供扱いするなど、あまりに無神経がすぎる。
「…………貴女、私と仲直りするためにここへ来たんですよね? なのに、どうしてそうやって人を小馬鹿にした言動が取れるんですか? 今のは正直、かなり不愉快ですよ」
私は怒りに声を震わせながら、鋭い視線で彼女を射抜いた。
「ちょ――ちょっと待って!! タンマ! 一回弁解の機会を頂戴!!!」
葵は私の剣幕に、露骨に狼狽えだした。
私はその様子を冷ややかに見つめ、一度深く深呼吸をして、荒ぶる神経を鎮める。
「いいでしょう。確かによく考えたら、貴女の今の現状で、そんな馬鹿なことは言えないですもんね? 単語の一つ一つに気を使って喋らないと、葵の願いは叶いませんから」
レイと私の繋がり具合を、葵がどう勘繰ってるかは分からない。
そもそも人間の私は、葵とまともに会話すら会話してないのだし、レイの状態で玲香としての話題が出るのもほぼないから。
だとしても賭けに関する情報が、レイを通じて私に渡っていることくらい織り込み済みなはず。
それを承知で
その立場であんまり私を舐めてると、こっちだってガチで手を出してくるというもの。
納得のいく説明がなかったら、ここで完全に関係を切ってやる。
「お、怒らないで玲香! 昔の事を思い出してよ!! 私達は保育所時代に一度、ここに遠足に来たことがあるんだよ?!」
「……全く覚えがありませんが、どうぞ話を続けてください」
「あの時の玲香、水族館に入った瞬間から顔が真っ青になって、一人でわんわん泣いてたんだよね。みんなが魚を見てる中で、玲香だけ出口の方に向かって全力で戻ろうとしてたから、私が手を引いて止めたの」
私は溜息をつくこともせず、それを聞いて返す言葉を失った。
泣いていた?
一人で?
しかも葵に手を引かれていた???
そんな記憶は、どこにもない。
完全に消えている。
だが葵の話し方は、作った様子が全くなかった。
それに昔の葵なら――あの頃の彼女なら、確かにそんなお節介を焼いてくれてもおかしくはない。
私の頭に残っている葵の姿で一番大きいのは、雷雨が酷かった日に――いや、今思い返すのはやめよう。
「その後も怖がってたから、私が強く手を握ってあげたら、スッと泣き止んじゃったんだよね。それで水族館から出るまでの間、玲香の方からずっと力強く握られて、こっちがだいぶ困っちゃってた……みたいな。本当に覚えてない?」
「そうですね……そんなこともあった…………かもしれません」
事実、私の体はこの場所に過剰に反応してしまっている。
獣としての本能がこの閉鎖的な空間に危機感を覚え、防衛本能を剥き出しにしているのだ。
猫は本能的に水を忌避するというが、あの頃の私の目には、この薄暗い水の底に蠢くすべてが、この世の終わりほど恐ろしいものに映っていたに違いない。
「だからなんか、久しぶりに水族館来たら思い出しちゃって、つい口が滑っちゃったんだ…………ほんとごめん!!」
そう言って葵は深く、深く頭を下げた。
「…………」
まいったな。
これでは、怒りの矛先をどこへ向ければいいのか分からない。
葵が舐めた態度で手を差し出してきたのは事実だが、私のあずかり知らぬ過去を彼女は大切に覚えていて、その延長線上の気遣いとして言葉を漏らしたのは理解できた。
そうなると、不思議なほど怒りが霧散していく。
それどころか、自分の中から抜け落ちてしまった過去を、この場所を歩きながら手繰り寄せてみたいという欲求さえ芽生えてきた。
館内を巡れば、心の奥底に眠る懐かしさの欠片に触れられるかもしれない。
「本当にごめんなさい……二度と手を繋ごうなんて言わないから、許してほ――」
葵は消え入るような声で謝罪を続けようとしていた。
私は彼女が頭を下げている隙に、その背後に回り込み、服の後ろ襟をぐいと掴み上げた。
「ぐえっ?!」
変な声を上げた彼女を強引に引き起こし、そのまま右手で、彼女の掌を無造作に掴み取った。
「……少し、考えたいことができました。しばらく考え事に没頭していると思うので、貴女が上手く私をリードしてください」
「え?…………えぇ???」
勘違いしないでほしいのだが、私は今でも葵と真っ当に向き合うつもりなどない。
だが、それはそれとして、過去の私の記憶の欠片を――昔の私が大好きだった葵との想い出を、館内を歩きながらでも拾っておきたいと思った。
だから、しばらくはこの
「ほら、水族館デートをするんでしょう? 先に進んでください」
「う、うん。……手を繋いじゃってるみたいだけど、いいの?」
「進む気がないのなら、貴女をおいて一人で行動しちゃいますよ」
「れ、玲香が気にしないなら、こっちも全然大丈夫だからっ! それじゃあ、行こっか!」
「はい」
それからの時間は、葵が何を話しかけてきても、私の意識を通り抜けていった。
適当に相槌だけは打っていたが、脳内の大半は過去の景色と、記憶の中にだけ存在する葵の面影に占拠されていた。
私は隣を歩く葵の言葉に耳を貸すこともなく、ただただ水槽の光に透ける過去の幸せな記憶を、一歩進むごとに静かに掬い上げていた。
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水の迷宮を抜け外へと踏み出した頃には、空は薄暗い雲に覆われ始めていた。
予報では快晴のはずだったが、天候までもが今の煮え切らない空気感を反映しているかのようだ。
「た……楽しかった、ね!」
出口のゲートをくぐり抜けながら、葵はひどく無理をさせたような声で言った。
きっと、自分が描いていた理想のデートとはかけ離れた展開に、内心では苦虫を噛み潰しているに違いない。
普段の私なら、その滑稽な様子を嘲笑ってやる余裕もあっただろう。
けれど今の私は、目の前にいる葵という存在が心底どうでもよくなるほど、思考の海に深く沈み込んでいた。
「そうですね」
抑揚のない返事だけを残し、私は彼女の方を見ることさえしなかった。
葵がこちらを窺うように、戸惑いの混じった視線を向けてきた気配を感じたが、私はただ視線を前方へと固定し、無機質な歩みを止めない。
旅館へと続く一本道。
重苦しい沈黙の中、二組の足音だけが、湿り気を帯びた空気を切って静かに響き続けていた。