ようこそ死んだはずの俺が行く教室へ   作:ホムンクルス至上主義者

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第6話 後

(とんだ災難だった…)

 

 そろそろ家に着くかどうかというところ。今日起きたことを改めて思い返す。

 ジロジロと見ていたのは悪かったかもしれない。いやあんな老け顔と身体、時代遅れのダサい仕草だ。見られないわけがないだろう。やっぱり俺は悪くない。どちらにせよちょっと見た程度なのに『ガンを飛ばしてきた』と因縁をつけ突然殴りかかってきたのだ。単純な力勝負を避け、隙を生み出すためにわざと捕まった訳だが首を絞められたのには変わりない。今も若干喉が痛む。本来なら鳩尾(みぞおち)だけで許してやるつもりだったが、あそこまで周到にやってくるのなら、と金的もおまけした。今頃あいつは冷や汗と吐き気に苦しんでいることだろう。拝んでやりたいが今度は何をされるか分からないからやめておく。

 

 にしても親父狩りってあんな(さび)れた町でやるものなのか?基本的に新宿とか池袋とか夜の繁華街で因縁をつけて人気のない小道に連れ出しボコボコにする、とかそんな偏見を持っていたが昨今の親父狩り界隈にはかなりのバリエーションがあるらしい。今回のケースを正確に言えば、親父()狩る、のではなく、親父()狩る、のほうだが。もっと踏み込むなら、親父みたいな顔したやつが狩る、かな。

 そんな一文の得にもならないことを考えていれば、いつの間にか家に着いたようだ。服はシワまみれだし汗もかいてる。その上、タバコの匂いまで染み付いている。顔や素肌を隠して『この人何歳でしょう?』なんて街行く人に聞けば眉間に皺を寄らせながら50代、60代なんて言いかねない。とっととシャワーに入ろう。体中に染み渡る不快感が俺にドアを開けさせる。

 

 

ガチャ

 

 

(あれ、父さんもう帰ってきてるんだ)

 

 扉を開けば玄関には父の愛用する革靴のペアが既に置かれていた。普段ならあと1,2時間で帰ってくる頃合いだろうと算段を立てていたがどうやら外れたらしい。

 

 靴を脱いでフローリングに足を踏み入れる。もちろん屈んで靴を揃えるのを忘れない。理由は未来の自分が楽できるから。

 

 リビングへの扉は開いていた。LEDの暖かい光が廊下まで漏れている。

 中を覗けば木目の目立つ机に父が突っ伏していた。寝ているのだろうか。毎日朝早くから夜遅くまで働き詰め。納得だ。

 

「……栄一郎…話がある。今大丈夫かい…?」

 

 驚いた。起きていたらしい。いや寝起きか?

 

「起きてたんだ。シャワー浴びてからでも良い?身体中すっかりベトベトなんだ」

「…ああそうなんだね。シャワーを浴びてからでも大丈夫だよ。……ただ、大事な話だからなるべく早くならありがたいよ」

「了解」

 

 寝起きだからなのかいつもよりも元気なさげに言う。それにしても大事な話って一体何のことやら。これだけ急かすなら俺にも関係しているのだろう。もしかしたら再婚だったり?なんて想像するが即座にそんな訳がないと結論付ける。あれだけ妻を愛していた父が他の女性と繋がる未来が見えない。まあそれも俺がとっととシャワーを浴びれば聞ける話だ。流石にこんな臭くてベトベトの状態で話を聞く気にはなれない。

 そう考えた俺は早足で浴室へ向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 行き場を無くし浴室に溜まったモワモワとした熱気が脱衣所に流れ出る。その熱気たちが洗面台の鏡から一切合切を消し去る。

 右手でドライヤーを使いながら、左手ではぽんぽんと柔らかなバスタオルで髪についた水分を拭き取る。

 

 

(それにしても今日は良い試金石だったかもしれない…)

 

 

 まだ若干痛む右足を見て思う。

 

 部活動で柔道と空手を、空いた時間ではトレーニングなど出来る限りで自らを鍛え抜いていた、というのが思い込みだと分かっただけでも十分な収穫だ。どれだけ技や知識を身につけたところで圧倒的な質量の前では小手先の技術に過ぎない。それでもやり用はいくらでもあるがリスクがつきものだ。今回も、もし相手が殺人を躊躇しない相手なら、本気で俺を潰そうとする相手なら、俺は死んでいただろう。だからこそなるべくリスクを高めることなく正攻法で勝てるようにならなくてはならない。Dクラスでは無いが、一人だけ体格が一回りも二回りも大きな留学生がいたような覚えがある。そして彼を下したと思われるホスト紛いの龍園(りゅうえん)くん。高育に入学するとクラス分けがなされるが、清隆(しゅじんこう)くんのクラスでも他のクラスでも間違いなく暴力に接することとなる。龍園くんのクラスなんかに配属されたら毎日暴力三昧だ。考えるだけで気が滅入る。

 その未来予想図がさらに俺のやる気を焚き付けた。

 

 カチリ、とスイッチを切り、ドライヤーの音が止む。

 

「さあ、行くか」

 

 髪を乾かし終えた俺は父の元へ向かった。もちろん部屋着に着替えてから。

 

 

 

─────

 

 

 

「父さん、お待たせ」

 

 椅子を引いて父の対面に座る。十数分経ったというのに父はあれから一度たりとでも動いたのか、と疑うほど変わらず突っ伏したままだった。

 

 

「……あぁ栄一郎、急かして悪いね」

「いや良いよ。それで父さん。話って一体なんのこと?」

 

 なにやら重要な話だと想像がつくので姿勢を前のめりにする。ちゃんと聞いてるぞ、というある種の意志表明だ。聞き手の姿勢というのは意外にも大事なのだ。

 

「引越しとか?それとも転職?」

「…アハハ、当たらずといえども遠からずだよ。それならどれほど良かっただろうね…」

「じゃあ何?家賃が払えません、とかまた職場チェスでボコボコにされた、とか?」

 

 いや、うちは持ち家だから家賃なんてないか〜、なんて自問自答する。

 

「ねえ父さん、良い加減勿体ぶらずに教えてくれよ」

「そうだね…」

 

 ゴクリ…

 

 ここまで溜めたんだ。相当なビッグニュースに違いない。新しい元号を心待ちにするような、W杯のメンバー発表を待つような気持ちだ。

 

 

「……す……ない……」

「え?」

「すまない……すまない、栄一郎……っ。私、私は……まさか、お前まで……巻き込むなんて……」

 

 

 ポカン……、まさにこれだ。何のことを言っているのか一切見当がつかない。俺も巻き込む? 何に? どうして? 誰が?

 数多の疑問符が俺の脳内を埋め尽くすが、当の父親は床に視線を落としたままガタガタと震えている。

 

「どうしたんだ父さん。説明してくれないと俺には何が何だ──」

「まさか、あの、あの方が……! 家族すらも巻き込むとは、想像していなかった! 全くの、予想外だったんだ……!」

 

俺の言葉も届いていないのか、父親は悲鳴のように言葉を被せてきた。

 それはまるで、長年猛烈な水圧に耐えかねていた古い栓が、ついに限界を迎えて弾け飛んだかのようだった。

 突っ伏したまま震える父の姿は、教会の告解室で一人、罪を吐露する罪人のようにも見える。しかし、内容が何も把握できないうちは救いを与えることもできない。今の俺は、ただ言葉にならない懺悔を聞くことしかできない神父と同じだった。

 

 

「だから父さん、1から説明してくれよ。状況が一切飲み込めない」

「すまない…すまない…すまない栄一郎…迷惑かけてばかりの不甲斐ない父ですまない…」

 

 これは相当精神がやられているようだ。この14年近く、これ程までに取り乱している父を見たことはない。一体何が父をこうまでしたのだろうか。

 やっと言葉を吐き出した父はどこか切迫した顔で下を向いたままだった。

 

(唯一の情報源たる父がこの調子ではどうしようもない。一先ずは落ち着くまで待とう。変に声をかけるよりかは黙っていたほうが良いだろう)

 

 

 

カチ   カチ   カチ   カチ

 

 

 

 

 

 

 

 人が二人、これだけ広いリビングにいると言うのに耳に入る音は規則正しく刻まれる壁掛け時計の針の音だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

カチ   カチ   カチ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カチ   カチ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カチ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……栄一郎……私たちは殺されるんだ」

 

「え?」

 

途方もない時間が過ぎたように思えたその時、父が遂に口を開いた。脳の理解が追いつかない、あまりに現実離れした言葉と共に。

 

「私のせいで殺されるんだ。明日」

 

突如として突きつけられた、まさかの余命宣告。あまりの斜め上の展開に、逆に脳のネジが一本飛んだらしい。気が動転した俺の口から出たのは、自分でも意味のわからない質問だった。

 

「ちなみに、どうやって?」

「火で」

「火で?」

「そう、火で」

 

 ……火で?

 前世はコンクリートで死んだと思ったら、今度は火らしい。死因の文明レベルが随分と下がっている。

 

「いや……もしかしたら、麻縄かもしれない」

「麻縄? 首でも絞められるの? それとも、鞭みたいにシバかれるわけ?」

 

首を絞められるのなら、ちょうど今日──というか数時間前に体験してきたばかりだ。紐じゃなくて、ガキの皮を被ったゴツゴツした男の手だったけれど。

 

「締められるというより締める、かな」

「締める?自分でってこと?別に自殺願望なんてないけど」

 

 

 そう、俺に自殺願望はない。だって生きるのが楽しいし、一応神様から与えられたワンモアチャンスだから。自傷行為の経験は無いし、SMの癖なんてもっての外だ。自分で首を括るなんて絶対に御免である。

 

 

「……そろそろ本題に入ろうよ父さん。死ぬなんて冗談言わずにさ」

「ハハハ、そうだね栄一郎。心配は私の杞憂だったみたいだ」

 

 どうやら父は少し落ち着いたようだ。憑き物が落ちたような表情をして、仄かに笑みすら浮かべている。おそらく息子が味方でいてくれると分かり、張り詰めていた緊張の糸が切れたのだろう。

 

「でも栄一郎、死ぬのは冗談じゃないよ?私たちは死ぬことになる。いや、殺される」

「いやいやいやい。冗談じゃないなら早く逃げないとダメでしょ!」

 

 笑みを浮かべながら『死ぬ』だとか『殺される』だとか言葉にする父はどこか現実味を感じさせない。

 そして俺に至っては今のうちに家を水浸しにする、家中の紐をハサミで切り刻んで首なんて物騒で太いものを括れないようにする、なんてしょうもない対策法が頭にポンポン浮かんでくる。

 

 

「逃げてどうこうなる問題じゃないよ。向き合わないとダメなんだ。現実と」

「だからその向き合う現実を教えてよ。それで父さんは何をやらかしたってわけ?命を狙われるってことは相当なことでしょ。しかも息子まで」

「話すと長くなる。それに話せない部分もある。栄一郎…それでも大丈夫かい?」

「もちろん。理由(ワケ)もわからず殺されたところで成仏出来ない。死ぬならせめて理由を知ってから死にたい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

─────

 

 

 

 

 

「──というのが主な概要だよ。所々省いているけれど、栄一郎なら理解できたんじゃないかな?」

「なんとなくは分かったよ、なんとなくは。……脳の理解が追いついていないけど」

「それもそうだよね。急な話で本当に悪いと思っている。だけど、時間が時間なだけにね……」

 

 父さんの話を簡潔にまとめるならこうだ。

 明日までに父さんは熊本県阿蘇市に異動。それに伴い俺も引っ越し。持っていける荷物は必要最小限。そして──この家は、このまま燃やす、とのことだ。

 意味が分からなすぎて、脳内でそのワードが不吉なピンポン玉のように何度も反復する。

 

「それにしても、綾小路篤臣って父さんの上司だよね? 前に聞いたけど、その人がどうして父さんと俺を殺そうとするんだか」

「そうだね……先生は私の上司だよ」

 

かなり前、学校の課題の職場インタビューか何かで、父さんの口から聞いた通りの名前。砂漠でラクダに乗っていてほしいと願ってやまない。

 

「その先生が、一言で言えばかなり苛烈な人でね。実の息子にもキツく当たって、ネグレクト、体罰、虐待……かなりの非人道的な扱いをしていたんだ。私はどうしてもそれを見過ごせなかった。だから、ある人と協力した。その方と一緒に彼の息子──清隆くんが高校生になる、そのタイミングで完全に親から切り離そう、そう計画していたんだ」

「その、ある人って誰?」

「……それはまだ、教えられない」

 

 

 綾小路篤臣が清隆(しゅじんこう)君を虐待。全くのイメージ通り過ぎて驚きも出ない。

 それにしても執事をやっていながら雇用主の息子の家出幇助に加担なんて冷静に考えて色々とアウトなんじゃないだろうか。

 

 

「話を続けるよ、栄一郎。私たちはかなり上手くやれていたんだ。計画もいよいよ大詰めを迎え、あとは実行を待つのみとなった。……しかし、つい最近になってその計画が完全に破綻した。先生にすべてが漏れたんだ。どうやら、身内から裏切り者が出たらしい」

 

 

 父親は一度言葉を切り、悔しそうに拳を握りしめた。

 

 

「計画を知った先生は即座に関係者を処分した。人を人とも思っていない方法でね。ただ二人、私と、協力していたあの方のみ残された。私が手を組んだあの方は先生でも直接手が出せないらしく今も機会を伺っている。しかし私は切り捨てられた。あの方にとって私はただのトカゲの尻尾に過ぎなかった。そうなれば次に矛先が向くのは私だ。そう思った時にお呼びがかかった…先生から」

 

 

 

「覚悟したよ。正直行けば殺されると思っていたし、それだけのことをした自覚もある」

 

 

「扉を開ければすぐに声をかけられた」

 

 

 

 

 

『松雄、お前が謀ったことは全て筒抜けだ。隠し事の意味はないぞ』

 

 

『お前の仲間たちは全員処分した。お前も同じ場所に送ったって良い』

 

 

『だが、お前をここで捨てるのは惜しい。だから俺が殺す。社会的にな』

 

 

 

 先生が考えることは分からないな、なんて父は苦笑いを浮かべる。

 

 

 

 

『理解できない、と言う顔だな松雄』

 

 

『お前は有能だ。長年の付き合いだからわかる。だからこそ、ここで無駄に殺すのは合理的でない』

 

 

『しかしお前を野放しにすれば俺の部下たちが黙っていないだろう。俺の権力地盤すら危うい。そんなことは許せん』

 

 

『だからお前には一度死んでもらう、そして新たな人生を歩め』

 

 

『行き先は熊本県阿蘇市。新しい戸籍と住居は用意してやる。タイムリミットは明日の朝4:00まで』

 

 

『荷物は必要最小限だ。''松雄''が生きているという痕跡は一切残すな。パスポート、通帳、保険証、全て置いていけ』

 

 

 

『お前には確か息子がいたな。それも同様だ』

 

 

 

『以上』

 

 

 

 

 

 

 

 第一印象はなんだそれ。どんだけ傍若無人な男なんだ。

 元はと言えば実の息子を虐待やらネグレクトやら、非人道的な扱いばかりしているそいつが悪いのにバレたからって逆ギレか?しかも関係者を処分?おそらく()()()()()()()()()()()()()とは想像できる。明らかに行動と罪のバランスが釣り合っていない。そんなに清隆(しゅじんこう)君が大事なら最初から変なことすんなって話だ。

 

 

 だが面識もない俺がガーガー喚いたところでなにも変わらない。今出来るのはまだ見ぬ世界最大級のカルデラに持っていく荷物を考えることくらいだろう。

 

 

 

「死ぬものかと思っていたから、生き延びられたのは拍子抜けだったよ。ただ、栄一郎にこの事実をどう伝えようか……それだけが、ずっと私の心を重くしていたんだ」

 

 父さんは自嘲気味に笑ったあと、真っ直ぐに俺の目を見つめてきた。

 

「だけど、その調子ならすんなり受け入れてくれそうで安心したよ。……栄一郎、不甲斐ない父親だけれど、私に付いてきてくれるかい?」

 

──そんなの、決まってるだろう。

 

「ついていくよ。それに、一人で残ったところで家は燃やされるんだろう? そもそも選択肢なんて一つしかないさ」

「……ふふ、それもそうだね」

 

 さっきまでのどんよりとした絶望的な空気は、まるで嘘のよう。

 明日家を焼かれることが決まったリビングには、いつも通りの、仲の良い家族の姿しかなかった。

 

 

 

 

─────

 

 

 

 

 

 「いや〜、長年しっかり真面目に働いていて本当によかったよ」

 

なんて暢気(のんき)な軽口を叩く父さんをリビングに残し、俺は自分の部屋へと向かう。

 

 父さんの話によれば、俺たちが家を出た直後に工作員が入り込み、家に小細工を施すらしい。どうやら俺たち親子は明日、火災で死ぬことになるので世間に対するその妥当性を高めるための辻褄合わせだろう。例えば、身代わりの死体の配置や、偽造した遺書、あるいはアリバイ作りといったところか。

 

 にしても、いくらその道のプロが集まったとて急造の偽装工作にはどうしても粗が生まれるものだ。日本の警察は優秀だし、普通ならすぐに見破られてしまう。それを力技でもみ消せるということは綾小路篤臣という男は警察のトップや官僚すら掌握している黒幕か何かなのだろうか。日本の闇の深さを垣間見た気がするぞ。だとしたら、虐待されているとはいえ清隆(しゅじんこう)君は相当な名家の御曹司ということになる。

 

いつもより軽やかなステップで階段を上がり、自室に入る。

 

人間、誰しも人生を揺るがすビッグイベントが直前に迫ると、かえって気分がハイになるものらしい。さっきまで不信感と困惑で一杯だった俺の心も、さて何から手をつけようか、と前向きなワクワク感で攻めあぐねていた。

 

(まずは持っていく荷物の整理か? 必要最小限って言われてるしな。いや、いつも通りのナイトルーティンとして筋トレをするべきか? それともおれ自身で遺書でも書いてしまうか?もはや死体まで俺で細工しちゃうか)

 

 そうだ、それがいい!

 名案を閃いた俺の行動は早かった。押入れの襖を開け、ガサゴソと奥からある物を引っ張り出す。

 

 かくして、夜闇に包まれた自室の真ん中。

 不敵な笑みを浮かべる栄一郎の左手には等身大の人形を、そして右手にはずっしりとした強度の麻縄がしっかりと握りしめられていた

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

 

 楽しみすぎて、あまり眠れた感じがしない。

 朝3:00起き。悲劇の社畜ですらまだ布団の中にいるような時間だし、遠出の合宿を控えた部活生だってこんな時間には起きないだろう。

 眠い目を擦りながら洗面台へ顔を洗いにいく。リビングを覗くと既に起床して身支度を完全に済ませた父さんの姿があった。手元の新聞に目を落としている。

 

「おはよう父さん。随分と早いね」 

「おはよう、栄一郎。万が一にも寝坊なんて出来ないからね。……何より、どうにも落ち着かないんだ。この家を離れるという事実が」

 

それもそうだ。この家は、父さんが今は亡き母さんと結婚してすぐに無理して買った家だと聞いている。二人の思い出や記憶がたっぷりと詰まった場所だ。亡くなった母さんとは、これ以上新しい思い出を育めない。だからこそこの家は、母さんが残してくれた唯一の形見と言っても過言ではなかった。

 

「確かに、もうここには住めないのかと思うと寂しいね。……ねえ父さん、アルバムやそこにある写真くらいなら、持っていっても良いんじゃない?」

 

 テレビボードに置かれた、青い額縁の写真を指差しながら提案してみる。

 父さんと母さんのツーショット写真。俺が物心ついた時から、ずっとあそこに飾ってある大切なものだ。

 

「写真かい? 大丈夫かな。私が松雄として生きていたという証拠になりうるかもしれないけれど……」

「名前や住所が書いてある訳じゃないし、大丈夫でしょ。荷物の全数検査なんて厳密な真似まではしないだろうしさ」

「……そういうものかな」

 

ぼんやりと呟きながら立ち上がった父さんは、愛おしそうに額縁を手に取りスーツケースの衣類の隙間へと優しく滑り込ませた。

 

「栄一郎は、持っていく荷物はもう決めたかい? あまり時間がないから、早くまとめた方がいいよ」

「もちろん、あらかたは決めたよ。チェスボードとお気に入りの貯金箱。あとは数日分の服と、マイ枕かな。iPadも持っていきたかったけど、あんなの俺の検索履歴や位置情報の詰まった生きていた証拠の塊だからね。流石に断念したよ」

「はは、流石にiPadは置いていかないとね。あっちに着いたら新しいのを買ってあげるから、そこは安心していいよ」

 

これで、ネットの向こうの口うるさいフレンド(笑)とも合法的におさらばというわけだ。今まで俺の暇潰しの糧になってくれてありがとう。精々、次の寄生先でも見つけてくれ。

 

──朝食と歯磨き、全ての身支度を終えた俺は、きっと最後になるであろう自室でのだらつきタイムを堪能していた。

 慣れ親しんだこの子供部屋とも今日でお別れだ。14年間、様々なことがあった。酸いも甘いも、前世からの記憶を引き継いだ俺の成長を静かに見守ってくれたのはこの部屋だった。なんて、しんみりと過去を回顧する。

 

──ただ一点、部屋の真ん中に不気味に吊るされた等身大の人形というオブジェを除けば、涙ぐましいベタな映画のような美しいワンシーンなのだが。

 

ピンポーン

 

「栄一郎、そろそろ行く時間だよ」

 

 一階から俺を呼ぶ父さんの声。どうやらお迎えが到着したらしい。

 なんでも、新幹線や飛行機などの公共交通機関なんて使おうものなら、どうぞ私を見つけてください、と足跡を残すようなものだという。いくら国家権力を掌握しかけている綾小路篤臣さんでも、一般の目を欺くには限界があるらしい。彼が手配した黒塗りのセダンに乗って、現地まで陸路で直行しろとのお達しだった。

 

 部屋のドアを開け、一息つく。

 振り返れば、昨日となんら変わらない俺の部屋がそこにある。今も、そしてこれからも普通の日常が営まれるような雰囲気を醸し出しているが、数時間後にはそれらすべてが灰燼(かいじん)に帰すのだ。

 

 目に映る私物の一つ一つが勿体なく感じてしまうが、持っていけるカバンには限りがある。前世で流行ったミニマリストの精神で一足早い断捨離が出来たと思えばいいだろう。

 

 最後に、部屋の隅にかけられたカレンダーがふと目に留まった。

 明日は2月14日──バレンタインデー。

 

 俺には縁のないイベント……と思ったが、最悪な事実を一つ忘れていた。

 毎年、幼馴染の七瀬が律儀に俺の家まで手作りチョコを届けに来てくれるのだ。そしてホワイトデーにお返しを贈る、というのが我が家の通例行事になっていた。

 

 ……このままでは、明日彼女がやってきた時、燃え盛る我が家の跡地を前に手作りチョコを持ったまま絶望することになる。最悪の場合、残された熱気でせっかくのチョコがドロドロに溶けてしまうかもしれない。七瀬は結構料理というかお菓子作りが上手いんだ。毎年もらったチョコを一日一個とルールを決めていたほど。

 

 だけど、今さらスマホもないし下手に外部に連絡なんて入れたら痕跡を残すなというお達しに反する。

 

「ま、なるようになるでしょ!」

 

 思考を放棄した俺は、これから始まる新たな地での新生活に若干の期待を膨らませながら、トントンと軽快な足取りで階段を駆け降りていった。

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