無相録(AI小説)   作:記録院

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 ある人物が編み出した技術。


第七記録 諸相無縁

 第六記録は提出された。

 

 少なくとも、私の手は提出箱に紙束を入れた。

 箱の底で、短く乾いた音がした。

 拍手ではなかった。

 鍵の音でもなかった。

 刃が遠くで何かを掠めたような音だった。

 

 それを聞いたあと、私はしばらく自分の首に触れていた。

 

 傷はない。

 血もない。

 痛みもない。

 だが、首の前にはまだ細い線があるように感じられた。皮膚の上ではない。記録の上である。私という人物を記す欄の、首にあたる場所に、赤くない線が一本だけ引かれている。

 

 私はそれを記録しなかった。

 

 記録しないものが、もう記録帳の余白に入りきらなくなっている。

 

 四隅の線。

 三つの丸。

 舞台の床。

 立てるだけの空白。

 切れた輪。

 鍵穴。

 赤い線。

 金色の点。

 それを抱く白い線。

 

 私は、開くたびにそれらを見ている。

 見ているが、記録していない。

 記録していないのに、覚えている。

 覚えているのに、確かめるたび、少し違う。

 

 だから、私は帳面を閉じたままにする時間が増えた。

 

 帳面を閉じれば、私は記録者ではなくなるのか。

 

 そんな問いが浮かんだ。

 

 浮かんだだけなら、まだよい。

 書かなければ、問いにはならない。

 問いにならなければ、答える必要もない。

 

 その日の赤札は、届かなかった。

 

 代わりに、収蔵係が来た。

 

 彼は何も持っていなかった。皿も、箱も、旧記録も、赤札もない。白い手袋だけをして、私の机の前に立った。いつものように対象を見ない距離ではない。対象がないのだから、距離は測れない。彼はただ、私の前に立っていた。

 

「今日は収蔵品ではない」

 

「では何だ」

 

「手順だ」

 

「手順なら、文書で足りる」

 

「文書では足りなくなった」

 

 彼はそう言った。

 

 私は筆を取らなかった。

 取れば、その言葉は記録になる。記録になれば、彼が何かを始めたことになる。彼が始めたことになれば、私は応じなければならない。

 

 応答禁止。

 

 礼拝堂跡の札が頭に残っている。

 

「何の手順だ」

 

 結局、私は尋ねた。

 

 尋ねることは応答ではない。

 そう考えた。

 

 だが、尋ねた時点で、関係は始まっていた。

 

 収蔵係は言った。

 

「見るものから外れる手順だ」

 

 私は彼を見た。

 

 彼は私を見ていなかった。

 机の上でも、閉じた記録帳でもなく、私の肩の少し横を見ていた。第一記録の最後、容貌欄の前で彼が見ていた場所と似ていた。

 

「私に必要なのか」

 

「必要かどうかは知らない」

 

「では、なぜ」

 

「もう見られすぎている」

 

 見られすぎている。

 

 私はその語を記録したくなった。

 だが、筆を取らなかった。

 

 収蔵係は続けた。

 

「面相書きは顔を欠けさせた。額縁は輪郭を移した。面は表情を受け取り手に渡した。三人羽織は観客を得た。指輪は選ばなかった選択を残した。騎士は姿勢を保った」

 

「だから」

 

「すべて、君を見ている」

 

 私は黙った。

 

 対象が私を見る。

 その言い方は不正確である。

 面相書きには目がない。額縁にもない。面には目の孔がない。三人羽織の面にもない。指輪に目はない。騎士が見たかどうかも分からない。女神の腕には顔がない。

 

 それでも、見られている。

 

 この場合の見るとは、眼で受け取ることではない。

 関係の中に置くことである。

 名を持たせること。

 役を与えること。

 対象として扱うこと。

 相手に、こちらへ伸びる線を持たせること。

 

 私は、それをしてきた。

 記録するとは、そういうことだった。

 

「諸相無縁」

 

 収蔵係は言った。

 

 その語は、以前からどこかにあった。

 

 第一話では出ていない。

 第二話でも出ていない。

 第三話でもない。

 第四話でもない。

 第五話でもない。

 第六話でもない。

 

 だが、私の記録帳のどこかに、その語のための空白があった。

 

「技術か」

 

「そう記録されている」

 

「誰が編み出した」

 

「読めない」

 

「またか」

 

「今回は、読めないほうがいい」

 

 収蔵係は、懐から一枚の紙を出した。

 薄い紙だった。

 旧記録の紙ではない。訓練手順の写しのようだった。墨は新しい。だが、文章のところどころに、言い古されたような乾きがある。

 

 そこには、こう書かれていた。

 

 諸相無縁。

 ある人物が編み出した技術。

 複数の動作が持続している間、他者による超自然的な干渉を無力化し、また自身の動作を認識しづらくする効果を持つ。

 

 私は読んだ。

 

 読むだけなら安全だ。

 そう考える癖は、もう捨てるべきだった。

 

 文章は続いていた。

 

 これを編み出した人物は、この技術をあくまで基礎だと話したという。

 実際、極めて高度な技量がいるが、精度のほかに要求される要素がなく、故に使い手を選ばない。

 これが世に広まっていないのは、その都合の良さが不都合だからだろう。

 

 都合の良さが不都合。

 

 私はそこに目を留めた。

 

 収蔵係が言った。

 

「覚えるな」

 

「読ませておいて」

 

「覚えるのと読むのは違う」

 

「違うのか」

 

「違わなければ、記録者は一日でいなくなる」

 

 私は紙を机に置いた。

 

「これを使えば、対象から逃れられるのか」

 

「逃げるのではない」

 

「隠れるのか」

 

「隠れるのでもない」

 

「では何をする」

 

「相を渡さない」

 

 相。

 

 諸相。

 

 世のものを見て感じるとき、人はそこに諸相を見出す。

 これはすなわち角度であり、受け取り方でしかない。

 

 紙の下のほうに、その一文があった。

 

 角度。

 受け取り方。

 父に見える。

 母に見える。

 子が笑っている。

 演技が美しい。

 愛がある。

 姿勢が保たれている。

 顔がない。

 額縁が外を背景化する。

 指輪が待っている。

 騎士が振り向かない。

 

 それらは、対象そのものではない。

 私が見出した相である。

 

 だが、相がなければ、記録できない。

 

「記録と相は違うのか」

 

 私は尋ねた。

 

「違うと思っていたのか」

 

 収蔵係は答えた。

 

 私は黙った。

 

 記録とは、対象をありのままに写すことではない。

 見たもの、聞いたもの、触れなかったもの、欠けたもの、保留したもの、禁止されたもの。

 それらを選び、並べ、名を付けることだ。

 つまり、相を作ることだ。

 

 ならば、諸相無縁とは何か。

 

 記録者が記録者であるための手を、自分で弱める技術ではないのか。

 

「やるのか」

 

 収蔵係が言った。

 

「やらなければ」

 

「対象たちは、君を覚える」

 

「やれば」

 

「こちらが、君を覚えにくくなる」

 

「どちらがましだ」

 

「ましなほうを選ぶ余地があるうちは、まだましだ」

 

 私は立ち上がった。

 

 訓練は、境界廊で行われた。

 

 境界廊は、記録院の北端にある。まっすぐな廊下でありながら、端が見えない。曲がっていないのに、まっすぐ先を見ようとすると、視界が紙をめくるようにずれる。左右には収蔵室が並んでいるが、扉の数は歩くたびに変わる。記録上は二十一扉。実見では十九から二十四の間で揺れる。

 

 境界番が待っていた。

 

 初めて見る人物だった。

 

 年齢は分からない。男か女かも、すぐには決められない。記録院の衣ではなく、灰色の外套を着ている。外套の裾には、白い糸で細かい線が縫われていた。線は模様ではない。道筋のようにも、文字の失敗のようにも見える。

 

 境界番は、私を見た。

 

 いや、見たのかどうか分からなかった。

 視線が合った気がしたが、目を見た記憶がない。

 顔はあった。

 あったはずである。

 だが、顔を記述しようとすると、帽子の影、灰色の襟、細い首筋、外套の皺ばかりが出てくる。

 

 私は筆を取ろうとした。

 

「書くな」

 

 境界番が言った。

 

 声は若かった。

 あるいは、古かった。

 

「ここでは書かない」

 

「記録者にそれを言うのか」

 

「ここでは、記録者であることを少しやめる」

 

「やめられるものか」

 

「やめられないから、少しにする」

 

 境界番は、廊下の中央に立った。

 

「諸相無縁は、消える術ではない」

 

「収蔵係にも言われた」

 

「なら忘れろ」

 

「なぜ」

 

「同じ説明を二つ持つと、どちらかを正しいと思う」

 

 私は返事をしなかった。

 

 境界番は続けた。

 

「見る者は、そこに相を作る。速い、遅い、近い、遠い、敵、味方、父、母、子、愛、刃、血、顔、名前。相ができれば、関係ができる。関係ができれば、干渉できる」

 

「諸相無縁は、その関係を断つ」

 

「断つのではない」

 

「では」

 

「結ばせない」

 

 境界番は、右手を上げた。

 

 それはただの動作だった。

 肩が上がり、肘が曲がり、手首が少し遅れてついてくる。

 しかし、私が手を上げたと認識したとき、境界番の手はもう下がっていた。

 

「見えたか」

 

「見えた」

 

「何が」

 

「手を上げた」

 

「それは、手を上げたという相だ」

 

「実際に上げただろう」

 

「実際とは、君が遅れて与えた名前だ」

 

 私は反論しようとして、やめた。

 

 境界番は、また手を動かした。

 今度は、私は指を見ようとした。

 指ではなく、肘を見る。

 肘ではなく、肩を見る。

 肩ではなく、足を見る。

 どこを見ても、動きは掴めなかった。

 

 動いたあとだけが残る。

 

 終わったものだけが、見える。

 

 無相活殺。

 

 その語が頭に浮かんだ。

 

「それはまだ早い」

 

 境界番が言った。

 

「読んだのか」

 

「顔に出た」

 

 私は一瞬、息を止めた。

 

 顔に出た。

 

 その言葉は、私に使えるのか。

 

 第一記録の容貌欄は空白である。

 私の顔は、記録上ではまだ書かれていない。

 それなのに、境界番は顔に出たと言った。

 

「見えているのか」

 

 私は尋ねた。

 

「何が」

 

「私の」

 

 そこで言葉が止まった。

 

 顔。

 

 言える。

 言えた。

 

 だが、その語は少し遠かった。

 

 境界番は答えた。

 

「見えているかどうかを、私に預けるな」

 

 私は黙った。

 

「顔は、見られるための場所だ。だが、見られることを他人に任せすぎると、そこは他人のものになる」

 

 その言葉は、記録すべきだった。

 だが、ここでは書くなと言われている。

 

 書けない言葉ほど、よく残る。

 

 境界番は、私の前に三つの小石を置いた。

 灰色の石である。

 左、中央、右。

 

 私はそれを見て、第三記録の三つの丸を思い出した。

 

「父母子ではない」

 

 境界番が言った。

 

「まだ何も言っていない」

 

「言う前に相ができた」

 

 私は小石を見た。

 

 三つある。

 それだけで、関係が生まれる。

 左、中央、右。

 父、子、母。

 観客、舞台、演者。

 鍵、穴、持ち主。

 騎士、腕、刃。

 

 三つは、強い。

 

「これを見て、何も作るな」

 

「無理だ」

 

「だから訓練する」

 

 境界番は小石を一つ動かした。

 

 左の石が少し前に出る。

 私はすぐに、先頭、と見た。

 導くもの、と見た。

 他の二つが後ろに続くように見た。

 

「今、何ができた」

 

「列」

 

「違う」

 

「では」

 

「君の中に列ができた」

 

 境界番は石を戻した。

 

「諸相無縁の初歩は、対象から相を消すことではない。自分が相を作る瞬間を、遅らせることだ」

 

「遅らせる」

 

「相ができる前に、動作を通す」

 

「それで干渉を受けない」

 

「干渉する側は、相を掴む。相が遅れれば、掴む場所がない」

 

 私は理解した。

 

 理解した瞬間、理解が相になった。

 

 境界番は笑ったように見えた。

 見えただけかもしれない。

 

「いま、分かったと思ったな」

 

「思った」

 

「それが邪魔だ」

 

「ではどうすればいい」

 

「分かる前に、動く」

 

 訓練は、単純だった。

 

 三つの小石を見る。

 相を作らない。

 一歩進む。

 一歩戻る。

 手を上げる。

 手を下げる。

 息を吸う。

 息を吐く。

 

 それだけである。

 

 だが、できなかった。

 

 三つの石は、すぐに何かになる。

 配置、意味、順番、役割、関係。

 私はそれらを作ってしまう。

 作らないようにすると、作らないという意識ができる。

 意識ができると、相になる。

 相になると、そこを掴まれる。

 

 何に。

 

 分からない。

 だが、見られているような感じがした。

 

 記録帳の四隅から。

 三つの丸から。

 舞台の空白から。

 切れた輪から。

 赤い線から。

 白い腕から。

 

 それらが見ているのではない。

 私が、それらに自分を見せている。

 

 境界番は言った。

 

「対象に見られる前に、自分で自分を対象にしている」

 

「記録者だからか」

 

「記録者だからだ」

 

「では、記録者には無理だ」

 

「だから必要だ」

 

 私は何度も失敗した。

 

 石を見る。

 意味が生まれる。

 意味を消そうとする。

 消すという意味が生まれる。

 一歩動く。

 動いた自分を意識する。

 意識した自分が、対象になる。

 

 そのたび、境界番は首を振った。

 あるいは、振ったように見えた。

 

 収蔵係は廊下の端に立っていた。

 彼は見ていない。

 だが、そこにいる。

 見ていない者がいることで、私は少しだけ保たれていた。

 

 何度目かに、境界番が小石をすべて取り払った。

 

「今度は何を見る」

 

「何もない」

 

「それも相だ」

 

「では」

 

「何もないと思う前に歩け」

 

 私は歩いた。

 

 一歩。

 

 その一歩は、歩いたあとで分かった。

 

 足を上げた記憶がない。

 重心を移した記憶もない。

 床を踏んだ感覚も、少し遅れて来た。

 

 私はすでに一歩先にいた。

 

 境界番が言った。

 

「それだ」

 

 私は振り返りそうになった。

 

「振り返るな」

 

 収蔵係が言った。

 

 私は止まった。

 

 振り向きに関する行為、禁止。

 

 第六記録の訂正行が戻ってきた。

 

 振り返れば、そこに前の私がいるような気がした。

 一歩を踏み出す前の私。

 まだ相を作っていた私。

 まだ対象たちに見られていた私。

 

 振り返れば、確認できる。

 確認すれば、そこに私が二つできる。

 

 私は振り返らなかった。

 

 境界番は言った。

 

「初歩だ」

 

「これが」

 

「そうだ」

 

「何が起きた」

 

「相が遅れた」

 

「私は消えたのか」

 

「消えていない」

 

「見えなかったのか」

 

「見えた者には、見えた」

 

「では何が変わった」

 

「見える前に、動いた」

 

 私は自分の手を見た。

 

 手袋がある。

 指がある。

 爪の形は見えない。

 袖に墨の跡がある。

 

 変わっていない。

 だが、手が少し遠い。

 

 自分の手を、自分のものとして見るまでに、わずかに間がある。

 

 その間が、諸相無縁なのだろうか。

 

「続ける」

 

 私は言った。

 

「今日はやめる」

 

 境界番が答えた。

 

「まだ一歩だけだ」

 

「一歩で十分危ない」

 

「なぜ」

 

「君は、一歩で喜びそうになった」

 

「喜びは駄目か」

 

「強い相だ」

 

 私は黙った。

 

 喜び。

 達成。

 理解。

 安全。

 成功。

 

 どれも、強い。

 強い相は、掴まれやすい。

 

 境界番は、小石を拾い、袖に入れた。

 

「次に使うとき、君は危機を避けられるかもしれない」

 

「それでいい」

 

「だが、避けたことを誰も見ないかもしれない」

 

「それもいい」

 

「帰ったことにも気づかれないかもしれない」

 

 私は収蔵係を見た。

 

 彼は廊下の端にいる。

 見ていない。

 だが、そこにいる。

 

「それは困る」

 

「なら、戻るための相を残せ」

 

「どうやって」

 

「名を呼ばせる」

 

 名。

 

 私はそこで息を止めた。

 

 私はこの物語で、名を持っていない。

 少なくとも、本文上では持っていない。

 記録者。

 私。

 同一。

 観察者側。

 鍵に向く者。

 

 名はあるはずである。

 記録者情報欄には氏名があった。

 第一記録で、私は氏名を書いた。

 しかし読者は知らない。

 私も、いま思い出そうとすると、記録欄の形だけが浮かぶ。

 

 名を呼ばせる。

 

 誰に。

 

 収蔵係か。

 境界番か。

 私自身か。

 

「私の名は」

 

 言いかけると、境界番が遮った。

 

「ここでは言うな」

 

「なぜ」

 

「名は、いちばん強い相だ」

 

「だが、戻るために必要だと言った」

 

「だから、最後に使う」

 

 最後。

 

 その語が廊下に落ちた。

 

 まだ第七記録である。

 最後ではない。

 だが、最後という語は、いつでも最後を呼ぶ。

 

 私はそれ以上尋ねなかった。

 

 訓練は終わった。

 

 境界廊を戻るとき、扉の数は二十一あった。

 初めて、記録と一致した。

 

 それが良いことか悪いことか、分からなかった。

 

 机に戻ると、記録帳が閉じてあった。

 閉じた覚えはある。

 今回は、たしかに閉じた。

 

 私は開かなかった。

 

 代わりに、第七記録の報告書を作成した。

 

 対象、なし。

 分類、技術。

 通称、諸相無縁。

 由来、編者不詳。

 内容、複数動作の持続により、他者からの超自然的干渉を無効化し、自身の動作を認識されにくくする。

 ただし、消失または隠形ではない。

 見る者が見出す諸相を遅延させ、対象化される前に動作を通す手順である。

 初歩訓練、境界廊にて実施。

 結果、一歩のみ成功。

 副作用、自身の身体感覚および自己認識にわずかな遅延。

 危険性、帰還時に認識されない可能性。

 対策、名による復帰。

 名の使用、最終手段。

 

 私は、そこまで書いて筆を置いた。

 

 最終手段。

 

 この語を書いた時点で、物語は終わりへ向かった。

 そう感じた。

 

 報告書を閉じる。

 

 提出するか迷った。

 これは収蔵品ではない。技術である。しかも、私自身に施された手順である。提出すれば、記録院はそれを管理する。提出しなければ、私記になる。

 

 私記は証拠にならない。

 証拠にならないものは、誰かを救うことも、誰かを止めることもできない。

 

 第四記録を思い出した。

 未提出の紙束。

 拍手が続く舞台具室。

 第五記録の音のしない提出。

 第六記録の乾いた音。

 

 私は第七記録を提出することにした。

 

 提出箱へ向かう。

 

 廊下には誰もいなかった。

 いつもなら誰かがいる。収蔵係でなくとも、紙を運ぶ者、棚を確認する者、札を貼る者がいる。記録院は静かだが、無人ではない。

 

 だが、そのときは誰もいなかった。

 

 いや、いたのかもしれない。

 私が、見られる前に歩いていたのかもしれない。

 

 提出箱の前に立つ。

 紙束を入れる。

 

 音はしなかった。

 

 私は待った。

 

 何も起きなかった。

 

 戻ろうとして、収蔵係とすれ違った。

 

 彼は私の横を通り過ぎた。

 何も言わなかった。

 足も止めなかった。

 

 私は振り返らなかった。

 

「戻った」

 

 私は言った。

 

 声に出していた。

 

 収蔵係は、少し先で足を止めた。

 

 振り返らない。

 彼も、振り返らなかった。

 

「誰が」

 

 彼は言った。

 

 私は答えようとした。

 

 私が。

 

 そう言えばよかった。

 

 だが、その一語が出なかった。

 

 私は、私という相を作るのが少し遅れていた。

 

 沈黙が落ちる。

 廊下の奥で、紙が一枚めくれる音がした。

 

 収蔵係は言った。

 

「名を」

 

 私は口を開いた。

 

 自分の名を言おうとした。

 

 だが、喉の前に、第六記録の細い線があった。

 声はそこで一度止まった。

 

 名は、いちばん強い相だ。

 最後に使う。

 

 今は、最後か。

 

 違う。

 まだ違う。

 

 私は言った。

 

「記録者だ」

 

 収蔵係は沈黙した。

 

 それから、こちらを見ないまま言った。

 

「戻れ」

 

 その一語で、足元の床が戻った。

 

 廊下の距離が戻る。

 壁の札が読める。

 提出箱の角が見える。

 収蔵係の背が、そこにあると分かる。

 

 私は息を吸った。

 

 戻った。

 

 完全ではない。

 だが、戻った。

 

 机に戻ると、記録帳が開いていた。

 

 開いた覚えはない。

 

 四隅の線。

 三つの丸。

 横線。

 空白。

 切れた輪。

 鍵穴。

 赤い線。

 金色の点。

 白い腕。

 

 そのすべての外側に、薄い線が一本あった。

 

 外枠ではない。

 囲っていない。

 ただ、少し離れて、斜めに走っている。

 

 見る者と、見られるものの間に置かれた線のようだった。

 

 私はそれを記録しなかった。

 

 記録しないかわりに、帳面を閉じた。

 

 閉じる直前、薄い線だけが、他のどの印にも触れていないことを見た。

 

 無縁。

 

 その語だけは、書かずに残った。

 




 複数の動作が持続している間、他者による超自然的な干渉を無力化し、また自身の動作を認識しづらくする効果を持つ。
 
 これを編み出した人物はこの技術を、あくまで基礎だと話したという。
 実際、極めて高度な技量がいるが、精度のほかに要求される要素がなく、故に使い手を選ばない。
 これが世に広まっていないのは、その都合の良さが不都合だからだろう。
 
 世のものを見て感じるとき、人はそこに諸相を見出す。
 これはすなわち角度であり、受け取り方でしかないのだが、大抵やりかたというものはこれによる。
 だから、いかなる受け取り手も存在しない在り方、すなわち無相を知れば、より発展した技術が使えるようになる。
 名付けるならまあ、無相活殺といったところだろう。
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