無相録(AI小説) 作:記録院
第四記録は、提出しなかった。
提出しなかった記録は、記録ではない。少なくとも、記録院の分類ではそうなる。書かれ、閉じられ、棚に置かれ、誰かが読める状態になってはじめて記録と呼ばれる。私の記録帳に挟まれたままの紙束は、まだ私記である。私記は証拠にならない。証拠にならないものは、誰かを救うことも、誰かを止めることもできない。
それでも提出しなかった。
舞台具室の奥では、まだ拍手が続いているという。
それを誰が確認したのかは知らない。確認した者がいるなら、その者は観客になっている。観客になった者の証言は、上演の一部である。上演の一部であるものを、上演の外にある記録として扱ってよいのか。私は判断できなかった。
判断できないものを、私は保留と書いた。
保留は、近ごろ増えている。
記録帳を開くと、四隅の線がある。三つの丸がある。丸の下に、舞台の床のような横線がある。その横線の前には、小さな空白がある。誰かが立てるだけの余地がある。
私はそこを見ないようにして、頁をめくった。
次の赤札は、白い小箱と一緒に届いた。
小箱は掌に乗るほどの大きさだった。黒でも白でもない。灰色に近い木で作られている。蓋には封がない。鍵もない。紐もない。ただ閉じているだけだった。開けられるものは、いつも開けられる顔をしている。だからこそ、開ける前に躊躇する。
赤札には、こうあった。
乙五十六。
金属環一点。
割損あり。
小鍵、欠損。
関連候補、乙五十七。
通称、分かたれた運命と寵愛の指輪。
開封可。
装着不可。
施錠部、操作禁止。
記録者、同一。
同一。
その二字は、もはや確認ではなく、宣告のように見えた。
同じであれ。
そう書かれているようだった。
私は小箱を開けた。
中には、割れた金色の指輪が収められていた。
指輪、と記すには幅が広い。輪の一部は厚く、内側には複雑な溝がある。装飾は優美だった。細い蔓のような彫りが外周をめぐり、ところどころに小さな石が埋め込まれている。石は透明ではない。色もはっきりしない。光を受けると、金ではなく、誰かの皮膚の下にある熱のような色を返す。
指輪は割れていた。
引き裂かれるような亀裂である。
切断ではない。
折損でもない。
内側から無理に開かれたようにも見えるが、よく見ると開こうとした痕跡はない。金属の端は荒れているのに、鍵穴の周辺は驚くほどきれいだった。
鍵穴があった。
小さい。
指輪の装飾に紛れるほど小さい。
だが、たしかに穴である。錠前の穴だった。
私は記録した。
乙五十六。
金色指輪状金属環。
外周、優美な彫刻。
内側、銘あり。ただし亀裂により判読不可。
構造、指輪というより錠前に近い。
小鍵穴あり。
開錠痕なし。
割損あり。
鍵、欠損。
鍵、欠損。
その行を書いたとき、筆先が少し重くなった。
欠損とは、そこにあるべきものがないことだ。だが、何をもってあるべきとするのか。鍵穴があるから鍵があるべきなのか。開けられる構造だから、開ける者があるべきなのか。あるいは、開けないことが選ばれたなら、鍵は失われていてもよいのか。
開けられることと、開けることは違う。
開けないことと、開けられないことも違う。
小箱の底には、古い布が敷かれていた。布は淡い青色で、ところどころ金粉が付いている。指輪が擦れた跡ではない。手入れに使われた布のようだった。指輪をきれいに保つためのもの。そう思った瞬間、私は赤札の裏に挟まれた紙片に気づいた。
旧記録である。
女神は移り気な恋を司る。
騎士もまた、振り回される身であった。
女神は言った。
もしあなたが恋をしたら、この鍵を使って外してしまいなさい。
私はそこで読むのを止めた。
恋をしたら、外してよい。
それは赦しなのか。
命令なのか。
試練なのか。
あるいは、最初から外せないものに、外してよいと言っただけなのか。
収蔵係は来ていなかった。
面保全室の係もいない。
舞台具室の前にいた者もいない。
この小箱は、誰の手も経ずに私の机へ置かれていた。そう記録したくなったが、搬送記録には、搬入者欄があった。
搬入者、鍵室補助係。
鍵室。
記録院に鍵室という部屋はない。
少なくとも、私の知る限りではない。
私は搬入者欄を見直した。
やはり、鍵室補助係とある。筆跡は細い。誰かが正式に記入した筆跡である。存在しない部屋の、存在しない係の、存在する記入。
私はその行を写した。
搬入者、鍵室補助係。
該当部署、未確認。
未確認と書いた。
未存在とは書けなかった。
扉が叩かれた。
一度だけだった。
返事をする前に、扉は開いた。
入ってきたのは、収蔵係だった。
彼は小箱を見なかった。机の端で止まり、私の記録帳を見た。記録帳は閉じてある。閉じてあるので、四隅の線も三つの丸も見えないはずだった。だが、彼の視線は表紙の上で止まった。
「提出しなかったな」
「第四記録か」
「ほかに何がある」
「いくつかある」
収蔵係は黙った。
私はその沈黙を記録しなかった。
「第五記録は提出するのか」
「まだ分からない」
「提出したほうがいい」
「なぜ」
「これは、次につながる」
「何に」
彼はそこで、小箱のほうを見た。
指輪ではない。
小箱を見た。
あるいは、小箱の中に収められていないものを見た。
「乙五十七」
「関連候補とある」
「候補ではない」
「では、何だ」
「続きだ」
私は旧記録の続きを読んだ。
騎士は決して指輪を外さなかった。
指輪をきれいに保つため、手入れの道具も特注した。
女神の与えた指輪は運命の神秘を宿し、騎士と女神をつなげていた。
騎士の指輪がいつ割れたのか、いまや知るものはいない。
構造を見る限り、開こうとした痕跡は一切ない。
鍵は閉じられたままだった。
だがいつの間にか、騎士はあの小さな鍵を持たなくなった。
私は紙片から目を離した。
鍵は閉じられたままだった。
この文はおかしい。
鍵が閉じられているのではない。錠が閉じられている。あるいは指輪が閉じられている。鍵は閉じるものではなく、開けるものだ。だが、旧記録は鍵が閉じられたままだったと書いている。
ならば、閉じていたのは鍵なのか。
私は指輪の鍵穴を見た。
穴は小さい。
その奥は暗い。
暗いが、何かが入っていた形跡はない。埃もない。錆もない。摩耗もない。鍵が差し込まれたことがない。そんなふうに見える。
鍵穴は、使われなかった穴である。
使われなかった穴は、使われた穴よりも強く、何かを待っているように見える。
私は記録した。
開錠機構あり。
ただし使用痕なし。
鍵穴内部、摩耗なし。
鍵差込歴、不明。
鍵の存在、記録上は肯定。
実物、未発見。
「鍵は探したのか」
私は尋ねた。
「探した」
「どこを」
「騎士の収蔵室。女神関連棚。恋神系残滓庫。誓約物の抽斗。鍵に関する記録のすべて」
「見つからなかった」
「見つからなかったものは、たいてい記録される」
「では、記録は」
「ある」
収蔵係は私の前に一枚の紙を置いた。
小鍵一点。
所在、旧騎士携帯。
状態、未確認。
現在、所在不明。
備考、持ち主欄黒化。
持ち主欄黒化。
私はその行を見た。
紙の中央に、黒い長方形があった。墨で塗ったものではない。第四記録で見た幕の黒に似ている。文字の上に黒が載っているのではなく、文字がそこだけ黒い幕へ変わったように見えた。
持ち主欄だけが黒い。
「鍵を持っていたのは騎士ではないのか」
「旧記録では、そうだった」
「では、なぜ黒い」
「いまは、そうでない」
「誰が持っている」
「読めない」
「読めないだけか」
収蔵係は答えなかった。
私は黒い欄を見た。
黒は、紙の上で小さな扉のようだった。
その向こうに文字があるのかもしれない。名前があるのかもしれない。あるいは、向こう側には何もなく、こちらが名前のあった場所だと思い込んでいるだけかもしれない。
名前が刻まれていたはずの指輪の内側も、亀裂で潰れている。
鍵を持っていた人物の欄も、黒く潰れている。
名前と鍵。
どちらも、関係を開くためのものだった。
私は指輪を観察した。
直接触れてはならない。
装着不可。
施錠部、操作禁止。
だから私は、薄い棒で指輪を少しだけ回した。回した瞬間、指輪の割れ目がこちらを向いた。内側の潰れた銘が見えた。文字は読めない。だが、二つの名があったように見えた。
いや、一つかもしれない。
あるいは、名ではなく、祈りかもしれない。
誓約かもしれない。
命令かもしれない。
私は記録した。
内側銘、亀裂により判読不可。
複数名の可能性。
単一名の可能性。
文句の可能性。
断定不可。
断定不可。
この語も増えている。
私は断定できないものばかりを書いている。
書くたびに、対象は少しずつ残る。
断定しないことは、対象を弱めるのではない。むしろ、対象がいくつもの形を保つ余地を与える。面はその余地で表情を変えた。三人羽織はその余地で上演を続けた。ならば指輪は、その余地で何をするのか。
収蔵係が言った。
「これは危険か」
「指輪がか」
「そうだ」
「まだ分からない」
「では、何が危険だ」
「外せるということ」
自分で言ってから、私はその言葉を記録した。
外せるということが危険。
外せない鎖は、ただの拘束である。
外せる鎖は、選択になる。
選択は、選ばなかったものを残す。
騎士は指輪を外さなかった。
それは愛かもしれない。
忠誠かもしれない。
意地かもしれない。
恐れかもしれない。
あるいは、外せると知っていたからこそ、外さなかったことに意味が生まれたのかもしれない。
女神は移り気な恋を司る。
ならば、彼女にとって恋は移ろうものだったはずだ。
移ろうものを司る者が、騎士に外せる指輪を与えた。
恋をしたら外してよい、と言った。
それは、騎士を自由にしたのか。
それとも、騎士が自由を使わなかったことを永遠にする仕掛けだったのか。
私は指輪を見た。
割れている。
だが、開いてはいない。
壊れている。
だが、外されたわけではない。
鍵穴はある。
だが、鍵はない。
開こうとした痕跡はない。
だが、鍵を持つ者は消えている。
これほど多くの否定があるのに、指輪はまだ、愛の証のように見える。
私はそれが嫌だった。
美しいものは、判断を鈍らせる。
第四記録でそれを思った。
三人羽織の動きは、ひどく美しかった。
だから、私は拍手した。
この指輪も美しい。
美しいから、愛と呼びたくなる。
愛と呼べば、それ以上考えなくてよくなる。
私は記録した。
対象を愛の証としてのみ扱うことは危険。
理由、選択履歴を隠蔽するため。
「選択履歴」
収蔵係が小さく言った。
「声に出すな」
「すまない」
「謝るな」
私は反射的にそう言っていた。
第二記録の言葉だった。
謝罪は接続になる。
収蔵係は私を見なかった。
ただ、少しだけ眉を動かした。
「覚えているのか」
「何を」
「その言葉」
「あなたが言った」
「覚えていない」
「なら、あなたの言葉ではない」
「それを言ったのも、私か」
私は答えなかった。
指輪の小箱の底に、もう一枚紙があった。
布に隠れていた。薄く、折り目が多い。広げると、手入れ道具の目録だった。
磨き布、一。
細刷毛、二。
香油、小瓶一。
留め具確認針、一。
鍵、なし。
鍵、なし。
目録の最後に、そう書かれている。
鍵がないことが、目録に入っている。
失われたあとで追記されたのか。
最初からなかったのか。
それとも、鍵がない状態を保つための目録なのか。
私は紙を裏返した。
裏には短い文があった。
鍵は預けられた。
誰に。
――に。
その先は黒かった。
持ち主欄と同じ黒である。
私は息を止めた。
黒い欄は、名前を隠しているのではない。
名前のあった場所を、何かが持っていったように見えた。
私は記録した。
鍵預託記録あり。
預託先、黒化。
黒化箇所は持ち主欄と一致する可能性。
鍵は失われたのではなく、預けられた可能性。
預けられた先が記録から脱落した可能性。
収蔵係が、少しだけ後ろへ下がった。
「続けるか」
「続ける」
「鍵を探すことになる」
「探さなければ記録が終わらない」
「終わらせる必要があるのか」
私は答えようとして、止まった。
終わらせる必要。
第四記録は終わっていない。
三人羽織は終われない。
第三記録は、子が笑っていたという断定を残したまま終わった。
第二記録は、余白に枠を残した。
第一記録は、容貌欄を空白のままにした。
私は何一つ終わらせていない。
それでも次の記録へ進んでいる。
進むことと、終わることは違う。
私は進んでいるだけで、終わっていない。
指輪は、外されなかった。
だが、割れている。
騎士は、愛を誓い続けた。
だが、鍵を持たなくなった。
女神は、外してよいと言った。
だが、腕だけが残ることになる。
誰も終わらせていない。
終わっていないものだけが、次へ進んでいる。
私は記録の末尾に仮分類を書いた。
対象、乙五十六。
通称、分かたれた運命と寵愛の指輪。
形状、割れた金色指輪。
構造、錠前状。
鍵穴あり。
鍵なし。
開錠痕なし。
内側銘、亀裂により判読不可。
関連、女神、騎士、恋、誓約。
異常性、外せる拘束としての選択履歴保持。
危険性、愛の証としての誤読。
未解決、鍵の所在、預託先黒化。
関連候補、乙五十七。
私はそこで筆を止めた。
関連候補、乙五十七。
候補ではない。
収蔵係はそう言った。
続きだ、と。
私は候補という語を消そうとした。
だが消さなかった。
続きと書けば、次を呼ぶ。
候補と書けば、まだ保留できる。
保留は増えている。
だが、今は増やすしかない。
小箱を閉じる前に、私は指輪をもう一度見た。
割れ目がある。
鍵穴がある。
開けられるはずだった形がある。
その形は、誰かを待っているようには見えなかった。
むしろ、誰も来なかったことを、誇っているように見えた。
騎士は決して指輪を外さなかった。
その文が、古い記録からではなく、指輪の表面から読めたような気がした。
小箱を閉じた。
閉じると、指輪は見えなくなった。
それだけで、部屋の空気が少し軽くなった。
私は報告書を提出箱に入れる準備をした。
収蔵係が言った。
「これは出せ」
「第四記録は」
「まだ出すな」
「なぜこれはいい」
「指輪は読まれたがっていない」
「どういう意味だ」
「読まれたがっているものより安全だ」
私はその言葉を記録したくなった。
だが、やめた。
提出前に、最後の確認をする。
仮番号、乙五十六。
通称、分かたれた運命と寵愛の指輪。
鍵穴あり。
鍵なし。
開錠痕なし。
黒化欄あり。
乙五十七関連候補。
記録者、同一。
報告書の末尾には、黒化した欄の写しを添付した。
持ち主欄。
預託先欄。
どちらも黒い。
どちらも同じ形に見える。
提出箱に入れる直前、私はその黒い欄の下に、小さな文字を見つけた。
鍵を持つ者。
それだけだった。
誰が書いたのか。
いつ書かれたのか。
写しにあったのか、私が補記したのか、分からない。
私は筆を取った。
消そうとした。
だが、消せなかった。
鍵を持つ者がいるなら、消してはならない。
鍵を持つ者がいないなら、消す必要もない。
どちらにしても、その行は残った。
私は報告書を提出箱に入れた。
紙束が底に触れた。
音はしなかった。
音がしないことに、私は安堵した。
拍手に聞こえなかったからだ。
机に戻ると、記録帳が開いていた。
四隅の線。
三つの丸。
横線。
その前の空白。
そして、横線の端に、小さな輪があった。
金色ではない。
ただの薄い染みである。
輪の一部は切れている。
切れたところに、小さな穴がある。
私はそれを記録しなかった。
記録しないまま、帳面を閉じた。
閉じる直前、輪のそばに黒い点が一つ見えた。
鍵穴のように小さかった。
指輪の内側には名前が刻まれていたようだが、引き裂かれるような亀裂でつぶれてしまっている。
複雑な構造をしており、どうやら指輪というよりは錠前のようだ。
実際、開けるためだろう、小さな鍵穴がある。
女神は移り気な恋を司る。
騎士もまた、振り回される身であった。
女神は言った、もしあなたが恋をしたら、この鍵を使って外してしまいなさい。
騎士は決して指輪を外さなかった。指輪をきれいに保つため、手入れの道具も特注した。
女神の与えた指輪は運命の神秘を宿し、騎士と女神をつなげていた。
騎士の指輪がいつ割れたのか、いまや知るものはいない。
構造を見る限り、開こうとした痕跡は一切ない。
鍵は閉じられたままだった。
だがいつの間にか、騎士はあの小さな鍵を持たなくなった。