夜、自室のベッドに横になりながら、僕はよく、この一年ほどの変化を振り返るようになっていた。
両親を失ってから、僕はずっと、一つの原則を守って生きてきた。
――本音を見せれば、相手を困らせる。
だから、笑う。空気を読む。求められている役割を演じる。それが、この世界で生き延びるための、いちばん手っ取り早い方法だと思っていた。
その原則は、たぶん今も、根本のところでは変わっていない。
それでも。
「ねぇ、また勝手にわたしの道具使ったでしょ」
フィアメッタに、そう詰め寄られる瞬間。
「うるさいなー、次から気をつける」
「その返事、何回目、戻せって言ったんだけど?」
軽口を叩き返している自分に気付くたびに、少しだけ、不思議な気持ちになる。
あの原則に従うなら、本来、僕はこんな風に軽々しく言い返したりしない。相手の機嫌を損ねないよう、適当に受け流して、それで終わりにするはずだった。
なのに、フィアメッタが相手だと、なぜかそうならない。
言い返しても、彼女は困らない。むしろ、言い返さなければ、逆に怪訝な顔をされる。
――ちゃんと言い返してくるところ、嫌いじゃない。
いつだったか、彼女がそんなことをぽつりと言ったことがあった。本人はたぶん、大したことを言ったつもりはなかったのだろう。だが、その一言は、僕の中にある何かを、少しだけ緩ませた。
パトリツィオに対しても、似たようなことがあった。
「今日の的中率、聞かせてくれ」
整備の合間、彼がそう聞いてくる。
「あんまり良くなかったです」
最初の頃は、そう答えるだけで精一杯だった。悪い結果を悪いままに伝えるのは、どこか居心地が悪かった。前世の癖なのか、今世で培ったものなのか、悪い報告をするたびに、相手の顔色を窺う自分がいた。
「ふむ。何が原因じゃと思う」
「集中力が、途中で切れた気がします」
だが今では、こうして自分の失敗を、割と素直に言葉にできるようになっている。
パトリツィオが、失敗そのものを責めてこないからだ。原因を一緒に探し、次に活かす方法を考える。それだけを、彼は淡々と繰り返してくれる。
両親を失って以来、僕は無意識に、大人という存在に対して、ある種の警戒心を持ち続けていた。優しさの裏に、何か別の意図が隠れているのではないか、という疑い。親族たちとのやり取りが、その警戒を強めていたのかもしれない。
その警戒が、完全に消えたわけではない。
それでも、パトリツィオやフィアメッタとの日々を重ねるうちに、少しずつ、その警戒の輪郭が緩んでいくのを感じていた。
ただ、それでも。
夜、一人になった瞬間だけは、別だった。
布団の中で膝を抱えながら、ふと考えることがある。
この穏やかな日々も、いつか終わるのだろうか、と。
両親のように。リシアさんのように。レミュアンのように。
大切に思う人が増えるたび、この予感は、薄れるどころか、むしろ確かな輪郭を帯びていく気がした。
昼間、あれだけ軽口を叩き合えるようになったフィアメッタのことも。
時々厳しく、けれど誰よりも公平に接してくれるパトリツィオのことも。
失うことを考えるだけで、胸の奥が微かに軋む。
誰にも、この感覚だけは打ち明けていない。
共感の制御を、少しずつ覚え始めているのも、ちょうどこの頃だった。感情を漏らさないための技術が身につくほど、この夜だけの恐怖は、誰にも気付かれないまま、僕の中だけに、静かに積み重なっていった。
昼間の僕と、夜の僕。
その二つは、少しずつ、はっきりと分かれ始めていた。
それが良いことなのか、悪いことなのか。
その頃の僕には、まだ判断がつかなかった。
それでも、日々は容赦なく前へ進んでいく。
ある日の訓練帰り、フィアメッタが不意にこんなことを言った。
「あんたさ、たまに、変な間があるよね」
「間?」
「うん。喋ってる途中で、一瞬、どこか遠くを見るような顔する時があるの」
図星だった。夜だけの自分が、昼間の隙間から、ほんの少し漏れ出していたのかもしれない。
「気のせいだろ」
「そう?」
フィアメッタは、それ以上追及してこなかった。ただ、その一言だけは、妙に胸の奥に残った。
完全に隠しきれているつもりでいたものが、案外、他人の目には透けて見えているのかもしれない。
共感の制御を覚えても、感情そのものが消えるわけではない。ただ、伝わり方を変えられるようになるだけだ。だとすれば、完全に隠し通すことなど、最初から不可能なのかもしれなかった。
それでも僕は、その日も、いつも通りの顔で「気のせいだよ」と笑って見せた。
誰かに本当のことを見透かされる日が来るとしたら、それはまだ、もう少し先のことでいい。
そう思いながら、僕は昼と夜、二つの自分の境界線を、今日もそっと引き直していた。
そんな折、パトリツィオが珍しく長い遠征から戻ってきた夜のことだった。
彼は珍しく、食後に少しだけ酒を口にしていた。明日から数日、久しぶりに休みが取れるらしい。そのせいか、いつもより口数が多かった。
「お前さんたち、ワシの昔の話、聞いたことあるか」
食後の団欒、彼はそう切り出した。
フィアメッタが、ちらりとこちらを見た。以前、少しだけ触れかけて、途中で流された話題があったことを、彼女も覚えているようだった。
「詳しくは聞いてないです」
「そうか」
パトリツィオは、グラスの中身をゆっくりと揺らしながら、遠い目をした。
「昔な、パガニーニという男と組んでおった。ワシのために銃を作ってくれる、腕の良い職人でな」
「パガニーニ……」
聞き覚えのない名前だった。
「その男の従妹に、ジーアという娘がおってな。ワシと婚約しとった」
その言葉に、僕もフィアメッタも、思わず姿勢を正した。
「ある時、ジーアが鉱石病にかかった。知っとるか、あの病気」
「感染すると、国から追放される……」
「そうじゃ」
パトリツィオは頷いた。
「規則には逆らえん。ワシは、自分の手で、ジーアを追放した」
その一言に、部屋の空気が、少しだけ重くなった。
「……自分の手で?」
「他の誰かにやらせるくらいなら、自分でやるべきだと思った。せめてもの、けじめのつもりでな」
パトリツィオの声は、淡々としていた。だが、その平坦さの奥に、長年かけて塗り固めた何かがあるのが、なんとなくわかった。
「それが、パガニーニとの縁が切れた理由じゃ。奴は、ワシを許さんかった。当然じゃろうな」
「今は、その人とは」
「工房を構えて、ひっそりやっとるらしい。言葉を交わさなくなって、もう長い」
パトリツィオはそこで一度、グラスを置いた。
「それだけじゃない。十年ほど前にも、似たようなことがあった」
「……もう一つ、あるんですか」
「アウレラという生徒がおってな。腕は良かったが、気性が荒かった」
パトリツィオの視線が、少しだけ遠くなる。
「サルカズの囚人輸送の任務で、ケンカになった。仲間を巻き込んで、守護銃を撃ってしまってな」
「堕天……」
「そうじゃ。ワシは、彼女を追放するしかなかった」
部屋の中が、静まり返っていた。フィアメッタも、何も言わずに聞いている。
「アウレラは、アモスという男と結婚しとった。祝ってやれなかった。追放される直前に、つまらん喧嘩までした」
パトリツィオは、自嘲するように小さく笑った。
「ワシはずっと、アモスのことを軟弱者だと思っておった。今思えば、ただの偏見じゃ。詫びる機会も、もう失ってしまったが」
「今も、消息は」
「風の噂で、ボリバルに流れ着いたと聞いた。それきりじゃ」
パトリツィオは、グラスに残った酒を一気に飲み干した。
「大事な人間を、二度、自分の手で追い出した。どちらも、後悔しとらんわけじゃない」
その言葉には、これまで聞いたどんな台詞よりも、重みがあった。
「だから、お前さんたちには、同じ思いをさせたくない、と思っとる。それだけじゃ」
パトリツィオは、そう言ってすぐに話を切り上げた。
フィアメッタは、その様子を少し離れた場所から、黙って見ていた。彼女もまた、何か知っているのかもしれない――そう思ったが、あえて聞くことはしなかった。
その夜、自室に戻ってから、僕はしばらく、パトリツィオの言葉を反芻していた。
規則を守るために、大切な人を自分の手で手放す。
その痛みが、どれほどのものか、僕には正確には想像できない。それでも、両親を失った時の、あの床が抜け落ちるような感覚と、どこかで重なる気がした。
パトリツィオが、あれほど僕らに厳しくも公平でいようとする理由。
あれほど、僕の「本気の覚悟」を、咎めずに受け止めてくれた理由。
その一端に、今夜、少しだけ触れられた気がした。
――同じ思いをさせたくない。
その言葉を、僕はしばらくの間、胸の内で繰り返していた。
翌朝、いつも通りの顔でパトリツィオは朝食の席に現れた。昨夜の話など、まるでなかったかのような態度だった。
「今日は座学の続きじゃ。手を抜くなよ」
「はい」
いつも通りのやり取り。だが、その裏側にある重みを知った今では、彼の一挙一動が、少しだけ違って見えた。
朝食の後、フィアメッタが庭先で、こっそりと僕に話しかけてきた。
「昨日の話、初めて聞いた?」
「うん。フィアメッタは?」
「わたしも、詳しいのは初めて」
彼女は少し考えるように、視線を落とした。
「なんとなく、わかってた気がする。パトリツィオが、変なところで妙に慎重になる理由」
「変なところ?」
「わたしたちが誰かを大事に思い始めた時とか。すごく、さりげなく見守ってくる時があるでしょ」
言われてみれば、確かに心当たりがあった。フィアメッタが学校で誰かと揉めた時、パトリツィオはいつも以上に、彼女の話に耳を傾けていた。僕が路地裏の一件を話した時も、彼は必要以上に踏み込んでこようとはしなかった。
あれは、彼なりの不器用な気遣いだったのかもしれない。
「なんか、あの人らしいな」
「らしいね」
フィアメッタは、そう言って小さく笑った。
「まあ、あんな過去があるからって、今更同情なんてしないけど」
「するとは思ってなかったよ」
「わたしたちにできるのは、ちゃんと生きて、ちゃんと強くなることくらいでしょ」
彼女の言葉には、変な気負いがなかった。ただ、事実をそのまま述べているような口調だった。
「そうだな」
僕は、素直にそう頷いた。
パトリツィオの過去を知ったからといって、何かが劇的に変わるわけではない。
それでも、彼が僕らに向ける眼差しの意味を、少しだけ深く理解できるようになった気がした。
その日の訓練は、いつもよりほんの少しだけ、丁寧にこなせた気がした。
そんな出来事があってから、しばらく経ったある朝。
「今日から三日間、山に入る」
朝食の席で、パトリツィオがそう告げた。
「野営訓練じゃ。二人とも、装備は昨日渡した通りのものだけ使え」
「食料は?」
「現地調達じゃ」
あっさりとした返答に、フィアメッタが「またそれ」というような顔をした。どうやら初めての経験ではないらしい。
「ムミヤは初めてじゃったな。心配せんでも、いきなり死ぬような真似はさせん」
「その言い方、逆に不安になるんですけど」
「本音を言えば、多少痛い目は見た方がいい。身体で覚えることも多いからのう」
パトリツィオは、笑いながらそう言った。冗談なのか本気なのか、判断がつかない笑い方だった。
山に入って半日ほどで、装備の使い方には、ある程度慣れてきた。テントの設営、簡易な浄水の方法、火の起こし方。座学で学んだことを、実地で一つずつ確認していく作業だった。
「そっち、テントの杭、もっと深く刺さないと風で飛ぶよ」
「わかってる」
「わかってないから言ってるんだけど」
フィアメッタに指摘されながら、僕は何度もやり直した。彼女は手際が良く、慣れた動きで自分の分の設営をあっという間に終えていた。
「フィアメッタ、こういうの得意なんだな」
「これくらいできないと、話にならないし」
彼女はそう言って、僕の方をちらりと見た。
「まあ、初日にしては、そんなに酷くないと思う」
「褒めてる?」
「褒めてない。及第点、ってだけ」
素っ気ない返事だったが、彼女なりの評価基準では、それなりに高い部類なのだろうと察した。
二日目は、食料の現地調達に挑戦することになった。
「川沿いに罠を仕掛けるぞ。二人とも、教えた通りにやってみい」
パトリツィオの指導のもと、僕たちは川べりに簡単な仕掛けを設置した。うまくいくかどうかは半信半疑だったが、しばらくして戻ってみると、小さな魚が数匹かかっていた。
「おお、ちゃんと獲れてる」
「あんたの仕掛け、ちょっと雑だったのに」
「結果が出てるならいいだろ」
「過程も大事なの」
フィアメッタは、自分の仕掛けと僕の仕掛けを見比べながら、そんなことを言った。彼女の仕掛けの方が、確かに丁寧な作りをしていた。
焚き火で焼いた魚を、三人で分け合って食べた。特別な味付けなど何もないのに、驚くほど美味しく感じられた。
「こういうの、案外楽しいな」
「意外。あんた、体力仕事苦手そうなのに」
「苦手だよ。でも、楽しいのと得意なのは別だから」
僕がそう返すと、フィアメッタは少し意外そうな顔をしてから、小さく笑った。
「まあ、それはわかる」
三日目、最後の課題として、山の頂上付近まで登り、そこで一晩過ごすことになった。
道中は、これまでよりも険しい地形が続いた。何度か足を滑らせそうになりながらも、フィアメッタが時折差し伸べてくれる手を借りて、なんとか登り切った。
「……着いた」
頂上から見下ろす景色は、思っていたよりもずっと広かった。街の明かりが、遠くにぽつぽつと灯り始めている。
「綺麗だな」
「うん」
珍しく、フィアメッタも素直に頷いた。
パトリツィオは、少し離れた場所で、静かに景色を眺めていた。その横顔には、いつもの豪快さとは違う、どこか物思いに耽るような色があった。
「パトリツィオ、こういう景色、よく見るんですか」
「昔はな。今は、なかなか時間が取れん」
彼はそう言って、小さく息を吐いた。
「お前さんたちと、こうして来られたのは、悪くない時間じゃった」
その一言に、フィアメッタが少しだけ照れたように視線を逸らした。
「……なによ、急に」
「たまには、こういうことも言っておかんとな」
パトリツィオは、そう言って笑った。
夜、三人で交代しながら火の番をした。星空の下、他愛のない話を続けながら過ごす時間は、これまでの座学や射撃訓練とは違う、また別種の充実感があった。
「なあ、フィアメッタ」
「何」
「次の訓練も、一緒に頑張ろうな」
「……何、急に殊勝なこと言って」
フィアメッタは、少し戸惑ったような顔をしながらも、それでも小さく頷いた。
「まあ、いいけど。次は、もっとちゃんとしたテント張ってよね」
「善処する」
夜空には、見たこともないほど多くの星が瞬いていた。
この三日間で学んだことは、生き延びるための技術だけではなかった気がする。
誰かと共に困難を乗り越えるということの、確かな手触りを、僕は少しずつ、この身体で覚え始めていた。
下山した翌日、身体の節々が悲鳴を上げていた。
「あー、全身痛い」
朝、ベッドから起き上がるだけで一苦労だった。
「わたしも同じ」
食堂に降りると、フィアメッタも似たような様子で、椅子に沈み込むように座っていた。
「情けないなあ、二人とも」
パトリツィオだけは、けろっとした顔でコーヒーを啜っている。
「パトリツィオは、平気なんですか」
「ワシくらいの歳になると、痛みを感じる前に慣れてしまうんじゃよ」
「それ、老化とは別の話ですよね」
「さあな」
彼は涼しい顔で、そう受け流した。
筋肉痛に呻きながらも、朝食の席の空気は、以前よりもずっと和やかだった。三日間の野営を共に乗り越えたことで、何か目に見えない結び目が、一つ増えたような感覚があった。
「次の訓練、いつですか」
「来月じゃな。今度はもう少し、実戦的な内容になる」
「実戦的?」
「模擬戦じゃ。お前さんも、そろそろ潮時じゃろう」
パトリツィオの言葉に、フィアメッタが目を輝かせた。
「やっと? 楽しみ」
「フィアメッタは楽しみなんだ」
「模擬戦なら、負けないし」
自信満々な口調に、僕は思わず苦笑した。
「まあ、僕はまだ、あんまり自信ないけど」
「大丈夫、最初はそうよ私も。あんたも、そのうち嫌でも慣れるわ」
フィアメッタは、そう言って少しだけ得意げに笑った。
筋肉痛の身体を引きずりながらも、僕は次の訓練のことを考えて、少しだけ胸が高鳴るのを感じていた。
新しい課題が増えるたびに、不安と同じくらい、確かな期待も芽生えている自分に気付く。
それもまた、この一年で少しずつ変わってきた、僕自身の一部なのかもしれなかった。