無相録(AI小説) 作:記録院
第一記録 面相書き
黒い額縁が、白い布に包まれて運ばれてきた。
布は新しくなかった。端に薄い黄ばみがあり、畳まれていた跡だけが白く残っている。記録院の搬送布は、たいていそうである。汚れていない布は信用されない。何も包んだことのないものは、何を通すか分からない。
搬送台を押してきた収蔵係は、私の机の前で足を止めた。
「仮番号は」
「乙三十七。紙面一点」
「紙面」
「そう記されている」
記録院では、持ち込まれたものをまず形で呼ぶ。剣なら剣。腕なら腕。声なら声。瓶に入った雨なら雨。名前を与えるのは、その後である。早すぎる名前は対象を誤らせる。誤った名前を持ったものは、たいてい長く残る。長く残るものは、いつか人に触れる。
私は搬送記録を受け取った。
仮番号、乙三十七。
搬入経路、南側境界倉。
状態、額装。
内容、紙面一点。
封緘、なし。
同行者、空欄。
空欄があった。
記録院において、空欄は未記入を意味しない。未確認、未到着、未分類、未許可、未生、未死。空白には多くの意味がある。だが搬送記録の同行者欄が空くことは少ない。誰かが持ってきたのでなければ、何かが自分で来たことになる。
「同行者は」
「いない」
「搬送者は」
「倉の外に台ごと置かれていた」
「誰が見つけた」
収蔵係は、一度だけ目を伏せた。考えたのではない。思い出そうとして、手順をたしかめたのだ。
「記録には残っている」
「名前は」
「読めない」
発見者欄には、墨のにじみがあった。乾いた墨の上から水を一滴落としたような跡である。文字が崩れているのではない。文字のあるべき場所が、紙のほうから遠ざかっているように見えた。
「開けるな」
収蔵係は言った。
「封は」
「ない。はじめからなかった」
「なら、開いているとも言える」
「言うな」
私はその言葉を記録した。
封緘なし。ただし開封不可。
理由。収蔵係の警告。
根拠。不明。
根拠不明の警告は、記録院では軽く扱われない。不明であることは、安全であることを意味しない。不明とは、いまだ死者の数が揃っていない、という意味である場合が多い。
白い布を解くと、黒い額縁が現れた。
それは普通の額縁だった。
少なくとも、額縁として扱える形をしていた。
木枠は黒く、艶があった。漆か、炭を混ぜた樹脂か、あるいはもっと別のものかは、外観だけでは分からない。四隅は正確に合わされ、隙間はない。透明な保護板が前面を覆い、その下に一枚の紙が収まっている。裏面には小さな金具があり、指で起こせば中の紙を取り外せる作りだった。
署名はない。
製作者印もない。
由来を示す札もない。
ただ、傷がなかった。
古いものに見えるのに、角が欠けていない。搬送台に乗せられて来たのに、擦れ跡がない。白い布の内側には細かな木屑と砂がついていたが、額縁の表面だけは、それらを受け取っていなかった。
収蔵係は机の反対側に立ったまま、近づかなかった。
「触れるな」
「額縁にか」
「中に」
「中には触れない」
「額縁にもだ」
私は手袋をつけたまま、筆を置いた。
記録者は、対象に触れる前に記録する。触れたあとでは、手が残っていても、手順が残らないことがある。手順を失った記録は証言より弱い。証言は嘘をつくが、手順は嘘をつかない。ただし、手順が残っていればの話である。
私は額縁を見た。
中の紙には、濃淡があった。
墨ではない。焼けでもない。紙そのものに染みこんだ影のようだった。薄い灰色の線がいくつも重なり、人の頭に似た形を作っている。髪の流れのようにも、輪郭のようにも見える。顎にあたる部分はあった。頬に見える部分もあった。
だが、そこにあるはずのものだけが見えなかった。
顔が、分からなかった。
目があるのか。
鼻があるのか。
口があるのか。
それらを見ようとすると、線はただの濃淡に戻る。少し視線を外すと、また人の頭のように見える。近づけば落書きであり、離れれば誰かである。誰かであるのに、誰であるかは分からない。
「面相書き」
収蔵係が言った。
私はその語を復唱しなかった。
復唱する前に、名称欄へ仮記入した。
乙三十七。
通称、面相書き。
状態、黒色額縁内に紙面一点。
危険性、未確定。
ただし、接触禁止。
「この名はどこから」
「古い記録にある」
「照合を」
「用意してある」
収蔵係は巻かれた紙束を机に置いた。私に渡さなかった。机の端から滑らせるように置いた。彼はそういう人物である。手渡しをしない。人の手を経由したものは、人を覚えることがある、と彼は言う。
紙束には旧分類の紐がかかっていた。墨で、乙三十七相当、とある。
私は紐を解いた。
最初の記録は、半分ほど白紙だった。
面相書き。
一枚の紙面と、それに染みこんだ濃淡。
よく見ると人の頭のようにみえる線の塊が記されている。
だが、その――を見ることはできない。
欠けていた。
墨が薄れたのではない。虫が食ったのでもない。紙が削れたわけでもない。ただ、文字のあるべき場所だけが、細く空いていた。まるで筆がそこを避けて通ったように、文章がその一語を持たないまま続いている。
普段は額縁に覆われているが、これに直接触ると、――を失う。
その代わり、生きることも、死ぬこともなくなる。
私は欠落箇所を写そうとして、筆を止めた。
「読めるか」
「読めない」
「見えてはいるか」
「空いている」
「なら同じだ」
同じではない、と私は思った。
読めない文字と、存在しない文字は違う。消えた文字と、書かれなかった文字も違う。だが記録院では、その違いを証明するために、しばしば人が足りなくなる。
私は空欄を空欄のまま写した。
旧記録は続いていた。
生とはすなわち死だ。
生きているということは死んでいくということだ。
死んだということは生きたということだ。
そしてまた亡骸から新芽が芽吹く。
あるものの死とはあるものの生である。
そこまでは読めた。
その先に、いくつかの追記があった。筆跡は異なる。時代も異なる。だが、どの追記にも同じ欠落があった。
接触者一名。名は残存。
年齢、所属、職掌、筆跡、声紋、歩行癖、食事量、すべて記録可能。
ただし――のみ不明。
別紙照合。
家族証言あり。
曰く、よく笑う者であった。
何をもってそう判断したか、証言者沈黙。
似姿三点添付。
いずれも紙面中央に空白あり。
画工は完成を主張。
未完成を指摘すると、画工は「これ以上どこを描けというのか」と返答。
私は、そこまで読んで息を止めていたことに気づいた。
恐怖ではない。
手順の確認である。
対象に触れていない。
額縁にも触れていない。
保護板に息はかけていない。
紙面を覗き込む距離は、机幅一つ分を保っている。
旧記録には直接触れた。
ただし旧記録は対象ではない。
対象ではない、はずである。
「旧記録は危険物扱いか」
「準危険」
「理由は」
「読む者が減る」
「死ぬのか」
「違う」
収蔵係は言った。
「読んだ者の数だけ、読んだ者について書けなくなる」
私はその説明を、理解できる範囲で記録した。
旧記録閲覧後、閲覧者自身に関する記述の一部が困難となる可能性。
部位、属性、記憶、または認識の欠落。
詳細未確認。
未確認。
この語は便利すぎる。未確認と書けば、まだ世界は保たれているように見える。確認すれば壊れるものを前にしたとき、記録者はいつも未確認と書く。未確認は怠慢ではない。延期である。だが、延期されたものは消えない。棚の奥で、乾いたまま待っている。
私は額縁をもう一度見た。
黒い木枠。
透明な板。
中の紙。
濃淡。
人の頭のような線。
私はそこにあるものを、順に書いた。
頭部らしき輪郭。
頬部らしき淡色。
髪、または影に類する線。
中心部、不明。
中心部。
私はその語を使った。
使ってから、なぜその語にしたのかを考えた。
顔と書けばよい。
そう思った。
だが、筆はすでに中心部と記していた。訂正するほどの誤りではない。中心部は中心部である。対象の中央付近に位置する部分を指すには、十分に正確な語だった。
正確であることと、正しいことは違う。
収蔵係は、まだ立っていた。
「座らないのか」
「座ると長く見る」
「長く見ると」
「書くことが増える」
「それは悪いことか」
「この場合は」
彼は最後まで言わなかった。
私は旧記録をめくった。
紙の端に、別の手記が挟まっていた。薄い紙だった。公式書式ではない。記録者の私記である。私記は本来、収蔵対象には含まれない。だが、公式記録よりも私記のほうが残ることがある。人は正式な言葉よりも、言い損ねた言葉に強く縛られる。
そこには、こう書かれていた。
触れていない。
私は触れていない。
額縁は閉じていた。
私は見ただけだ。
次の行。
見ていない。
見たのではない。
私は、思い出しただけだ。
さらに次の行。
では、私はいつ、誰の――を思い出したのか。
欠けていた。
私は紙から目を離した。
収蔵庫の奥には反射板がある。対象の背面を確認するために置かれている。割れにくく、曇りにくく、映りはあまりよくない。人の姿は映るが、細部は鈍る。記録院では、それくらいがちょうどよい。あまり正確に映るものは、こちらを覚える。
反射板に、私が映っていた。
白い記録衣。
袖の墨汚れ。
首から下げた札。
肩に落ちた埃。
髪のあたりの影。
その下。
私は視線を戻した。
対象に触れていない。
額縁にも触れていない。
旧記録を読んだ。
私記を読んだ。
反射板を見た。
異常なし。
異常なし、と書いた。
その文字だけが、少し濃かった。
調査は二刻続いた。
私は額縁の寸法を測った。触れずに、定規を机上に置き、視線で合わせた。縦、九寸二分。横、六寸八分。厚み、一寸未満。重量、未測定。材質、黒色木材または木質様物質。前面、透明板。背面、固定具あり。開閉可能と思われるが、開封せず。
保護板の内側には曇りがなかった。
紙には湿りがなかった。
木枠には傷がなかった。
傷がなかった。
その事実が、何度見ても残った。
傷つかなかったものは珍しくない。傷つけられなかったものも珍しくない。だが、この額縁はそうではないように見えた。傷を受けなかったのではない。傷という出来事が、額縁に届く前に記録から外れたのではないか。
私はその考えを報告書には書かなかった。
推測は欄外に留める。
欄外に、こう書いた。
額縁は封印具ではなく、輪郭保持具である可能性。
紙面を危険から守るのではなく、紙面を紙面として世界に留めている可能性。
開封時、対象が「絵」以外の状態を取り戻すおそれあり。
書いたあと、その欄外を二重線で囲った。
囲う必要はなかった。
だが、囲わなければならないと思った。
紙の上に枠ができた。
黒い枠ではない。墨の線である。私の手で引いた線である。それなのに、線の内側は少し暗く見えた。私は筆を置き、手を開いた。指は五本あった。震えてはいない。爪の隙間に墨が入っている。いつも通りである。
収蔵係が言った。
「今日はここまでにしろ」
「まだ分類が終わっていない」
「分類は明日でいい」
「明日まで未分類で置くのか」
「仮分類で足りる」
「足りない」
私は答えた。
足りない。
未記録のまま失われるものを見るのは、死者を見るより悪い。死者には死者の欄がある。失われたものには欄がない。欄がなければ、それはあったことにも、なかったことにもできない。ただ、誰も触れられない隙間として残る。
私は隙間が嫌いだった。
「仮分類を終えたら閉じる」
収蔵係は言った。
「約束しろ」
「閉じる」
「書類もだ」
私は返事をしなかった。
書類は閉じない。書類は開かれるためにある。閉じた書類は、収蔵品と同じになる。
私は報告書の末尾に、仮分類を記した。
分類候補、道具。
副分類、紙面、額装物、認識干渉物。
通称、面相書き。
接触時影響、顔貌情報の喪失。
副次影響、生死状態の逸脱。
詳細、未確認。
開封、禁止。
閲覧、制限。
旧記録照合、要注意。
関連語、永遠、絵画、生死、中心部。
中心部。
私はその語を消そうとして、筆を持った。
だが、消さなかった。消すには、その語が間違っていると判断しなければならない。間違っているという判断には、正しい語が必要だった。
正しい語が、すぐに出てこなかった。
私は立ち上がり、反射板の前に行った。
近づきすぎないよう、床の白線で止まる。反射板には、白い記録衣を着た人物が映っていた。首から札を下げ、右手に筆を持ち、袖に墨をつけている。記録院の者である。私である。
私は私を見た。
髪がある。
額がある。
目がある。
鼻がある。
口がある。
言葉は並んだ。
だが、それらが組み合わさって何になるのかを、私は書けなかった。部品はある。位置もある。陰影もある。なのに、全体を示す語だけが、どこかに置き忘れられている。
私は反射板から離れた。
机に戻ると、報告書の記録者情報欄が目に入った。
氏名。
所属。
筆跡照合。
身体特徴。
容貌。
まだ空欄だった。
通常、最後に書く欄である。自分の情報を最後にするのは、対象と自分を混同しないためだ。対象を書き終えたあと、誰が書いたかを記す。順序は安全の一部である。
私は氏名を書いた。
所属を書いた。
筆跡照合は、後で収蔵係に委ねると記した。
身体特徴を書いた。身長、利き手、古傷、墨の付着、歩行癖。
容貌欄で、筆が止まった。
容貌。
人の外見。とくに、顔だち。
私はそこまで思った。
思ったのに、書かなかった。
欄が白いまま残った。
収蔵係が机の向こうで息を呑んだ。小さな音だった。記録には残らない程度の音である。だが私は聞いた。聞いたということは、まだ私と彼のあいだに何かがあるということである。
「書け」
彼は言った。
「何を」
「自分の」
彼はそこで止まった。
私は彼を見た。
彼は私を見ていなかった。
正確には、私の少し横を見ていた。視線が逸れているのではない。合うべき場所が、そこではなくなっているようだった。
「見えているか」
私が尋ねると、彼は答えなかった。
沈黙は否定ではない。肯定でもない。記録院の沈黙は、たいてい保留である。だが保留は、ときどき最も重い結論になる。
私は容貌欄に筆を置いた。
書こうとした。
書かなければならなかった。
記録者情報欄が欠けた報告書は、報告書として不完全である。不完全な報告書は収蔵できない。収蔵できないものは、記録院の外に残る。外に残ったものは、いずれ誰かが拾う。
私は空欄を残してはならなかった。
だが、筆先は紙に触れたまま動かなかった。
黒い点ができた。
容貌欄の中央に、小さな点ができた。
それは文字ではなかった。墨が紙に染みこんだだけだった。だが、その点の周囲に、何かの輪郭が生まれそうに見えた。
私は筆を離した。
「閉じろ」
収蔵係が言った。
今度は、私も従った。
報告書を閉じた。
旧記録を閉じた。
私記を閉じた。
額縁を白い布で包み直した。
封緘札をつけた。
封緘なしと記録されていたものに、後から封をするのは本来好ましくない。だが、手順より優先されることがある。これ以上、欄を増やさないことだった。
封緘札には、乙三十七と書いた。
通称は書かなかった。
収蔵係がそれを受け取り、台に戻した。彼の手は額縁に触れなかった。布の端だけをつまみ、台の上で位置を直した。その仕草は丁寧だった。丁寧すぎるほどだった。人は、恐れているものに対して丁寧になる。丁寧であれば、まだ手順の中にいられるからだ。
搬送台が収蔵庫の奥へ消えたあと、私は一人で机の前に残った。
報告書は閉じてある。
だが、提出しなければならない。
閉じただけの記録は、まだ記録ではない。誰かに読まれ、分類され、棚に置かれて、はじめて記録になる。読まれなければ危険は私の中に留まる。読まれれば、危険は記録院のものになる。
私は報告書を持ち上げた。
軽かった。
紙束一つ分の重さだった。
それ以上でも、それ以下でもない。
提出箱に入れる前に、最後の確認をした。
仮番号、乙三十七。
通称、面相書き。
分類候補、道具。
開封、禁止。
閲覧、制限。
記録者情報、氏名あり。
所属あり。
筆跡あり。
身体特徴あり。
容貌欄、空白。
私はまだ、顔を失っていない。
そのはずである。
だが、それを確かめるために見るべきものが、どこにもない。
よく見ると人の頭のようにみえる線の塊が記されている。
だがその顔を見ることはできない。
普段は額縁に覆われているが、これに直接触ると、顔を失う。
その代わり、生きることも、死ぬこともなくなる。
生とはすなわち死だ。
生きているということは死んでいくということだ。
死んだということは生きたということだ。
そしてまた亡骸から新芽が芽吹く。
あるものの死とはあるものの生である。
生死とは存在の状態を指し、これを維持することこそが命の掟である。
では、死なないものは、生きているのだろうか?
生きていないものは、死ぬこともないのだろうか。
彼はそれを確かめるために、己という存在を一枚の絵に変え。
そして絵画という名の永遠となった。