入学から数日経った頃、僕はまだ、大学という新しい環境に慣れきれていなかった。
広い敷地、見知らぬ顔ばかりの教室、専門課程特有の緊張感。孤児院や、パトリツィオの家での生活とは、また違う種類の落ち着かなさがあった。
「講義棟ら思ったより広いわね」
「迷子になりそうなレベルだよね、これ」
フィアメッタと連れ立って歩く敷地は、これまで過ごしてきたどの場所よりも広かった。石畳の中央広場を囲むように、いくつもの校舎が立ち並び、渡り廊下がそれらを複雑に繋いでいる。初日はただ校舎を一周するだけで、午前中の大半を使い切ってしまった。
「案内図、もう三回見てる気がする」
「見ないと、確実に迷うから、後5回目よ」
フィアメッタは、地図をひっくり返しながら、真剣な顔で建物の番号を確認していた。彼女は方向感覚に多少の難があるらしく、その一方で僕は、彼女以上に地図を読むのが苦手だった。結局二人で顔を見合わせ、通りかかった先輩らしき学生に道を聞くことになった。
「ああ、そこの階段上がって、二つ目の扉ね」
親切に教えてもらいながらも、その後もう一度別の場所で迷い、結局、目的の教室に着いたのは開始時刻ぎりぎりだった。
「……初日から、こんな調子で大丈夫かな」
「大丈夫でしょ、多分」
根拠のない自信に満ちたフィアメッタの返事に、僕は思わず笑ってしまった。
昼休みになると、学食での席取りが、地味な最初の関門だった。
開放感のある吹き抜けの食堂は、昼時になると、あっという間に学生たちで埋め尽くされる。皿とトレイがぶつかる音、券売機のボタンを押す電子音、あちこちから聞こえる談笑の声。その騒がしさに、最初は少し圧倒された。
「あそこ、空いてる」
「よし、行くぞ」
フィアメッタが目敏く見つけた窓際の二人席に、僕たちは急いで荷物を置いた。席取りに成功したことに、二人で妙な達成感を覚えたのを覚えている。
券売機の前で、僕はしばらくメニューの多さに悩んでいた。定食、麺類、丼物、それぞれに数種類の選択肢がある。慣れない券売機の操作にもたついていると、後ろに並んでいた学生から、控えめな咳払いをされた。
「あ、すみません」
慌てて日替わり定食のボタンを押す。結果的に、それが正解だったらしい。
定食の中身は、白身魚のフライと、野菜の煮物、それに味噌汁がついたものだった。値段の割に量が多く、フィアメッタは早々に「ここ、当たりかも」と満足げに頷いていた。彼女が選んだのは、甘辛いタレのかかった照り焼き丼に、追加でデザートのプリンをつけたものだった。
「それ、量多くないか」
「育ち盛りだから」
「もう育ち盛りって歳でもないだろ、僕らは」
「うるさいな。細かいこと気にすると禿げるって、前に言ったの誰だっけ」
「それ、僕の台詞パクってるだろ」
軽口を叩き合いながら食事を進める間にも、周囲の喧騒は絶えなかった。近くの席では、別の新入生グループが講義の感想を大声で語り合っている。少し離れた席からは、上級生らしき集団の笑い声が響いてくる。その全部が混ざり合って、耳障りというよりは、むしろ心地よい賑やかさとして感じられた。
「毎日ここで食べる感じになるのかな」
「日替わりで色々試すのもいいんじゃない。ちょうど、選択肢多いし」
「フィアメッタは、また同じ丼系選びそうだけど」
「わたしには、わたしの拘りがあるの」
そんな他愛のない会話をしながら、少しずつ、新しい生活のリズムができていった。プリンを分けてもらいながら、僕はふと、この賑やかさが、思っていたよりずっと心地よいものだと気付いた。
講義自体は、専門課程ということもあり、想像していたよりも実務的な内容が多かった。法規、戦術理論、装備の基礎知識。座学だけでなく、実技を伴う授業も週に数回組まれている。
教授の話す内容は、専門用語が多く、最初のうちはノートを取るだけで精一杯だった。周りの学生たちも似たような様子で、講義室のあちこちから、ペンを走らせる音が絶え間なく聞こえてくる。
「この教科書、パトリツィオの家にあったやつと、内容がほとんど同じな気がする」
休み時間、教科書をぱらぱらとめくりながら、僕はそう呟いた。
「先取りしてたようなものだしね、わたしたち」
フィアメッタは、そう言って少し得意げな顔をした。実際、これまでの修行のおかげで、講義についていくこと自体には、そこまで苦労しなかった。むしろ、周りの同級生が苦戦している基礎的な内容を、僕らはすでに身体で覚えてしまっている場合が多かった。
「あそこの子、さっきから式の意味わかってなさそうだね」
「教えてあげたら」
「面倒見るの、あんたの役目でしょ、そういうの」
フィアメッタは、そう言いながらも、結局は隣の席の学生に、こっそりノートの取り方を教えてあげていた。素っ気ない態度とは裏腹に、面倒見の良さは相変わらずだった。
放課後は、キャンパス内にある演習場に立ち寄ることが多かった。学生同士が自由に使える設備で、腕試しをしたい者たちが、いつも何人か集まっている。空気を切り裂く発砲音と、的に弾が当たる乾いた音が、絶え間なく響いていた。
「あそこの的、まだ空いてる」
「行こう」
パトリツィオの家の裏庭とは違う、他人の目がある環境での射撃は、最初は少し緊張したが、慣れてくると、それもまた新鮮な感覚だった。
僕たちが的を外さずに撃ち続けていると、いつの間にか周囲に人だかりができ始めていた。
「お前らも新入生? 結構やるな」
他の学生から、そんな声をかけられることも増えた。フィアメッタは、そういった注目を、以前よりずっと堂々と受け止めるようになっていた。
「まあ、それなりに」
「ムミヤも、負けてないぞ」
彼女がそう付け加えるたびに、僕は少しだけ照れくささを覚えた。
「今度、勝負しようぜ」
興味を持った様子の同級生の一人が、そう声をかけてくる。フィアメッタは、不敵な笑みを浮かべて応じていた。
「受けて立つけど、後悔しても知らないから」
「言うじゃん」
そんなやり取りが、演習場のあちこちで自然と生まれていく。射撃音の合間を縫うように交わされる軽口や笑い声が、この場所の日常になりつつあった。
週末は、寮の近くにある食堂街を、二人で食べ歩くのが恒例になっていった。
狭い通りの両側に、様々な店がひしめき合っている。串焼きの匂い、揚げ物の油の匂い、甘いシロップの匂いが、風に乗って入り混じる。呼び込みの声や、店先で談笑する客の声で、通り全体がいつも賑わっていた。
「今日はどこの店にする?」
「新しくできたパン屋、気になってた」
フィアメッタが指差した先には、開店したばかりらしい小さなパン屋があった。ガラス越しに並ぶ焼き菓子を見て、彼女の目が輝くのがわかった。
「甘いもの、相変わらず好きだな」
「別腹だから」
その台詞は、孤児院時代からずっと変わらないままだった。
店に入ると、焼きたてのパンの香ばしい匂いが充満していた。フィアメッタは迷うことなく、林檎のパイと、クリームの詰まった菓子パンを選んでいた。僕はシンプルな塩パンを一つ買い、二人で店先のベンチに座って食べ比べをした。
「あ、これ美味しい」
「一口ちょうだい」
「自分のも買ったでしょ」
「味見だよ、味見」
結局、お互いの分を少しずつ交換しながら、その日買ったものを全部平らげてしまった。夕暮れ時の通りは、学生や仕事帰りの人々で一層賑やかになり、遠くから楽器の音色らしきものも聞こえてきた。誰かが路上で演奏をしているのかもしれない。
「今度、あそこの串焼きの店も行ってみない?」
「行く行く」
次の週末の予定を、ごく自然に決めていく。そんなやり取りの積み重ねが、いつしか、かけがえのない習慣になっていた。
合同実習の日
そんな、慌ただしくも充実した新生活のリズムが、ようやく身体に馴染み始めていた頃。
ある朝、掲示板の前に、いつもより多くの学生が集まっていた。
「何、これ」
フィアメッタが、人だかりの隙間から覗き込むようにして、貼り出された紙を確認した。
「合同実習のお知らせだって。他学部との混合授業、来週から」
「他学部って、具体的には?」
「執行部の実務課程と、あと護衛関連の課程も合流するみたい」
彼女がそう読み上げる間にも、周りの学生たちは口々に感想を漏らしていた。
「げ、実技棟まで移動かよ。遠いな」
「あそこの教官、厳しいって噂じゃなかった?」
ざわめきの中で交わされる噂話は、どれも真偽の怪しいものばかりだったが、それでも新入生たちの間に、ある種の緊張感を生むには十分だった。
その日の昼休み、僕とフィアメッタは、いつもの学食の窓際の席で、その話題を肴に食事をしていた。
「合同実習、緊張する?」
「別に。腕試しできるなら、むしろ嬉しいけど」
フィアメッタは、今日も照り焼き丼を頬張りながら、そう答えた。相変わらずの健啖ぶりに、僕は苦笑しながら、自分の親子丼をつついた。
「僕は、ちょっと緊張するな。知らない人たちの前で、変なミスしたら恥ずかしいし」
「あんた、修行時代は結構図太かったのに」
「あれとこれとは別」
窓の外では、中庭を横切る学生たちの姿が見えた。談笑しながら歩く集団、慌てた様子で駆けていく一人、ベンチで参考書を広げている先輩らしき人物。昼下がりの光景は、いつも通り穏やかだった。
「まあ、なんとかなるでしょ。あんたと組めば」
「変な信頼感、重いんだけど」
「褒めてるのに」
フィアメッタは、そう言ってデザートのプリンにスプーンを入れた。その一口を、いつものように、断りもなく僕の方へ差し出してくる。
「今日は分けてくれるんだ」
「気分次第」
差し出されたプリンを一口もらいながら、僕はなんとなく、この何気ない日常が少しだけ愛おしく感じられた。
合同実習当日の朝は、いつもより早めに家を出た。
「実技棟、遠いんだっけ」
「地図だと、キャンパスの端っこ」
フィアメッタが、スマートフォンのような通信端末で地図を確認しながら、そう答えた。
通学路は、いつもより人通りが多かった。他学部の学生たちも合流するとあって、見慣れない制服や、聞いたことのない専攻名を口にする学生たちの姿が、あちこちに見受けられた。
「なんか、いつもより騒がしいね」
「合同実習だからだろうな」
道中、僕らは他の学生たちの会話の断片を、意図せず耳にすることになった。
「今日の指導、誰が来るんだろう」
「執行部の実技指導って聞いたけど」
「厳しくないといいなあ」
そんな噂話が、あちこちで飛び交っている。フィアメッタは、それらを聞き流しながら、涼しい顔で歩いていた。
「フィアメッタは、緊張しないんだな」
「するけど、顔に出さないだけ」
「そうなんだ」
「あんたと似たようなもんでしょ、それ」
その指摘に、僕は思わず苦笑した。
実技棟に近づくにつれ、周囲の喧騒はさらに増していった。集合場所らしき広場には、既にかなりの人数の学生が集まっている。話し声、荷物を置く音、緊張した面持ちで準備運動をする者の掛け声。それらが混ざり合って、独特の熱気を作り出していた。
「次の講義、実技棟だっけ」
「うん、たぶん」
案内図を頼りに、慣れない敷地内を歩いていく。
実技棟の前に着いた時、そこには既に何人かの学生が集まっていた。合同の実習らしく、他学部の学生も混じっているようだった。
「ムミヤ、多分あそこかな?」
フィアメッタが、ふと視線を止めた先を、僕も追った。
一人の女性が、資料を片手に、周りの学生に何か指示を出している。
淡いピンクの長髪。
その髪の色に、僕は思わず息を止めた。
――まさか。
「……レミュアン?」
思わず、声が出た。
その名前に反応して、彼女がこちらを振り向く。
しばらく、僕の顔を見つめたまま、彼女は動きを止めていた。
「……ムミヤ?」
確認するように、彼女がそう呟いた。
その一言だけで、胸の奥が締め付けられるような感覚があった。
一年間だけの約束のはずだった関係が、こんなにも長い時間を挟んで、まだこうして繋がっていた。その事実に対する喜びが、瞬間的に込み上げてくる。
――叫び出したいくらい、嬉しい。
だが、そんな衝動を、僕はいつも通り、表情の下に押し込めた。
「久しぶり」
なるべく平静な声で、そう返した。
込み上げてくるものをそのまま出してしまえば、きっとレミュアンを戸惑わせる。再会の喜びは本物だったが、その本物を、そのままの熱量でぶつけることに、僕はまだ慣れていなかった。
僕がそう言うと、レミュアンの表情が、ゆっくりと変わっていった。
「本当に、ムミヤ?」
「うん」
「うわ、背、伸びたわね。あと、雰囲気変わった」
「レミュアンも、変わったよ。なんか、しっかりしてる感じになった」
軽口の応酬をしながらも、頭の片隅では、別のことを考えていた。
――この時間が、また終わってしまうかもしれない。
喜びと同時に湧き上がってくる、あの馴染みのある不安。大切な人と再会するたび、その裏側に、失うことへの恐れが張り付いてくる。
それでも、今この瞬間だけは、その不安を表に出す必要はない。ただ、目の前の再会を、素直に喜べばいい。
「あんたに言われると、微妙に嫌味に聞こえるんだけど」
軽口を叩き合ううちに、あの頃と変わらない距離感が、自然と戻ってくるのがわかった。
その感覚が、何より嬉しかった。時間の隔たりなど、まるでなかったかのように、言葉が自然と口をついて出てくる。
それでも僕は、その嬉しさの分量を、少しだけ薄めて表に出していた。全部をそのまま見せるのは、なんだか照れくさかったし、何より、隣にいるフィアメッタの手前もあった。
周りでは、他の学生たちが整列の準備を始めていた。誰かが名簿を確認する声、資材を運ぶ台車の音、遠くで誰かが冗談を言って笑いが起きる声。実習開始前の、あの独特なざわめきの中で、僕たちの再会は、その喧騒に紛れるようにして起きていた。
「教育実習の補助を担当してるの。あなたたち、今年の新入生?」
「あぁ。フィアメッタも一緒だよ」
フィアメッタが、軽く頭を下げた。
「初めまして、私はフィアメッタ。ムミヤの妹分、みたいな立場」
「レミュアンよ。ムミヤとは、孤児院時代からの知り合い」
二人は、それだけの自己紹介で、なんとなく互いの距離感を測り合っているようだった。
「まさか、こんな形で再会するとは思わなかった」
僕がそう言うと、レミュアンは肩をすくめた。
「本当に。もう会えないかもって、ちょっと思ってたのに」
その一言に、僕の中で何かが小さく跳ねた。
――もう会えないかも、と思っていたのは、僕も同じだった。
一年前、馬車の窓越しに手を振り合ったあの日から、正直、この再会を確信していたわけではなかった。年月が経つほど、記憶は薄れ、約束は形骸化していくものだと、心のどこかで諦めていた部分もあった。
「約束、覚えてた?」
声に出さずに済んだ、いろいろな感情を飲み込みながら、僕はそう尋ねた。
「――また会えたら、儲けもの、でしょ」
彼女はそう言って、あの頃と変わらない、少し気の抜けたような笑みを浮かべた。
「儲けものだった、ってことで」
「うん」
僕も、同じように笑い返した。
その笑顔の裏側で、胸の奥がじんと熱くなるのを感じていた。子供の頃に交わした、何の保証もない口約束が、こうして本当に果たされる瞬間を、僕はまだうまく処理しきれていなかった。
泣きそうになる、というほど大げさなものではない。それでも、目の奥に、微かな熱がこもるのを感じた。
その熱を、僕はそっと飲み込んだ。ここで感情的になれば、きっとレミュアンもフィアメッタも戸惑わせてしまう。
だから、ただ笑う。それだけで、十分だと思った。
整列を促す笛の音が響き、集まっていた学生たちが、それぞれの列へと移動を始めた。
「実習中は真面目にやってよね、後輩」
「後輩って、扱い変わった」
「立場が違うんだから、しょうがないでしょ」
レミュアンは、そう言いながら、さっさと自分の持ち場へと戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、僕は、なんとも言えない気持ちになっていた。
一年の不在、そこからさらに長い年月。
あれだけの時間が空いても、再会した瞬間に、あの頃の距離感がすぐに戻ってくる。
その事実が、なんだか妙に嬉しかった。
同時に、胸の奥のどこかで、もう一つの感情が静かに顔を出していた。
――また、失うかもしれない。
せっかく再会できた人を、いつかまた、何かの拍子に失うかもしれない。その予感は、喜びと同じ強さで、常に隣り合わせにあった。
両親を失った時のように。リシアさんと別れた時のように。
大切な人が増えるたび、この胸の中の恐れも、静かに、確実に育っていく。
それでも、今この瞬間、その恐れを表に出す理由はどこにもなかった。
だから僕は、その感情もまた、喜びと一緒に、胸の奥にそっとしまい込んだ。誰にも気付かれないように。フィアメッタにさえも。
「あの人、結構いい人そうじゃない」
フィアメッタが、そう呟いた。
「うん、いい人だよ」
「あんたが、あんな顔するの、初めて見た気がする」
「どんな顔?」
内心、少しだけどきりとした。表に出したつもりのない感情の欠片が、彼女の目には見えていたのかもしれない。
「……別に、いいけど」
フィアメッタは、それ以上は言わずに、実習棟の方へと歩き出した。
その気遣いのような沈黙に、僕はひそかに安堵した。追及されなかったことへの感謝を、口には出さずに、ただ胸の内にしまっておく。
僕もその後を追いながら、これから始まる合同実習に、少しだけ期待を抱いている自分に気付いた。
喜びも、不安も、懐かしさも。噛み締めた分だけ、飲み込んだ分だけ、確かにこの胸の中に積み重なっていく。
新しい環境の中に、思いがけない懐かしさが混ざり込んでくる。
それもまた、悪くない巡り合わせなのかもしれなかった。