施設に戻ってからも、僕はしばらくの間、あの紙切れを制服の内ポケットに入れたまま過ごした。
取り出しては眺め、また戻す。それを何度も繰り返した。
迷っていたわけではない。むしろ、迷う理由を探している方が近かったかもしれない。
新しい生活。新しい大人。新しい関係。
その先に、また同じことが起きたら――という考えが、頭の隅にこびりついて離れなかった。大切に思えば思うほど、失った時の穴は深くなる。それを、僕はもう嫌というほど学んでいた。
それでも。
あの日、パトリツィオが浮かべていた表情を思い出す。
驚くでも、咎めるでもなく、ただ静かに「そうか」とだけ呟いた、あの顔。
誰かに本当のことを話して、それをそのまま受け止めてもらえた経験なんて、あの日が初めてだった気がする。
「にいちゃん、最近、なんか考え事してる?」
ある日の夕食の席で、ミラにそう聞かれた。
「そう見える?」
「見える。紙、いっつも見てるし」
鋭い指摘だった。
「……うん、ちょっとね」
「いなくなっちゃうの?」
その問いに、僕は一瞬、答えに詰まった。
「……まだ、わかんない」
「わかんないのに、悩んでるの?」
「悩んでるから、わかんないんだよ」
我ながら、要領を得ない返事だった。ミラは首をかしげていたが、それ以上は追及してこなかった。
その夜、僕はようやく、自分の中にある答えに気付いた。
答えは、最初から決まっていたのかもしれない。ただ、それを認めるのが、少しだけ怖かっただけだ。
翌朝、僕は職員室を訪ね、紙切れに書かれていた連絡先へ、手紙を書かせてもらった。
文面は、短いものにした。
『お世話になります。後見の件、お願いしたいです。ムミヤ』
それだけだった。長い言葉を並べる必要はない気がした。
数日後、パトリツィオ本人が施設を訪れた。今日は非番なのか、あの時と同じ、ただの大柄な老人にしか見えない格好だった。
「よく決めたな」
施設の応接室で、彼はそう言って笑った。
「怖くはなかったか」
「怖かったです、正直」
僕は素直に答えた。
「でも、怖いからってやめてたら、結局何も変わらない気がしたので」
「……ふむ」
パトリツィオは、感心したように顎を撫でた。
「良い覚悟じゃ」
手続きは、驚くほど速やかに進んだ。書類のやり取り、施設側の確認、後見人としての審査。パトリツィオという名前が、どうやらそれなりの信用を持っているらしいことが、職員たちの態度からも伝わってきた。
出発の日、ミラや他の子供たちが見送りに来てくれた。
「にいちゃん、たまに手紙ちょうだいね」
「うん、書くよ」
「絶対だよ」
「あぁ、絶対な」
約束を交わしながら、僕はふと、一年前に見送った誰かのことを思い出していた。
あの時とは、立場が逆になっている。
見送られる側になって初めて、あの日レミュアンが見せていた笑顔の意味が、少しだけわかった気がした。
馬車――ではなく、意外にも武骨な乗用車の助手席に乗り込みながら、僕はもう一度、施設の方を振り返った。
「……行こうか」
「はい」
パトリツィオがエンジンをかける。車が動き出す。
孤児院の建物が、窓の外でどんどん小さくなっていく。
新しい生活が、始まろうとしていた。
車は、思っていたよりも静かに走った。
窓の外を流れていく景色を眺めながら、僕はしばらく黙り込んでいた。パトリツィオも、無理に会話を続けようとはしなかった。ただ、ハンドルを握る手つきだけが、やけに堂に入っていた。
「これからのことじゃがな」
しばらくして、パトリツィオがそう切り出した。
「お前さんには、学校に通ってもらう。普通の学校じゃ。銃騎士としての訓練は、その後じゃな」
「学校、ですか」
「意外か?」
「もっと、こう……早くから武器を持たされるものかと」
僕がそう言うと、パトリツィオは小さく笑った。
「焦る必要はどこにもない。土台がなければ、いくら鍛えても崩れるだけじゃ。学ぶべきことは、まず学べ」
その言葉には、変な説得力があった。銃騎士だという肩書きからは想像しにくい、地に足のついた考え方だった。
「それとな」
パトリツィオは、前を向いたまま続けた。
「お前さんには、一人、妹分がおる」
「……妹分?」
「フィアメッタという。お前さんと同い年でな。ワシが預かっとる子じゃ」
突然の情報に、僕は少し驚いた。
「僕みたいに、後見という形で?」
「まあ、似たようなものじゃな。詳しいことは、本人から聞くといい。ワシの口から余計なことを話すもんじゃない」
言葉を濁すような口調だった。何か事情があるのだろう、ということだけは察せられたが、それ以上は踏み込まなかった。パトリツィオ自身が、そう望んでいないように見えたからだ。
「フィアメッタさんも、学校に?」
「通っとるよ。普通の、な。射撃の腕は大したものじゃが、それはそれ、これはこれ、というやつじゃ」
「もう、練習をしているんですか?」
「まぁ、お前さんも見れば分かる。ワシの見立てじゃ、あれは将来、相当なところまで行く」
パトリツィオの声には、確かな自負のようなものが滲んでいた。育ての親としての誇らしさなのか、指導者としての期待なのか、その両方なのかは、僕にはまだ判断がつかなかった。
「あ、あと」
パトリツィオは何かを思い出したように、付け加えた。
「学校では、お前さんも普通の生徒として過ごすことになる。ワシが銃騎士だとか、後見人がどうとか、そういう事情は、あまり吹聴して回るもんじゃないぞ」
「それは……気を遣われてる、ってことですか」
「まあ、そんなところじゃ」
パトリツィオは、はぐらかすように言葉を切った。
窓の外の景色が、少しずつ都市部のものへと変わっていく。並ぶ建物の数が増え、行き交う人の姿も多くなってきた。
「フィアメッタさんは、どんな人なんですか」
僕は、少し勇気を出してそう尋ねた。
「……そうさなあ」
パトリツィオは、少し考えるように間を置いた。
「口は悪い。愛想もそう良くはない。じゃが、根っこの部分は、真っ直ぐな奴じゃ」
「それは…少し怖いですね」
「覚悟しておけ、ボロクソ言われるかもしれんぞ?」
パトリツィオは、そう言って笑った。今日初めて見る、屈託のない笑い方だった。
車は、静かに街の中を進んでいった。
新しい生活、新しい学校、そして初めて会う「妹分」。
不安がないと言えば、嘘になる。それでも、隣で運転するこの老人が纏う空気のおかげで、思っていたよりは、ずっと落ち着いていられた。
少し経ってパトリツィオの家は、思っていたよりもずっと質素な造りだった。
銃騎士という肩書きから、もっと物々しい邸宅を想像していたが、実際には、街の外れにある、ごく普通の一軒家だった。庭先には的当ての設備らしきものが置かれていて、そこだけが少し異質な空気を放っていた。
「着いたぞ」
車を降りながら、パトリツィオがそう言った。
玄関の扉が開いて、中から一人の少女が顔を出した。
銀に近い髪色。鋭い目つき。年齢は、確かに僕と同じくらいに見える。頭上に光輪はなかった。
――リーベリか。
そう気付くまでに、そう時間はかからなかった。
「……その子が?」
少女――フィアメッタは、値踏みするような視線をこちらに向けた。歓迎の色は、あまり感じられなかった。
「そうじゃ。今日からここで暮らす」
パトリツィオが答えると、フィアメッタは腕を組んで、じっと僕を見つめた。
「ふうん」
それだけ言うと、彼女はくるりと踵を返し、家の中に戻っていった。
……あれ。
思っていたより、あっさりした反応だった。歓迎されるとも、拒絶されるとも言えない、絶妙な塩梅の態度だった。
「気にするな、あれがいつもの調子じゃ」
パトリツィオが苦笑しながら、荷物を持って玄関へと向かう。
僕も慌てて後を追った。
家の中に入ると、リビングの隅で、フィアメッタが既に椅子に座っていた。両腕を組んだまま、こちらを睨むように見ている。
「あなた、名前は?」
「……ムミヤって言います」
「ふうん。ムミヤ」
フィアメッタは、僕の名前を確かめるように、もう一度呟いた。
「わたしはフィアメッタ。パトリツィオの孫?かしら」
「孫、ですか。妹分だと聞いてましたけど」
「孫で合ってる。妹分は――まあ、あなたから見た場合、話でしょう」
どちらの呼び方も、彼女の中では正解でも不正解でもないらしい。
「学校、一緒になるんだって?」
「はい。同い年だと」
「そう」
フィアメッタは、そこで初めて、僅かに視線を逸らした。
「別に、特別扱いはしないから。学校では」
「そんなつもりもないですけど」
「ならいい」
彼女は組んでいた腕を解き、椅子から立ち上がった。
「射撃、やったことある?」
「いえ、まったく」
「ふうん」
フィアメッタは、値踏みするような目を、もう一度こちらに向けた。今度は、先程とは少し違う色をした視線だった。
「まあ、いいんじゃない。ゼロから教えた方が、変な癖もつかないし」
「教えてくれるんですか」
「パトリツィオが教える。わたしは、それを見て学べって言われてる立場」
彼女は肩をすくめた。
「わたしがあんたに教えることがあるとすれば――」
そこで言葉を切り、彼女は僕の顔を、少し違う角度から見つめた。
「学校での立ち回り方、くらいかな」
「立ち回り方?」
「サンクタじゃない人間が、サンクタだらけの学校でどう振る舞うか、って話。あんたには関係ないだろうけど」
その言葉には、少しだけ棘があった。皮肉なのか、単なる事実の指摘なのか、僕にはまだ判断がつかなかった。
「……それ、大変そうですね」
当たり障りのない相槌を打つと、フィアメッタは意外そうな顔をした。
「同情するの?」
「同情、というか。想像するだけで、面倒くさそうだなって」
フィアメッタは、しばらく僕の顔を見つめてから、小さく鼻を鳴らした。
「変なやつ」
「よく言われます」
「へえ」
そこで初めて、彼女の口元がわずかに緩んだ。笑ったとまでは言えない、ほんの少しの変化だった。
「まあ、いいわ。晩ご飯までに、部屋の準備しといて」
それだけ言うと、フィアメッタは部屋を出て行った。
残された僕は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
口が悪い、とパトリツィオは言っていた。確かに、その通りだった気がする。
それでも、根っこの部分は真っ直ぐな奴だ、という評価の意味も、ほんの少しだけわかった気がした。
「あれで懐いてる方じゃぞ」
いつの間にか隣に立っていたパトリツィオが、そう耳打ちしてきた。
「……そうなんですか」
「初対面の相手にあそこまで喋る方が珍しい。普段はもっと素っ気ないからの」
パトリツィオは、そう言って肩を叩いてきた。
「まあ、ゆっくりやっていけ。焦る必要はない」
その言葉に、僕は小さく頷いた。
新しい家、新しい家族、新しい日常。
まだ何もかもが手探りだったが――少なくとも、最初の一歩は、思っていたよりも悪くない形で踏み出せた気がした。
新しい学校に通い始めて、最初の数日は、驚くほど何事もなく過ぎた。
サンクタの生徒が大半を占める教室の中で、光輪のない生徒――つまりリーベリの生徒は、フィアメッタを含めて数人しかいなかった。
彼女は教室でも、庭で見せたのと同じ調子だった。誰かに愛想を振りまくでもなく、かといって孤立しているわけでもない。ただ、必要以上には踏み込ませない、という距離感を保っていた。
「あんた、あんまり物珍しそうにこっち見ないで」
昼休み、隣の席で弁当を広げながら、フィアメッタが言った。
「見てました?」
「見てた。ちらちらと」
図星だった。彼女の頭に生えた、赤みを帯びた小さな角。白銀の髪に差し込む鮮やかな赤。光輪のない頭上。そのどれもが、僕にとってはまだ物珍しいものだった。
「悪気はないんですけど」
「わかってる。だから、いちいち怒ってるわけじゃない」
フィアメッタは、そう言って肩をすくめた。
「ただ、慣れてほしいだけよ。物珍しいものを見る目で見られるの、正直、あんまり気分良くないから」
「……すみません」
「別に、あんたを責めてるわけじゃないってば」
彼女は少し呆れたように笑って、弁当の続きに手をつけた。
僕もそれ以上は聞かず、自分の弁当箱を開いた。
放課後は、パトリツィオの家の裏庭で、初めての射撃訓練が始まった。
「まずは、構え方からじゃな」
パトリツィオが、練習用の銃を手渡してくる。ずっしりとした重みが、想像していたよりもずっしりと手のひらに伝わってきた。
「重いですよ」
「最初はみんなそう言う。慣れれば、案外気にならなくなる」
パトリツィオの指導に従って、僕は構えの姿勢を取った。ぎこちない構えだったのだろう、フィアメッタが庭の隅から、じっとこちらを見ていた。
「肘、下げすぎ」
彼女がそう言った。
「え?」
「肘。もっと締めて。そんなに下げてたら、反動で毎回ぶれる」
指摘された通りに直してみると、確かに構えが安定した気がした。
「……ありがとうございます」
「別に、教えてって言われたわけじゃないけど」
フィアメッタはそっぽを向きながら、そう返した。
「まあ、あんまり酷い構えのまま撃たれると、こっちが見てて落ち着かないから」
素っ気ない言い方だったが、口を挟んでくれたこと自体が、彼女なりの気遣いなのだろうと思った。
「よし、それでいい。狙って、撃ってみい」
パトリツィオの声に従って、僕は的に向かって引き金を引いた。
乾いた音。反動が肩に伝わる。
弾は、的の端をかすめる程度で、中心には遠く及ばなかった。
「初めてにしては上出来じゃ」
「本当ですか」
「本当じゃとも。フィアメッタの最初なんぞ、撃つことすらできんかった」
「――ちょっと、それ言う必要ある?あなた達みたいに、頭に蛍光灯ついてないの」
フィアメッタが、庭の隅から抗議の声を上げた。
「事実じゃからのう」
パトリツィオはどこ吹く風で笑っている。フィアメッタは、悔しそうにこちらを睨んできた。
「次、もう一回やってみて」
「はい」
僕は言われるままに、もう一度構え直した。
肘を締め、狙いを定める。引き金にかけた指に、少しずつ力を込めていく。
その瞬間、ふと脳裏をよぎったのは、あの路地裏での記憶だった。
本気で命を奪うつもりで構えた、あの日の感触。
今、目の前にあるのはただの的だ。命懸けの場面ではない。それでも、指先に走る緊張感の質は、どこかであの日と繋がっている気がした。
引き金を引く。
乾いた音が、また一つ響いた。
今度は、さっきよりも中心に近い場所に、弾痕が刻まれていた。
「……いいじゃない」
フィアメッタが、少しだけ感心したような声を漏らした。
「筋悪くないし」
「本当に?」
「うん。まあ、慣れてきたらもっと変わってくると思うけど」
彼女はそう言って、初めて、はっきりとした笑みをこちらに向けた。
これまで見せていたどの表情とも違う、素直な笑顔だった。
「その調子でいけば、そのうちわたしにも勝てるかもね」
「すぐ追いついてやりますよ」
「はぁ…十年早いっての、それは」
「気の長い話ですね」
僕がそう言うと、フィアメッタは小さく吹き出した。
夕陽が、裏庭の的を橙色に染めていく。
乾いた銃声と、二人分の笑い声が、静かに響いていた。
新しい生活は、思っていたよりも、悪くないものになりそうだった。
やる気とストックが無いので、しばらく毎日は出ません