レミュアンがいなくなってから、季節はひと巡りした。
最初の数週間は、正直、拍子抜けするくらい何も変わらなかった。食事の席は隣が空くようになったし、裏庭のボール遊びをする相手もいなくなったが、日々の生活そのものは変わらず続いていく。人はいなくなっても、時間は律儀に前へ進むものらしい。
ミラは少しずつ大きくなり、僕にべったりだった頃よりも、自分で友達を作ることが増えていった。それは喜ぶべきことのはずなのに、少しだけ寂しくもあった。
アルドとはいつの間にか、変な均衡が保たれる関係になっていた。互いに絡み合うことはないが、何かあれば僕が仲裁に入る、というのがお互いの暗黙の了解になっている。
年下の子たちからの「怖いけど頼れる兄ちゃん」という評価は、もう完全に定着していた。誰かが困っていれば、大抵の場合、僕のところに話が回ってくる。
夜、共同部屋の隅で一人になる時間も増えた。誰かと肩を並べる習慣は、あの一年間だけの特別なものだったらしい。それでも、時々その場所に座ってしまうのは、たぶん未練というやつだった。
手紙は、二度だけ来た。
どちらも短く、近況を綴った程度のものだった。「新しい家は思っていたより静かだ」「新しい家族は優しい人たちだ」というようなことが、簡潔に書かれていた。
返事は書いた。だが、何度書き直しても、当たり障りのない言葉しか出てこなかった。寂しい、とは書けなかった。それを書けば、彼女の新しい生活に、余計な重みを持たせてしまう気がしたからだ。
そんな、特別でも何でもない一年を過ごした末に。
その日、僕は公証人役場にいた。
公証人役場の窓口は、いつも人でごった返している。
両親の遺産に関する書類手続きのため、僕は職員に案内されて、隅の長机に座らされていた。「相続人本人の署名が必要です」とだけ言われ、渡された書類の束を前に、正直かなり手を焼いていた。
字は読める。だが、書式が独特で、どこに何を書けばいいのかがまるでわからない。難しい言葉が並んでいるせいで、余計に混乱する。
隣の席では、白髪交じりの老人が同じように書類と睨めっこをしていた。
最初は気にも留めていなかったのだが、ふと視線を感じて顔を上げると、その老人がこちらをちらちらと窺っていることに気付いた。
「……」
目が合うと、老人は少し気まずそうな顔をした。
「すまんのボウズ」
しゃがれた声で、彼はそう言った。
「ワシの仕事が終わったらすぐ退くからの、この年になると字が小さくてかなわんわ。じろじろ見とったみたいで悪かったな」
どうやら、僕が書類に苦戦している様子を、単に居座って邪魔をしているのかと勘違いしたらしい。
「あ、いや、別に……」
僕がそう言いかけたところで、老人はもう自分の書類に視線を戻していた。分厚い眼鏡越しに文字を追いながら、ぶつぶつと何かを呟いている。
変わった人だ、というのが第一印象だった。
しばらく、お互い無言のまま書類と格闘する時間が続いた。
僕の方は相変わらず埒が明かない。相続関係欄の書き方がわからず、何度も同じ行を見返しては、ため息をついていた。
やがて、老人の方が先に自分の書類を書き終えたらしい。用紙を職員に手渡し、席を立とうとしたところで、彼はふとこちらに目を向けた。
「大丈夫か、まだ子供のなんじゃ」
じろりと、値踏みするような、それでいて意外なほど柔らかい目だった。
「……えっと」
「ほれ、見せてみい」
有無を言わさぬ調子で、老人は僕の手から書類をひょいと取り上げた。
「なんじゃ、これは。役場の連中も、もう少し書きやすいように作ればいいものを」
ぶつぶつと文句を言いながら、老人は書類に目を通していく。
「ここはお主の名前じゃ。ここは、生年月日。ここは……ふむ、これは保護者の欄じゃな。誰か記入する大人はおるんか」
「……今は、いません」
僕は短く答えた。
老人は一瞬だけ視線を止めたが、それ以上は何も聞かなかった。理由を詮索するでも、同情めいた言葉をかけるでもなく、ただ「そうか」とだけ呟いて、書類の続きに目を移した。
「なら、この欄は施設の職員に頼んで判子をもらうんじゃな。ここと、ここに」
老人は指で該当箇所を示しながら、順序立てて説明してくれた。
書式の意図がわかれば、案外単純な作業だった。老人の指示に従って、僕は一つずつ空欄を埋めていく。
途中、書類の下の方に添付された、遺品目録の写しが目に入った。
守護銃、一丁。
その一文を見た瞬間、指先が一瞬だけ止まった。
老人が、ふと隣で小さく息を漏らしたのがわかった。
「……」
何か言われるかと思ったが、老人は何も言わなかった。ただ、少しだけ間を置いてから、何事もなかったかのように次の項目を指差した。
「次はここじゃ。急がんでいい」
その言葉に、僕は小さく頷いて、震えかけた手を落ち着かせた。
同情も、憐憫も、何も向けられなかった。ただ、待ってくれた。それだけだった。
なぜだかそれが、ひどくありがたかった。
書類を書き終える頃には、随分と時間が経っていた。窓口の混雑も少しずつ落ち着いてきている。
「よし、これで終わりじゃな」
老人は満足げに頷いて、僕の書類を職員の窓口へと一緒に運んでくれた。
「ありがとうございました」
僕が頭を下げると、老人は少し驚いたような顔をしてから、ふっと笑った。
「礼を言われるほどのことでもないわ。年寄りの暇つぶしじゃ」
なんとなく気になって、僕はそのまま尋ねてみた。
「……お仕事は、何をされてるんですか」
「ん?」
老人は少し意外そうな顔をしたあと、豪快に笑った。
「銃騎士じゃよ。まあ、今日はただの爺さんとして手続きに来ただけじゃがな」
銃騎士。噂には聞いたことがある。分厚い鎧を纏った、サンクタの中でも選ばれし戦力だ。
着崩れた普段着姿からはあまり想像がつかなかったが――言われてみれば、その体格や佇まいには、確かに納得のいくものがあった。
「仕事のときは、全身鎧を着ておるからの。今よりだいぶデカく見えるじゃろうな」
彼は自分の肩を叩きながら、そう付け加えた。
そう言って、彼は踵を返しかけた。だが、数歩進んだところで足を止め、もう一度こちらを振り返った。
「……名前は」
「ムミヤです」
「ムミヤか」
老人は、その名前を確かめるように一度呟いた。
「達者でな」
それだけ言って、彼は今度こそ役場を後にした。
僕はしばらく、その背中を見送っていた。
名乗りもしなかったな、と思い出したのは、彼の姿がすっかり見えなくなってからのことだった。
公証人役場での手続きから、数日が経った頃だった。
その日は、施設の許可を得て、一人で街に出ていた。手続きに必要な追加の書類を、指定された窓口まで届けに行く用事だった。子供の一人歩きにしては範囲が広い気もしたが、この年齢のサンクタなら、街中で大きな事件に遭うことはまずない――というのが、職員たちの共通認識だったらしい。
結果的に、その認識は間違っていた。
用事を済ませて施設に戻る道中、路地の陰から声をかけられた。
「――ムミヤ、だったな」
聞き覚えのある声だった。振り返ると、以前、遺品整理の場に一度だけ顔を出した男が立っていた。母方の親族の一人だ。
名前は覚えていない。覚える価値もないと判断していたからだ。書類の席で「補償金」「資産」「権利」という単語しか口にしなかった、あの男だった。
「少し、話がある」
「……何の話ですか」
僕は一歩、後ろに下がった。
声の調子には出さなかったが、内心では強い警戒が働いていた。この男が僕に用があるとすれば、良い話であるはずがない。
「お前の後見人がまだ決まっていないと聞いた」
男はそう言いながら、じりじりと距離を詰めてくる。
「施設暮らしより、身内の元にいた方が、お前にとっても都合がいいだろう。今から俺の家に来い」
「嫌です」
即答した。
「施設に戻ります」
「聞いてないな。来い、と言ったんだ」
男が、さらに一歩詰めてきた。
僕は反射的に、もう一歩下がった。背中に、路地の壁の冷たさを感じた。逃げ場は、思っていたより少ない。
「大声出します」
「誰も来ないさ、こんな時間の裏道だ」
男は薄く笑った。周囲を一度見渡してから、確信を持ったようにそう言った。
その通りだった。人通りの少ない時間を選んで声をかけてきたのだろう。最初から、これは計算された行動だったのだ。
「面倒なことになる前に、素直に来てくれると助かるんだが」
男の口調が、わずかに変わった。丁寧さを装う体裁すら、もう不要だと判断したらしい。
「後見人が決まらなければ、施設側もお前を長くは置いておけない。だったら、身内が動くのは筋が通ってる。文句を言われる立場じゃないだろう」
言葉の中身は、正論めいて聞こえた。だが、その奥にある「都合」だけが、共感を通してはっきりと伝わってくる。
――厄介事にされる前に、金になるうちに確保しておきたい。
その打算だけが、露骨に滲んでいた。
「嫌です」
僕はもう一度、はっきりと言った。
男の眉が、わずかに動く。
「……そうか」
声が、一段低くなった。
「なら、少し強引にやらせてもらうしかないな」
男の足が、地面を踏む音が変わった。
距離を詰める速度が、明らかに速くなった。
僕は路地の奥へ、さらに一歩逃げようとした。だが、背中はもう壁に触れていた。これ以上の後退は、ない。
「大人しくしてろ、子供が暴れても碌なことにならない」
男の手が、大きく振り上げられた。
僕の腕を、力任せに掴もうとする動きだった。
その手のひらが、目の前まで迫ってくる。
――ああ、これはもう、話し合いじゃない。
その確信が、頭の奥で音を立てて固まった瞬間、僕は懐に手を入れた。
両親の形見。まだ手続き上は正式に僕のものになっていない、あの守護銃。
持ち出すこと自体、褒められた行為ではないとわかっていた。だが、あの日から、これだけは常に手元に置いておくと決めていた。理由なんてなかった。ただ、そうしないと落ち着かなかった。
伸びてきた手が届くよりも先に、僕は銃を抜いた。
銃口を、男へと向ける。
「おいおい、こんな町中で、喧嘩なんかするもんじゃないぞ」
のんびりとした声が、路地の入り口から響いた。
男も僕も、同時にそちらへ目を向けた。
立っていたのは、あの日、公証人役場で書類を手伝ってくれた老人だった。分厚い外套を羽織った、どこにでもいそうな体格の良い年寄り――のはずなのに、この瞬間だけは、その存在感がやけに大きく感じられた。
「……っ、あなたは」
男が、明らかに動揺した声を上げた。
「夫君も子供に何をしているんだ。少しは頭を冷やせ」
老人は淡々とそう言いながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。急ぐ様子はまるでなかった。それなのに、その一歩一歩が、周囲の空気を確実に押し戻していくような重みを持っていた。
男は数歩後ずさり、それ以上は動けなくなった。
「な、なんだ、あんたは。関係ないだろう」
「関係あるかないかは、ワシが決めることじゃあない。ただ、大人が子供相手に手を出そうとしとる場面を見かけたら、口を挟むのは年寄りの役目じゃろう」
老人はそう言って、ちらりと僕の方を見た。
「落ち着いたか?」
その問いかけは、男に向けたものではなかった。
僕は、自分の手がまだ震えていることに、その時初めて気付いた。
「……」
答えられなかった。
「小僧、守護銃を降ろせ」
老人の声は、変わらず穏やかだった。命令というよりは、諭すような響きだった。
「ほれ、ちょうど水鉄砲で遊んでいたんだ。今の時期は暑いからの、持ち替えるのもまた一興というものだぞ」
その言葉に、思わず力が抜けた。
こんな状況で、そんな軽口が出てくるとは思わなかった。だが、その軽さのおかげで、指にかかっていた力が、少しだけ緩んだ。
僕は、ゆっくりと銃口を下げた。
老人は満足げに頷くと、今度は男の方へと向き直った。
その瞬間、纏う空気が明確に変わった。
「――さて」
声色は変わらなかった。それなのに、聞いているだけで背筋が伸びるような圧を感じた。
「名を名乗ってもらおうか。子供に手を上げようとした理由と一緒にな」
「……っ、俺は」
「名を、と言っている」
繰り返された問いに、男は観念したように、震える声で名乗った。母方の親族であること、後見人問題を理由にしたこと、それらを問われるままにぽつぽつと話していく。
老人は黙って聞いていた。ただ、話が進むごとに、その表情から一切の温度が抜け落ちていくのがわかった。
「なるほどな」
聞き終えると、老人はそれだけ言った。
「金の話をするために、子供を路地裏に引きずり込もうとした、ということで相違ないな」
「そ、それは」
「相違ないか、と聞いている」
男は答えられなかった。
沈黙が、何よりも雄弁な返事だった。
「ワシは公証人役場に籍を置く者だ。この一件、しかるべき場所へ正式に報告させてもらう。お前の名も、家名もな」
老人がそう告げると、男の顔から完全に血の気が引いた。
「二度と、この子供の前に姿を見せるな。次に見かけたら、その時はワシが相手をする」
それだけ言うと、老人は男に背を向けた。男はしばらく立ち尽くしていたが、やがて逃げるようにその場を去っていった。
路地に、僕と老人だけが残った。
「……ありがとうございます」
僕はようやく、それだけ口にした。
「なんの。ワシがたまたま通りかかっただけじゃ」
老人はそう言ってから、こちらをじっと見つめた。
値踏みするような目ではなかった。ただ、何かを確かめるような、静かな視線だった。
「一つ、聞いていいか」
「……なんですか」
「あの時。もし止めが入らんかったら、お前さん、本当に撃つつもりだったか」
嘘をつく理由はなかった。誤魔化したところで、共感の効く相手なら、たぶん意味がない。
「……はい」
僕はそう答えた。
「撃つつもりでした。あのまま腕を掴まれていたら」
老人は、しばらく黙っていた。
驚いた様子でも、咎める様子でもなかった。ただ、静かに何かを噛みしめているような沈黙だった。
「そうか」
やがて、そう呟いた。
「怖くはなかったか。撃てば、お前さんの方も無事では済まんかったろう」
「……怖かったです。今も、手が震えてます」
正直にそう言った。取り繕う余裕は、もう残っていなかった。
「それでも、抜いたか」
「はい」
老人は、僕の顔を、それから震えたままの手を、順に見つめた。
「なるほどな」
もう一度、同じ言葉を繰り返した。それから、意を決したように口を開いた。
「ワシはパトリツィオという。銃騎士をやっとる」
「……ムミヤです」
「知っとる。」
パトリツィオは、そう言って小さく笑った。
「単刀直入に言おう。お前さん、ワシの後見に入る気はないか」
あまりに唐突な申し出に、僕はすぐには言葉が出なかった。
「……どうして、僕を」
「今、この目で見たものが理由と言えば、理由じゃ。それ以上でも以下でもない」
パトリツィオはそれだけ答えて、それ以上の説明はしなかった。
「今すぐ返事をしろとは言わん。よく考えてから決めればいい」
彼はそう言って、懐から何かを取り出し、僕に手渡した。連絡先が書かれた小さな紙切れだった。
「気が向いたら、そこへ連絡をよこせ。急ぐ話じゃない」
それだけ言うと、パトリツィオは踵を返し、路地の向こうへと歩いていった。
その大きな背中を見送りながら、僕は手の中の紙切れを、しばらくの間、握りしめていた。
初めての星6重装はサンクタミキサーでした