無相録(AI小説)   作:記録院

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黄金色に輝く鎧と、それに抱き着く女性の腕。


第六記録 抱かれ騎士

 第五記録の報告書は、提出箱の底で音を立てなかった。

 

 それが良いことかどうか、私はまだ判断できない。音を立てないものは、静かである。静かなものは安全に見える。だが記録院では、静かなものほど長く残る。長く残るものは、いつか人に触れる。

 

 指輪の記録は戻ってこなかった。

 

 戻ってこなかったということは、受理されたということかもしれない。

 あるいは、まだ箱の底にあるのかもしれない。

 あるいは、提出箱そのものが、鍵穴の奥に続いているのかもしれない。

 

 私はそれを確かめなかった。

 

 確かめるためには、箱を開けなければならない。

 開けられるものは、開けないことによって形を保つことがある。

 

 記録帳を開くと、四隅の線がある。

 三つの丸がある。

 横線がある。

 その前に、人が立てるだけの空白がある。

 横線の端には、小さな輪がある。

 輪の一部は切れている。

 切れたところに、鍵穴のような点がある。

 

 その点の隣に、細い赤い線が増えていた。

 

 赤い。

 墨ではない。

 朱でもない。

 紙の繊維の奥から染み出したような色だった。

 

 私はそれを記録しなかった。

 

 記録しないものが増えている。

 増えていることも、私はまだ提出していない。

 

 その日の赤札は、黒い皿に乗って届いた。

 

 皿は浅く、鉄でできている。書類や小物を運ぶためのものではない。液体を受けるための皿だった。底に、細い赤い線が一本ある。乾いている。血かどうかは分からない。記録院では、血であるかどうかを確かめるために、血でないものまで血になることがある。

 

 赤札には、こうあった。

 

 乙五十七。

 鎧一領。

 腕一対。

 刃一振。

 関連、乙五十六。

 通称、抱かれ騎士。

 観察可。

 接近制限。

 背後確認、禁止。

 愛に関する断定、禁止。

 記録者、同一。

 

 同一。

 

 その二字は、もう私をつなぎ止めているようには見えなかった。

 むしろ、同じと書かなければ、私が別のものになってしまうから書いてあるように見えた。

 

 収蔵係は、いつもの時刻に来た。

 

 彼は皿を見た。

 赤札を見た。

 私の記録帳は見なかった。

 

 見なかったことに、私は少しだけ安堵した。

 安堵したことを、私は記録しなかった。

 

「乙五十七か」

 

「続きだと言ったな」

 

「言った」

 

「指輪は戻ってこない」

 

「戻らないほうがいい」

 

「なぜ」

 

「戻ってくると、鍵を探したくなる」

 

「探さなければならない」

 

「そう思う者は、鍵に向いている」

 

 私は彼を見た。

 

 彼は私を見ていなかった。

 小さな皿の底にある赤い線を見ていた。

 

「鍵に向くとは」

 

「鍵穴を見る者のことだ」

 

「それは記録者の仕事だ」

 

「そうだ」

 

 彼は短く答えた。

 

「だから危ない」

 

 乙五十七は、収蔵庫ではなく、礼拝堂跡に置かれていた。

 

 記録院の奥には、かつて礼拝堂だった場所がある。いまは神を祀っていない。祀るべき神がいないからではない。祀ったものが何であったか、記録ごと欠けているからである。祭壇は残っている。壁龕も残っている。色硝子の割れた窓も残っている。だが、どの神のための場所だったのか、誰も書けない。

 

 書けないものは、空のまま残る。

 空のまま残るものは、何かを迎えるのに向いている。

 

 礼拝堂跡の入口には、黒札が三枚貼られていた。

 

 接近制限。

 背後確認禁止。

 応答禁止。

 

 応答禁止。

 

 声掛け禁止ではない。

 相手が何かを発しても、返してはならないという意味である。

 

 私は札を写した。

 

 収蔵係は言った。

 

「聞こえても、聞くな」

 

「声があるのか」

 

「ない」

 

「なら、何が聞こえる」

 

「愛だ」

 

 私は筆を止めた。

 

「断定禁止とある」

 

「だから記録するな」

 

「あなたは言った」

 

「私の言葉ではない」

 

 彼は扉を押した。

 

 礼拝堂跡の中は、金色だった。

 

 光があるわけではない。窓は曇り、壁は古く、床には埃がある。だが奥の祭壇の前に立つものだけが、金色に輝いていた。その輝きが、部屋全体を金に見せている。

 

 黄金色の鎧だった。

 

 人の形をしている。

 胸当て、肩当て、腕甲、腰布、脚甲。どれも精巧で、古い。だが錆びていない。傷も少ない。戦場を経た鎧ではないように見える。けれど、その手には刃があった。月のように湾曲した刃である。細く、長く、冷たい形をしている。

 

 刃の先から、赤い線が垂れていた。

 

 血かどうかは分からない。

 だが、赤かった。

 

 鎧の胸の前には、女の腕があった。

 

 腕だけだった。

 

 肩から先がない。胴もない。首もない。顔もない。二本の腕だけが、騎士の胸に抱きついている。指は細く、手首は白く、肘から先はなめらかだった。肉ではないように見える。石でもない。骨でもない。皮膚の色をした何かでできている。

 

 右腕は騎士の胸の前に垂れ、左腕は鎧の肩へ回されていた。

 抱いている。

 あるいは、吊られている。

 あるいは、鎧に刻まれている。

 

 どれでもあった。

 どれでもないようにも見えた。

 

 騎士は動かなかった。

 

 私は記録を始めた。

 

 乙五十七。

 通称、抱かれ騎士。

 黄金色鎧一領。

 胸部前面、女性様腕一対。

 肉体、確認不可。

 血液、確認不可。

 発声、なし。

 刃一振、月形湾曲。

 刃先より赤色液状線あり。

 姿勢、直立。

 背面、確認禁止。

 

 背面。

 

 私はその語を書いたとき、背後へ回りたいと思った。

 

 それは自然な欲求だった。対象の前面を記録したなら、次は側面、背面である。記録者は全周を求める。全周を見なければ、対象は片面のまま残る。片面のまま残るものは、いつか裏側から現れる。

 

 だが、赤札には背後確認禁止とある。

 

 禁止されると、見たい場所が分かる。

 見てはならない場所は、たいてい記録に必要な場所である。

 

 私は背面を見なかった。

 

 収蔵係は入口の近くに立っていた。

 彼は騎士を見ていない。

 床の赤い線を見ている。

 

 床には赤い点があった。

 刃の先から落ちたものだろう。点は乾いているものもあり、濡れているものもある。濡れているものは新しい。だが騎士は動いていない。動いていない刃から、いまも赤い線が生まれている。

 

 私は記録した。

 

 刃先赤色線、継続。

 滴下速度、不規則。

 液体は床面に点状痕を形成。

 赤色物質の由来、不明。

 対象肉体なしとされるため、自身由来とは断定不可。

 被害者由来とも断定不可。

 

 断定不可。

 

 この語は、ここでも必要だった。

 

 騎士の鎧は美しかった。

 

 そう思った瞬間、私は第四記録を思い出した。

 美しいものは見続けられる。

 見続けられるものは、終わらなくなる。

 

 私は視線を刃へ移した。

 刃も美しかった。

 視線を腕へ移した。

 腕も美しかった。

 

 逃げ場がなかった。

 

 美しいものが複数あると、人は危険から逃げているつもりで、別の危険を見る。

 

 私は目を伏せ、足元を記録した。

 

 床面、石。

 赤色痕、多数。

 滴下痕の乾燥段階、混在。

 対象位置、痕跡中心と一致。

 移動痕、なし。

 

 移動痕がない。

 

 騎士は動いていない。

 動いていないのに、刃には血がある。

 動いていないのに、眼前の敵の首を掻き切るという旧記録がある。

 

 私は旧記録を開いた。

 

 黄金色に輝く鎧と、それに抱き着く女性の腕。

 彼らに肉はない。流れる血もない。

 言葉もなく、しかし愛を示し続けている。

 

 私はそこで目を止めた。

 

 愛。

 

 赤札には、愛に関する断定禁止とあった。

 旧記録には、しかし愛を示し続けている、とある。

 

 禁止は、私に対してだけなのか。

 あるいは、旧記録の断定がすでに何かを固定してしまったのか。

 

 私は続きを読んだ。

 

 それは刃に流れた誰かの血と、乾いたその欠片が剥がれ落ちていくありさまである。

 月のように湾曲した彼の刃は常に眼前の敵の首を掻き切り、そして刃の先に細く赤い線を生み出す。

 

 私は刃を見た。

 

 騎士の眼前には、誰もいない。

 

 いないはずである。

 

 だが、刃の先はわずかに前へ向いていた。まるで、そこに首があるかのように。刃の湾曲は、空白を抱くように伸びていた。空白は、そこに何もないことではない。何かが入る形をしていることだ。

 

 私は眼前の空間を記録した。

 

 対象正面、空白。

 ただし刃の軌道上に、想定対象あり。

 眼前の敵、記録上は存在。

 現認不可。

 空間が斬撃後の形を保持している可能性。

 

 斬撃後の形。

 

 書いた途端、空気が少し冷えた。

 

 収蔵係が言った。

 

「そこまでにしろ」

 

「まだ前面だけだ」

 

「前面だけで足りる」

 

「足りない」

 

「背後を見れば、足りなくなる」

 

 私は筆を止めた。

 

「なぜ」

 

「振り向かなかったからだ」

 

 彼は言った。

 

「騎士がか」

 

「そうだ」

 

「誰に」

 

「女神に」

 

 私は旧記録の続きを読んだ。

 

 かつて女神は己の騎士に、愛を誓わせ、その証として指輪を与えた。

 その寵愛は鎧に刻まれ、常に騎士は抱かれていた。

 女神の腕は常に騎士の胸の前に垂れていた。

 騎士の胸は常に女神の腕の後ろにあった。

 たとえ女神が消え失せようとも、騎士は愛を誓い続け、一度も振り向くことはなかった。

 たとえ女神の腕だけが騎士を抱いていようとも、それを知っていようとも、決して。

 

 私は読んだ紙を閉じた。

 

 一度も振り向かなかった。

 

 だから、背後を見てはならない。

 

 記録者が背後を見ることは、騎士がしなかったことをすることになる。騎士がしなかったことをすれば、騎士の姿勢を壊すのか。あるいは、こちらが騎士の代わりに振り向いたことになるのか。

 

 背後には、何があるのか。

 

 女神の残りか。

 消えた身体か。

 何もない空白か。

 腕の根か。

 騎士の顔か。

 鍵を持つ者か。

 

 考えた時点で、私は背後を見ていたのかもしれない。

 

 私は目を閉じた。

 

 視界を閉じても、騎士の姿は残った。

 黄金色の鎧。

 白い腕。

 月のような刃。

 刃先の赤い線。

 

 目を閉じたまま、それらを思い出せる。

 思い出せるものは、見ていなくても記録に入り込む。

 

 私は目を開けた。

 

 騎士は変わっていなかった。

 

 変わっていないことが、恐ろしかった。

 

 旧記録には、いまも彼は女神へ愛を捧げている、とある。

 彼の刃は常に血を垂らしている。

 鎧は常に黄金色に輝いている。

 

 常に。

 

 この語は危険である。

 

 常には、時間を閉じる。

 常に愛する。

 常に抱かれる。

 常に血を垂らす。

 常に輝く。

 

 それは変わらないことではない。

 変わる余地を奪うことだ。

 

 私は記録した。

 

 対象は、姿勢の持続によって存在を保つ可能性。

 女神の不在後も、抱擁姿勢および誓約姿勢を維持。

 愛の有無は断定不可。

 ただし、愛を示す形式は持続。

 形式が感情に先行している可能性。

 

 形式が感情に先行。

 

 指輪と同じだった。

 

 外せるはずだった指輪を外さない。

 消えたはずの女神へ振り向かない。

 腕だけが残っていても、抱かれ続ける。

 感情があったのかは分からない。

 だが形式は残っている。

 形式が残っているかぎり、周囲はそれを愛と呼びたくなる。

 

 私は呼ばなかった。

 

 呼ばなかったが、分かっていた。

 この鎧は、愛という語を待っている。

 呼ばれれば、それを纏う。

 呼ばれなければ、刃の赤い線でそれを示す。

 

 どちらにしても、こちらが負ける。

 

 礼拝堂跡の奥で、何かが落ちた。

 

 赤い点だった。

 刃先から離れ、床に触れた。

 小さな音はしなかった。

 しかし、私には聞こえた気がした。

 

 拍手ではない。

 鍵の落ちる音でもない。

 血が床を選ぶ音だった。

 

 私はその音を記録しなかった。

 

 収蔵係が言った。

 

「戻るぞ」

 

「まだ終わっていない」

 

「終わらない」

 

「またそれか」

 

「そうだ」

 

 彼は初めて、騎士の方へ少しだけ顔を向けた。

 見てはいない。

 ただ、顔の向きだけを変えた。

 

「これは上演ではない。だから閉幕しないのではない」

 

「では何だ」

 

「姿勢だ」

 

「姿勢」

 

「姿勢は、終わらない。崩れるか、保たれるかだけだ」

 

 私はその言葉を記録した。

 

 姿勢は、終わらない。

 崩れるか、保たれるかだけだ。

 

 抱かれ騎士は、保たれている。

 

 何によって。

 女神の腕によって。

 誓約によって。

 指輪によって。

 振り向かなかったことによって。

 あるいは、そう記録されたことによって。

 

 私は騎士の胸を見た。

 

 女神の腕は、鎧の胸の前に垂れている。

 騎士の胸は、その後ろにある。

 つまり、騎士は自分の胸を前面に持たない。

 胸を持っているのに、胸の前には女神の腕がある。

 

 寵愛は、鎧に刻まれている。

 腕は、胸を隠している。

 指輪は、外されなかった。

 鍵は、失われた。

 

 騎士自身はどこにあるのか。

 

 鎧の中か。

 刃の先か。

 腕の後ろか。

 見てはならない背後か。

 

 私は記録した。

 

 対象個体性、不明。

 鎧、腕、刃、赤色線、誓約記録の複合により「騎士」と認識される。

 肉体の所在、不明。

 主体の所在、不明。

 女神の腕の実体、不明。

 騎士と腕の関係、抱擁、拘束、装飾、刻印、いずれも断定不可。

 

 書き終えたとき、私は少しだけ楽になった。

 

 不明と書くことは逃げである。

 だが、ここでは必要だった。

 愛と書けば、固定される。

 呪いと書けば、固定される。

 信仰と書けば、固定される。

 だから、不明と書く。

 

 不明は、対象を救わない。

 ただ、こちらが対象を壊さずに離れるための余白になる。

 

 そのとき、騎士の刃が動いた。

 

 動いたように見えたのではない。

 動いた。

 

 月のような刃が、わずかに傾いた。

 赤い線が揺れた。

 床に落ちるはずだった一滴が落ちず、刃の先にとどまった。

 

 私は息を止めた。

 

 収蔵係が低く言った。

 

「見るな」

 

「どこを」

 

「刃の先を」

 

 私はすでに見ていた。

 

 刃の先には、赤い滴があった。

 滴の中に、何かが映っていた。

 

 黄金色。

 白い腕。

 黒い床。

 私の記録衣。

 

 そして、騎士の背後。

 

 滴は小さい。

 映るはずがない。

 見えるはずがない。

 だが、そこに背後があった。

 

 私は見てしまった。

 

 背後には、何もなかった。

 

 何もなかった。

 

 女神の身体はなかった。

 腕の根もなかった。

 首もなかった。

 顔もなかった。

 背中だけがあった。

 黄金色の鎧の背中。

 それだけだった。

 

 だからこそ、騎士は振り向かなかったのか。

 

 振り向いても、何もないからか。

 あるいは、振り向かないことで、何かがあることにしているのか。

 

 私はそれを記録してはならないと思った。

 

 だが、思ったことは残る。

 残ったものは、いつか記録になる。

 

 刃の赤い滴が落ちた。

 

 床に触れた瞬間、私は首筋に冷たさを感じた。

 

 斬られてはいない。

 痛みもない。

 血も出ていない。

 

 ただ、首の前に細い線を引かれたような感覚があった。

 

 眼前の敵。

 

 旧記録の語が戻った。

 

 月のように湾曲した彼の刃は常に眼前の敵の首を掻き切り、そして刃の先に細く赤い線を生み出す。

 

 騎士の眼前にいたのは、誰だったのか。

 

 いま、私はどこに立っているのか。

 

 白線の外である。

 礼拝堂跡の入口近くである。

 騎士の正面には近づいていない。

 そう手順上は言える。

 

 だが、私は刃の滴に映った。

 映ったなら、眼前に入ったのかもしれない。

 

 収蔵係が私の肩を掴んだ。

 

「戻る」

 

 強い力だった。

 

 私は抵抗しなかった。

 

 礼拝堂跡を出るまで、騎士は動かなかった。

 動かなかったはずである。

 だが、扉が閉じる直前、刃の赤い線が一度だけ細く伸びたように見えた。

 

 扉が閉じる。

 

 廊下に出る。

 空気が冷たい。

 私は首に手をやった。

 

 傷はなかった。

 手袋にも赤はつかなかった。

 

 収蔵係は言った。

 

「書くな」

 

「何を」

 

「背後」

 

「見ていない」

 

「なら書くな」

 

「見たとしたら」

 

「なおさら書くな」

 

 私は黙った。

 

 応答禁止。

 礼拝堂跡の札を思い出した。

 

 答えなければならない問いがある。

 答えてはならない問いもある。

 答えてしまえば、その関係が成立する。

 

 騎士は愛しているのか。

 女神はそこにいるのか。

 腕は抱いているのか、縛っているのか。

 血は誰のものか。

 騎士は誰なのか。

 

 すべて、答えてはならない問いだった。

 

 私は廊下の長椅子に座り、報告書をまとめた。

 

 乙五十七。

 通称、抱かれ騎士。

 黄金色鎧一領、女性様腕一対、月形湾曲刃一振。

 肉体、血液、発声、いずれも確認不可。

 ただし、刃先より赤色液状線が継続。

 旧記録上、女神の騎士。

 乙五十六の指輪と関連。

 女神の寵愛は鎧に刻まれたとされる。

 女神消失後も、騎士は振り向かなかったと記録。

 愛の有無、断定禁止。

 形式としての抱擁および誓約姿勢は持続。

 背後確認、禁止。

 刃先反射面への視線固定、禁止。

 正面空間への立入、禁止。

 対象は、姿勢を崩さず、眼前の空白に斬撃後の形を保持している可能性。

 

 私は最後の行で筆を止めた。

 

 可能性。

 

 また逃げた。

 

 だが、ここで断定すれば、私は眼前の敵になる。

 あるいは、すでになっていたかもしれない。

 

 首筋が冷たかった。

 

 私はそのことを書かなかった。

 

 収蔵係は、私の報告書を見ていた。

 口を出さなかった。

 読み終えたあと、ただ一箇所を指差した。

 

 背後確認、禁止。

 

「足りない」

 

 彼は言った。

 

「何が」

 

「背後という語を使うな」

 

「札にはある」

 

「札は外にある。報告書は残る」

 

「では、どう書く」

 

「振り向きに関する行為、禁止」

 

 私は書き直した。

 

 振り向きに関する行為、禁止。

 

 そのほうが正確だった。

 背後を見るな、ではない。

 騎士の代わりに振り向くな、ということだった。

 

 報告書を閉じた。

 

 提出するかどうか迷った。

 第五記録は提出した。

 第四記録は提出していない。

 第六記録はどうするべきか。

 

 収蔵係は言った。

 

「これは出せ」

 

「なぜ」

 

「出さないと、礼拝堂へ戻る」

 

「私が」

 

「記録が」

 

 私は報告書を見た。

 

 記録が戻る。

 それは、私が戻ることとどれほど違うのか。

 

 判断できなかった。

 

 だから、提出した。

 

 提出箱に紙束を入れる。

 今回は音がした。

 

 短く、乾いた音だった。

 

 拍手ではない。

 鍵の音でもない。

 刃が、遠くで何かを掠めたような音だった。

 

 机に戻ると、記録帳が開いていた。

 

 四隅の線。

 三つの丸。

 横線。

 その前の空白。

 端の小さな輪。

 鍵穴の点。

 細い赤い線。

 

 そして、赤い線の先に、黄金色の小さな点があった。

 

 点は、人の形には見えなかった。

 鎧にも見えなかった。

 ただ、光の粒のようだった。

 

 その背後に、白い腕のような線が二本あった。

 

 私は記録帳を閉じた。

 

 閉じる直前、その白い線が、金色の点を抱いたように見えた。

 

 愛とは書かなかった。

 

 そう書かなかったことだけを、覚えておくことにした。

 




 彼らに肉はない。流れる血もない。
 言葉もなく、しかし愛を示し続けている。
 それは刃に流れた誰かの血と、乾いたその欠片が剥がれ落ちていくありさまである。
 月のように湾曲した彼の刃は常に眼前の敵の首を掻き切り、そして刃の先に細く赤い線を生み出す。

 かつて女神は己の騎士に、愛を誓わせ、その証として指輪を与えた。
 その寵愛は鎧に刻まれ、常に騎士は抱かれていた。
 女神の腕は常に騎士の胸の前に垂れていた。
 騎士の胸は常に女神の腕の後ろにあった。
 たとえ女神が消え失せようとも、騎士は愛を誓い続け、一度も振り向くことはなかった。
 たとえ女神の腕だけが騎士を抱いていようとも、それを知っていようとも、決して。

 いまも彼は女神へ愛を捧げている。
 彼の刃は常に血を垂らしている。
 鎧は常に黄金色に輝いている。

 その血が誰のものなのか、鎧は何でできているのか。
 騎士は誰なのか、女神の腕は何なのか。
 愛は存在するのか?
 知ることも知るものも存在しない疑問に抱かれたまま、騎士はいまも存在する。
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