8000年過ぎた頃からもっと恋しくなった……?   作:グラナデンロップイヤー

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第2話

 壁越しに聴こえ続ける赤ん坊のお仕事音。

 そりゃあもうこの安アパートの壁なんざ殆ど意味を為さない声量で俺の耳にまで届いてくる。

 既に深夜の時間帯。

 夜型の俺にはヘッドホンをつけて動画を見てれば特に問題無いが、朝型人間がいたならば実に睡眠妨害甚だしい声量。

 隣の部屋に住んでるのは女子高生で、一人暮らしのはず。

 引っ越してきた際に挨拶に来てくれたが、名前は忘れた。人の名前を覚えるのは苦手なんだ。

 けれどもその時の印象やたまに外ですれ違う時の姿からしてめっちゃ可愛い子である。

 容姿端麗に相応しい彼女の姿は忘れたくとも忘れられないだろう。

 朝に会えば挨拶はしてくれて、凛とした声色からは真面目な子という印象。

 そして夜に飯を買いに行けばたまに会う、部活かバイトか分からないがやけに疲れ切った姿で家へと帰る彼女の姿は苦労人といった印象。

 真面目な苦学生。それが隣人への印象だった。

 だからこそそんな彼女に、高校生にも関わらず子どもがいることに内心で僅かな驚きが浮かぶ。

 

「ふやああああ!」

 

 壁越しとは思えない音波を放ち続けている泣き声を耳にしながら、何となく状況が気になって椅子から立ち上がり壁際へと向かう。

 試しに耳を壁に当ててみれば。

 

「ああ、怖くない怖くないよー。ほら、べろべろべろー」

 

 慌てた様子で必死にあやす住人の声。

 

「ふやあああああ!」

 

 だが勢いを更に増した元気な泣き声が轟く。

 それと同時に聴こえた音。

 どんっ、どんっ、どんっ。

 こもった重低音が泣き声とは違う周波数で俺の耳を揺らした。

 

「壁ドン……?」

 

 思わずと呟く。

 その重低音は止むことなく俺の鼓膜を断続的に震わせ続ける。

 俺とは反対側の住人が泣き声に耐え切れず壁ドンした音だった。

 なるほど、そちらは朝型人間だったか……。

 どうでもいい感想が浮かんだ。

 元気な泣き声と壁ドンのセッションが響く中、小さな声が届いた。

 

「えーっと……抱っこは、もうしてるし、縦抱きもしてるよね。横揺れもしてるし、抱っこ歩きもしてるから、後は……」

 

 焦った声色で必死に何かを確認するような言葉。

 その声色にふと浮かぶは……夜中にたまにすれ違う彼女の姿。

 街灯の灯りでも分かるほどに目の下に浮かぶ隈。若干ふらつきながらよろよろと歩く姿。

 声色から分かる体力を通り越した心理的疲労。

 その上で今は壁ドンという、外的要因による精神圧迫をも招いている状況。

 悩んだのは僅かな時間。

 

「……よし」

 

 壁から離れて玄関で靴を履く。

 鍵を開けて扉を開ければ通路を歩く。

 七月の夜は熱帯夜とはいかずも生暖かい空気に包まれていた。

 灯りが漏れ出る、泣き声が一番聴こえる扉の前を通過する。

 だがその直後に、微かにだが歌声が聴こえた気がした。

 そして足を止めるは、更にもう一つ先の扉。

 俺の部屋から二つ隣。この扉へとノックする。チャイムの無いこのアパートでは、こうするしかなかった。

 やや間が空き、鍵が開かれる音。

 僅かにだけ扉が開かれた。

 声は聴こえなかった。

 ならばこちらから言おう。

 

「夜分遅くに申し訳ありません。二つ隣に住む者ですが……赤ん坊が泣いちゃいまして……窓や換気扇も開けた状態だったんでうるさかったら申し訳ないと思い、こんな時間ですが謝罪に回ってました」

 

 開かれた僅かな隙間へと声をかければ、その後の沈黙。

 そこで、泣き声が止んでいることに気付いた。

 僅かな間を空けて俺の耳に届くは――舌打ち。

 そのまま、バタンと強めの力で眼前の扉が閉じられた。

 舌打ちしかされなかったことに思わず立ち呆ける。

 何か小言をぐちぐちと言われる覚悟はしていた。

 だが終わってみれば拍子抜け。

 どのみち二つ隣の部屋など無縁過ぎて、多少因縁を持たれても何とかなる。

 疲れ切った顔で歩く隣人の姿を思い出せば、このくらいはやろうと思えた。

 直接何か出来ることは無いだろう。

 勝手に関りに行くとか、事案になりに行くのと同義。

 故にまだ少女たる彼女の周りで、彼女の負担になりそうなことくらい……迷惑にならない程度には力になろうと思った。

 前世で甥を育てる姉の姿を間近で見ていたからだろうか。

 行動した自分の心理を分析しつつ、部屋に戻ろうと踵を返した。

 

「あっ」

 

 視界の先から、そんな声が聴こえた。

 それは俺の部屋の方向。

 俺の部屋の、一つ前の扉から。

 いつの間にか開かれていたその扉から顔を覗かせていた、少女の口から。

 思わずと立ち止まる。

 ただ沈黙だけが通路に流れる。

 ……何で? 赤ん坊は?

 そんな思考しか浮かばない。

 だが、何か言わなければならない。

 

「……こ、こんばんは」

 

 口に出したのは幾分かどもった、夜の挨拶だった。

 

「えっ、あ、こ、こんばんは……」

 

 少女もまた戸惑い気味に挨拶を返してくれた。良い子である。

 だが俺はそれ以上の言葉は思い浮かばない。

 故に足を動かし、自分の部屋へと向かう。

 視線を外側へ向け、極力目が合わない様に歩き進める。

 気まずさだけを胸に歩き続け、刺さる視線が真横へと移った時。

 

「あ、あのっ」

 

 至近距離から声が届き、足を止めてしまった。

 思わずと顔を向けてしまえば、その表情が見える。

 疲れ切りやつれた中に見える戸惑いの感情。

 その表情は、決して十代の少女が浮かべるべき顔ではないと思った。

 だからこそ……気まずさが胸から消えた。

 大人である俺が彼女を戸惑わせてどうすると、自分に言い聞かせた。

 故にこちらの表情を申し訳ないものへと変える。

 

「さっきまで映画を見てて、その中で赤ん坊が大声で泣いちゃってて……結構な音量で観てたんでうるさかったら申し訳ないと思って、謝って回ってたんですよ」

 

「えっ?」

 

 困惑を前面に出した少女に続ける。

 

「うるさくしちゃって申し訳ありません……以後、音量には気をつけますので」

 

 矢継ぎ早に告げれば「えっ? え?」と少女の困惑が更に増すが無視。

 泣き声の止んだ赤子はきっと寝たのだろう。

 ならば余計な会話で起こしてしまうのは得策ではない。

 

「じゃ、失礼します」

 

 軽く頭を下げて足早に一歩を踏み出す。

 

「……ま、待ってくださいっ」

 

 ことが出来なかった。

 物理的に裾を掴まれて動きを止められた。

 

「その、声が聴こえちゃいまして……白羽さんはうるさくしてなかったはずです。私の方がうるさかったはずです」

 

 何で名前知ってんの?

 もしかしたら引っ越しの挨拶の時に名乗ってた可能性はあるが……そうだとしたら記憶力良すぎじゃね?

 そんな感想が浮かんだ……知ってる。現実逃避だ。

 

「いや、うるさくしちゃってたんですよ」

 

「違います。私の方がうるさかったはずです」

 

 ……何なの、この子。無駄に強情じゃん?

 いつの間にか困惑を消して真っすぐとした目を向けてくる少女。

 その姿に何が言いたいのか分からず、ただ困惑することしか出来ない。

 

「あっ……」

 

 不意に少女の表情が変わる。

 

「えっと……その、私の方がうるさくしてしまったはずなのに、何で白羽さんが謝りに行ったのか、分からなくて……」

 

 どこか気まずげな表情。

 目を伏せながら、言葉を続ける。

 

「白羽さんだって……うるさくて迷惑したはずです」

 

 それは断定しながらも、こちらへと訊ねる言葉。

 沈黙が二人を包む。

 色々と思考が浮かんでは消えていく。

 やがて、こちらから口を開いた。

 

「じゃ、お互い様ってことで」

 

「えっ……?」

 

 驚いた顔を向ける少女に続ける。

 

「お互いうるさくしちゃったってことで、今後は気をつけていきましょう」

 

 じゃっ、と言って再び足を進めようとすれば、より強く裾を握られた。

 

「ま、待ってくださいっ。私が迷惑をかけてしまったので、何かお詫びさせてくださいっ」

 

 えぇ……何なの、この子。

 今の完璧な終わりだったじゃん。

 ちゃんと両成敗したじゃん。

 真面目というか……頑固?

 

「じゃあ赤ちゃんと早く一緒に寝てあげて。そんで可愛がってあげてよ」

 

 ……別にめんどくさくなったわけじゃない。

 確かにその面も無くはないが、今はそれ以上に喫緊の課題がある。

 赤ん坊が目を覚まして再び勤務開始してしまうのが最も困る展開。

 俺と同じく次の勤務開始までに最低でも九時間程度インターバルを取ってもらうのが最も望ましい状況。

 こんな夜中にもう一回泣きだされたら、流石に隣の住人が可哀想でもある。

 可能な限り、せめて人々が動き出す時間までは寝ていてほしいところ。

 

「で、でもそれじゃあ白羽さんに何のメリットも……」

 

 なのにこの子ったらやたらと食い下がってくる模様。

 メリットはもちろん、静かになるという共通命題を果たせる点がある。

 だがきっと、この子は納得しなさそうな気配……。

 自己犠牲ともまた違う、どこか頑なな少女の態度に逡巡。

 ……うむ。めんどくせぇ。

 

「じゃあ、ありがとうって言って」

 

「え?」

 

「ありがとうって一回言ってみ?」

 

 軽い口調で告げてみれば「あ、ありがとう、ございます」とどもりながら言ってくれた。

 

「おっけ、そんじゃお礼もらったからこれで終わりね」

 

「あっ」

 

 先程までと違う戸惑いを浮かべていたからだろう。

 足早に歩きだせば、弱まっていた彼女の指からするりと裾が抜ける。

 

「まずは自分の子どものことを最優先にしてあげなよー」

 

 そんなことを言いながら振り返らずに手を振れば、聴こえた声。

 

「い、いや、私の子じゃなくて……あっ」

 

 背後から聴こえた声に、再び足を止めざるを得なかった。

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