寝てる最中に身体を揺さぶられ、目が覚めた。
自分の肩を掴む手のその元を覗くと、淡いピンク色の長髪を棚引かせる少女が、こちらを見下ろしていた。
「……起きた?」
小声だった。周りの寝息を気遣っているのがわかる。
僕は寝ぼけ眼のまま、身体を起こした。共同部屋は真っ暗で、窓から差し込む月明かりだけが、彼女の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。頭上の光輪は、眠っている他の子供たちのものよりも、心なしか弱く灯っているように見えた。
「……誰?」
「私?レミュアン」
名乗るだけ名乗って、彼女はそのまま僕の隣にちょこんと腰を下ろした。誰かに許可を求めるでもなく、当然のようにそこにいる、という座り方だった。
「眠れないの?」
「……うん」
それだけ言って、彼女は膝を抱えた。
僕は何も言わずに、その様子を眺めていた。無理に会話を続けようとは思わなかった。前世で培った経験則がひとつある。眠れない人間に必要なのは、慰めの言葉よりも、ただ隣にいてくれる誰かだ。
しばらく、静寂だけが流れた。
「……ねえ」
やがて、レミュアンがぽつりと口を開いた。
「わたし、時々、怖くなるの」
ふいに、そう言った。
声色に涙はなかった。かといって、平静を装っているふうでもない。ただ、胸の奥にずっと閊えていたものを、そのまま零しているという響きだった。
「怖い?」
「このまま、誰にも選ばれなかったらどうしよう、って」
彼女はそこで言葉を切った。
僕は続きを促さなかった。促されて話せるようなことなら、彼女はとっくに他の誰かに話しているはずだ。それをせずに、こんな夜中に、会ったばかりの僕のところへ来た。ということは、まだ言葉にできていないのだろう。
「……あなたは」
しばらくして、レミュアンがこちらを見た。月明かりの下で、彼女の目がわずかに揺れているのが見えた。
「あなたは、どうしてここにいるの」
直球な質問だった。
この孤児院では、あまり互いの事情に踏み込まないのが暗黙の了解になっている。誰もが何かを抱えてここにいる。だからこそ、詮索しないことが最低限の礼儀のようなものだった。
それを承知の上で聞いてくる、ということは。
「両親が死んだんだ。仕事でね」
僕は淡々と答えた。
「そう」
レミュアンも、それ以上は聞いてこなかった。
ただ、彼女の中にある何かが、少しだけ緩んだ気配があった。共感の効く相手ではあるはずなのに、彼女は特に何かを伝えようとしてくる素振りは見せなかった。感情を隠すことに、もう慣れているのかもしれない。
「わたしね」
しばらくして、彼女はぽつぽつと話し始めた。
「本当の親、覚えてないの。物心つく前に、ここに置いていかれたから」
「……そう」
「だから、今のわたしを選んでくれる人なんて、本当にいるのかな、って」
彼女はそこで、自分の膝に顔を埋めた。くぐもった声が続く。
「優しくしてくれる大人はいるよ。職員さんも、たまに見学に来る人たちも。でも…」
「でも?」
「本当に、わたしのことが欲しいのかな、って。可哀想だからとか、義務だからとか、そういうのじゃなくて」
その問いに、僕はすぐには答えられなかった。
答えを持っているわけではなかったからだ。ただ、彼女が今欲しがっているのは、たぶん正解や慰めの言葉ではないという気がした。
「わからないよ、そんなの」
だから、素直にそう返した。
「本当のところなんて、向こうに聞いてみないとわからない。今こうやって君が眠れなくなるくらい気にしてるってことは、少なくとも君にとっては、どうでもいい話じゃないってことだろ」
レミュアンが顔を上げた。
「……変なの」
「よく言われる」
彼女は小さく笑った。初めて見る笑顔だった。少しだけ気の抜けたような、それでいてどこか安堵したような表情だった。
「ねえ、名前、聞いてなかった」
「ムミヤ」
「ムミヤ」
彼女は僕の名前を、確かめるように一度繰り返した。
「ありがとう、ムミヤ」
「別に、大したこと言ってないけど」
「そういうとこも含めて」
そう言うと、レミュアンは膝から顔を上げ、月明かりの差し込む窓の方をぼんやりと眺めた。
「……なんか、ちょっとだけ、眠れそうな気がしてきた」
「それは良かった」
二人分の小さな笑い声が、静かな共同部屋にほんの少しだけ響いて、すぐに消えていった。
結局、その夜はそれ以上何を話すでもなく、レミュアンはいつの間にか僕の肩にもたれて眠ってしまった。
起こすのも忍びなく、僕はそのまま、彼女の重みを受け止めながら夜が明けるのを待った。
朝になって、レミュアンは決まり悪そうな顔で自分の寝台に戻っていった。
それから、レミュアンと僕は妙に馬が合った。
示し合わせたわけでもないのに、気付けば食事の席が隣同士になっていたし、自由時間には決まって同じ場所に集まるようになっていた。
「今日、ミラがまた泣いてたよ」
「知ってる。慰めといた」
「さすがね、にいちゃん」
からかうような口調で、レミュアンはよくそう言った。彼女は彼女で、年下の子たちの世話を焼くのが得意だった。むしろ僕よりもずっと自然に、子供たちの輪に入っていく。
どうしてここにいるのか、お互いに深くは聞かなかった。それでも、一緒にいる時間が積み重なるうちに、言葉にしなくても伝わるものが増えていった。
夜、眠れない日がある。理由のない不安に押しつぶされそうになる夜がある。そういう夜は、どちらからともなく、共同部屋の隅で肩を並べて座るのが習慣になっていった。
「ねえ、ムミヤ」
「何」
「あなたって、あんまり本音言わないよね」
ある夜、唐突にそう言われたことがある。
「そう?」
「そう。いつも、うまいこと躱してる」
図星だった。だが、それを認めるのも躱すうちに入る気がして、僕はただ肩をすくめた。
「レミュアンだって、そんなに変わらないと思うけど」
「……まあ、そうかも」
彼女は苦笑して、それ以上は踏み込んでこなかった。
お互い、本音の在り処には触れない。それでも、隣にいることだけは続けている。そういう距離感が、いつの間にか僕たちにとっての「普通」になっていた。
自由時間、僕たちはよく施設の裏庭でボール遊びをした。大した規則があるわけでもない、適当に投げて適当に受け止めるだけの遊びだ。
「ほら、いくわよ」
レミュアンがボールを構える。
構える、というよりは、狙いを定める、という言い方の方が近い動作だった。目線がまっすぐ僕の顔に向いている。
だから、僕は右に一歩、身体をずらした。
その瞬間、ボールは僕がさっきまでいた場所――つまり、彼女の視線の先――を通り抜けていった。
「……あ」
レミュアンが目を丸くする。
「なんでわかったのよ」
「なんとなく」
本当に「なんとなく」だった。彼女がボールを構えた瞬間、視線とは裏腹に、意識のどこかが少しだけ別の方向に逸れているのを感じた。共感の作用というより、もっと感覚的な、空気の揺れのようなものだ。
「今の目こっちを見てたのに」
「目は嘘つくけど、狙いはあんまり誤魔化せてなかった」
「……ふうん」
レミュアンは少し悔しそうな顔をして、ボールを拾いに行った。
「じゃあ、今度はこっちの番」
僕がボールを構える。今度は僕が視線を逸らす番だった。わざと明後日の方向を見ながら、狙いだけは正確にレミュアンの足元へと寄せる。
投げた瞬間、彼女はほとんど反射的に、視線とは逆の方向――僕が本当に狙っていた場所へ、半歩だけ身体を寄せていた。
ボールは、その半歩分だけ逸れた場所に落ちた。
「……惜しい」
「反則じゃないそんなの、視線と逆に構えるなんて」
「レミュアンだって似たようなことしてたじゃん」
「わたしのは正当な技術よ」
彼女は澄まし顔でそう言って、また構え直した。
それから何度も、僕たちはお互いの「狙い」を読み合った。目線で誤魔化す。呼吸で誤魔化す。それでも、どこかに滲み出てしまう本当の狙いだけは、なぜか読み取れてしまう。
共感の力が働いているのか、それとも単に観察眼の問題なのか、正直よくわからなかった。ただ、レミュアンの「外し方」は、回数を重ねるごとに精度を増していった。
「レミュアンって、こういうの得意だよね」
「そう?」
「うん。狙いを絞るのが純粋に上手い」
彼女は少し照れたように笑って、それから小さく肩をすくめた。
「わかんない。でも、なんか、こういうのは楽しいわね」
「なんとなくわかった気がする」
レミュアンはボールを両手で弄びながら、ぽつりと呟いた。
「わたしね、狙うとき、相手がどこに動きたがってるか、先に見えるような気がするの」
「見える?」
「うまく言えないけど……なんていうか、次の一歩、みたいな」
彼女はそう言って、自分の手のひらを見つめた。何かを確かめるような仕草だった。
「気持ち悪い?」
「別に」
僕は肩をすくめた。
「気持ち悪がる要素なんてどこにもなくない? ただの遊びの延長でしょ」
「……そうだよね」
レミュアンは少しほっとしたように笑って、またボールを構え直した。
「じゃあ、もう一回いい?」
「いいよ」
それから僕たちは、日が傾くまでボールを投げ合った。
視線で誤魔化す。呼吸を殺す。わざと隙を見せてから、直前で狙いを変える。ありとあらゆる小手先の駆け引きを試したが、結局のところ、決定打になるようなコツは掴めないまま終わった。ただ、当たる回数だけは、どちらも確実に増えていった。
「今日、ムミヤに二回しか勝ててないわ」
「勝ち負けの話だったんだ、これ」
「わたしの中ではそうよ?」
汗を拭いながら、レミュアンは満足げに息を吐いた。夕陽が彼女の髪を淡いオレンジ色に染めている。
こういう他愛のない時間が、いつまでも続けばいいと思った。
根拠のない願いだということは、僕自身、よくわかっていた。この世界に来てから、「いつまでも」という言葉がどれだけ簡単に裏切られるかを、嫌というほど思い知らされてきたからだ。
それでも、今この瞬間だけは。
「明日も、やる?」
レミュアンがそう聞いてくる。
「暇だったらね」
「暇にしといてよ」
「命令すんな」
軽口を叩き合いながら、僕たちは寮舎へと戻っていった。
その日々が、一年続いた。
ボール遊びだけじゃない。文字の練習を一緒にさぼって職員に叱られたり、年下の子たちの喧嘩を二人がかりで仲裁したり、夜中にこっそり厨房から菓子をくすねて分け合ったり。
特別なことは、ほとんど何もなかった。ただの、ありふれた日常の積み重ねだった。
だからこそ、僕はその積み重ねを、少しずつ大事に思うようになっていた。
誰かに言えば笑われそうな話だが、僕はこの頃から、ひそかにこう思うようになっていた。
――この時間が、できるだけ長く続きますように。