無相録(AI小説) 作:記録院
報告書は、翌朝には戻ってきていた。
提出箱に入れたはずの紙束が、私の机の中央に置かれている。封は切られていない。受付印もない。戻却印もない。開かれた形跡もなかった。
ただ、表紙の四辺に黒い線が引かれていた。
定規を使ったようにまっすぐな線だった。四隅は正確に合わされている。墨ではない。炭でもない。紙の上に置かれた線ではなく、紙の白さがそこだけ深くなっているように見えた。黒いというより、そこだけ紙が遠い。
私はしばらく、それを見ていた。
報告書を開く前に、手順を確かめる。
机上、異常なし。
封緘、維持。
外装、変化あり。
変化箇所、表紙四辺。
形状、矩形。
性質、枠状。
枠状。
私はそう書いた。
額縁とは書かなかった。
書かなかったことに気づいてから、筆を置いた。
昨夜の報告書には、記録者情報欄があった。氏名、所属、筆跡、身体特徴。そこまでは書けた。最後の欄だけが白かった。その白さについて、私は報告書の中で説明していない。説明できないものは、未確認とされる。未確認は、まだ記録の外に置ける。
だが、報告書そのものに枠がついたなら、話は別である。
報告書は対象ではない。
対象ではないものに、対象の形式が移る。
それは影響である。
影響は、記録されなければならない。
収蔵係は、いつもの時刻に来なかった。
代わりに、赤い札が一枚、報告書の上に置かれていた。朱ではなく、紙そのものが赤い。記録院では、赤い札は中止を意味しない。中止なら黒い札で足りる。赤は、継続である。ただし、継続する者の無事は保証しない。
札には短く書かれていた。
乙三十七、外枠調査へ移行。
紙面を対象とせず。
額縁のみ観察。
開封不可。
接触不可。
記録者、同一。
同一。
私はそこに目を留めた。
同一とは、何と何が同じであることを指すのか。
第一記録を書いた者と、第二記録を書く者。
昨日の私と、今日の私。
顔を記述できなかった者と、まだ自分を私と呼ぶ者。
同じであると記されているなら、少なくとも記録院は、まだ私を分けていない。
それで十分だった。
十分だと思うことにした。
収蔵庫の奥にある器物保全室へ向かうと、乙三十七はすでに作業台の上に置かれていた。白い布は取り払われている。黒い額縁は、四方を細い支柱で囲まれ、宙に浮くように固定されていた。支柱は額縁に触れていない。触れていないはずである。近づいて見ると、支柱の先端と木枠のあいだには、髪一本ほどの隙間があった。
隙間は、見えるものの中でいちばん扱いにくい。
あると言えばある。
ないと言えばない。
だが、そこを何かが通るときだけ、たしかに存在する。
私は作業台の前に立った。
額縁は昨日と同じ形をしていた。
黒い木枠。
透明な保護板。
裏面の固定具。
中の紙。
ただし、今日の調査では中の紙を見ない。
紙面は対象ではない。
見るな、と札にある。
だから私は、額縁だけを見た。
額縁だけを見る、ということは難しい。
額縁は、中に何かを収めるためのものだ。中を見るなと言われたとき、人は中を見ないようにしながら、中を見ないために中を意識する。閉じられた戸は、開いた戸よりも部屋の内側を思わせる。覆われたものは、露出したものよりも輪郭を持つ。
私は視線を木枠の上辺に置いた。
上辺、黒色。
艶あり。
傷なし。
欠けなし。
埃の付着なし。
木目、不明瞭。
材質、木質様。
左辺。
同上。
下辺。
同上。
右辺。
同上。
四辺、異常な一致。
私はそこまで書き、手を止めた。
異常な一致。
それは便利な言い方だった。便利すぎる。四辺が同じように見えることは、額縁として自然である。自然であるものを異常と呼ぶには、異常である理由がいる。だが、理由を探している時点で、私はすでにその一致を疑っている。
なぜ疑ったのか。
傷がないからではない。
古びていないからでもない。
四隅が正確すぎるからでもない。
この額縁には、外側がなかった。
そう書きかけて、私は筆を止めた。
正しくは、外側がないように見える、である。
木枠には外周がある。厚みもある。裏面もある。保護板も紙も、そこに収まっている。外側がないという記述は物理的に誤りである。
だが、額縁の外に視線を移すと、すぐに額縁へ戻される。
作業台、支柱、白い壁、道具棚、私の手。それらは見える。見えているのに、額縁の外に属しているように感じられない。額縁だけが額縁としてあり、他のものは、それを説明する余白になっている。
私は欄外に書いた。
対象は、周囲を背景化する傾向あり。
書いたあと、線で囲わなかった。
囲ってはいけないと思った。
そのとき、背後で足音がした。
「始めたのか」
収蔵係だった。
昨日より少し遅い。彼は私の机にも、報告書にも触れないまま、器物保全室へ来たらしい。袖口に封蝋の赤がついていた。
「赤札があった」
「なら始めるしかない」
「あなたの札か」
「違う」
「誰の札だ」
「読めない」
私は彼を見た。
彼はいつも通りだった。少なくとも、手袋をして、目を細め、額縁に近づきすぎないよう足を止める姿は昨日と同じだった。だが、昨日より一歩遠い。床の白線よりさらに半歩、後ろにいる。
「昨日の報告書は読まれたか」
「読まれていない」
「なら、なぜ戻った」
「戻ってきたからだ」
「答えになっていない」
「記録院では、ときどき十分な答えだ」
収蔵係は作業台を見た。
「中は見るな」
「見ていない」
「見ようとはしたか」
「していない」
「それならいい」
「いいのか」
「悪くなるまでは」
私はその返答を記録しなかった。
記録に適さない言葉がある。適さないというより、記録した途端に重くなる言葉がある。悪くなるまでは、という言葉は、その類だった。
調査は外枠から始めた。
第一試験、粉塵付着。
乾いた灰を、対象上方から散布。
ただし直接接触なし。
灰は、額縁の上に落ちなかった。
いや、落ちなかったのではない。
落ちたはずの灰が、額縁に届く直前で左右に分かれた。風はない。保全室の空気は止まっている。灰はゆっくりと沈み、黒い木枠の上だけを避けて、作業台に落ちた。
作業台には灰が積もった。
支柱にも灰がついた。
私の袖にも、わずかについた。
額縁には、つかなかった。
収蔵係は低く言った。
「触れないだけか」
「受け取らない」
「同じか」
「違う」
私は記録した。
対象表面、粉塵付着なし。
粉塵は対象接近時、進路を変更したように見える。
斥力、不明。
風圧、不検出。
対象は汚染を受け取らない可能性。
汚染。
私はその語を見直した。
灰は汚れである。
だが、汚れとは何か。
物の表面に、それ以外のものが残ることだ。
ならば、額縁は自分以外を残さないのか。
第二試験、液体接近。
水滴一滴。
直接滴下せず、細管により上方保持後、自然落下。
水滴は落ちた。
透明な保護板へ向かい、まっすぐ落ちた。
私は思わず息を止めた。
水滴は板に触れる直前、球形を保ったまま横へ滑った。空中を滑った。板の上を流れたのではない。まだ触れていなかった。水滴は木枠の内側に沿うように一周し、下辺の外側で落ち、作業台に小さな点を作った。
額縁には濡れ跡がなかった。
保護板にもなかった。
私は手順通りに記録した。
対象表面、液体付着なし。
液体は対象表面に接触せず、輪郭に沿って移動。
輪郭は可視面と一致するが、物理面とは未確認。
対象は、触れるものを避けるのではなく、触れたことにしない可能性。
「触れたことにしない」
収蔵係が言った。
読んでいたらしい。
「声に出すな」
「すまない」
「謝るな」
「なぜ」
「謝罪は接続になる」
私はそこで筆を止めた。
謝罪は接続になる。
それは収蔵係の言葉ではないように聞こえた。彼がいつも使う実務の言葉ではない。もっと古い記録の端から剥がれてきたような言葉だった。
「誰の言葉だ」
「覚えていない」
「あなたの言葉か」
「なら、覚えているはずだ」
彼はそう言って、口を閉じた。
第三試験は、本来なら行うべきではなかった。
衝撃試験。
微小打撃。
対象外縁部、接触直前停止確認。
使用器具、革巻き棒。
革巻き棒は、鈍器ではない。破壊を目的としない。対象が力を受け取るかどうかを確かめるためのものだ。昨日の記録では、額縁は傷つかないとされていた。だが、傷つかないものには二種類ある。固いものと、出来事を受け取らないもの。
私は棒を支柱に取り付け、角度を調整した。
手で振らない。手で振れば、私の力になる。器具を用いれば、手順の力になる。記録院では、その違いが大きい。
棒はゆっくりと振れた。
黒い木枠の右辺へ向かう。
触れるはずだった。
乾いた音がした。
だが、音は額縁からではなかった。
革巻き棒の先端が、途中で裂けていた。木枠には届いていない。棒の革だけが、何かに当たったようにめくれ、内側の木が見えていた。
額縁は動いていない。
支柱も動いていない。
保護板も、中の紙も、そのままである。
私は裂けた革を見た。
革は傷ついた。
額縁は傷つかなかった。
それだけなら、額縁が強いということになる。
だが、革の裂け目は、額縁の輪郭と同じ形をしていた。
黒い四角の一辺を、薄く写したような裂け目だった。
「中止する」
収蔵係が言った。
「まだ」
「中止だ」
「理由は」
「棒が対象になった」
私は反論しなかった。
革巻き棒は、額縁を調べるための道具だった。だが、今は革巻き棒の裂け目を調べなければならない。調査器具が調査対象になる。そうなれば、調査は増殖する。増殖した調査は、終わらない。終わらない記録は、収蔵品に近い。
私は第三試験を中止と記した。
理由、調査器具の対象化。
書き終えると、室内が少し暗くなったように感じた。
灯りは変わっていない。
窓はない。
時刻も、まだ昼を過ぎていない。
暗くなったのは、額縁のまわりだった。
黒い木枠の外側に、もう一つ、淡い線が見えた。いや、見えたというには薄い。保護板に映った影とも違う。支柱の影でもない。黒い木枠から一分ほど離れたところに、同じ矩形が浮かんでいる。
外枠。
私はそう書いた。
対象外周に、二重輪郭を確認。
視認角度により消失。
実在性、未確認。
接触、不可。
影、または枠の写し。
枠の写し。
書いた瞬間、報告書の余白に線が増えた。
右端だった。
本文欄の右外側。
何も書く予定のない余白に、細い黒線が一本、すっと伸びていた。
私の筆は動いていない。
私は自分の手を見た。
筆先には墨がある。
だが、紙には触れていない。
線は濡れていなかった。乾いている。はじめからそこにあったような顔をしていた。
顔。
私はその語に引っかかった。
だが、この場合の顔は比喩である。比喩はまだ使える。まだ、使えている。
「どうした」
収蔵係が言った。
「余白に線が出た」
「見るな」
「もう見た」
「なら、囲むな」
「囲まない」
「書くな」
私は沈黙した。
「書くな」
彼はもう一度言った。
書くなと言われると、書くべきことが分かる。
書いてはならないことは、たいてい記録に必要なことだ。記録に必要だから、書くと対象になる。対象になるから、書いてはならない。
私は余白の線を見た。
一本だけなら、線である。
二本あれば、辺になる。
四本あれば、枠になる。
枠になれば、中が生まれる。
中が生まれれば、何かが収まる。
私は筆を置いた。
「閉じる」
私が言うと、収蔵係はうなずいた。
「今日は早い」
「分類は」
「仮で足りる」
「足りないと言うと思った」
「昨日はそう思った」
「今日は」
「足りないものが、増えすぎる」
収蔵係は何も言わなかった。
私は額縁を見ないように、報告書だけを見た。
第二記録の末尾に、仮分類を記す。
対象、乙三十七外枠。
通称、顔を収めるための額縁。
主材、不明。
機能、保護ではなく輪郭保持の可能性。
異常性、対象外物を受け取らない。
付着、不可。
液体、接触不成立。
衝撃、対象化による反転。
副次影響、記録面への枠状線の発生。
開封、禁止。
紙面閲覧、禁止。
額縁単独分類、保留。
私はそこで手を止めた。
通称、顔を収めるための額縁。
そう書いていた。
誰がそう呼んだのか。
昨日の報告書には、その名を書いていない。少なくとも、書いた覚えはない。旧記録にあったかもしれない。収蔵係が言ったのかもしれない。赤い札に書かれていたのかもしれない。
たしかめようとして、私はやめた。
たしかめるためには、前の記録を開く必要がある。
開けば、また何かが増える。
私は報告書を閉じた。
閉じる直前、右端の黒線が少し伸びたように見えた。
一本だったものが、上へ折れた。
折れた先は短い。まだ枠ではない。まだ、ただの線である。
そう記録することもできた。
だが記録しなかった。
収蔵係が額縁に白い布をかけた。
彼の手は布の端だけを持っていた。額縁には触れない。布はゆっくりと黒い木枠を覆い、透明な板を隠し、中の紙を見えなくした。
布の上には、何も浮き出なかった。
それを見て、私は少しだけ息をついた。
安堵ではない。
手順の終了である。
報告書を提出箱に入れる前に、最後の確認をする。
仮番号、乙三十七。
対象、外枠。
通称、顔を収めるための額縁。
開封、禁止。
紙面閲覧、禁止。
異常、枠状線の発生。
記録者情報、前回と同一。
前回と同一。
私はその欄を見た。
昨日のように容貌欄を埋める必要はない。第二記録では、記録者情報は引き継がれる。引き継がれるものは、安全である。少なくとも、新しく書かなくてよい。
そう思ったとき、報告書の余白に、二本目の線があった。
上辺だった。
右辺と上辺。
まだ二本。
まだ、枠ではない。
私は報告書を閉じた。
閉じたまま、提出箱に入れた。
箱の底で、紙が軽く鳴った。
それだけだった。
机に戻ると、私の記録帳が開いていた。
開いた覚えはない。
風はない。
机には私の筆と、乾いた墨皿と、白い余白がある。
余白の四隅に、短い黒線があった。
どの線も、互いには届いていない。
まだ、ただの角である。
まだ、中はない。
私は記録帳を閉じた。
閉じたあとで、気づいた。
閉じた帳面の表紙には、何もなかった。
黒い線もない。
角もない。
ただ、手の下にある紙の厚みだけが、いつもより少し薄かった。
何かが収まるための余白だけが、残っていた。
裏面の突起を動かすと、簡単に中のものを取り外すことができる。
特に署名はなく、製作者が誰かわからず、超自然的な力も宿っていない。
だが、これまでどのように扱われようと、傷一つついたことがない。
それは全くもって普通の額縁にみえる。
中に入っている紙も、ただの落書きのようだ。
だからこそ気にするひとはいなかった。
気にするべきひとがいなくなるまでは。
その丈夫さから鈍器として扱える。
ただし重くはないので、殺傷能力はない。
ただ、血しぶきがかかろうとも、閉じてさえいれば中に入らないので、ひどく殴っても問題はないだろう。
実際、血を拭き取れば、もとの黒だった。