ようこそ死んだはずの俺が行く教室へ   作:ホムンクルス至上主義者

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第6話 前

「すまない栄一郎…私だけならまだしもまさか息子まで巻き込むことになるとは思わなかったんだ!」

 

 

「どうしたんだ父さん。説明してくれないと俺には何が何だか」

 

 

 

「まさかあの方が家族すらも巻き込むとは想像していなかった!全くの予想外だったんだ!」

 

 

「だから父さん、1から説明してくれよ。状況が一切飲み込めない」

 

 

 

「すまない…すまない…すまない栄一郎…迷惑かけてばかりの父ですまない…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

─────

 

 2月13日。冬休みが明けてからずいぶんと小気味よく時が流れた。新年を迎えてすぐ、父さんと二人で厳かな境内に並び、初詣の列に身を浸してからちょうど一ヶ月と十数日が経とうとしている。以降の毎日は、良くも悪くも波風の立たない至って平穏なものだった。

 

 

――ふぅ、と小さく息を吐き出す。

 毎日のルーティンに定めている筋トレとランニング、そしていつものチェス。それら全てをどうにか午前中のうちに詰め込み、きっちりと消化し終えた俺は、リビングのソファへと深く身体を沈めた。適度に火照った筋肉とやり切った充実感が心地良い。しばしの間、俺は何も考えずにのんびりと寛ぐことに決めた。

 

「やっぱこの時間帯のテレビ番組って特別感あるよなぁ〜」

 

 父が職場から貰ったという誉の陣太鼓(ほまれのじんだいこ)を食す。既に職場へと向かった父が付属のナイフで十字に切り込みを入れた上で冷蔵庫に保管していたものだ。ラップの上には『食べて良いよ』とメモ書きがあったのでならば、とすぐさま手を伸ばした。

 

 にしても陣太鼓って戦の合図。つまり『平穏の終わりと次の戦いの幕開け』という暗示なのに中身はこんな甘々なんだからかなりの矛盾だ。一口また一口と進める。口に入れた刹那、圧倒的な水分の感覚が口内を満たした。

 次に羊羹のような見た目からは想像もつかないほど舌の上で小豆の粒子がサラリとなめらかに解けていく。ガツンとした下品な甘さは一切ない。最高級の大納言小豆が持つ、豊潤な風味と気品あるコクだけが驚くほどすっきりと喉の奥へ流れていく。

 

 

 もう一度テレビに目をやる。今流れている番組は、ある特定の世界で抜きん出ている学生たちを未来のアスリートとして紹介するものだ。現在は過去の放送回をまとめているらしく当時の映像と現代の映像を織り交ぜながら面白おかしくまとめている。よくあるものだ。

 ミラノの強豪バレーボールチームがわざわざ練習招待した高校生。ベルリンの有名サッカークラブで育つ天才レフティ。未来のNBAドラフト候補とされる筋骨隆々の角刈り少年。コンパクトなスイングからとてつもない音を靡かせながらスマッシュを打つ卓球少女。名だたる面々だ。普段スポーツを見ない俺ですら名前を知っている。これって当時から彼らが有名だったのか、それともテレビスタッフの慧眼なのか、なんてたわいもない疑問を浮かべていた。

 

 

 

 

 

続いては…空手界のニューホープ!年齢制限という絶対の壁をも例外として打ち破り、数多の最年少記録を塗り替え放送当時は四段まで上り詰めました。さらに驚くことに合気道では三段まで!まさしく二刀流。競技は違えど、日本のベーブルースと言われた堀北学くんです!

 

 

 ブッッッッ‼︎

 

 

 

 突然の見知った名前に思わず小豆を吹き出す。堀北学ってあの堀北学だよな。生徒会会長とかやってたあの。

 

 手近なティッシュペーパーで拭き取っているその間も淡々とキャスターが淡々と進行していた。

 

 

なんと堀北くん。武道だけでなく学校では生徒会会長や学級委員を歴任しテストでも満点ばかり取っていたそうです。まさに文武両道ですね!

 

 

 ああ、この堀北くんはあの堀北学で間違いなさそうだ。

 

 

いや〜、彼には苦労させられましたよ。テスト期間は毎回職員室が殺伐としていてね。なんとしても彼には満点取らせないぞって皆意気込むんです。でも蓋を開けてみると毎回満点取られちゃってあちゃーと頭を抱えるわけです。何度か98点や99点もあったんですけどその時はもうお祭り騒ぎですよね。そのテストの作成者はヒーロー扱いでした。

 

 

 どうやら場面が変わり中学時代の教師へインタビューしているようだ。人の良さそうな中年の男性教師が時折笑顔を見せながら懐かしむように言葉を紡ぐ。

 

 

だからって関係が悪い訳じゃないですよ。僕らもそれを楽しんでいたし彼も楽しんでいる節があった。これでも名門校の教師だからね。全力尽くして作った問題を完璧に返されちゃ悔しい反面、指導者としては満足もいいところですよ。間違いなくこの学校じゃ歴代最高の生徒だよね。僕より歴の長いベテランの先生方も言っていましたね。

 

 

 ……堀北の兄さんって綾小路清隆(しゅじんこう)よりも主人公だよな。

 

 

 テレビの画面は、当時の黒髪短髪で、今と変わらない切れ味の鋭い眼光をした中学時代の堀北学を映し出している。

 しかし堀北兄と言えば盗み聞きをしていた清隆君に突如殴りかかっていたのが印象深い。文武両道(ぶんぶりょうどう)剛毅果断(ごうきかだん)の彼も人の心は無いらしい。それよか空手と合気道を嗜む武道家として、平然と素人かもしれない人物に先制攻撃を加えるのは如何なものか。心技体の技と体だけが異常に発達して肝心の心はは置いてけぼりらしい。

 

 

しかしそんな天才・堀北くんも、高校への進学を機に表舞台から完全に姿を消してしまいました。現在はとある全寮制の学校に通っているとの噂ですが、いつかまた、彼の異次元の演武をテレビで見られる日が来るのが楽しみですね! 以上、あの時の逸材は今!のコーナーでした!

 

 

 さわやかなBGMと共に番組が次のコーナーへと移る。俺はリモコンを操作してテレビの電源を消した。咀嚼音のみがリビングに木霊する。

 

「…暇だ」

 

 意気揚々といつものルーティンをいち早く終わらせてしまった俺はぽっかりと空いた時間を持て余していた。普段は忙しいだなんだと文句を言いながら、やることなすこと全て上手くいきすぎると人間贅沢なもので逆に退屈を感じてしまう。ここから追加でトレーニングをしても良いのだが俺の性格上一度火がついたら歯止めが効かなくなり量も強度も際限なくなる。オーバートレーニング症候群になる未来しか見えない。だからこそ俺は肉体の管理には特に気を遣い、日毎に明確な限界(ノルマ)を設けているのだ。

 

 

 それならあれだけハマっていたチェスなんかどうだ、となるだろうが勿論今も継続している。なんと件のヤツ相手に5局指せば2回は確実に勝てる。上手くいけば3回勝てるまで成長していた。自分で言うのは少し気恥ずかしいが、数字で見れば改めて凄まじい上達速度だ。チェスは楽しい。

 

 しかし、俺が勝てば勝つほど画面の向こうの相手は異常なまでの執着を見せてくるようになった。チャット機能の右上に映る数字は増えていく。今じゃ3桁なんてザラだ。チャットなんて無視して再戦すれば良いじゃないか、と最初は思ったのだがいちいち返信してやらないと再戦ボタンを押さないのだ。面倒臭いやつだ。もし俺が完膚なきまでに叩き潰せるほど上達したのならその時は即座にブロックと削除をする。そう心に決めている。

 

 

 そんなことを考えているうちに、俺の頭はすっかり思考の渋滞を起こしていた。

 

 

 こういう時は一度外に出ると良い。同じ空間、同じ景色を見ていて何かアクセントが生まれるわけがない。かのスティーブ・ジョブスも深刻な問題にぶつかったり、新製品の構想を練る際は決まってシリコンバレーの街を長距離散歩していたようだ。加えて重要な会議や1対1の交渉ですらも座ってやるのではなく、歩きながらやっていたらしい。歩きながら交渉なんて側から見れば滑稽で仕方がない。

 

 さらに頭の渋滞を引き起こしそうなことを考えながらクローゼットの1番手前に掛けられた上着を羽織る。冬の最盛期は終わったがまだまだ上着は手放せないのが本音だ。

 

 ジッパーを首元まで引き上げると、冷えたナイロン生地が顎に触れて、ほんの少しだけ思考の霧が晴れたような気がした。だが、それも一瞬のことだ。ポケットにスマートフォンと少々の小銭を押し込み俺は重い玄関の扉を開けて外へと踏み出した。

 

 

 

 肌を刺すような夜気が頬を撫でる。二月の空気はどこまでも冷たく澄んでいた。五臓六腑(ごぞうろっぷ)にその空気がいきわたる感覚を覚えながら、俺はある場所を目指して歩く。

 

 

 

──────

 

 

 

 若干動きの鈍い自動ドアを跨ぐ。

 そこはお世辞にも綺麗とは言えない場所、一昔前の雰囲気を残した雑多な空間だった。

 薄暗いフロアを照らすのは何十台と並んだ筐体(きょうたい)のカラフルなモニターの光だけ。床のあちこちには擦り切れながら、何かがこぼされたような黒いシミを残すカーペットが敷かれ、数多あるスピーカーからは爆音の電子音やキャラクターの叫び声、臨戦態勢を煽るBGM、そしてメダルがジャラジャラと落ちる金属音がまるで耳鳴りのように絶え間なく鳴り響いている。そう、ゲームセンターだ。

 

 中学生の暇つぶしなんてプール、ゲーム、映画、飯、ゲーセンの5択に絞られるのだ。これは世の常識。

 

 この空間に漂う嗅ぎ慣れたような、しかし今は不快感を覚えるような匂いに顔を(しか)めながら空気を切って歩く。換気扇の回りが悪いのか外に排出されるわけでもなくこの空間で循環し続けている。ある意味ここは一つの地球と言っても差し支えはない。外の空気とは完全に切り離された、独自の生態系がそこには完成していた。

 

「……さてと」

 

 俺はフロアの隅に置かれた、レバーとボタンが年季で剥げかけた格闘ゲームの筐体の前に腰を下ろした。先ほど両替機で崩したばかりの100円玉をポケットから取り出し投入口に滑り込ませる。チャリン、という軽い音と共に、ブラウン管特有の静電気を帯びた画面に文字が明滅した。

 

 使い慣れたいつものキャラクターを選択しゲームを開始する。いざ尋常に勝負。

 迫り来る相手キャラの攻撃を見極め、レバーを正確に捌きボタンを叩き込んでコンボを繋げていく。

 プラスチックのボタンをガガガガン、と激しくリズム良く叩く音が指先を通じて脳を刺激する。先端が丸みを帯びたレバーを1/4回転、1/2回転と素早く滑らせて必殺技を叩き込む。画面の中のキャラクターが俺の動きと連動するように鮮やかなエフェクトを散らしながら、画面上部の赤いメーターを一気に削り取っていく。相手の起き上がりにさらに技を重ね、完全にこの場の主導権を握る。

 

 ここからが本番だ。格闘ゲームの醍醐味は、たった一瞬の読み合いに全てが集約される。

 画面下部、最大のエネルギーが溜まったことを知らせる黄色いゲージが眩しく明滅した。俺は相手のわずかな前ステップの出掛かりを見逃さない。強烈な一撃をあえてガードさせ、相手が体勢を崩した瞬間に緑色の閃光を纏って前方に急加速する特殊なダッシュを敢行する。

 一瞬の硬直を強引にキャンセルし、さらに強力なコンボへと繋ぐ。レバーとボタンを寸分の狂いもなく正確に叩く。まるで自分の肉体が画面のキャラクターと完全に同期しているかのような錯覚さえ覚える。

 

 コンボの締め括り。レバーを二回素早く回し、三つのボタンを同時に叩きつける。

 

「もうええでしょう!」

 

 画面が激しいカットインと共に暗転し、キャラクターが最大の奥義を繰り出した。カメラアングルが目まぐるしく変わり、破壊的な一撃が相手に炸裂する度に、筐体の重低音スピーカーが空気を震わせる。相手の体力メーターの残りが、火花を散らしながら完全に消滅した。

 

 

 

K.O.

 

 

 

 画面いっぱいに文字が躍る。息を吐き出し強張っていた指先をゆっくりと解いた。

 

 

 この後も一戦、また一戦と、今何戦続けているのか見当もつかなくなるほど勝ち続け、何十人ものキャラクターをなぎ倒したところで、ふと、暗転した画面に自分の顔が映り込んだ。

 乱れた髪、少し上気した肌、そしてゲームの光を反射して怪しく光る瞳。それを見てしまったからだろうか。レバーを握る手の熱が引いていく。

 

 これこそまさに、現実が見えてきた、だろう。

 こちとらゲームに熱中していたというのに急に現実を見せつけないでほしい。すごく萎える。

 

 

 すっかり格闘への気持ちの冷めた俺は地面に置いていた荷物をまとめコインの切れた筐体に背を向ける。

 衣服にすっかり染み付いたゲームセンターの澱んだ匂いが歩を進める度に鼻腔を突く。再びあの動きの鈍い自動ドアを跨ぎ、俺は独自の生態系の外へと足を踏み出した。

 

 外に出た瞬間、鋭い夜気が一気に全身を包み込んだ。二月の容赦ない冷気が店内の熱気で火照った身体を強引に冷ましていく。

 家路へと続く、少し薄暗い住宅街の裏通りへと足を進める。街灯の光が途切れがちで、古い雑居ビルが立ち並ぶその道は、昼間でも人通りが少ない。家から近い中心街にも、ゲーセンがあるにはあるのだが俺のお気に入り機種が設置されていない。それに、あっちの店の客層は年齢層が低く俺と同学年がボリューム層だった。

 

 ガキの小便臭さと、ジジイのヤニ臭さ。その二つを心の天秤にかけると合算40代の俺にとっては後者の澱みの方がまだ重かった。普段、中学生ばかりと絡んでいる中学生(おれ)はそう思った。だからこそ、わざわざ遠い辺鄙なここまで足を運んだのだ。

 

 狭い夜道を進んでいれば前から人が見えてきた。

 これがもし田舎の農道なんかだと、どちらの軽トラが譲るのかという戦が始まるのだろうが今回は幸い人間同士だ。どっちかが左右にずれれば解決する話。

 

 ぼんやりとしたシルエットが近づくほどにくっきりと姿を現していく。

 

(……いや、良い歳して何してんだよ、あのおっさん)

 

 まず前提として俺は努力の甲斐あってなのか中学2年生にして170を超える身長を手に入れた。

 しかし街頭の薄暗い光の中、浮かび上がったそのシルエットは、その俺から見れても見上げるような大柄さだった。分厚い胸板に、横に広い規格外の肩幅。両手をズボンのポケットに突っ込み、周囲を威嚇するように肩で風を切ってのっしのっしと歩いている。

 

 昭和の高校生くらいしか似合いそうにないのだが、彼は少なくとも4,50代に見える。

 良い歳したおっさんがそんなことしていても、痛いったらありゃしない。共感性羞恥でこっちまで心がむず痒くなる。

 

 世の中にはいろんな人がいるんだな。新たな発見を得た俺はうんうんと感慨深く頷いていたところ…

 

 

ドスンッ!

 

 

「あっ、すみません!」

 

 気づかぬうちにぶつかってしまった。

 咄嗟に謝罪の言葉を口にする。相手が明らかな変人であろうとぶつかってしまったのは事実だ。外見こそ個性的だが根は優しい、なんて人は今までたくさん見てきたし偏見はない。

 

「あァ? どこ見て歩いてんだよ、てめえ」

 

 路地の壁に反響するような、低く、ドスの利いた声。

 

(だが、今回はその例外を引いたらしい)

 

 恰好だけでなく言動までしっかり痛い。一貫性があるのは称賛に値するが救いようのなおっさんに変わりない。ぶつかった右肩をさすりながらそう思う。こっちも痛い。

 

「すみません!考え事をしてたもので……」

 

 余計な揉め事は御免だ。俺はあえて殊勝な態度を演じ、その場をやり過ごそうとした。だというのに男は首を左右に大きく鳴らし、威嚇するように一歩踏み込んでくる。

 

「あァ?考え事だァ?最初からがん飛ばしてきてたのは知ってるんだぞ、コラ」

「がん?まさか!ただ前を見てただけですって!」

「言い訳なんて聞きたくねェ。本当はやりたいんだろ、オレと」

「僕に男色の気は――」

 

 その言葉とともに風が鞭で切られるような鋭い音が鳴る。そのコンマ数秒後、男はニヤリと口角を上げた。

 

 

「やるじゃねか。やっぱ最初からやる気だっただろ、お前」

「…急に何なんだよ…お前」

 

 突如拳を握った男は、殴りかかってきた。その暴挙にすっかり敬語と謝罪の気持ちは宙に離散した。

 

「オレのパンチを受けるってこたァ喧嘩慣れしてるって口だろ。しかもヤニの匂いもしやがる。どこ中だァ?」

「どこ中、ねえ……」

 

 急に殴り掛かってくる不審者に教えるわけないだろ。アホなのか、こいつは。

 

「あんたさ、その年齢で『どこ中』とか聞いて恥ずかしくないわけ?」

 

 憐れみすら込めた俺の言葉に、心なしか男の額に青筋が見えた。

 

「あァ? 何言ってんだてめえ、脳みそ湧いてんのか」

「湧いてるのはあんたの頭だろ。良い歳して中学生相手にカツアゲか? 歩き方もダサいし悪いことは言わないから、大人しく家に帰って寝とけよ、ジジイ」

「ナメた口叩いてんじゃねえよ。お前の泣き喚く姿が容易に想像つくぜェ,オレは」

 

 より一層口角を上げた男は、軸足を斜め前に踏み込みカーフキックを仕掛ける。狙いは俺の左ふくらはぎだ。難なくカットする。そして即座に相手の軸足にローキックを見舞う。

 

 カウンターを受けたおっさんはバランスを転倒する、なんてことはなくニヤつきこそ消えたが平然と地に足をつけている。

 

「そこそこやるみたいじゃねか」

「……そっちこそ」

 

 口では冷静に返したが、俺の右足には鋼鉄の丸太を蹴ったかのような重い衝撃が残っていた。

 

(完全に転ばせる気だったが耐えるか……。単純な体重差…それともこっちのパワー不足か)

 

 力勝負では分が悪い。そう判断した瞬間、男がさらに距離を詰めて拳を振るってきた。

 目の前に迫る拳に対し俺はすかさず後ろへ一歩、鋭く飛び退くようにステップを踏んでかわす。

 

 「チッ…!」

 

 空振った男は舌打ちし、今度は逃がさないとばかりに左右の拳を大振りに振り回しながら、一気に間合いを詰めてきた。 

 このままじりじりと後ろに下がればコンクリートの壁に押し付けられる。

 

 そう思った瞬間には遅かった。男は強引に距離を潰し、その規格外の怪力で俺をコンクリートの壁へと激しく押し付けた。

 

「かひゅッ……!」

 

 背中に鈍い衝撃が走り、肺の空気が一気に漏れ出る。酸素に押し出されるように情けない、掠れた声が口から漏れた。

 そんなのお構いなしと、男は間髪入れずに太い丸太のような腕が俺の首を容赦なく掴み、そのまま上方へと力任せに持ち上げた。

 足が宙に浮き、喉が潰され、視界が一瞬で赤黒く染まっていく。

 

「やっと捕まえたぜ、いい景色だなァ、クソガキ?」

「たす、けて……っ、なんでも、する……!」

 

 涙目で必死に許しを請う。そんな情けない俺の姿を見て、男の顔に歪んだ優越感が浮かんだ。

 

「無様だなァ!イキがってた癖してこんなもんかァ!?」

「ごめ、なさ……ゆるし、て……っ」

 

 さらに涙を滲ませ、声帯を震わせながら許しを請う。男の顔は最高潮の悦びに歪み、俺の首を絞める手の力加減にほんのわずかな緩みと油断が生じた。その瞬間

 

 俺は持ち上げられた反動を利用、自由な両足を男の胴体へと引きつける。そして全体重を乗せた膝の甲を男の無防備なみぞおち目掛けて鋭く突き刺した。

 

グッ!!!

 

 手応えあり。男の呼吸が完全に詰まり、首を絞める力が一気に瓦解する。その隙を逃さず俺は残ったもう片方の足で、男の股間――金的へと容赦のない前蹴りを叩き込んだ。

 

 確かな肉の感触。首を掴んでいた手の力が完全に消失し、俺の足が地面に着地する。

 

「が、はっ、……あ、ガッ……!!」

 

 男は股間を押さえ顔を青白くさせてその場に(うずくま)った。

 

 だが、この男のタフネスは異常だった。胃液を吐き出しそうなほどの苦痛に顔を歪めながらも血走った目で俺を睨みつけ、地を這うような声で吼えた。

 

「てめェ……ッ!やってくれるじゃねえか……ッ!! 死ねやぁッ!!」

 

 怒り狂った男が、再び力任せに腕を振り回して襲いかかってくる。

 しかし、そこに先ほどまでの異常ななスピードとパワーはなかった。俺は両肘を折り、簡単に受け流す。

 

「どうした。さっきより随分と遅いじゃねえか、おっさん。もう歳か?」

 

 その言葉が引き金だった。

 男は獣じみた咆哮を上げ、再び俺に向かって突進してきた。

 

 怒り狂ったおっさんの猛攻を、俺は紙一重のステップで躱し続ける。確かに金的のダメージでスピードとパワーは落ちている。だが、奴の持つ圧倒的な質量そのものは何ら変わりがない。掠るだけでもこちらの骨が持っていかれそうなプレッシャーは健在だった。

 

(……タフすぎるだろ。キリがねえな)

 

金的の痛みは継続性がある。持久戦に持ち込めば論理的には俺に分があるだろう。しかし、この狭い路地裏で狂犬もとい狂爺相手にカウンターを延々と当て続けたところで決定打に欠ければ終わりが見えない。ジリ貧になる前に、ここで一気にケリをつける──!

 

「オラァァッ!!」

 

 おっさんが遮二無二振り下ろしてきた右拳。それを頭を下げて完全に潜り抜け、俺はやつの懐へ深く踏み込んだ。

 

 狙うは、この男の分厚い大胸筋の奥。いくら筋肉の鎧を纏い規格外の質量に囲まれていようと、人間の急所である心臓は左胸の奥に鎮座している。そこに逃げ場のない強い衝撃を与えれば、どうなるかはお察しだ。

 

 俺は潜り込んだ勢いのまま軸足を鋭く回転させて弾かれたように跳躍した。

 次の瞬間しなるようなハイキックの軌道が、やつの左胸を真っ向から捉える。

 

ドガァァンッ!!!

 

 到底、人が発したとは思えない衝撃音が路地裏に轟いた。

 胸骨のさらに奥、心臓へ直接叩き込まれた強烈な打撃。どれほど強靭な肉体を持っていようと、体内のポンプを直接揺さぶる衝撃までは防御できない。

 

「が、ふっ……!?」

 

  おっさんの視線が、今度こそ完全に泳いだ。

 一瞬前まで全身に漲っていた暴力の気配が嘘のように霧散し、アラフィフの巨体は、今度こそ力なくアスファルトの上へと崩れ落ちていった。

 

「ああ、おっさん、いい景色だな」

 

 ピクリとも動かなくなった巨体を見下ろし俺は深く息を吐き出した。冷や汗でシャツが背中に張り付いている。心臓への一撃が完全に極まった。もう立ち上がれないだろう。やっと終わったのか、と一息つく。

 

「……ッ、……お……っ……」

 

 静まり返った路地裏に、かすかな掠れ声が響いた。見れば、地面に突っ伏した男の唇が、ごにょごにょと何かを呟くように動いている。

 

「何言ってんだ、聞こえねえよ」

 

 まだ意識があるのかと警戒しつつ、俺はいつでも防御を組める体勢のまま、少しだけ顔を近づけて耳を澄ませた。

 

「……っ、おっさん……じゃ……ねえ……」

 

 男はゼェゼェと壊れたふいごのように荒い息を吐き出しながら、血走った目で俺を睨みつけて、とんでもない言葉を絞り出した。

 

「おっさんじゃ……ねえ……っ! オレは……っ、……中学1年だ……ッ!!」

 

「……はあぁぁぁッ!?」

 

 あまりの衝撃発言に、俺の脳の処理能力が完全にフリーズした。

 

 いや、嘘だろ。どう見ても人生の酸いも甘いも噛み分けた経験の刻み込まれたアラフィフの顔面だし、体格だって完全に出来上がった大人のそれだ。声も酒とタバコで焼けたようなドスの利いた低音だったじゃないか。何より現代の若者はこんな典型的な昭和ヤンキーには育たないだろ。

 

 それが、中学1年? 13歳?俺の、一個下……だと……?

 

(老け顔にも限度があるだろ。 どんな人生送ったらそんな仕上がりになるんだよ)

 

 

 本日、俺の身体に最も衝撃を与えたのはキックでもパンチでも、圧迫でもなく、老け顔の事実だった。

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