無相録(AI小説)   作:記録院

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 それは複数の動作であり、それによる構造の集合であり、それに伴う現象である。


第八記録 無相活殺

 第七記録は、音を立てなかった。

 

 提出箱に入れたはずの紙束は、箱の底へ落ちた。

 落ちたことは分かる。

 手を離したことも、紙の重さも、箱の暗さも、覚えている。

 だが、音だけがなかった。

 

 音がしなかったのではない。

 音という出来事が、私に届く前に終わっていたようだった。

 

 私はそれを記録しようとして、やめた。

 

 やめたことを覚えている。

 覚えているなら、それはもう記録に近い。

 記録に近いものは、いずれ記録になる。

 

 机に戻るまで、誰ともすれ違わなかった。

 

 記録院は静かだった。

 静かであることは、いつものことだった。

 だが、その日の静けさは、音が少ないのではなく、音を受け取る者がいないような静けさだった。

 

 廊下はあった。

 壁もあった。

 札もあった。

 扉もあった。

 それらはすべてそこにある。

 

 ただ、互いに関わっていなかった。

 

 扉は壁に付いていなかった。

 札は扉を示していなかった。

 床は足音を受け取っていなかった。

 私の足は、床を踏んでいるという相を少し遅れて得た。

 

 諸相無縁の余波だと思った。

 

 そう思った瞬間、その考えも遅れた。

 

 私はすでに机の前にいた。

 

 いつ歩いたのか。

 どこで曲がったのか。

 誰もいない廊下を、どのくらい進んだのか。

 思い出せる。

 しかし、それは思い出せるだけだった。

 

 その間を、私は持っていなかった。

 

 机の上には、赤札がなかった。

 

 赤札がないことを見て、私は安堵しなかった。

 もう、札が来るかどうかで次が決まる段階ではなかった。

 

 代わりに、記録帳が開いていた。

 

 開いた覚えはない。

 だが、閉じた覚えも、いまは薄かった。

 

 四隅の線は、つながっていた。

 

 枠になっていた。

 

 その内側に、三つの丸がある。

 横線がある。

 空白がある。

 切れた輪がある。

 鍵穴がある。

 赤い線がある。

 金色の点がある。

 白い腕のような線がある。

 そして、それらすべてから少し離れた場所に、薄い斜線がある。

 

 諸相無縁。

 

 その語は、まだ書かれていない。

 だが、斜線はそれを示していた。

 

 枠の外側には、何もなかった。

 

 何もないのではない。

 紙がある。

 余白がある。

 白がある。

 だが、そこにはまだ何も受け取られていなかった。

 

 私は筆を取った。

 

 筆を取ったあとで、取ろうと思ったことに気づいた。

 手が先で、意志が後だった。

 

 それは、昨日の訓練に似ていた。

 一歩進んだあとで、歩いたことが分かる。

 相が遅れる。

 見える前に、動く。

 

 だが、これは違った。

 

 昨日は、私が少しだけ先にいた。

 今日は、私がすでに遅れていた。

 

 机の左に、一枚の紙があった。

 

 いつ置かれたのか分からない。

 紙には題だけが書かれていた。

 

 無相活殺。

 

 その四字を見た瞬間、私は目を閉じた。

 

 目を閉じても、四字は残った。

 文字としてではない。

 構造として残った。

 複数の動作。

 それによる構造の集合。

 それに伴う現象。

 

 私はまだ、読んでいない。

 だが、知っていた。

 

 これが始まると、気が付いたとき終わっている。

 誰もその間をとらえることはできない。

 ただ思い出すことしかできない。

 

 私は目を開いた。

 

 紙の上には、続きがなかった。

 題だけだった。

 

 それなのに、私は続きを思い出していた。

 

 諸相を無縁とするとは、概念という要素の否定である。

 あらゆる存在に究極的な孤立を生み出す行為である。

 いかなるものも互いを見ず、聞かず、ただ黙し、そこにあるという事実だけが残る。

 

 私はその文を、どこで読んだのか。

 

 読んでいない。

 まだ読んでいない。

 だが、思い出している。

 

 思い出すということは、すでに過ぎたということだ。

 

 ならば、無相活殺はもう始まっていたのか。

 

 始まる瞬間は存在しない。

 終わる直前も存在しない。

 そういう技術であるなら、始まったかどうかを問うこと自体が遅れている。

 

 私は紙を裏返した。

 

 裏には何もなかった。

 

 何もないことに、私は少しだけ安心した。

 だが、安心はすぐに遅れた。

 

 安心したのは、もう安心が終わったあとだった。

 

 収蔵係は来なかった。

 

 境界番も来なかった。

 

 面保全室の係も、舞台具室の扉も、礼拝堂跡の黒札も、鍵室補助係も来なかった。

 

 誰も来なかった。

 

 そのことが、かえって正しかった。

 

 無相とは、いかなる受け取り手も存在しない在り方である。

 ならば、この記録に立ち会う者がいないのは当然だった。

 

 立ち会う者がいれば、相ができる。

 相ができれば、関係ができる。

 関係ができれば、干渉できる。

 干渉できれば、無相ではない。

 

 私は一人だった。

 

 一人である、という相もまた、遅れてやって来た。

 

 記録帳の枠の内側で、三つの丸が少し滲んだ。

 

 父、母、子。

 

 そう見えた。

 

 違う。

 ただの丸である。

 

 舞台の横線が濃くなった。

 

 拍手の音がした気がした。

 

 違う。

 ただの記憶である。

 

 切れた輪の鍵穴が黒くなった。

 

 鍵を持つ者。

 

 違う。

 ただの点である。

 

 赤い線が伸びた。

 

 首の前が冷たくなった。

 

 違う。

 痛みはない。

 血もない。

 

 金色の点を白い線が抱いていた。

 

 愛とは書かなかった。

 

 違う。

 書かなかったことを覚えているだけである。

 

 それらが、順に起きた。

 あるいは、同時に起きた。

 あるいは、もう終わっていたものを、私が順に思い出しているだけだった。

 

 私は筆を持った。

 

 書こうとする。

 

 何を。

 

 無相活殺。

 対象、なし。

 分類、技術。

 現象、複数動作による構造の集合。

 結果、観測不能。

 備考、気が付いたときには終わっている。

 

 そう書けばよい。

 

 だが、書くとは何か。

 

 筆が紙に触れる。

 墨が紙に残る。

 残ったものを、あとで読む。

 読む者は、そこに意味を見出す。

 意味は過去にある。

 

 書いた瞬間、言葉はもう現在ではない。

 

 私はこれまで、現在を記録しているつもりだった。

 届いたもの。

 運ばれてきたもの。

 開けた箱。

 見た面。

 聞いた拍手。

 触れなかった指輪。

 振り向かなかった騎士。

 歩いた一歩。

 

 だが、記録されたものは、すべて過去だった。

 

 私は現在を書いたことがない。

 

 書けるはずがなかった。

 

 筆が紙に触れるより先に、触れようとした現在は過ぎる。

 文字になるころには、すでに過去である。

 報告書に綴じられるころには、もっと過去である。

 棚に置かれ、誰かに読まれるころには、過去は形になる。

 形になったものは、残る。

 残ったものは、怪異に近づく。

 

 記録院は、怪異を収めていたのではない。

 

 記録院は、過去を形にしていた。

 

 その形が、棚で眠っている。

 黒い額縁に収められている。

 面になり、外套になり、指輪になり、鎧になり、技術になり、私の記録帳になっている。

 

 私は、それを保存していたのか。

 

 それとも、増やしていたのか。

 

 問いは浮かんだ。

 浮かんだときには、もう遅かった。

 

 私は書いた。

 

 無相活殺。

 これが始まると、気が付いたとき終わっている。

 

 書いた文字を見て、私は手を止めた。

 

 私はいま、何を書いたのか。

 始まる前に書いたのか。

 終わったあとに書いたのか。

 それとも、書いたという記憶だけがあるのか。

 

 墨は乾いていた。

 

 まだ書いたばかりのはずなのに、乾いていた。

 

 私は筆先を見た。

 墨がついていない。

 

 いつ乾いたのか。

 

 問いが浮かぶ。

 

 浮かんだときには、すでに答えは過去にある。

 

 廊下で足音がした。

 

 足音は、こちらへ来るものではなかった。

 通り過ぎるものでもなかった。

 足音という出来事だけが、廊下のどこかに置かれたようだった。

 

 私は顔を上げた。

 

 扉の前に、収蔵係が立っていた。

 

 いつ来たのか分からない。

 彼は扉を開けたのか。

 叩いたのか。

 入ってきたのか。

 最初からそこにいたのか。

 

 分からない。

 

 彼は私を見ていなかった。

 机を見ていなかった。

 記録帳も見ていなかった。

 ただ、そこに立っていた。

 

 いかなるものも互いを見ず、聞かず、ただ黙し、そこにあるという事実だけが残る。

 

 その文が、部屋の中にあった。

 

 声ではない。

 文字でもない。

 ただ、そういう状態だった。

 

「戻れ」

 

 収蔵係が言った。

 

 声は聞こえた。

 聞こえたが、私に届いたかどうかは分からなかった。

 

「名を」

 

 彼は言った。

 

 名。

 

 最後に使うもの。

 

 境界番の言葉を思い出す。

 名は、いちばん強い相だ。

 戻るために必要だ。

 だから、最後に使う。

 

 今は、最後か。

 

 私は口を開いた。

 

 自分の名を言おうとした。

 

 氏名欄には書いたはずである。

 第一記録の末尾に、私は氏名を書いた。

 所属も書いた。

 筆跡も残した。

 容貌欄だけが空白だった。

 

 名は、残っているはずである。

 

 だが、口の中には何もなかった。

 

 音にならないのではない。

 音にする前のものがない。

 

 名前を思い出せない、のではない。

 思い出すべき対象が、まだ名として成立していなかった。

 

 収蔵係は、少しだけ顔を上げた。

 

 初めて、私を見たように見えた。

 

「名を」

 

 彼はもう一度言った。

 

 私は答えられなかった。

 

 名がない。

 

 いや、名はある。

 記録にはある。

 しかし、記録にある名は過去の名である。

 いまここにいる私を呼び戻すには、遅すぎる。

 

 では、私は何として戻るのか。

 

 記録者。

 

 そう言えばよい。

 

 第七記録では、それで戻れた。

 収蔵係は「戻れ」と言った。

 床が戻った。

 壁が戻った。

 提出箱が戻った。

 

 だが、今は違う。

 

 記録者という語は、役である。

 父、母、子と同じ。

 観客と同じ。

 騎士と同じ。

 抱かれたものと同じ。

 役は戻るための名にはならない。

 役は、形を固定する。

 

 記録者と呼べば、私は記録者として残る。

 それは帰還ではなく、収蔵である。

 

 私は口を閉じた。

 

 収蔵係は何も言わなかった。

 

 沈黙があった。

 沈黙は否定ではない。

 肯定でもない。

 保留でもなかった。

 

 沈黙は、ただそこにあった。

 

 そのとき、記録帳の枠が消えた。

 

 消えたように見えた。

 

 四隅の線も、三つの丸も、横線も、輪も、鍵穴も、赤い線も、金色の点も、白い腕も、薄い斜線も、すべて見えなくなった。

 

 紙は白かった。

 

 白い紙がある。

 

 何も収めていない。

 何も示していない。

 何も待っていない。

 

 ただ、紙がある。

 

 私はそれを見た。

 

 何かを書かなければならないと思った。

 思ったときには、もう書かれていた。

 

 誰が書いたのかは分からない。

 

 紙には一行だけあった。

 

 私はいま、ここにいる。

 

 その一行は、現在形だった。

 

 私はそれを見た。

 

 見た瞬間、それは過去になった。

 

 私はいま、ここにいる。

 そう書かれた時点で、もう「いま」は過ぎている。

 

 だが、それでもその一行は、他の記録と違っていた。

 

 対象を記したものではない。

 過去を分類したものでもない。

 怪異の由来を書いたものでもない。

 禁止事項でも、仮分類でも、未確認でもない。

 

 それは、遅れながら現在に触れようとした跡だった。

 

 失敗である。

 だが、失敗として残った。

 

 収蔵係が、息を吐いた。

 

 その音が聞こえた。

 

 今度は、遅れなかった。

 

 私は顔を上げた。

 

 彼は私を見ていた。

 

 見ていた、と思う。

 

「戻ったか」

 

 彼が尋ねた。

 

 私は答えた。

 

「分からない」

 

 声が出た。

 

 その声は、私のものだった。

 そう思った。

 思ったときには、すでに過去だった。

 

「それでいい」

 

 収蔵係は言った。

 

「分からないままなら、まだ閉じられない」

 

「閉じられないものは危険だ」

 

「閉じたものも危険だ」

 

 彼は机の上の紙を見た。

 

 題だけの紙。

 無相活殺。

 

「書くのか」

 

「書かないと終わらない」

 

「書いても終わらない」

 

「なら、どうする」

 

「閉じる」

 

「記録を」

 

「ここまでを」

 

 ここまで。

 

 それは、終わりではない。

 だが、区切りである。

 

 私は筆を取った。

 今度は、筆を取ったことが分かった。

 手が動く。

 墨を含ませる。

 紙に触れる。

 

 遅れてはいる。

 だが、消えてはいない。

 

 私は書いた。

 

 対象、無相活殺。

 分類、技術、現象、構造。

 観測、不可。

 発生、事後にのみ認識。

 持続時間、存在しない。

 始点、なし。

 終点、なし。

 記録可能範囲、事後の記憶のみ。

 危険性、記録者自身の現在性喪失。

 対策、名による復帰を試みるも失敗。

 代替、現在形の記述による一時接続。

 結論、誰も今という瞬間に留まることはできない。

 備考、この技術は、当たり前のことを突き付けるだけである。

 

 書き終えた。

 

 墨は乾いていなかった。

 筆先も濡れていた。

 私の手も、まだ手の中にあった。

 

 私は報告書を閉じた。

 

 すると、記録帳の白い頁に、もう一行が増えていた。

 

 記録者は、そう記した。

 

 私はその文を見た。

 

 誰が書いたのか分からない。

 私かもしれない。

 収蔵係かもしれない。

 記録帳かもしれない。

 これから読む者かもしれない。

 

 記録者は、そう記した。

 

 その文には、一人称がなかった。

 

 私は、という語がなかった。

 だが、完全な他人事でもなかった。

 記録者。

 役である。

 名ではない。

 だが、その役だけが、私をここに置いていた。

 

 私は報告書を提出箱へ持っていった。

 

 収蔵係はついて来なかった。

 あるいは、ついて来ていたが、私は見なかったのかもしれない。

 どちらでもよかった。

 

 廊下には、札があった。

 扉があった。

 床があった。

 足音があった。

 

 足音は、少し遅れて聞こえた。

 遅れていても、聞こえた。

 

 提出箱の前に立つ。

 

 箱は黒かった。

 底は見えない。

 何度も紙束を入れてきた。

 音がしたことも、しなかったこともある。

 戻ってきたことも、戻ってこなかったこともある。

 

 私は報告書を入れた。

 

 音がした。

 

 小さな音だった。

 紙が紙に触れる音だった。

 

 それだけだった。

 

 私はしばらく待った。

 

 何も起きなかった。

 

 何も起きないことを、私は少しだけ信じた。

 

 机に戻ると、記録帳は閉じていた。

 

 閉じた覚えはない。

 だが、今はそれでよかった。

 

 表紙には、題があった。

 

 無相録。

 

 誰が書いたのかは分からない。

 墨は乾いていた。

 文字は黒く、簡素で、少しだけ私の筆跡に似ていた。

 

 その下に、著者名の欄があった。

 

 欄は空白だった。

 

 私はそこに名を書かなかった。

 

 書けなかったのではない。

 書かなかった。

 

 名を書けば、戻れるのかもしれない。

 名を書けば、収蔵されるのかもしれない。

 名を書けば、誰かがこの記録を読んだとき、私を思い出すのかもしれない。

 

 だが、思い出されるものは過去である。

 

 私は、過去として残ることを望んでいたのか。

 それとも、記録者として消えずにいたかったのか。

 

 分からなかった。

 

 分からないまま、欄を空白にした。

 

 空白は、未記入ではない。

 未確認でもない。

 保留でもない。

 

 そこに、まだ何かが入るとは限らない。

 

 私は記録帳を棚に置いた。

 

 棚には、ほかの記録が並んでいる。

 黒い背表紙。

 白い札。

 読めない名。

 消えた名。

 名のないもの。

 名を必要としなくなったもの。

 

 その一冊として、『無相録』は収まった。

 

 厚みはあった。

 重さもあった。

 手を離すと、棚の木がわずかに鳴った。

 

 その音は、現在にあった。

 

 そう思った。

 

 思ったときには、もう過去だった。

 

 私は棚の前を離れた。

 

 背後で、紙が一枚めくれる音がした。

 振り返らなかった。

 

 振り返らなかったことを、もう記録する必要はなかった。

 

 記録は残っている。

 記録者はいない。

 

 あるいは、記録者だけが残っている。

 

 どちらであるかを知る者は、いない。

 

 知る者がいないということだけが、そこにあった。

 




 これが始まると、気が付いたとき終わっている。
 誰もその間をとらえることはできない。ただ思い出すことしかできない。

 諸相を無縁とするとは、すなわち概念という要素の否定であり、あらゆる存在に究極的な孤立を生み出す行為だ。
 いかなるものも互いを見ず、聞かず、ただ黙し、そこにあるという事実だけが残る。
 この奥義が持続している時間は存在しない。始まる瞬間も、終わる直前もない。
 しかし。
 常に誰もが過ぎ去った時間を見て言葉を放つが、放たれたそのとき、すでにそれは過去にある。
 誰も今という瞬間にとどまることはできないし、そこに想いを得ることもない。
 この技術は、当たり前のことを突き付けるだけだ。
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