その日、レミュアンは午後の自由時間になっても裏庭に現れなかった。
珍しいこともあるものだと思いながら、僕は一人でボールを壁に投げつけては受け止める、という単調な遊びで時間を潰していた。
彼女が姿を見せたのは、日が傾き始めた頃だった。
「遅いくない?」
「ごめんね」
軽口のつもりで言ったのに、返ってきた声のトーンが妙に硬い。
僕はボールを受け止める手を止めて、彼女の顔を見た。
いつもの、少し気の抜けた表情ではなかった。何かをこらえるような、それでいてどこか浮ついているような、複雑な色をしていた。
「……何かあった?」
「うん」
レミュアンは頷いて、それから僕の隣にゆっくりと腰を下ろした。
いつもならすぐに話し始めるはずなのに、しばらく黙ったままだった。
僕も急かさなかった。急かして出てくる言葉じゃないと、なんとなくわかっていたからだ。
「……決まったって」
やがて、絞り出すように彼女は言った。
「何が?」
わかっていながら、僕はあえて聞き返した。
「養子縁組」
その一言で、周りの音が少しだけ遠くなった気がした。
「今度は、本当に。書類も、もう揃ってるって言われたわ」
レミュアンは膝の上で手を組み、それをじっと見つめていた。
「良かったじゃん」
僕はそう返した。自分でも驚くくらい、平坦な声だった。
喜ぶべきなのはわかっている。彼女がずっと望んでいたことだ。「誰かに選ばれること」を、あの出会った夜からずっと欲しがっていた。それが叶ったのだから、喜ばない理由がどこにもない。
なのに、胸の奥に小さな穴が空いたような感覚があった。
覚えのある感覚だった。
両親が帰ってこなかった夜。伝令局の職員が淡々と読み上げた報告。リシアさんと別れる時に感じた、あの寄る辺のなさ。
――ああ、またか。
どこかで、他人事のようにそう思っている自分がいた。
「……ムミヤ?」
レミュアンが、こちらの顔を覗き込んできた。
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
僕は表情を整えた。少なくとも、整えたつもりだった。
「怖くない?」
彼女に向けて、そう尋ねた。
「怖いよ、正直」
レミュアンは小さく笑った。一年前のあの夜、月明かりの下で見せた笑い方と、どこか重なる表情だった。
「知らない人たちと、知らない場所で暮らすのよ。怖くないわけないじゃない」
「だよね」
「でも」
彼女は膝の上の手を、ぎゅっと握りしめた。
「今のわたしなら、大丈夫な気がするのよ」
その言葉に、僕はすぐには何も返せなかった。
一年前の彼女なら、こんな風に言い切れなかっただろう。あの夜、膝を抱えて「誰にも選ばれなかったらどうしよう」と怯えていた少女は、もういない。
その変化の一端に、もしかしたら自分も関わっているのかもしれない――そう思う一方で、その考え自体が都合の良い自惚れのようにも思えて、僕は曖昧に頷くだけにとどめた。
「なら、いいんじゃない」
「うん」
それきり、二人とも黙り込んだ。
夕陽が裏庭を橙色に染めていく。ボールは、僕の手の中で行き場を失ったまま転がっていた。
「……いつ?」
しばらくして、僕はそう尋ねた。
「三日後だって言われたわ」
「早いね」
「うん」
三日。
思っていたよりも、ずっと短い猶予だった。
もっと時間があると思っていた。まだ何も、準備なんてできていないのに。
もっとも――何をどう準備すれば、この胸の穴が埋まるのか、僕自身にもわかっていなかったが。
「……ねえ、ムミヤ」
「何」
「わたしがいなくなっても、ちゃんとやっていける?」
その問いに、僕は少しだけ考えるふりをしてから、いつも通りの調子で答えた。
「僕は誰にでも好かれる、怖いけど頼れるお兄ちゃんだからね。心配いらないよ」
「自分で言う?」
「レミュアンが言わせたんでしょ」
彼女は小さく吹き出した。
その笑い声を聞きながら、僕は密かに、自分の中の何かに蓋をした。
寂しい、とか。
行かないでほしい、とか。
そういう言葉を、口にする権利は自分にはないと思った。
彼女が望んで掴んだものを、僕の身勝手な感傷で曇らせたくはなかった。
だから、僕はただ笑って、彼女の門出を祝う側に徹することにした。
――本音を見せれば、相手を困らせる。
まだ言葉にできるほど自覚してはいなかったけれど、その処世術は、この夕暮れの裏庭で、また一つ確かなものになっていった。
その夜、僕は珍しく眠れなかった。
共同部屋の天井を見つめながら、昼間の自分の受け答えを何度も反芻していた。
良かったじゃん。心配いらないよ。門出を祝う側に徹する――我ながら、よくできた台詞だったと思う。声も震えなかったし、表情も崩れなかったはずだ。
なのに、胸の奥にわだかまるこの感覚は、何なのだろう。
寂しい、という言葉では足りない気がした。
寂しいだけなら、まだいい。時間が解決してくれる種類のものだ。
これは、もっと違う何かだった。
――また、いなくなる。
その一言が、頭の中で繰り返し響いていた。
両親がいなくなった。リシアさんとも離れた。そして今度は、レミュアンがいなくなる。
三度目だ、と気付いた瞬間、背筋を何かが這い上がるような感覚に襲われた。
一度や二度なら、不運で片付けられる。でも三度目ともなると、それはもう「たまたま」では説明のつかない、何か大きな法則のように思えてくる。
――大切に思った相手は、いずれいなくなる。
そういう仕組みの中に、自分は放り込まれているんじゃないか。
馬鹿げた考えだと、頭ではわかっていた。前世の記憶が少しでも冷静さを保っていれば、それはただの偶然の重なりに過ぎないと否定できたはずだ。因果関係なんてどこにもない。ただ、たまたま続いただけだ。
なのに、身体の方が先に竦んでいた。
思い出したのは、伝令局の職員が淡々と書類を読み上げていたあの夜のことだった。
黒い外套。事務的な口調。テーブルに置かれた、亀裂の入った守護銃のケース。
あのときの、床が抜け落ちるような感覚。
あれと同じものが、いま静かに、しかし確実に、胸の奥で再現されようとしていた。
息が浅くなっているのに気付いて、僕は自分の胸を押さえた。
落ち着け。今回は死んだわけじゃない。ただ、離れて暮らすだけだ。手紙だって書けるかもしれないし、いつかまた会えるかもしれない。永遠の別れとは違う。
頭ではそう理解していても、身体はまるで別の結論を出していた。
――どうせ、いなくなる。
――だったら最初から、大事になんて思わなければよかった。
その考えが浮かんだ瞬間、僕は自分自身に軽い嫌悪を覚えた。
そんなわけがない。レミュアンと過ごした一年間を、なかったことにしたいなんて、微塵も思っていない。あの他愛のないボール遊びも、夜中にこっそり分け合った菓子も、全部、大事な時間だった。
それでも。
次にまた誰かを大事に思うとき、僕は今と同じ恐怖を味わうことになるのだろうか。
その予感だけは、確信に近いものとして、静かに胸の中に居座っていた。
布団の中で膝を抱えたまま、僕はしばらくの間、声を殺して呼吸を整え続けた。
誰にも、この震えだけは知られたくなかった。
共感の効かない相手でよかった、と初めて思った。もしレミュアンがすぐ隣で眠っていたら、この感情はきっと筒抜けになっていただろうから。
翌朝、僕はいつも通りの顔で食堂に降りた。
「おはよ」
「おはよ」
レミュアンも、いつも通りだった。目の下にわずかな隈があるのを見て、彼女もあまり眠れなかったのだろうと察したが、お互いそれには触れなかった。
残された三日間を、僕たちは特別なことをするでもなく過ごした。
わざわざ最後の思い出を作ろうとするのは、なんだか違う気がした。それよりも、いつも通りの日々を、いつも通りに積み重ねる方が、二人にとっては自然なことのように思えたからだ。
「今日もボール遊びする?」
「するに決まってるでしょ」
裏庭でボールを投げ合う。相変わらず、レミュアンの「狙い」を完全に読み切ることはできなかった。
「今日は三回勝ったわ」
「まだ僕の方が勝ち越してる」
「誤差の範囲よ」
澄まし顔でそう言うレミュアンを見ていると、昨夜の自分の動揺が、少しだけ馬鹿らしく思えてくる。
二日目は、二人でこっそり厨房から菓子をくすねようとして、料理番のおばさんに見つかった。
「またあんたたちかい」
呆れた声で叱られながらも、結局は焼き菓子を二つ、こっそり分けてもらえた。
「今日はツイてたわね」
「明日からはツケが回ってきそうだけど」
そんな軽口を叩きながら食べた菓子の味を、僕はやけに鮮明に覚えている気がした。
三日目、年下の子たちがレミュアンの周りに集まってきた。誰からともなく、彼女が出発することを聞きつけたらしい。
「れみゅあんおねえちゃん、いなくなっちゃうの?」
ミラが、レミュアンの服の裾を掴みながら聞いた。
「うん、少しの間だけね」
レミュアンはしゃがみ込んで、ミラの頭を撫でた。
「でも、ムミヤがいるから大丈夫よ」
「そうなの?」
「そうなの」
ミラは僕の方を見て、それからまたレミュアンを見た。
「にいちゃん、こわいけど、やさしいもんね」
「……その評価、否定していい?」
「だめ」
レミュアンとミラが、示し合わせたように同時に言った。
周りの子供たちがくすくすと笑う。僕は肩をすくめるしかなかった。
その日の夜、いつものように共同部屋の隅で、僕とレミュアンは並んで座った。
「明日だね」
「そうね」
特別な言葉を交わすでもなく、ただ静かに時間が過ぎていく。
窓の外では、いつもと変わらない夜の音がしていた。虫の声、遠くの犬の鳴き声、誰かの寝返りを打つ気配。
何でもない夜だった。
だからこそ、僕はその何でもなさを、できるだけ長く覚えておこうと思った。
「ねえ、ムミヤ」
「何」
「明日のこと、変に気を遣わなくていいから」
レミュアンがそう言った。
「見送りとか、大袈裟にしなくていい。普通に、いつも通りバイバイって、それでいいから」
「……了解」
彼女がそう望むなら、それに従うことにした。
本当は、もっと違う言葉をかけたい気持ちもあった。でも、それを口にすることは、きっと彼女のためにも、自分のためにもならない。
だから僕は、いつも通りの調子で、それだけ答えた。
翌朝、迎えの馬車が孤児院の前に停まった。
黒塗りの、それなりに立派な車体だった。付き添いの職員が数人、荷物の積み込みを手伝っている。
レミュアンの荷物は、驚くほど少なかった。小さな鞄がひとつ。それだけだった。
「軽装だね」
「元々、大したもの持ってないもの」
彼女はそう言って、鞄を肩にかけ直した。
周りには、年下の子たちが集まっていた。ミラは目に涙を溜めながらも、約束通り大声で泣くのはこらえているようだった。
「れみゅあんおねえちゃん、げんきでね」
「うん、ミラも元気でね。ムミヤの言うこと、ちゃんと聞くのよ」
「わかった!」
ミラは大きく頷いて、それから僕の方をちらりと見た。
僕は何も言わずに、小さく手を挙げるだけにした。
職員に呼ばれ、レミュアンは馬車の方へと歩き出した。数歩進んだところで、彼女は一度だけ振り返った。
「ムミヤ」
「何」
「約束、忘れないでよ」
「約束?」
「また会えたら、儲けもの」
一年以上前、初めて交わした言葉を、彼女は覚えていた。
「覚えてるよ」
僕はそう答えた。
「気が向いたら、探しに来て」
「探すのはそっちの仕事でしょ」
「どっちでもいいわよ、そんなの」
レミュアンは笑った。いつもの、少し気の抜けたような笑い方だった。それでいて、今日だけは、どこか無理をしているようにも見えた。
「じゃあね」
「うん」
それだけ言って、彼女は馬車に乗り込んだ。
扉が閉まる。御者が手綱を握る。
馬車が動き出す音を、僕はただ黙って聞いていた。
窓越しに、レミュアンの姿がちらりと見えた。手を振っているようだった。
僕も、小さく手を振り返した。
馬車が角を曲がって見えなくなるまで、僕はその場に立ち尽くしていた。
周りの子供たちが、ぽつぽつと解散していく。ミラが僕の袖を引っ張った。
「にいちゃん、だいじょうぶ?」
「大丈夫だよ」
僕は屈んで、彼女の頭を軽く撫でた。
「ほら、朝ごはん、まだでしょ。行こう」
「うん!」
ミラの手を引いて、僕は寮舎へと歩き出した。
背中越しに、まだ誰もいなくなった通りの方を振り返りたい衝動があったけれど、それを堪えた。振り返ったところで、もう何もない。
いつも通りの一日が、また始まる。
胸の奥にある小さな穴は、そのままそこにあり続けた。塞がりもせず、かといって、これ以上広がるわけでもなく。
ただ、静かに、そこにあった。
翌朝、目の下に隈でも浮いているんじゃないかと少し心配だったが、レミュアンは特に気付いた様子もなかった。
「おはよう」
「おはよ」
いつも通りの挨拶。いつも通りの食堂の席順。いつも通りの、代わり映えのしないパンとスープ。
昨夜の自分が馬鹿みたいに思えるくらい、朝の空気はあっさりしていた。
それが不思議と、少しだけ救いだった。
「今日、裏庭行く?」
「行こうか」
答える声に、変な力みが入っていないか確認するように、僕は一拍置いてから頷いた。
その日から出発までの三日間、僕たちは特別なことを何もしなかった。
いつも通りボールを投げ合った。いつも通り年下の子たちの世話を焼いた。いつも通り、夜になれば「本音は言わない」暗黙の距離感を保ったまま、隣に座って他愛のない話をした。
「そういえば、ミラが最近、字を書けるようになったんだって」
「へえ」
「あんたの真似して、お兄ちゃんぶりたいらしいわよ」
「僕、お兄ちゃんぶってるつもりないんだけど」
「傍から見たら立派にお兄ちゃんよ」
からかうような口調に、いつも通り軽口で返す。
特別な会話をしようとは、お互いに思わなかった。むしろ、特別にしないことの方が大事なような気がしていた。
最後の思い出を作ろうとして気負うよりも、いつもの延長線上にある時間を、できるだけ長く保っていたかった。
二日目の夜、レミュアンがふと呟いた。
「明後日には、もうここにいないんだよね」
「そうだね」
「不思議な感じ」
「うん」
それだけの短いやり取りで、話は終わった。
深追いする必要はなかった。深追いしたところで、何かが変わるわけでもない。
三日目の朝、荷造りを手伝ってほしいと頼まれた。
といっても、荷物はそう多くなかった。孤児院に置いていくものと、持っていくものを仕分けるだけの、簡単な作業だった。
「これ、いる?」
差し出されたのは、少し色褪せたボールだった。裏庭でずっと使っていた、あのボールだ。
「持っていくの?」
「置いてったら、誰も使わないでしょ、多分」
「ミラたちが使うかもよ」
「じゃあ、置いてく」
あっさりとそう言って、レミュアンはボールを棚に戻した。
僕はその後ろ姿を見ながら、何も言わなかった。言葉にすれば、きっと余計な重みがついてしまう気がしたからだ。
こうして、何でもない日常のまま、出発の朝はやってきた。
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