次の飼い猫は私?! 幼馴染とはいえ、なんで大嫌いな女のためにこの私が…… 作:顔のない女
「一体何を考えてるんですか! もし山の中で危険な野生動物と遭遇したら、私は逃れても貴女は死んじゃうんですよ!! 今すぐに引き返してください!!!」
「えー、でもそしたらレイとデートできないじゃん」
「デートなんて……ここじゃなくてもいくらでもしてあげますよ」
「あっ、そう? 夜遅くにしか出てきてくれないから、てっきり人前に姿を出したくないんだと思ったけど?」
……確かに昼間で歩くのは、ちょっとアレかもしれない。
真っ白で目の色が左右が違う猫など、基本的に野生でうろついてないし、大体はお金持ちに飼われている猫種だろうから。
そしてそんな会話をしているうちに、家族達のもとへ引き返すには、あまりに億劫な距離まで足を踏み入れてしまっていた。
山の中は静まり返っていた。
遠くで響く鳥のさえずりと、葵が地面に膝をつき、山菜を摘み取る乾いた音だけが、穏やかに流れていく。
「レイって、山菜の見分けとかつくの〜?」
「少し前まではお婆ちゃんに付き添ってたので、見分けくらいはつきますよ」
「お婆ちゃん?! お婆ちゃんがいるの??! それって猫のお婆ちゃん? それとも人間の――」
「あっ、これとかそうなんじゃないですか!! ほら、見てください、ススタケですよ!!」
私は道端に顔を出していた瑞々しいススタケを前足で指差し、強引に話題を転換した。
葵はしばらく怪訝そうな視線を私に投げかけていたが、やがて山菜に意識を移すと「本当だ!」と声を弾ませて屈み込んだ。
……危なかった。
口が滑るのは今に始まったことではないが、何か自分でもよく分からないところがトリガーになって、話してしまう気がする。
後でちゃんと反省しておこう。
それからしばらく、私たちは他愛もない会話を零しながら、さらに山の奥へと進んだ。
葵は獲物を見つけるたびに「いい感じじゃん!」と大袈裟に喜び、私はその都度「たかが山菜一つで、よくそこまで騒げますね」と、呆れ混じりに応じる。
まぁこういうデート?も、悪くないかもしれない。
認めたくはないが、葵と肩を並べて静かな山道を歩くことが、想像以上に心地よいと感じている自分を否定できなかった。
ある程度採り終えたところで、葵が「そろそろ戻ろうか」と言い出した。
私も同意して、葵の肩に飛び乗ったその時だった。
本能が心臓を直接掴むような警報を鳴らした。
音でも匂いでもない。
ただ、生存を司る脳の深淵から「逃げろ」という絶叫に近い信号が、這い上がってきたのだ。
私はしなやかな動作で首を巡らせ、茂みの奥を凝視した。
よく見ると深い緑の境界線に、どろりとした黒い影が溶け込んでいる。
それは足音を完璧に消し、獲物との距離を測るように、ゆっくりと、確実にこちらへ近づいてくる。
――その正体はツキノワグマだった。
体長は150センチほど。
その動作に迷いはなく、ぎらついた双眸からは、飢えが限界に達していることが遠目からでも読み取れた。
「……ッ」
「え……ど、どうかしたの?」
最悪だ。
どうするんだ、これ。
よりによって、この広大な山の中で一番遭遇してはならない大外れを引いてしまった。
動物園の檻の向こうで見た個体よりも、遥かに大きく、そして凶暴な威圧感を放っている。
近所の放送でクマ出没注意を聞かない日はない昨今だが、何も今日この瞬間に現れることはないだろう。
最近の運のなさは異常だ。
いや、この不運は葵が引き寄せているものなのかもしれない。
……そんな事を考えている暇はなかった。
まずは考えろ、私。
「葵。絶対に慌てず……落ち着いて聞いてください」
「きゅ、急に何? いきなり声のトーンが変わって、怖いんだけど……」
「左斜め後方から、熊が私達の方に向かってきています。熊と視線を合わせながら、ゆっくりと後退してください。絶対に走らないように」
葵の顔から、一気に血の気が引いていくのが分かった。
「ど、どうしよう……私、死にたくない」
膝を震わせ今にも涙が溢れ出しそうな表情を浮かべながらも、それでも私の指示を遵守して動こうとする彼女は、十分に勇敢だった。
「…………」
私は思考の回転をさらに加速させた。
最善手はどう考えても一つしかない。
葵の視界の外で私が獣人化して、この熊と追いかけっこをすることだ。
どうせ腕力では勝てないが、足の速さなら絶対に勝てる。
獣人状態は、猫の瞬発的速度に人間のスタミナと体が加わったハイブリッド状態。
私の全速力は馬の全力と大して変わらない。
囮として引きつけながら逃げ切るのは十分に可能だ。
問題は葵に変身を見られないようにする隙が、必要だということだ。
「葵……今から秘策を伝えます」
私は荒ぶる鼓動を静めるように息を整え、言葉を紡いだ。
「う、うん!」
「貴女が今からしないといけない事は、あの大きな木を背に一瞬熊の視界を切った後、私のことを置いて走って逃げることです。絶対に後ろを振り向かず、全速力で」
「は?…………そんなのできるわけ……ないでしょ」
葵の声は震え、瞳にはさらに深い絶望の涙が滲んだ。
私は焦燥感に駆られ、思わず舌打ちを漏らす。
会話に費やしている一秒が惜しい。
「いいですか。私が一人だったら、難なく熊と追いかけっこに励めるんです」
「猫が熊に勝てるわけないじゃん……! さっきだって一人で山に入るなんて無茶だって、あんなに怒ってたのに……!」
「普通の猫だったらそうでしょうが、私は喋る猫ですよ? 私は特別なんです。だから我儘言ってないで、言うことに従ってください。貴女が側にいると使えない力があるんです」
自分でも今は、自身の正体の有無に左右されてる場合ではないとわかっている。
だが事が順調に運べば、事態はおそらくなんとかなるのだ。
唯一の懸念は葵の家族とはぐれてしまい、自宅へ帰る手段を失うことくらいだが、命には代えられない。
私は指示に従うように葵に言った後、肩から飛び降りようとするけど、私は跳んだ最中にキャッチされた。
「何を……っ!!」
「やだ……これ以上家族を失いたくないの…………レイを一人置いてくなんて、私には無理……」
葵は泣きじゃくりながら、その場に崩れ落ちようとした。
猫としての私と初めて会った時のように、生きることを諦めようとしている。
そして熊はその隙を見逃さなかった。
動きが止まったと判断したのだろう。
腰を落として、突進の構えに入っていた。
それを視界に入れた私も焦りが沸点に達し、私は絶叫に近い声を上げた。
「こ、この――分からずやがぁぁぁあああッッッ!!!」
諦念に沈む葵の腕の中で、私は全神経を集中させて体を捻り、螺旋を描くように回転した。
鋭い爪を剥き出しにし、彼女の服ごと肌を浅く切り裂いて、強引にその拘束を振りほどく。
「痛――っ!」
「逃げろと言ってるんです!!! 早く!!!!!」
その叫びに弾かれたように、葵はようやく脇目も振らずに走り出した。
私は彼女の背中を見送ると同時に、細胞を激しく組み換え、体を変質させる。
しかし計算外だったのは、飢えた獣の執着心だった。
熊は逃げゆく葵ではなく、異様な気配を放ちながら膨張を始めた私を最大の脅威と見なし、矛先を向けたのだ。
「とことん、ふざけやがりま――ぐぁ……っ!」
獣人形態へ完全移行する寸前、弾丸のような速度で突進してきた熊の前足が、私の側頭部を捉える。
凄まじい衝撃と共に視界が火花を散らし、私は数メートル先まで紙屑のように吹き飛ばされた。
それだけで終わるはずもない。
倒れ伏した私へ肉薄した熊は、執拗にその巨大な掌を振り下ろし、私の頭部を叩き潰さんと襲いかかる。
抗えない。
脳が激しく揺さぶられ、平衡感覚が消失する。
額から溢れ出した鮮血が目蓋を濡らし、世界がどろりとした赤色に染まっていく。
死。
その二文字が、あまりに鮮明な現実として目の前に横たわっていた。
意識が闇に呑まれかけた、その時だった――
「レイィィィィィィッッッ!!!!」
鼓膜を震わせる絶叫。
見れば逃げたはずの葵が太い木の枝を抱え、死に物狂いの形相で戻ってきていた。
彼女は全力を込めて、私を蹂躙していた熊の頭部へその枝を叩きつける。
不意を突かれた熊の意識が、一瞬だけ私から逸れた。
「ヒッ……! レ、レイから、はっ、離れなさいよ!!」
震える声で威嚇しながら、それでも葵は私の前に立ちはだかろうとする。
熊が猛然と唸り声を上げ、瀕死の私を捨て置いて彼女に食らいつこうとした瞬間――私は残された全ての生命力を爆発させ、熊の背後へと跳躍した。
背中にしがみつき、躊躇なくその双眸へ指を突き立て、抉り、ねじ込む。
そして山を震わせるような絶叫を上げ、熊はたまらず後退し、森の深淵へと敗走していった。
危機は去った。
だが、私の限界はとうに超えていた。
肺に溜まった血を吐き出し、私は激しく肩で息をしながら、辛うじて片膝をついて体を支える。
「はぁ…………はぁ…………っ」
「レ……レイ? あの、人のような体になってるけど、髪も真っ白だし、尻尾もあるから…………レイ、だよね?」
声を出す余裕など微塵もない。
熱を帯びた吐息が、地面の土を舞い上げる。
「頭から血を流してる。救急車は……呼んでいいの? 手当とか……」
葵は切羽詰まった様子で上着を脱ぎ捨てると、着ていたインナーを裂き、応急処置のために私の顎をそっと持ち上げた。
しかしその接触を許してしまったことが、本日最大の――そして決定的な過ちとなった。
至近距離で私の顔を凝視した彼女の瞳が、驚愕に大きく揺れる。
「もしかして、れ――玲香……なの?」
その名を呼ばれた瞬間、私は目を見開き、反射的に彼女の腕を叩き落とした。
最悪の推測が彼女の中で確信に変わったことを悟る。
もはや、猫の鳴き声で誤魔化せる段階ではない。
私は沈黙を貫いたまま、血に濡れた体で地面を蹴った。
「ま、待って!! ――レイ!!!!!」
背後から響く呼び声を、私は冷徹に切り捨てる。
振り返ることも、方角を確かめることもせず、ただ彼女の追求から逃れるためだけに、
私は深い森の闇へと、狂ったように突き進んでいった。