パトリツィオの家に来てから、数年が経った。
射撃の基礎から始まった訓練は、少しずつその幅を広げていった。守護銃の整備、体術、戦術の基本。加えて、ラテラーノ法や他国情勢といった座学も、彼は決して疎かにしなかった。
「戦えるだけの執行人は、いずれ壊れる」
座学の合間、パトリツィオはよくそう言っていた。
「腕だけを鍛えても、支える土台がなければ意味がない。知識と規律。それが、長く生き延びるための下地になる」
最初のうちは、正直、退屈に感じることも多かった。前世の記憶がある分、法律や制度の話には、既視感というか、既に知っているような感覚すら覚えることがあった。それでも、この世界特有のルールや歴史は、当然ながら別物として学ぶ必要があった。
守護銃の整備は、思いのほか性に合っていた。
「ここのネジ、締めすぎ」
整備台の向かいから、フィアメッタがそう指摘してくる。
「そんなに締めたら、次の分解のとき苦労するよ」
「……ちょうどいいと思ったんですけど」
「思っただけでしょ、それ」
彼女は呆れたように言いながら、こちらの手元を覗き込んできた。
整備の腕前は、フィアメッタの方が圧倒的に上だった。彼女自身、パトリツィオから「筋がいい」と評されるほどで、僕はもっぱら教わる側に回っていた。
「フィアメッタさんは、いつからこれを?」
「物心つく前から、かな。気付いたら工具握らされてた」
彼女は淡々とそう答えた。
「わたしの場合、リーベリだから、って理由もあると思う。銃騎士になるにしたって、人一倍結果を出さないと、認めてもらえないから」
その言葉には、感情の起伏があまり感じられなかった。もう何年もかけて、その現実に折り合いをつけてきたのだろう、ということだけは伝わってきた。
「大変ですね」
「今更、その感想?」
フィアメッタは苦笑しながら、こちらの整備作業に視線を戻した。
「でも、まあ。ここまでやってきたんだから、今更やめる理由もないし」
彼女はそう言って、器用な手つきで守護銃の部品を組み上げていく。カチリ、と小気味いい音が響いた。
体術の訓練では、何度もパトリツィオに投げ飛ばされた。
「隙だらけじゃぞ」
地面に転がった僕を見下ろしながら、パトリツィオは笑っていた。
「体格差があるのに、真正面から受けようとするからじゃ。躱すことも、大事な技術じゃぞ」
「……次は、躱します」
そう言って立ち上がるものの、実際にはなかなかうまくいかなかった。それでも、繰り返すうちに、少しずつ受け身の取り方や、力の逃がし方が身についていった。
ある日の訓練の後、汗を拭いながら休んでいると、パトリツィオがふと、こんなことを口にした。
「お前さんたちを見ていると、時々、昔のことを思い出す」
「昔、ですか」
「ああ。ワシにも、昔は相棒がおってな」
珍しく、パトリツィオが自分のことを語り始めた。
「銃を作ってくれる、腕のいい職人じゃった。今は――まあ、色々あって、疎遠になっとるがな」
それ以上は語らなかった。ただ、その表情には、後悔とも呼べる、複雑な色が滲んでいた。
「他にも、色々あった。守り切れなかったものも、少なくない」
「……」
「だから、お前さんたちには、同じ思いをさせたくない、と思っとる。それだけじゃ」
パトリツィオは、そう言ってすぐに話を切り上げた。
フィアメッタは、その様子を少し離れた場所から、黙って見ていた。彼女もまた、何か知っているのかもしれない――そう思ったが、あえて聞くことはしなかった。
最初の数ヶ月、僕はまだフィアメッタに敬語を使っていた。
「フィアメッタさん、今日の的当て、どうでしたか」
「悪くなかったんじゃない。あと、その敬語、いい加減やめない?」
「え」
「同い年でしょ、わたしたち。なんかむず痒い」
そう言われても、すぐには切り替えられなかった。長年染み付いた癖というのは、そう簡単には抜けないものらしい。
「……フィアメッタさん」
「呼び方は残すんだ」
フィアメッタが呆れたように笑った。
それから数週間、少しずつ言葉遣いが崩れていった。
「フィアメッタさんって、いつからここに?」
「その敬語、まだ引きずってる」
「あ……フィアメッタは、いつから?」
「うん、それでいい」
数ヶ月経つ頃には、敬語はほとんど抜けていた。
「なあ、フィアメッタ。整備の手順、また間違えた気がする」
「またそこ? 三回目じゃない、それ」
「悪い、覚えが悪くて」
「悪びれてないでしょ、その顔」
遠慮のかけらもない軽口の応酬にも、いつの間にか慣れていた。
半年を過ぎる頃には、二人の間の距離感は、もはや修行仲間というより、口うるさい姉弟のそれに近くなっていた。
「ちょっと、また勝手にわたしの整備道具使った?」
「借りただけだろ、そんな怒ること?」
「使ったら戻せって、前も言ったでしょ」
「戻したじゃん、そこに」
「そこじゃなくて、この位置!」
フィアメッタが、道具箱の一角を指差して抗議してくる。
「そんな細かいこと気にしてたら禿げるぞ」
「はぁ?」
「悪い悪い、言い過ぎた」
「謝る前に手が出てるんだけど」
軽く頭に手刀を落とされたところで、隣の部屋からパトリツィオの声が飛んできた。
「おいおい、喧嘩は外でやれ、備品を壊されたら敵わん」
「喧嘩じゃないです」
「じゃないから」
二人の声が、また揃った。
パトリツィオは大きくため息をついてから、呆れたように笑っていた。
「まあ、これくらい騒がしい方が、家の中も賑やかでいい」
彼はそう呟いて、また自分の作業に戻っていった。
その日の夜、自室に戻ってから、僕はふと気付いた。
最初にこの家に来た日、フィアメッタとの間にあった、あのぎこちない距離感を。
今はもう、その距離のことなど、すっかり忘れてしまっていた。
喧嘩をして、軽口を叩いて、時々は本気で言い合いになって。
それが「普通」になっていることに、なんだか少しだけ、くすぐったい気持ちになった。
夜、割り当てられた自室で、僕はその日習った内容をノートにまとめる習慣を続けていた。
窓の外を見上げると、都市部の明かりの向こうに、微かに星が見えた。
両親を失ってから、もう何年も経つ。リシアさんとの別れも、レミュアンとの別れも、遠い記憶になりつつある――と思いたかったが、実際には、そう簡単に薄れるものではなかった。
それでも、ここでの日々は、確かに僕を作り変えていた。
守護銃の重み。体術の痛み。座学で叩き込まれる規律。フィアメッタの遠慮のない指摘。パトリツィオの、飄々としながらも芯のある教え。
その全てが、少しずつ積み重なって、今の自分を形作っている。
ノートを閉じ、僕は明かりを消した。
明日は休日、何をして過ごそうか。
銃騎士という仕事には、思っていたよりもずっと休みが少ないらしい。
パトリツィオが家にいる日は、月のうち数えるほどしかなかった。遠征、訓練の監督、儀礼行事への出席――理由は様々だったが、とにかく彼は忙しかった。
「今日もいないの?」
朝食の席、僕がそう尋ねると、フィアメッタは肩をすくめた。
「昨日連絡あった。今週いっぱいは戻らないって」
「そっか」
「別に、今更驚くことでもないでしょ」
彼女はパンをかじりながら、そう言った。慣れた口調だった。
最初のうちは、パトリツィオの不在が少し寂しく感じられたものだが、いつの間にか、それも日常の一部になっていた。
「暇なら、街出る?」
食後、フィアメッタがそう切り出してきた。
「珍しいな、誘ってくれるなんて」
「一人で行くのもつまんないから」
素っ気ない言い方だったが、断る理由もなかった。
二人で向かった娯楽エリアは、休日ということもあって、それなりに賑わっていた。
「あそこ、早撃ちの店あるじゃん。やってく?」
フィアメッタが指差した先には、模擬銃を使った射撃ゲームの店があった。反応速度と的中率を競う、よくある娯楽施設だ。
「僕、そういうの向いてなさそうだけど」
「やる前から諦めるやつが一番伸びないって、パトリツィオがよく言ってる」
「説教くさいぞ、それ」
「事実だし」
結局押し切られる形で、僕たちは店の中に入った。
結果は、案の定フィアメッタの圧勝だった。
「……もう一回」
「あと何回やる気? さっきから負け越し増える一方じゃない」
「負けたままじゃ終われない性分なんだよ」
「知らなかった、そんな面倒な性分持ってたんだ」
からかうような口調に、少しだけムキになって、僕はまたコインを投入した。
結局、五回連続で負けた末に、ようやく一勝を拾った。
「あ、勝った」
「今の、店員側の反応が明らかに遅かっただけじゃない?」
「勝ちは勝ちだろ」
「往生際が悪いなあ」
フィアメッタは呆れたように笑いながらも、それ以上は追及してこなかった。
その後は、広場の一角で行われていた、破裂音を売りにした見世物にも立ち寄った。
派手な色の煙と共に、小さな爆発が連続して起こる出し物だった。子供向けの見世物にしては、なかなかに賑やかな演出だ。
「うわ、でか」
一際大きな破裂音に、僕は思わず身をすくめた。
「あんた、案外そういうの苦手なんだ」
「不意打ちには弱いだけだよ」
「戦場でそれ言ってたら、笑えないやつになるけど?二重の意味でね。」
「わかってるよ、それくらい」
軽口を返しながらも、内心では少しどきりとした。彼女の言葉には、時々こうして、修行という枠組みの先にある「実戦」の気配が、さりげなく混じることがある。
娯楽エリアを一通り回った後、僕たちは甘味屋の並ぶ通りへと足を向けた。
「今日はどこから攻める?」
フィアメッタの目が、少しだけ輝いていた。
「珍しく積極的だな、こっちは」
「甘いものは別腹だから」
彼女はそう言って、迷わず一軒目の店へと入っていった。
串に刺さった果物の飴がけ、焼きたての菓子パン、氷菓を挟んだクレープのようなもの。二人で分け合いながら、通りを端から端まで食べ歩いた。
「これ、うまいな」
「でしょ。ここ、わたしのお気に入り」
フィアメッタは、口の端についた粉砂糖を指で拭いながら、満足そうに頷いた。
その顔は、射撃訓練のときとも、座学のときとも違う、年相応の少女の顔をしていた。
「なあ、フィアメッタ」
「何」
「こういう時間、意外と悪くないな」
「良かった。」
彼女は少し驚いたような顔をしてから、小さく笑った。
「わたしも、悪くないと思うけど」
夕暮れの通りを歩きながら、僕たちは他愛のない話を続けた。
パトリツィオが帰ってきたら、この店の菓子を土産に買っていこう、とか。
次の休みは、どこに行こうか、とか。
特別なことは、何もなかった。
それでも、こういう何でもない時間の積み重ねが、いつの間にか、僕にとってかけがえのないものになっていた。