五歳の誕生日を迎える少し前に、僕はラテラーノの孤児院へ入った。
十五歳になるまで、ここで暮らすことになるらしい。
十五歳。ずいぶん先の話だ。だが不思議と、それを遠いとは思わなかった。前世で数十年生きた記憶がある分、十年間という数字に対する恐怖心が薄いのかもしれない。
リシアさんが最後に頭を撫でてくれた感触だけは、まだ手のひらの向こうに残っている気がした。
孤児院という場所は、思っていたよりずっと騒がしかった。
子供の数はそれなりに多く、年齢も種族もばらばらだ。サンクタの子もいれば、そうでない子もいる。共感が効くのはサンクタ同士だけらしいが、それでも空気を読む力に種族は関係ない。
入ってすぐの頃、僕は意識してあまり目立たないようにしていた。
目立てば、期待される。期待されれば、いつかそれを裏切られる。もう、そういうのはお腹いっぱいだった。
だが、その方針はそう長くは続かなかった。
「お前、新入りか」
声をかけてきたのは、年長の男の子だった。名前はアルド。八つか九つくらいだろうか、孤児院の中でも力の強い子供たちを何人か引き連れている。
新入りに絡むというのは、どこの世界でも変わらない通過儀礼らしい。
「ここでのやり方、教えといてやろうか?」
アルドは値踏みするような目でこちらを見ながら、じりじりと距離を詰めてきた。要は、上下関係を早めにはっきりさせておきたいのだろう。
……ああ、なるほど。
この手の子供は前世でもいた気がする。理屈というより本能で群れの順位を決めたがるタイプだ。
僕は何も答えなかった。答える必要を感じなかったからだ。
ただ、少しだけ――ほんの少しだけ、意識を緩めた。
共感の制御なんて技術はまだ知らない。だから、緩めれば漏れる。
伝令局の職員が淡々と読み上げた戦死報告。親族たちが交わしていた損得勘定の会話。リシアさんとの別れ際に交わした約束。それらを通り抜けてきた末に残った、妙に冷めた諦観のようなもの――子供の脅し文句程度でどうにかなるようなものではない、というのが素直な感想だった。その静かな諦観が、意識を緩めた瞬間にそのまま滲み出た。
アルドの顔から、すっと表情が抜けた。
値踏みしていた目が、一瞬だけ怯む。
「……お前、なんか」
言葉にならなかったらしい。彼は仲間たちと顔を見合わせ、そのままそそくさと離れていった。
……あれ。
あっさり終わったな。
拍子抜けしつつも、僕は内心でため息をついた。
脅すつもりなんてなかった。ただ、隠しきれなかっただけだ。
感情を出さない訓練を、これから覚えていかなければいけないらしい。
その日の夜、施設の共同部屋で小さな泣き声が聞こえた。
その日入ってきたばかりの女の子だった。名前はミラ。三つくらいだろうか、まだ親から引き離されたばかりの匂いが抜けていない。
職員がすでに何人か声をかけていたが、泣き止む気配はなかった。
僕は少し迷ってから、彼女の隣に座った。
何を話しかければいいのかは、正直よくわからなかった。ただ、初めてこの世界に生まれ落ちたときのことを思い出していた。
意味のわからない音の羅列の中に、それでも伝わってくる感情があったこと。
だから、言葉ではなく、ただ隣にいることを選んだ。
「……ぱぱ、ままぁ……」
「うん」
それだけ返した。
慰めの言葉なんて、僕には持ち合わせがない。ただ、隣にいる。それだけでいい、と誰かに教わった気がした。
しばらくして、ミラは僕の袖を掴んだまま眠ってしまった。
小さな寝息を聞きながら、僕はぼんやりと天井を見上げていた。
……ああ、そうか。
これは、あの時の自分だ。
誰かに寄り添ってほしかった、あの夜の自分と同じだ。
それから数日後、事件と呼ぶほどのことでもない、小さな諍いがあった。
食堂の隅で、アルドたちが年下の子から配給の焼き菓子を取り上げようとしていたのだ。取られかけていたのは、まだ入って間もない、体の小さな男の子だった。
「よこせよ、お前まだ余ってるだろ」
「……っ」
男の子は涙目のまま、菓子を握りしめて抵抗していた。
周りの子供たちは見て見ぬふりをしている。関わって自分に飛び火するのが怖いのだろう。それはわかる。わかるからこそ、僕はゆっくりとそちらへ歩いていった。
「返してあげたら」
声のトーンは、努めて平坦にした。
アルドが振り返る。
「……は? 何だお前」
「返してあげたら、って言った」
もう一度、同じ調子で繰り返す。
怒鳴るつもりも、脅すつもりもなかった。ただ、目だけは逸らさなかった。
この程度のことで、僕は今さら怯えたりしない。両親を失ってからこっち、大人たちの本音や打算を嫌というほど浴びせられてきた身からすれば、目の前の子供の威嚇なんて可愛いものだった。
アルドは僕の目を見て、何かを感じ取ったらしかった。共感が効いているわけではないはずなのに――それでも、目の奥にある何かだけは、子供でも本能的に嗅ぎ取れるものなのかもしれない。
彼は小さく舌打ちをして、菓子を投げるように返した。
「……別につまんねぇもん、興味ねぇし」
捨て台詞を残して去っていく背中を見送りながら、僕は小さく息を吐いた。
助けられた男の子は、ぽかんとした顔でこちらを見上げている。
「あ、ありがとう……」
「いいよ、次からは大声出して助けを呼べばいい」
それだけ言って、僕はその場を離れた。
その一件があってから、孤児院内での僕の扱いは少しずつ変わっていった。
年下の子たちは、何かあると僕のところに来るようになった。
「ムミヤにいちゃん、あのね」
声をかけられる度に、少しだけくすぐったい気持ちになる。
年上の子たちからは、微妙な距離を置かれるようになった。怖い、というよりは、扱いに困る、というニュアンスに近い気がする。
誰も表立って僕に絡んでこなくなった。かといって、遠巻きにされるわけでもない。ただ、「あいつには手を出さない方がいい」という空気だけが、静かに定着していった。
――怖いけど、頼れる兄ちゃん。
誰かがそう評しているのを、偶然聞いたことがある。
なるほど、悪くない着地点だ。
本音を出さず、けれど困っている子は放っておかない。前世の処世術と、今世で身につけつつある「格」とやらが、うまく噛み合った結果なのかもしれない。
ただ――。
ミラが僕の袖を掴んで眠りに落ちるあの重み。年下の子たちが向けてくる、ちょっとした信頼の眼差し。
それらを受け取るたびに、僕はどこかで小さく身構えてしまう。
この子たちも、いつかいなくなるかもしれない。
養子に出されたり、施設を出たり、あるいは――もっと悪い形で。
まだ言葉にできるほど自覚してはいなかったけれど、その予感だけは、確かに僕の中に根を張り始めていた。
ミラが僕の袖を引っ張る温もりには、いつの間にか法則性ができていた。
朝、目が覚めるとまず僕の寝台を覗きにくる。夕食の前、少し機嫌が悪くなる時間帯には決まって僕の隣に座りたがる。眠る前は、袖を摘む力加減で「今日は寂しい日」か「今日は普通の日」かがわかるようになってきた。
最初は戸惑うだけだったその重みに、いつしか僕自身が慣れてしまっている。
朝、彼女の寝台が空だと、ほんの一瞬だけ胸の奥がざわつく。すぐにどこかで遊んでいる姿を見つけて安心するのだけど、そのざわつきの正体には、あまり深く踏み込みたくなかった。
アルドとの間には、言葉少ないながらも確かな均衡が生まれていた。
あの一件以来、彼が僕に絡んでくることはない。かといって、目を合わせれば会釈をする程度の距離感はできている。
ある日、食堂で席が隣り合った。特に会話をするでもなく、二人とも黙々と食事を口に運んでいた。
「……お前、あん時、本気だったろ」
ぽつりと、アルドがそう言った。
「何が」
「別に。何でも」
それだけで会話は途切れた。だが、その短いやり取りの中に、妙な納得のようなものが流れていた気がする。
彼は彼で、僕の中にある何かを正確に測りかねている。僕は僕で、あの日感情が漏れたことについて、特に弁解するつもりもない。
殴り合うでも、仲良くなるでもない。ただ、互いの領分を認め合っただけの、そういう距離感だった。
悪くない、と思う。
全部を分かり合う必要なんてない。踏み込まれたくない場所には、踏み込ませない。それでいい。
年下の子たちからの視線は、日を追うごとに増えていった。
「ムミヤにいちゃん、ここ怪我した」
「ムミヤにいちゃん、あの子が意地悪する」
「ムミヤにいちゃん、絵本読んで」
呼ばれる回数が増えるたび、僕は少しずつ、自分がここでの「役割」を担い始めていることに気づいていった。
困ったときに頼れる、少し怖いけど話の通じる兄ちゃん。
その役を演じることは、思っていたよりも簡単だった。前世で培った要領の良さと、大人びた口調。それさえあれば、たいていの揉め事は丸く収まる。
ただ、演じている、という自覚だけは消えなかった。
絵本を読んでやりながら、傷の手当てをしながら、僕はいつも半分だけ、少し離れた場所から自分自身を見ている感覚があった。
――ちゃんと、うまくやれてる。
そう思う一方で。
――でも、これは本当の僕なんだろうか。
という違和感も、消えることなく胸の奥に居座り続けていた。
夜、他の子供たちが寝静まったあとの静けさが、僕は少しだけ好きだった。
ミラの寝息。誰かの寝返りの音。窓の外を通り過ぎる夜警の足音。
そういう音に囲まれながら、僕はよく天井を見上げていた。
前世の記憶は、日を追うごとに輪郭が薄れていく。それでも、こういう静かな時間だけは、二つの人生の境目が曖昧になる気がした。
誰かの温もりを求めて、けれど誰かに本音を明かすことはしない。
そういう毎日が、僕の中でひとつの「型」として固まりつつあった。
この均衡が、いつまで続くのかはわからなかったけれど。
それからしばらくの間、孤児院での日々は驚くほど淡々と過ぎていった。
朝は決まった時間に叩き起こされ、狭い食堂で配給のパンとスープを口にする。午前中は簡単な読み書きの授業があり、午後は雑用か自由時間。夜は共同部屋で雑魚寝。
単調と言えば単調だが、悪くはなかった。むしろ、予測できる一日というものが、この頃の僕には妙にありがたかった。
ミラは相変わらず僕の後ろをちょこちょこと付いて回るようになっていた。
「にいちゃん、これなあに」
「絵本の字。読んであげようか」
「うん!」
彼女に絵本を読んでやる時間が、いつの間にか日課になっていた。声に出して物語をなぞるうちに、こちらの気も紛れる。存外、悪くない取引だった。
アルドとは、あれ以来特に何かがあったわけではない。すれ違えば向こうが目を逸らす、というだけの関係が続いていた。
ただ、ある日の午後。彼が一人で施設の裏庭にいるのを見かけた。年下の子分たちを連れていない、珍しい姿だった。
彼は壁にもたれて、ぼんやりと空を見上げていた。
僕は特に声をかけるつもりもなく通り過ぎようとしたのだが、向こうから先に口を開いた。
「……お前んとこの親、隊長だったんだってな」
「よく知ってるね」
「職員が噂してた。俺のとこは……まあ、いいや」
それ以上は続かなかった。
彼もまた、何かを抱えてここにいるのだろう。わざわざ詮索するつもりはなかったし、向こうもそれを望んでいる様子ではなかった。
ただ、その日を境に、アルドが僕に絡んでくることは完全になくなった。代わりに、廊下ですれ違うと小さく顎を引く程度の、妙な距離感の付き合いが始まった。
敵にはならない。かといって、友達というわけでもない。
そういう関係も、悪くないと思えるようになっていた。
年下の子たちの間で、僕の評判はさらに独り歩きしていくことになった。
「ムミヤにいちゃんは、怖いけど絶対助けてくれるから大丈夫だよ」
小さな子供たちがそう囁き合っているのを、偶然耳にしたことがある。
……いや、そこまで大層な人間じゃないんだけどな。
内心でそう思いながらも、訂正するのも野暮な気がして黙っておいた。
困っている子がいれば、大抵は僕のところに話が回ってくるようになった。玩具の取り合い。意地悪な言葉。夜中に眠れない子の付き添い。
その一つ一つに、大したことはできない。ただ話を聞いて、少しだけ場を収める。それだけだ。
それでも、僕がその場にいるというだけで、子供たちの間の緊張が緩む瞬間があった。共感の効かない相手にすら、そういう空気は伝わるものらしい。
職員の一人が、ある日そっと耳打ちしてきたことがある。
「ムミヤ君って、ずいぶんしっかりしてるのね。歳のわりに」
その言葉に、僕はいつもの調子で軽く笑って流した。
「そうですかね。特に何もしてないですよ」
嘘ではない。本当に、大したことは何もしていない。
ただ、僕にはもう、「大人びている」と評されることへの照れくささよりも、もっと静かな違和感の方が勝るようになっていた。
しっかりしている、というのは要するに、期待を裏切らない子供だということだ。
誰にも心配をかけない。誰にも手間を取らせない。誰にも失望されない。
それがどれだけ楽なことか、そしてどれだけ――誰にも本当のことを話せなくなることか。まだこの頃の僕は、その代償の重さをうっすらとしか理解していなかった。
ミラが袖を引っ張る温もり。アルドとの、言葉少ないながらも確かな均衡。年下の子たちの、ちょっとした信頼の眼差し。
それら一つ一つが、僕の中で少しずつ積み重なっていった。
孤児院という場所は、僕にとって「居場所」と呼べるものに、少しずつ近付きつつあった。