一ヶ月後、約束通り、模擬戦の日がやってきた。
場所は、パトリツィオが懇意にしている射撃訓練場の一角。実弾の代わりに、着弾すれば痛みだけを与える訓練用の弾を使う、という説明を受けた。
「痛みだけ、って言われても、それはそれで嫌なんですけど」
「痛みを知らんまま実戦に出す方が、よっぽど酷じゃろう」
パトリツィオはそう言って笑った。慰めになっているのかいないのか、微妙なところだった。
対戦相手は、当然のようにフィアメッタだった。
「手加減しないから」
「最初からする気もないでしょ、それ」
彼女は、大きなライフルを肩に担ぎながら、余裕のある笑みを浮かべていた。
「ルールは簡単じゃ。三発被弾するか、降参するかで終了。武器はお互いの得物のみ、それ以外は自由に使ってよい」
パトリツィオが審判役として、そう説明した。
「制限時間は特にない。決着がつくまでじゃ」
開始の合図と共に、フィアメッタはすぐさま近くの遮蔽物へと駆けていった。動きに一切の無駄がなかった。
僕も慌てて反対側の遮蔽物へと身を隠す。
――さて、どうする。
正面からの撃ち合いでは、間違いなく分が悪い。フィアメッタの照準精度は、これまでの訓練で嫌というほど思い知らされている。
だとすれば、距離を詰めるか、視界を切るか。
考えている間にも、遮蔽物の端を、乾いた音と共に一発の弾丸がかすめていった。
「もう見つけられてる!?」
「頭、ちょっとはみ出てたよ」
遠くから、からかうような声が返ってきた。
このままでは、じわじわと距離を詰められて終わる。そう判断した僕は、遮蔽物伝いに、思い切って側面へと回り込む動きを取った。
息を潜め、足音を殺しながら、少しずつ距離を詰めていく。
――狙いを、先に読まれる。
あのボール遊びの時の感覚が、ふと蘇った。視線で誤魔化しても、本当の狙いはどこかで滲み出てしまう。それは、僕にも当てはまることかもしれない。
だとすれば。
僕は、あえて足音を一度、わざと大きく立てた。
その音に反応して、フィアメッタの視線がそちらへ向く。
その隙に、逆方向から一気に距離を詰めた。
「――っ」
彼女が反応するより早く、僕は懐に飛び込むところまで距離を詰めていた。
「思ったより、やるじゃない」
フィアメッタは、驚いたような、それでいて楽しそうな声を上げた。
彼女はライフルを手放し、腰の予備の拳銃を素早く抜いた。近距離戦用の切り替えだった。
僕も同じように、拳銃を構える。
至近距離での撃ち合いは、一瞬の判断がすべてだった。
先に引き金を引いたのは、フィアメッタの方だった。
肩に、鈍い痛みが走る。
「くっ」
「一発」
パトリツィオの声が響く。
だが、僕も同時に引き金を引いていた。
「同時弾着。二人とも、被弾一発ずつじゃな」
互いに一歩ずつ距離を取り、再び睨み合う。
「やっぱり近距離、慣れてない?」
「否定はしない」
「素直だね、そこは」
軽口を挟みながらも、フィアメッタの目は真剣そのものだった。
二度目の交錯。今度は、僕が先に被弾した。
「二発」
パトリツィオの声。
残り一発。ここで外せば、負けが決まる。
フィアメッタが、次の一手を仕掛けようと、わずかに体重を移動させた。
あのボール遊びで培った感覚が、また蘇る。彼女の視線と、実際の狙いの間に生まれる、わずかなズレ。
――今だ。
視線が向いた方向とは逆に、僕は動いた。
同時に、引き金を引く。
乾いた音が、二発、ほぼ同時に響いた。
「――ぐっ」
今度は、フィアメッタの肩に着弾していた。
「……三発、両者ともじゃな」
パトリツィオが、両手を挙げて試合の終了を告げた。
「同時に決着、ということでよかろう。見事な相打ちじゃ」
僕とフィアメッタは、しばらく互いを見つめ合ってから、どちらからともなく、肩の力を抜いた。
「……やるじゃない」
「そっちこそ」
息を切らしながら、僕たちは笑い合った。
勝ちでも負けでもない、という結果が、なんだか妙にしっくりきた。
「二人とも、悪くない立ち回りじゃった」
パトリツィオが、そう言いながら近づいてきた。
「特にムミヤ、あの側面への回り込みは良かった。恐怖に呑まれず、冷静に状況を見られとる証拠じゃ」
「フィアメッタが強すぎて、正面から挑む勇気がなかっただけです」
「それも立派な判断じゃ。自分の得手不得手を理解しとる証拠じゃからな」
パトリツィオは満足げに頷いた。
「フィアメッタも、初見の相手にしては、よく対応しとった」
「初見って言っても、ムミヤの癖くらい、だいたい把握してるし」
フィアメッタは、少し得意げにそう言った。
肩の痛みはまだ残っていたが、それ以上に、何かをやり遂げたという実感の方が強かった。
「次は、勝つから」
フィアメッタが、そう宣言してきた。
「望むところだ」
僕もそう返した。
この模擬戦を境に、僕たちの間にあった関係は、また一段、確かな形を帯びたような気がした。
単なる修行仲間でも、口喧嘩の相手でもない。
互いの実力を、正面から認め合った、対等な存在として。
それから、模擬戦は定期的に行われるようになった。
勝ったり負けたり、時には引き分けたり。回を重ねるごとに、互いの手の内を知り尽くしていく一方で、時折、思いがけない怪我をすることもあった。
ある日の模擬戦で、僕は思いのほか派手に転倒した。
遮蔽物から遮蔽物へ飛び移ろうとして、着地に失敗した。足首を捻っただけで済んだのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。
「大丈夫か!」
試合を中断して、フィアメッタが真っ先に駆け寄ってきた。
「平気平気、ちょっと捻っただけ」
「平気そうな顔してないけど」
彼女は僕の足首を一瞥するなり、表情を強張らせた。
「腫れてる。歩ける?」
「歩けなくはない……多分」
「多分って言った時点で、歩けないやつじゃん」
結局、フィアメッタに肩を貸してもらいながら、医務室まで運ばれる羽目になった。
「悪いな、こんな怪我くらいで」
「こんな怪我くらい、じゃないでしょ。処置間違えたら長引くんだから」
彼女の声には、いつもの軽口とは違う、真剣な響きがあった。
医務室に着くと、フィアメッタはてきぱきと処置の準備を始めた。冷却材、包帯、固定用の添え木。手際の良さに、少し驚かされた。
「フィアメッタ、こういうの詳しいんだな」
「詳しくないと、困る立場だから」
彼女はそう言いながら、患部を丁寧に確認していく。
「動かして。ここ痛い?」
「……ちょっと」
「じゃあこっちは」
「そっちは平気」
問診のような確認を経て、彼女は慣れた手つきで包帯を巻いていった。力加減が絶妙で、痛みを最小限に抑えながら、しっかりと固定されていくのがわかった。
「上手いな、本当に」
「褒めても何も出ないから」
彼女はそっけなくそう返したが、その口調とは裏腹に、手つきはどこまでも丁寧だった。
「これでよし。しばらく安静にしてて」
「ありがとう」
「別に、当然のことしてるだけ」
フィアメッタは、そう言って視線を逸らした。
その仕草に、僕は少しだけ違和感を覚えた。彼女らしくない、どこか居心地の悪そうな態度だった。
「……何か、気になることでもあるのか」
そう尋ねると、フィアメッタは、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……別に」
「絶対何かあるだろ、その間」
「うるさいな」
彼女はしばらく黙り込んでから、ようやく、ぽつりとこぼした。
「わたしが、もっと手加減してれば、こんなことにならなかったんじゃないかって」
「え」
「あの場面、わたしが強引に追い込んだから、あんた無理な動きしたんでしょ」
思いがけない言葉だった。
「別にフィアメッタのせいじゃないだろ。僕の判断ミスだよ、あれは」
「でも」
「でも、じゃない」
僕は、なるべく軽い調子でそう返した。
「本気でやり合うって決めたの、二人ともだろ。今更、片方だけが責任感じるのは違うと思う」
フィアメッタは、しばらく黙っていた。
「……あんた、たまに変なところで正論言うよね」
「よく言われる」
「誰に言われるのよ、それ」
「秘密」
彼女は少し呆れたように笑って、それから、ようやくいつもの調子に戻った。
「まあ、次からは、もう少し手加減してあげる」
「それはそれで、なんか癪だな」
「贅沢言わない」
軽口を交わしながらも、僕はさっき見た、彼女の少し後ろめたそうな表情を、しばらく忘れられなかった。
いつも強気で、素っ気なくて、涼しい顔をしている彼女の中にも、こんな風に、他人の痛みを自分のことのように引き受けてしまう部分があるのだと知った。
それは、彼女が普段見せている顔とは、また違う一面だった。
包帯の巻かれた足首の痛みよりも、その発見の方が、なんだかずっと、印象に残る出来事になった。
それから数日後の夜、喉の渇きで目を覚ました僕は、水を飲みに台所へ降りた。
電気を点けずに歩いていくと、先客がいた。
「……フィアメッタ?」
「……あんたも眠れないタイプ?」
彼女は、グラスに注いだ水を片手に、窓辺に腰掛けていた。月明かりだけが、台所をぼんやりと照らしている。
「たまたま喉渇いただけ。フィアメッタは?」
「同じく」
どちらも、それ以上は理由を語らなかった。
僕はコップに水を注ぎ、彼女から少し離れた場所に、なんとなく腰を下ろした。
しばらく、静寂だけが流れた。
夜の台所は、昼間とは違う顔をしている。物音一つない静けさの中で、こうして誰かと同じ空間にいるというのは、不思議と落ち着く感覚があった。
「なあ、フィアメッタ」
「何」
「たまに思うんだけどさ」
僕は、コップの水面を見つめながら、そう切り出した。
「フィアメッタって、本当は結構、色々気にするタイプだよな」
「……急に何」
「この前の怪我の時とかさ。後ろめたそうにしてただろ」
「あれは、もういいでしょ」
彼女は、少し不機嫌そうにそっぽを向いた。
「別に責めてるわけじゃない。ただ、昼間の態度と、ちょっと違うなって」
「昼間は昼間、これはこれ」
その返し方に、僕は思わず苦笑した。
「それ、僕にもよく言われる台詞だ」
「は?」
「本音を見せない、って。フィアメッタにも、僕にも」
フィアメッタは、しばらく黙っていた。
月明かりの下で、彼女の表情が、わずかに変わったのがわかった。
「……そうかもね」
ぽつりと、彼女はそう呟いた。
「わたし、リーベリだから。弱み見せたら、それだけで格好の的にされる。ずっと、そう思って生きてきた」
「うん」
「だから、強がるのが癖になってる。今更、直そうとも思わないけど」
彼女は、グラスの水を一口飲んでから、こちらを見た。
「あんたは? なんで、そんな風になったの」
直球な質問だった。
いつもなら、はぐらかす場面だ。適当な冗談で流して、話を逸らす。それが、いつもの僕のやり方だった。
だが、この夜だけは、なぜか少し違った。
「人に心配かけると、それだけで相手を困らせるから」
僕は、そう答えた。
「だから、笑ってた方が楽なんだ。少なくとも、誰も困らせずに済む」
フィアメッタは、何も言わずに、ただ僕の顔を見ていた。
「……ふうん」
それだけ言うと、彼女はグラスの中身を飲み干した。
「似た者同士、ってやつ?」
「そう言われると、なんか嫌だな」
「わたしも、そんなに嬉しくないけど」
軽口を交わしながらも、その場の空気は、いつもとは少し違っていた。
互いに、隠しているものがあると知りながら、それでも、詮索し合わない。
その距離感こそが、たぶん、僕たちなりの信頼の形だったのかもしれない。
「……もう寝るわ」
フィアメッタが、グラスを流しに置きながら立ち上がった。
「うん、おやすみ」
「おやすみ」
彼女が台所を出ていく後ろ姿を、僕はしばらく見送った。
残された静寂の中、僕はもう一度、水を口に含んだ。
誰にも言えない本音を、それぞれ胸の内に抱えたまま。
それでも、こうして隣にいられる相手がいるというだけで、少しだけ、救われる気がした。
そんな出来事を重ねながら、時間は驚くほど速く過ぎていった。
定期的な模擬戦は、僕たちにとって、ただの訓練以上の意味を持つようになっていた。互いの成長を測る物差しであり、同時に、軽口を交わし合う口実でもあった。
「今日は接近戦のパターン変えてみる。付き合って」
「はいはい」
勝敗の数は、回数を重ねるごとに、ほとんど拮抗するようになっていった。
「今月の戦績、五勝五敗」
「よく数えてるな、そんなの」
「負けを認めたくないから数えてるだけ」
そんな軽口を叩き合いながらも、僕たちの間にあった最後の遠慮のようなものは、もうすっかり消えていた。
学校生活の方も、それなりに順調だった。
リーベリであることに対する視線は、完全に消えたわけではなかったが、フィアメッタ自身が、そういう空気に対して、以前よりずっと堂々と構えるようになっていた。
「あんたが隣にいると、変に絡んでくる奴、減った気がする」
「僕、別に何もしてないけど」
「うるさいのが一人減っただけで、面倒事も減るってこと」
彼女なりの、不器用な感謝の言葉だったのかもしれない。
パトリツィオの下での修行は、座学、射撃、体術、守護銃の整備、戦術理論と、多岐にわたって続いていった。時には厳しい叱責を受けることもあったが、それ以上に、着実に積み上がっていく実感の方が大きかった。
「二人とも、筋はだいぶ良くなってきた」
パトリツィオがそう評してくれる回数も、少しずつ増えていった。
そうして迎えた、進路選択の時期。
「大学、行くことにした」
ある日、フィアメッタがそう宣言した。
「執行部関連の専門課程がある大学があるの。パトリツィオも勧めてる」
「僕も、同じところ受けようかな」
「別に、無理して合わせなくてもいいけど」
フィアメッタは、そう言いながらも、どこか嬉しそうな声色を隠しきれていなかった。
「合わせてるわけじゃない。僕も、その分野に興味あるだけだ」
「ふうん、そういうことにしといてあげる」
結局、僕たちは同じ大学、同じ学部を志望することに決めた。
受験勉強は、これまでの修行とはまた違う種類の忍耐を要求してきたが、フィアメッタと互いに教え合いながら乗り越える日々は、案外悪くないものだった。
「ここ、わたしの方が得意」
「じゃあ教えて」
「しょうがないなあ」
そんなやり取りを重ねながら、二人揃って合格通知を受け取った日、パトリツィオは珍しく、盛大な食事を用意して祝ってくれた。
「よくやった、二人とも」
「パトリツィオのおかげです」
「ワシは、お前さんたちの背中を、ちょっと押しただけじゃ」
彼はそう言って、満足げに笑っていた。
入学式の日、大学の門をくぐりながら、フィアメッタがぽつりと呟いた。
「なんか、あっという間だったね」
「本当に」
孤児院での日々、レミュアンとの出会いと別れ、路地裏での事件、パトリツィオとの出会い、そしてこの数年間の修行。振り返れば、駆け足のような日々だった。
「新しい環境、また色々あるんだろうな」
「あんたが隣にいるなら、まあ、なんとかなるでしょ」
フィアメッタは、そう言って軽く肩をぶつけてきた。
その気安さに、僕も小さく笑い返した。
新しい校舎、新しい顔ぶれ、これから始まる新しい日々。
その中に、思いがけない再会が待っているとは、この時の僕は、まだ知る由もなかった。