赤みのある照明が照らす、無機質な壁と天井が続く駅の廊下を、一人の青年が走り抜ける。
目を血走らせ、額から流れる大粒の汗も構わず、時折すれ違う貼り紙の掲示に目もくれずに。
「クソッ、クソクソクソッ!? なんだよっ、なんなんだよこれは!?」
唇まで垂れた汗が彼の叫びで弾け、慌ただしくやかましい足音が廊下に響き渡る。
正面には壁、しかし行き止まりではなく左に曲がる道がある。青年は鞄を手に、迷わずその曲がり角へ進んだ。
だがその先に続く道も、同じように白い壁と天井が長々と広がっているだけであった。
「ここはどこなんだよぉ!?」
息を切らせながら、真っ直ぐに廊下を走り続ける。
途中に別の部屋に続くような脇道もあるものの、そこには足を向けず、ひたすら前へ前へ。
足を必死にバタつかせたその先で、青年は正面の壁に右への矢印が表記された案内標識を見ると、今度はすぐにその方向に向かっていく。
しかしそこで、彼は足をもつれさせてしまい、バタッと音を立てて転倒した。
その横を
『ツカマエタ』
「ひっ!?」
黒い粘液が白黒の縞模様の球のような形を取って、ぐるりっ、と仮面が背面に回る。
そして、横一文字に切れ目ができたかと思うと、そこから大きな唇とずらりと並んだ生々しい歯が形成され、伸び出た真っ黒な舌が青年の顔に巻き付いた。
口と鼻が塞がってしまった青年はジタバタと藻掻き、やがてその気力すら失って、腕も足も動かなくなる。
縞模様の異形はその後彼を解放し、今度は顔中ベトベトになって息も絶え絶えの青年の口を開かせ、内部に自分の舌を無理矢理ねじ込んだ。
「も、がぁ……っ……」
『コレデ オマエモ ウラガエシ』
青年の目から徐々に光が失われていき、両目から涙のように黒い粘液が滴り落ちて、口内を侵す舌により顔が縦に真っ二つに裂ける。
『ココデハ ミィンナ ウラガエシ』
ぐったりと天井を仰ぐ彼から離れた異形は、そう言い残して去って行った。
残された青年の身体は、みるみる内に廊下の上で溶け始める。
自分自身ですら、原型を思い出せなくなるほど。
気が付くと、青年は地下鉄の電車の中にいた。
「……あぁっ……?」
現在の時刻は14時。向かいの窓には、座席で鞄を抱えている青年自身の姿が映っている。
頭の中に霧がかかっているようなぼやけた感覚を振り払い、瞼を擦りつつも青年は立ち上がった。
何か、夢を見ていたはず。とても悪い夢を。しかし、それが何だったのかは思い出せない。
彼はそんなことを考えながら、ふらふらとした足取りで電車の扉に向かい、そして躓いて肩を壁にぶつけて転倒してしまう。
それを近くで見ていたスーツ姿の中年の男は、慌てて青年を助け起こそうとする。
「おい、大丈夫か?」
「……」
「なあ君、ちゃんと聞こえてるか?」
昼間から酔っ払いかよ、などというぼやきやくすくすと小さな笑い声も聞こえて来るが、それでも全く動かない青年の顔を見て――。
「うわぁぁぁっ!?」
スーツの男が張り裂けんばかりの大きな悲鳴を上げ、車内は騒然となる。
介抱しようとしていた青年は、口や鼻から黒い粘液を垂れ流し、焦点の定まらない虚ろな目で天井を見上げていた。
さらにその顔には、まるで内側から引き裂いたかのような縦割れの傷ができている。
彼自身が見た夢の中と同じように。
Case.01[
4月の穏やかな春の日差しの下、静かに揺れ動く電車の中。
車内のシートに座る背丈の高い少年が、窓から注がれる陽光に照らされ、うとうとと頭を揺らしていた。
アッシュグレーの髪色に、襟足の長いウルフカットのヘアスタイルで、ヘアピンで前髪を左耳側に留めている。
やや眠気混じりの切れ長の目の中には淡いアイスブルーの瞳があり、視線がボーっと車内の広告を順々に移ろっていた。
「知ってるー? こないだの事件。有名配信者が電車で急にブッ倒れたってヤツ」
不意にそんな噂話が耳に届いて、少年はパチパチと瞬きをした後、愉快そうに笑いながら会話をしている少女二人組の方に目を向ける。
「あぁ、聞いた聞いた。ウチの姉ちゃんがその人と同じ大学に通っててさ、キャンパス中でずっと噂になってたって」
「やばぁー! その配信者の人さぁ、結局どうなっちゃったんだろうね?」
「多分入院してるんでしょ。頭にパックリ傷が出来たらしいけど、命に別状はなかったって聞いたし。どうしてそんなことになったのかは知らないけど」
少女たちはそんな物騒な話題を、先程からずっと人目も憚らずに大口を開けて笑いながら話し続けているようだ。
「やっぱさぁ~、アレのせいじゃないの? 心霊スポット巡り!」
「え、動画見てないけどそんなことしてたの?」
「そーそー。だから、視聴者から『絶対いつか祟られる』って言われてたっぽいよ」
「それって誰から聞いたの?」
「もちろん『ルーマー』で」
「またそれ? アンタ、そのアプリ好きねぇ」
やがて少年は耳を傾けるのにも飽きて、落ち着いた様子でひとつ欠伸をした後、目を閉ざした。
そうして数分後、電車が
電車から降りてからすぐに、少年は取り出したスマートフォンからチャットアプリを開いて待ち合わせ場所と時間を確認した後、目的地に向かって歩き出す。
画面に映っているチャットアプリのユーザー名には、
灰髪の少年、廻は駅を出たすぐ近くにあるコンビニの前で立ち、時が来るのを待つ。
そのすぐ後に、一台の赤い車がコンビニの駐車スペースにやって来ると、中から現れた女性が声をかけに来る。
「あぁ、いたいた。おーい! 廻くん!」
ふわふわとしたセミロングの黒い髪を揺らし、穏やかな柔らかい笑顔を浮かべながら、その20代前半に見える女は廻の前まで歩いて来た。
「もしかして結構待たせちゃった?」
「時間通りでしたよ、叔母さん。今日からお世話になります」
廻が叔母と呼んだ人物は、じっと彼を爪先から頭のてっぺんまで見た後、うんうんと頷く。
「それにしてもおっきくなったねぇ、脚も長っ。私のことは覚えてる?」
「いえ、実は全然……」
「それもそうか。廻くんが2歳か3歳くらいの頃に1回会ったきりだもんねぇ。じゃあ、改めて自己紹介しておくね」
オホン、と咳払いをして柔らかな膨らみのある胸に手を当て、廻の叔母は名乗り始めた。
「私は
「よろしくお願いします」
「……なんかちょっとカタいなぁ、もしかして緊張してる? スマイルスマイル~」
珪子はそう言って自分の頬を指で釣り上げ、唇を笑みの形にする。
廻は少し照れくさくなりながらも苦笑し、珪子と共に車に乗り込む。
やがて発進した車は、目的地の途中の赤信号の前で停車し、廻はまた欠伸をひとつ。その様子を横目に見つつ、珪子は廻へ問いかける。
「姉さんと義兄さんは元気?」
「はい。いつも忙しそうですけど」
「そうだよねぇ、今回は急な海外出張だし。寂しくはない?」
「……そんなには」
僅かに俯きながら、曖昧な微笑みと共に廻がそう返す。
そんな笑顔を見て珪子は眉を下げ、しかし何か声をかけようとする前に青信号になってしまい、再び車を発進させた。
直後に、またも廻は短く欠伸をする。
「眠そうね、大丈夫?」
「すいません、ずっと電車に乗ってたせいかな……」
「いいのいいの、無理しないで。疲れてるならそのまま寝ちゃってね」
廻は自分の眠気がどうにも収まりそうにないと思い、その言葉に甘えて一度目を閉じることにした。
深く、深く意識が沈む。
耳に優しく揺れる波とポコポコという泡の音が僅かに聞こえ、心地の良いピアノの演奏と透き通った歌声が少しずつ響いて来る。
珪子が音楽でもかけているのだろうか。
そう思って薄く目を開いてみると、そこは車の助手席などではなく、大きな豪華客船のラウンジの中であった。
船内の壁も床も天井も青系の色で統一されており、テーブルやカーペットのような家具類も全て青。廻自身、気付けば青いソファーの上に腰掛けている。
「――ようこそ、我がベルベットルームへ……」
青く照らすシャンデリアの薄明かりの下でボーッとしていると、突然に声をかけられた。
対面の席には、黒い礼服を着ている白髪の老人が一人。たった今話しかけて来たのはこの男だ。
右側のソファーには、セーラーワンピースと客室乗務員の制服を組み合わせたような青色の衣服を纏う、長いプラチナブロンドヘアをシュシュでサイドテールに纏めた女が一人座っている。
あまりに異様な光景に、廻のぼんやりしていた意識は徐々に明確になっていき、その顔に困惑の色が宿っていく。
「え……なんだこれ、夢? 誰だ?」
目の前の老いた男に問うと、彼はその顔を上げる。
先程まで影が差し込んでいて分からなかったが、その老人の目はギョロッと大きく見開かれて充血しており、耳も異様に尖った形をしていた。
しかしそれよりも何よりも目を引くのは、その鼻だ。まるで伝承に登場する天狗そのもののような、大きく長い尖り鼻。
あまりに人間離れしたその容姿に、廻は少なからず動揺してしまうが、構わず男は丁寧な言葉遣いで挨拶を始める。
「
イゴールと名乗った老人は、続いて自らの左手で女の方を差した。
「こちらはローレライ、同じくこの部屋の住人です」
「……」
しかし、サイドテールの女は何も語らない。
廻が何事かと訝しんでいると、彼女の視線は手元の本に注がれており、ページを追うのに夢中になっていることに気がついた。
イゴールが静かに、短く咳払いをする。途端に件の女、ローレライは文字通りに飛び上がる。
「はゃっ!? ご、ごめんなさい主様!」
「では自己紹介を」
「は、はい! 私はローレライと申しますぅ! コンゴトモヨロシクデス!」
頬を赤らめながら捲し立てるように言い放って、いつの間にか自分が席を立っていることに気付くと、ローレライはまた顔を赤くして座り込んだ。
再びイゴールは咳払いをし、廻も気を取り直してイゴールたちに尋ねる。
「一体、ここはどこなんだ? 夢なのか?」
「ここベルベットルームは夢と現実、精神と物質の狭間にある空間……貴方の深層心理、心の在りようとも言い換えられます。ですがしかし、驚きましたな。まさか
心が客船の中というのがそんなに珍しいのだろうか、と疑問に思いつつ廻が改めて船内に視線を巡らせて見ると、窓の外から見える景色を目にして、思わず立ち上がった。
ガラスを隔てた遠い先に、もう一枚分厚いガラスがある。さらに視線を下げれば、下は海ではなくそれを模した青い土台のようなもので、本物の海は船の周りを囲んだガラスの先にある。
さらに舳先の向こうの方には、筒状の空洞とコルク栓のようなものが見て取れた。
これでは、まるで。
「ボトルシップ……!?」
巨大なボトルシップで暗闇の中の海を漂っているのか、それとも小さくなった自分がボトルシップで流されているのか。
それは分からないが、ともかく不可解な光景に廻の心が再びざわめく。
だがそんな不安を打ち切ろうとするかのように、イゴールが自分の両手をパシッと叩いて、視線を戻した。
「ここは何かの形で契約を果たされた方のみが訪れる部屋……ですが、どうやら貴方は過去に何処かで契約を結んでおられたようですな」
「……契約? 一体、なんの話を?」
「今は分からずともよろしい。これより貴方はこのベルベットルームのお客人。ここを訪れた以上、貴方は未来を破滅させる災いに直面し、それに抗うため力を磨く運命にある。必ずや私の手助けが必要となるでしょう」
破滅。災い。運命。
未だ完全に理解できていないものの、廻はイゴールの話に真剣な顔で耳を傾けていた。
「これをお持ちなさい」
そう言ってイゴールは、胸ポケットからあるものを取り出し、テーブルに置く。
それは、左右で白黒に分かれた仮面の紋様が付いた、群青色の鍵であった。
「破滅を齎す災厄と対峙する時、貴方はもう一度この部屋を訪れることになる。鍵はそのために使うものです」
鍵を受け取った後、再び瞼が重くなり始める。
「お時間のようですね。それでは、またお会いしましょう」
イゴールの放った言葉の後、廻の意識は再び深く落ちていく。
気が付くと、車は丁度、目的地である珪子の家に到着していた。
時計を確認すると、夢の中で感じたほど時間は経っていなかった。
「あっ、起きた? タイミングいいね」
珪子の住まいは白い壁の一軒家で、2階まであるようだ。今は1人で住んでいるが、かつては廻の母と住んでいたり、同性の友人とシェアハウスしていたのだという。
ガレージに車が駐車され、廻は先程の不思議な夢に首を傾げて瞼を擦りつつも、珪子と共に家の中に入っていく。
事前に送っておいた荷物は2階の客間に全て置いてあり、これからはその部屋で生活するように説明される。
簡単に荷物の整理を終えた後、翌日以降に備え、食事等を済ませて早めに眠ることとなった。
※ ※ ※ ※ ※
生更来市。
自然が近いため都会すぎず、かといってそれなりに商業施設などがあって田舎すぎることもない、いわゆる半都会の新興都市。
廻は両親の仕事の都合で叔母のいるこの地に引っ越すこととなり、今まで過ごしていた関東の高校を離れ、生更来市内の学校へ1年間の転校が決まった。
今日はその学校へ登校する日だ。
朝、目を覚ました廻は、写真立てに飾ってある両親と自分の写真を眺めた後、スマートフォンを取り出してチャットアプリを立ち上げる。
そして、フリック入力画面の前で指を彷徨わせて――結局、何もせずアプリを閉じた。
直後、階下から珪子の呼ぶ声が響く。
「ご飯できたわよ~」
「……行くか」
来客用の部屋で呟きを残した後、廻は部屋を去る。
家族写真には、幼い廻の手を握っている黒髪の男と、車椅子に座って反対側の手を取る黒髪の女の姿が写っていた。
「用意はできてる? 転校初日から遅れないようにね」
「ちゃんと準備してあります」
二人で朝食を済ませた後、客室に戻った廻は早速制服に袖を通していく。
白いワイシャツに、両肩から胸と背に向かってそれぞれ真っ直ぐに白いラインが落ちるチャコールブルーのブレザーと、無地の赤いネクタイ。下はチェック柄のライトグレーのスラックスだ。
襟の左側には学年を示すラペルピンが付いており、廻は2年生なので『Ⅱ』と刻印されている。
「もし仕事が長引きそうな時は連絡するから、その時はゴメンだけど出前とかで適当に何か食べちゃって」
「分かりました」
「もちろん、なるべくちゃんと帰って来るようにはするから!」
安心してね、という声を共に朗らかな笑みを見せる珪子。
廻は少し困ったように笑いつつも頷いて、学生鞄を肩から提げる。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
「……そちらも、行ってらっしゃい」
「うん。行ってきます」
そう言って珪子は車を出すためガレージの方に向かい、廻は駅を目指して歩き出す。
生更来駅から電車で約10分乗った先にある
駅を出て学園までの通学路を歩いていると、すぐに多くの生徒たちの姿が見え始めた。
「おはよぉー!」
「おはよ、放課後時間ある?」
「ヒマだよ~! 何しよっか、カラオケ行かない?」
前方には、集団で姦しくお喋りをする女子グループ。
「なんか今日転校生来るらしいぜ」
「へー。男子? 女子?」
「女子だったら良いなァ」
後ろからは男子同士で他愛のない話をしている二人組もいる。
「アレ知ってる? この前ルーマーで書いてあったんだけどさ〜」
「もしかして『
異性同士の友人らしい二人もおり、他にも様々な生徒の話し声が聞こえて来た。
賑やかな通学路。しかし、まだこの町に来たばかりの廻はというと、誰とも交わらることなくたった1人で黙々と道を歩き続けている。
茶化してはにかんだり、呆れて首を振っていたり、眠そうにしていたり。平穏な通学路を行き交う、多種多様な表情を眺めながら。
校舎に着いて靴を履き替え、廻はすぐに担任の教師に挨拶するため職員室へと向かう。
黒縁の眼鏡をかけた20代後半の女教師で、名前は
「今日からみんなと一緒に勉強する、新しいクラスメイトが増えました。さぁ、自己紹介どうぞ」
美月が名前を黒板に書いてからにこやかにそう告げ、廻に前へ出るよう促す。
「石動 廻、です」
淡々と名乗り終え、静かに一礼。男子であることに嘆く反応が多数、それとは逆にやや色めく声も。
そんな反応もどこ吹く風、廻は指示された窓際の後ろの空いている席へと真っ直ぐ移動し、静かに着席する。
すると、すぐに隣の席から女子生徒が声をかけて来た。
「石動くんだっけ、ヨロシクねぇ~」
長い黒髪の内側をマゼンタに染め、頭頂部で左右にネコ耳のような形でシニョンを作っており、残りは三つ編みにして背中に垂らしている女子生徒。
まつ毛は長く目はツリ気味でパッチリ開いており、爪がネオングリーンで塗られデコレーションされており、ブレザーの下にはマゼンタ色の薄いパーカーを着用している。
好奇に満ちた眼差しを廻に向けながら、しかし急に質問は浴びせずにニッと唇を吊り上げて見せた。
「あぁそだ、教科書見せたげる。良いよね美月ちゃ~ん」
「もう、美月先生でしょう?」
美月はそう言って頬を膨らませるが、お世辞にも怖いとは全く言えず、教室内でクスクスと笑いが起きてしまう。
そうして授業が始まり、彼女は先程言った通りに教科書を見せるのだが――その言い出した本人が、授業の途中で寝息を立て始めた。
果たして起こすべきなのか、疲れているなら邪魔しない方が良いのだろうか。判断がつかなかったので、迷いながらも廻は授業に集中する。
やがて1限目終了のチャイムが鳴ると、隣の席のギャルは飛び起きて頭を抱えた。
「うーわヤッバ普通に寝てたわ!?」
「ごめん、起こした方が良かった?」
そう言った後、廻は「そうだ」と続けて自分のスマホを取り出す。
「俺ので良かったら、スマホでノートの内容撮って送るよ」
「ナイスぅ! じゃあチャットのアドレス交換しようよ、そっちに画像ちょうだい!」
「いいよ。教科書見せて貰ったし」
「あんがとねー! あれ、そーいえばあたしまだ名前教えてなかったくね? あたしは
「よろしく、宮妻」
二人が連絡先を交換し合った後も授業は進み、そして放課後。
廻が帰る支度を進めていると、その前に教室の扉が開き、一人の少年が姿を現した。
学年は同じ2年。廻ほどではないが背は高く、茶色い短髪。やや彫りが深いくっきりとした顔立ちで、キリッとしたアーモンド型の強い眼力の目を持ち、口元にはホクロがひとつ。
制服は着崩しており、ネクタイもやや緩んでいる。
「転校生の石動 廻くんってまだいるか?」
その声を聞いて、真っ先に反応を示したのはアキラだ。
「あっ、ケーブじゃん。どしたん? 石動っちはここだよ」
彼女が指で示すのとほぼ同時に廻が立ち、現れた少年の方に歩いていく。
「石動だけど」
「おう、はじめまして。美月先生から頼まれたんだよ。部活動についての説明とプリントを渡しておくのを忘れてたから、ついでに持って行ってくれって」
「それでわざわざ代わりに?」
「まぁな。もしどこかに入るつもりがあるなら、期限までに届け出ておくように。伝言は以上」
そう締めくくった後で、少年はフッと微笑んで名乗り始めた。
「オレは2-Aの
「え?」
「来たばかりってなら、まだ分からないことも多いだろ? オレは生まれも育ちも生更来なんだ、この町はオレの庭みたいなモンさ。仲良くしようぜ」
悠希がやや気取ったような言動と笑みを見せると、そこにアキラが「はいはいはーい!」と挙手しながら会話に混ざって来る。
「待って待って、あたしも混ぜてよー! 石動っちの話聞きたーい!」
「……って言ってるけど、どうする?」
少しばかり考えた後、廻はゆっくりと頷く。
「いいよ。一緒に帰ろう」
こうして、廻は今日知り合ったばかりの同級生二人と一緒に下校することとなった。
駅までの道のりで、廻は悠希とアキラからの質問に答えたり、逆に廻からもこの町について尋ねていく。
「親が海外勤務になって引っ越しかぁ~。大変だね、昔からそんなカンジなん?」
「海外出張自体はこれが初めて、仕事で家にいないことは何度もあった」
「マジかぁ。ツラくない?」
「……もう高校生だし、そのくらいは平気だよ。別に仲悪いワケじゃないし」
他にも趣味の話や前の学校での交友関係などの話を続けた末、今度は廻の方から悠希たちに質問する。
「お互いの名前を知ってるみたいだったけど、二人は友達?」
すると悠希とアキラは互いに顔を見合わせて、次に廻に向かって頷いた。
「去年は同じクラスだったんだよな」
「なっつかしいね~。ケーブはどーなん? A組では上手くやれてる?」
「ボチボチかね……まぁ、みんなクラス替えの新しい顔触れより別の話題に夢中だけどよ」
別の話題、とは何だろうか。
そう思って廻が首を傾げていると、悠希がその疑問に答え始める。
「知ってるか? ルーマーってアプリ」
「名前くらいなら」
「ありゃ、やってないカンジ? めずらしーね」
アキラが目を丸くし、悠希は自分のスマホを取り出し操作しつつ、廻の隣に立って画面を見せる。
そこには、赤い背景に中央部が目のマークとなっている黒文字の『Я』のアイコンのアプリがあり、
「これがルーマー。まぁ、いわゆるSNSってヤツだな。日常的なことを書き込んだり、趣味の合う相手を見つけてグループを作って交流したり、企業の発信する情報を見たり。自分でニュース記事書いたり掲示板立てたり、あとネットで投稿したマンガとか小説とか。AIに情報を集めさせて纏めて貰ったりもできるな、そっちはあんま使わねぇけど」
「あたしは歌とかギターとかダンスとか動画撮ってアゲてるねぇ~。シンガーソング
「ライターだろ、シンガーソングライター。目指してんなら名前くらい覚えろよな……」
悠希が肩を竦め、画面を操作して話題のニュースや注目されている記事のリストを廻に見せる。
「最近は『有名人』と『怪談』の話題が結構挙がってる。どこそこの配信者が入院しただの、この芸能人は表向き良い人だけど黒い噂があるだの」
「そういえばそんな話をしてる人がいたような……あと、通学路でもカゲユメとかムラサキカガミとかなんとか」
「村前鏡だったらあたしも聞いたことあるよ、確か駅の鏡がナントカってヤツ!」
「多分怪談の都市伝説カテゴリの方だな、調べてみるか」
村前鏡と検索して出て来た記事を閲覧してみると、そこには大体次のような内容が書かれていた。
『村前駅のホームにある鏡をルーマーの画面から撮影してアップロードすると、時折真っ黒な幽霊が写る。写っていてもいなくても、その画像を4年以上保存していると取り憑かれて死ぬ』
概要を読み終えた後、悠希は何か思いついたように顔を上げ、ニッと笑う。
「なぁ、二人とも帰りは電車なんだろ? ちょっと寄って試してみねーか?」
ちょっと鏡を調べるくらいならすぐに済む。
そう思ったのかアキラは容易く賛成し、断る理由も特になかったので廻もルーマーに登録して頷いた。
三人で廊下を歩き、構内の鏡を発見。一人ずつ撮影を始める。
が、怪談に書いてあったような心霊写真が写ることはなかった。
「なんも起きないね?」
「まぁただの怪談だしな、そんなもんだろ」
そもそも幽霊なんて信じてないしな、と付け足した後、悠希は肩を竦める。
確かめることは確かめたので、別の場所に行くか、そろそろ帰るか。
三人で歩きながら話していると、不意に廻のスマートフォンが震え出す。
「……ん?」
画面を確認すると、先程閉じたはずのルーマーが勝手に起動し、ルーマーAIが撮影・保存された鏡の写真を編集し始める。
驚きながらも二人の方を見れば、アキラと悠希も同じ状態になっているようだ。
「これは!?」
「なんだこりゃ、ガチ怪現象かよ!?」
「ウソ、どうなってんの!? アカウント乗っ取られた!?」
やがてルーマーAIが編集を終えた時、そこには鏡の中から這い出てくるドロドロとした黒い影と、それに首を絞められている自分の姿が映っていた。
そして次の瞬間、三人の視界は歪み、意識が遠のき――。
気が付いた時には、廻たちは真っ黒な鏡の前で立ち尽くしていた。
「……え?」
廻は周囲を見回して、その上で状況が理解できず、困惑の声を発する。
無機質で白い天井と壁は赤い光を放つ照明で仄かに染まり、放課後の駅とは思えないほど深い静寂に包まれ、黒い液体で書かれたような矢印の付いた貼り紙が周囲に遍在していた。
「へっ? 何、ここって村前駅だよね?」
「お、オレにも分かんねぇ。駅の中にこんな場所なんてあったかな……」
言いながら、悠希はスマートフォンを手に取り現在地を確認しようとする。
が、彼の端末は画面が暗いまま操作を受け付けない。
悠希が首を傾げている隣で廻も同じようにスマートフォンを取り出すが、結果は同じだ。
「スマホが点かない? なんで?」
「何がどーなってんのぉ!?」
アキラの方も操作ができなかったようで、頭を抱えている。
廻は動揺しつつも、貼り紙の中に『更来』の文字が書いてあるものを発見し、生更来市の各駅の路線図か何かだと思いそれを見に行った。
しかし、その貼り紙には、彼の望む手がかりなどなかった。
なぜならば、そこには生更来ではなく
廻の後ろからそれを見て、アキラの混乱はさらに強まる。
「な、何これ!? 何が起きてんの!?」
「オイオイ、やべぇだろこれ……と、とにかく出口を探そうぜ!」
「出口なんてあるの!?」
「分かんねぇけど探すしかないだろ! 入れるけど出れないなんてあり得ねぇ、ってかそうじゃないとこっちが困る!」
悠希の言葉に廻は頷き、アキラを励ましながら、全員離れないように道を進む。
「どうなってんだよこの駅、マジで気味悪ィ」
「足元とかなんかちょっとネチャネチャしてるところない?」
「うげ、血とかじゃないだろうな……」
廊下はどこまで歩いても続き、同じような景色が延々と広がっている。
その時、突然に構内の明かりが消えてしまう。
「うわッ!?」
瞬間、廻はうずくまって頭を押さえ、ギュッと目を閉じる。
「石動!?」
「どうしたの!?」
驚いた悠希たちが尋ねても、何も返事をしない。
一時的なハプニングだったのか、やがて照明が元に戻って薄暗い廊下に戻ると、廻も目を開いた。
「ご、ごめん。大丈夫、もう……大丈夫」
自分自身に言い聞かせるように立ち上がり、息を切らせて震えを必死に抑えながら廻は告げる。
あまりの様相に、二人は何も問いただすことができないまま、しかし彼を気遣いながら進むことしかできなかった。
そしてしばらく歩いた末に、三人は前方から音が聞こえてくることに気付く。
音の正体ははっきりとはしないものの、それは段々と自分たちの方に近付いていることが、廻には分かった。
「なにか、いる……?」
「人か!? オレたち以外の!?」
悠希の表情が明るくなるのも束の間、照明の下まで辿り着いたその何かの姿を見て、廻の目が見開かれる。
ソレは、人の形をしていない。水色の仮面が張り付いた、黒い粘性の液体。先程からその這う音が聞こえていたのだ。
「うわあああっ!?」
「な、なんだよこれ!?」
アキラと悠希もその人ではない何かに気づくと、大きな悲鳴を上げる。
異形の黒い影はズルズルと接近し、それを見た悠希はアキラを廻に任せ、勢いに任せて飛び出して鞄を振り回す。
「近寄んじゃねぇ、バケモノ!!」
「ケーブ!?」
「お前ら逃げろ!! 速く!!」
必死に叫ぶ悠希に戸惑う廻、しかし彼らの奮闘と葛藤は全て無意味となる。
音が、反対方向からも聞こえて来た。
「ダメだ、後ろからも……」
「なんでぇ!?」
完全に黒い泥のような異形に囲まれてしまった。もはや、打つ手はない。
逃げ出す隙は当然なく、黒い液体はジワリジワリと三人との距離を詰めて来る。
やがて背後の黒い粘液たちから二本の腕が伸び出し、仮面の下が人の頭のような形を取り始めた。
『ココデハ オレタチノ オモイドオリ』
『イマカラ オマエラ ツカマエル』
前にいる黒い粘体たちは浮かび上がり、白と黒の縞を描く球の形となって、仮面が背面に回る。
さらに歯がびっしりと綺麗に並んだ大口が開くと、そこから歪で不気味な声が溢れ出た。
『ツカマエタラ ウラガエス』
『ミンナ ウラガエシ』
『ミンナ ミンナ ウラガエシダ』
異形たちが笑い出す。無力な三人を、嘲笑う。
粘体の腕が悠希とアキラを叩き、縞模様の球の体当たりが廻を打つ。全身を走る鋭く激しい痛みが、これが夢ではないことを物語った。
悠希もアキラも、膝を屈して今にも倒れそうになっている。廻自身も、絶望的な状況に意識を手放しかけてしまう。
そして、次の瞬間。
『そうやっていつものように、大人しくしているつもりか』
「……え?」
廻の頭の中に、突然声が響き渡った。さらに続いて、脳裏に映像がフラッシュバックし始める。
『ここです、このロッカーから赤ん坊の泣き声が!』
『奥さん知ってる? あの子の噂』
『分かってくれとは言わないわ、廻……本当にごめん』
暗闇の中に囚われ泣き続ける幼い自分。近所の住民の陰口に聞こえないフリをする自分。両親に言われるがまま転校に賛成する自分。全て過去の廻自身の行いだ。
他の二人や異形たちには何も聞こえていないし、何も見えていないようだった。
何者かの声はそのまま、厳しい口調で廻に語りかける。
『言われるがまま流されていれば、波風を立てることもなく生きていられる。自分は口答えが許される立ち場じゃない。また、自分にそう言い聞かせるのか。そのせいで、今度はお前の周りの者が傷つくぞ。みんな、みんなだ』
「それ、は……」
『闇を恐れ、待って耐え忍ぶのも悪いことではない。その胸に、希望の灯が宿っているのなら。お前はどうだ』
自分の胸に手を当て、廻は静かに、だが強く確実に拳を握り込む。
「……いや。待つのはもう、うんざりだ」
「石動っち?」
「石動?」
「こんな意味の分からない状況に放り込まれて、死にかけて……それでも耐えていようと思うほど俺はバカじゃない」
すると、その固く握り締めた右手の内に青い灯が宿る。
手を開いてみると、そこには金色のチェーンで繋がれた、ダイアモンドのペンデュラムがあった。
直後、待ちきれないとばかりに異形の縞球が飛び出して来るが、廻がペンデュラムを頭上に掲げた瞬間に凄まじい衝撃波が生じ、怪物たちは吹き飛ばされる。
「たとえ誰も望んでいなかったとしても、俺は!! もっと生きていたい!! 俺を気にかけてくれた人たちのことも守りたい!!」
『……よかろう。古き契約が今、ようやく意味を持った』
その言葉と共に、廻はペンデュラムを前に突き出す。
ダイアモンドの振り子はひとりでに動き、青い炎の円を描く。
それにより廻の頭上にも炎の円が形成され、その内側から青い炎の塊が現れる。
『然らば叫べ、解き放て!! 今こそ己が魂に火を灯せ!! お前自身の強き意志の力と我が復讐の爪牙を以て、立ち塞がるもの総てを砕くが良い!!』
ペンデュラムの
悠希とアキラが呆然と見守る中、ついに青い炎が廻を包み込んだ。
『我は汝――』
「汝は我!!」
一瞬両眼が金色に光った後、廻が楔を解き放つようにペンデュラムを振り抜いた、その時。
「ペルソナァッ!!」
青炎の柱が立ち上ると共に、廻の身体から
真っ黒なコートを羽織り目深に帽子を被っている、右肩に付いた虎の頭の形のアーマーが特徴的な人型の
胸部には肋骨のような形で砕けた牢の意匠が見え、腰には剣を模した金と銀の二挺の長銃を帯びている。
「目覚めろ、モンテクリスト!!」
周囲に青い炎を噴き散らしながら、廻の叫びに呼応して、モンテクリストと呼ばれたそれが帽子の下の赤い瞳を燃え立たせた。