8000年過ぎた頃からもっと恋しくなった……? 作:グラナデンロップイヤー
ノイズに塗れた世界。何も聴こえない世界。
それがどれ程続いたのだろうか。
俺の耳に突然、音が聴こえた。
とても美しい歌声が――俺の頭痛を癒していった。
やがてノイズが徐々に薄まり始める。
徐々に見え始めたのは、宇宙空間に思えた。
だがすぐに巨大な何かが迫ってきて、視界が激しく揺れる。
まだ粗さの多いノイズが視界を占めており、詳しい状況が分からない。
しかし暫くすると、ノイズが一気に薄まり始めた。
そしてノイズが消えた時。
見えたのは砂浜だった。誰も居ない。眼前には打ち寄せる大海のさざ波。
そこに、声が聴こえる。
――……何で、こんなところにいるの?
その声は――さっきまで聴いていた声だった。
――……そうだ、隕石にぶつかって、装置類が誤動作して……ええい、このピーキーな時間遡行アルゴリズムを開発したのは誰だー! あっ、担当かぐやだったわ~、計算完璧だったのに残念無念、机上の空論、ここは奈落の底ってことかなぁ~!
それらの声は、まるで外に出ず、身体の内側だけに留められた様な声に思えた。
いつもと変わらない様な、かぐやの声。
……だが。
――……彩葉。
――……私、失敗しちゃったみたい。
明るさは完全に消え、淡々の声色に変わった。
そして。
――……彩葉っ!
――……彩葉ぁっ!
助けを、存在を望む心からの叫び。
その声色に、胸が痛まないはずが無かった。
かぐやの視界が水面を映す。
けれど本来視界に映り込むはずの――自分の身体が存在しなかった。
沈黙。
やがて声が聴こえた。
――……『もと光る竹』、応答して。
――……『もと光る竹』、応答して。
――……『もと光る竹』、応答して!
その声で、何も起こらない。
静寂だけが続く。
――……彩葉。
聴こえた声はか細く、
――……ああ、ドジっちゃったなぁ。
絶望を宿していた。
そこから、変わらない光景が繰り返される。
変わるのは陽の動き、月の動き、波の動き、雲の動き、天気の動き、季節の動き。
まるでそこにかぐやだけが存在しないかのように、目に映るものだけが、自然だけが動いていた。
かぐやはそこから動くことも出来ずに、進み続ける時をただ見ていることしか出来なかった。
けれどかぐやは確かに――そこにいた。
たった一人で、そこに居続けた。
その証拠は俺の耳に届き続けていた。
俺の頭痛を癒した――あの歌だけをずっと、歌い続けていた。
――……この一瞬を、最高の、パーティーにしよ。
その声は、言葉は……俺の胸を強く絞めつけた。
数十回、数百回、数千回。
かぐやの歌を聴いていた果てに。
異なる音が、耳に届いた。
それはとても小さく、けれど確かな違いを持っていた。
また聴こえた。
かぐやの視界が動く。
幼い少年が砂浜に立っていた。
かぐやの視線が完全に固定される。
また別の音が聴こえた。
少年が振り返って背中を向ける。
その姿をかぐやは映し続ける。
やがて、かぐやの視界が切り替わる。
やたらと地面が近い、あまりにも低い視界へと。
身体があった。その身体は、ウミウシだった。
そして、声が聴こえた。
――待って!
それはかぐやの声だった。
今までの内側だけの声じゃない。
外から内に届く、自然な声だった。
その証拠に――少年がこちらへと振り返った。
しかしどうやら、かぐやの言葉は聴こえても理解出来ていないらしい。
確かに、少年の声もまた……俺とかぐやには理解出来なかった。
けれど流石はかぐや。
ウミウシにも関わらず巧みなボディランゲージで、すぐに少年と仲良くなった。
少年が毎日浜辺へと遊びに来ては、かぐやは心底楽しげな声色で少年と遊ぶ。
だが、少年が訪れなくなった。
ウミウシの身体でかぐやはゆっくり、ゆっくりと歩を進め、ようやくと辿り着けば。
顔色の悪い少年が一人で、横になっていた。
全身から汗を拭きだし、酷く辛そうな顔で。
周りには誰もおらず、誰も来ない。
かぐやが訊ねる。
お医者さんは?
お薬は?
その質問を耳にした俺は――かぐやが置かれた状況に、心臓が激しく痛んだのだった。
最初に少年を見た時から、そんなのはまだ存在しない時代の可能性が高いと、思っていたから。
これは俺が、他人事として見ているからだろうか。
はたまた、必要だと思い様々な知識を暗記したからだろうか。
少年がうわ言の様に何かを呟き、それを受けたかぐやが歌えば、少年が微かに笑みを浮かべた気がした。
かぐやはずっと、歌い続けた。
少年はもうとっくに聴こえなくなっているのに、歌い続けていた。
でも、いずれ歌い終えた。
かぐやは暫く、何も喋らなかった。
けれど、やがて声を発する。
――ヤチヨ、どっかにいるんでしょ……八千歳だってのは嘘だったってわけ? 助けてよ。
その返答は、誰からもなかった。
時代が移ろい、景色が、文明が、文化が徐々に輪郭を濃くしていく。
自然主体の時代から、人間中心の世界へと、足を踏み入れた様な感覚になる。
助け合いもあるが、それ以上に争いが景色の多くを占め始めた。
五十年程度で人類のサイクルは変わり、次の世代へと引き継がれていく。
市井で値切られ続ける商人。
すみっで指を黒くしながら物語を書く文人。
恋の歌だけをひたすらに詠み続ける歌人。
税と戦のばかりを考えている官吏。
戦の度に旗印を変える将軍。
都を牛耳る豪族達。
かぐやはその全てを見てきた。
戦争も束の間の平和も全て。
何千年もかぐやはずっと、見続けてきた。
その光景を、俺もずっと見続けた。
かぐやが好きになった人達との交流を。
かぐやに恋した歌人との、触れ合い。
かぐやと二人三脚で太夫を目指した、接し合い。
空襲で焼け跡になった街で花を売り続けた少女への、震え。
ずっと見続けた事で何となく、かぐやが好きになる、愛する人の特徴が分かった気がする。
命を賭して生きる人達を、かぐやは必ず愛してきた。
いずれ訪れる必然の別れを知りながらも、その時を一緒に生きていた。
今を精一杯生きる。それを体現していた。
けれどそれを終える度に、かぐやから、かぐやらしさが失われていく気がした。
それを見ている事しか出来ない事が、歯痒くて仕方なかった。
かぐやは――人の死に触れすぎた。人の儚さに触れすぎた。
胸の内に想いを隠しきる事で、自分を守る術を覚えてしまった。
胸の内に想いを隠しきる事で、他人を優先する事を覚えてしまった。
――……彩葉、弱い自分から逃げられないことって、一番恐ろしいことなんだね。あなたの目の奥にある
けれど、彩葉を想い続ける限り――かぐやは、かぐやだった。
時代が更に変わる。
狩猟の時代から、農耕の時代、豪族の時代、王族の時代、皇族の時代、貴族の時代、武士の時代、商人の時代、産業の時代、兵器の時代。
そしてアナログの時代から、インターネットの時代へと。
一番最初に俺が生まれた時代。
この世界にWWW――ワールドワイドウェブが登場した。
かぐやは変わらずウミウシのまま、時代だけが――かぐやに追い付いてきた。
たどたどしい動きでかぐやが始めたのは、プログラミングだった。
Hello, world!
プログラミング言語を学ぶ上で、一番最初に覚える言葉。
かぐやがチャットでそれを打てば"Hello, you."と画面に返ってきた。
――……あの天才のかぐやちゃんも、月のインフラがなければこの程度のものも作れないんだなぁ。
かぐやから聴こえてきた声はどこか自嘲気味な口調。
けれど声色は、決して絶望ではなかった。
かぐやはプログラミングに没頭した。ネット掲示板に書き込み、ウェブページを自作し、それを自分の中に吸収していく。
やがて、声が聴こえた。
――……バカだったなぁ。何で今まで気付かなかったんだろう。
――私がヤチヨになるんだ。この世界はきっと何度も、これを繰り返していたんだ。
その声は、共に永きを見続けていた俺の思考を、肯定するものだった。
いつぞやの記憶が蘇る。
――ダメッ! MOSESUはそんなことしてないッ!
あれは……
そう理解してしまえば、その他全ての辻褄が合った。
――およよ? もしかして新人さんはかぐやのファンなのかなっ?
――まあ、そんな感じです。
――新人さん新人さんっ、かぐやは今日が卒業だよ? 俺はかぐやのファンだー! って断言しちゃった方がきっと楽しいよ☆
――このライブを見なきゃ……死んでも死にきれないんだ。
――え?
――新人さん新人さん、前にもツクヨミに入ったことある?
――いや、今日が初めてだけど……。
――あれれ? おっかしーな~、ヤチヨったら超高性能AIなんだけどな~。
初邂逅時の態度も、"かぐや"だとしたら辻褄が合う。
――おやおや? どっかに行くのかな~? だったらヤチヨの話を聞いてくれたお礼に、と・く・べ・つに~ヤチヨが管理者権限を使ってどこへでも送ってしんぜよう☆
――いや、もう帰るよ。
――え。
三十六秒延命出来た、その次の回だとしたら納得出来る。
俺は、死に戻ってたんじゃない。
全く同じ座標軸に、輪廻転生し続けてたんだ。
俺と違って、"かぐや"から"ヤチヨ"へと移ろう一度の輪廻の中だけ、俺の行動が影響を及ぼしていたんだ。
時が更に移ろう。
かぐやはとうとう、作り上げた。
二〇二〇年。
"ツクヨミ"が、サービス開始された。
そこでかぐやは――ヤチヨになった。
月見ヤチヨとして、生まれ変わった。
ヤチヨとしてツクヨミで活動し、やがて魂が巡り合う。
――彩葉。
八千年の時を経て、
ライブの中でいろはを見つけたかぐやの視界は、とても澄んでいた。
滲むことはなくただ、澄んだ視界でいろはを捉え続けていた。
そして――"かぐや"の、最後の声が聴こえる。
――……そうか、だからヤチヨはいつもあんなに楽しそうに、笑ってたんだ。
脳内の映像がフェードアウトしていく。
タケノコが入った水槽を中心にケーブルが広がり、ツクヨミの核となっている部屋の景色に戻った。
指が触れる水槽の中にあるタケノコを見つめる。
これが、『もと光る竹』なんだ。
この中に――
"それ"に直接触れたくて指に力を入れたところで……水槽から手を離した。
いや、やめとこう……。
"彼女"に触れるのは――次でラストにする。
そう決意して部屋を後にした。
この"世界"は、かぐやといろはとヤチヨ。
三人で完結する世界だったんだ。
マンションを出て道路を歩きながら、口を開いて……やがて閉じた。
そういや――声って……どうやって出してたっけ?
その事実に気付いて思わず立ち止まる。
周りには誰もおらず、無機物に囲まれた俺は一人。
いつからだろう。産声を上げなくなったのは。
いつからだろう。誰とも話さなくなったのは。
最後に声を出したのは、いつだっただろう。
そして思い出す。
そうだ。誰かと話すと暗記を忘れるから声を出さなくなった。
そうだ。誰かに話しかけられると暗記を忘れるから声を出さなくなった。
そうだ。声を出すと暗記を忘れるから声を出さなくなった。
そうだ。暗記を忘れなくなった時には、声を出す必要がなくなってた。
再び歩き出す。
電車に乗って、降りて、道を歩く。
ちゃんと最後には――いろはの傍に、いたんだ。
ずっと傍に、いられたんだ。
いろはは"かぐや"と一緒に、いられたんだ。
俺が何もしなくても――ハッピーエンドだった。
だったら俺は、これで最後にする。
残り一つの憂いを消して――消える。
かぐやの"感情が逆転することで影響を及ぼすか"どうかの、検証をする。
それが――俺に残された、たった一つの可能性。
それを終わらせなければ――また、関わってしまうかもしれないから。
マンションに辿り着き、中へと入る。
監視カメラから俺を消して、最上階を目指す。
最上階の部屋の鍵を作る。
中に入り、歩いて、やがて見つけた。
寄り添いながら座っている――かぐやといろはの後ろ姿。
二人の背後に立って、改造済みのスマコンを装着。
いつものVRではなく現実の景色の上にツクヨミを表示するAR機能でログイン。
降り立った場所は――かぐやの卒業ライブのステージ裏。
既に歌は終わり、かぐやの足元に雲が出現した。
雲が浮き上がればかぐやを伴い、上空へと上がっていく。
かぐやの声が聴こえた。
「最高の卒業ライブでした!」
それは終わりの合図。
「いっぱいお土産もらっちゃった」
けれど同時に――始まりの合図。
「え?」
突然、真白な世界に放り込まれたかぐやが声を漏らす。
けれどそれは仮想世界での話。
現実のかぐやを背後から抱き上げて部屋を後にする。
「えっ? なに!?」
リアルの状態が分からず、けれど担がれている事を認識して慌てた声を上げる。
かぐやのアカウントを介してスマコンに介入しており、俺が解除しない限りVR機能が切れず、ログアウトを不可に変えていた。
全ては自動で動くように設定していたプログラムによるもの。
かぐやの転送先に現れた月の使者達がかぐやに近付き、腕を伸ばす。
「えっ?」
その瞬間にまたしても、かぐやの世界が変わる。
GHOST MOON。俺が造った第三の世界。
エレベーターを降りてエントランスを駆け抜ける。
そろそろか……。
そう判断して、ツクヨミ内の音声出力をオフにし、かぐやの耳元で口を開く。
「かぐや。月に帰ったら、いろは、殺す」
ようやくと出せた声は、文というよりも単語の羅列だった。
そして声色なんて制御出来ず、自分でも笑いそうになるほどに酷くぶっきらぼうだった。
「――ッ!?」
月の使者たちが再び現れた。
けれど俺の視界に映る彼らの座標位置。
――ごく僅かにだが、その位置がズレていた。
仮説が、立証された。
かぐやの心が乱れれば、それは月の使者達にも影響を及ぼす。
マンションを飛び出してかぐやを地面に下ろし、タクシーを捕まえたと同時に管理者権限でかぐやを強制的にログアウトさせた。
オレンジ色だったかぐやの瞳が元の深紅に戻る。
タクシーに乗るように背中を軽く押せば、一度、小さく身体を震わせた後に、何も言わず静かに乗り込んだのだった。
住所を書いた紙を渡せば遠いと言われたが、二十万程度を先に渡せば発進してくれた。
道中で会話がないままに、タクシーは走り続ける。
高速を使い県を跨ぎ、都会から田舎へと、下道に降りて山間部へとタクシーは進む。
約五時間後、データセンター兼自宅へと到着したのだった。
つまり五時間以上、俺は生き永らえていた。
一階、地下一階、地下二階とエレベーターで降り、やがて地下三階へと到着。
真白な通路を歩き、俺の自室を超え、その一つ奥の扉を開いた。
そこにはキングサイズのベッド、大きなテーブル、椅子、四人掛けのソファが四つ。
大型モニターや各種ゲーム機や数千のゲームソフト、様々な楽器やおもちゃや小道具など三十畳の室内に収められていた。
業務用の冷蔵庫やかぐやの腰より少し低い高さのカウンターキッチンが部屋の奥にある。
部屋を見て、そして俺へと振り返るかぐや。
その表情には困惑だけが宿っていた。
何も言わずかぐやの背中を優しく押して、中を案内。
この入り口以外にも二つのドアが備え付けられており、それぞれトイレと、脱衣所に繋がっている。
脱衣所にあるもう一つの戸を引けば十畳ほどのバスルーム。
湯船は俺が横になっても余りある長さと幅だから、華奢なかぐやには十分な大きさのはず。
室内の案内が終わり入り口付近に戻ってきた。
「……かぐや、ここにいたらいいの?」
ようやくと、かぐやが口を開いた。
俯いており表情は分からない。
返そうと口を開くが、すぐに閉じる。
声が出なかった。
だから仕方なく頷きを返す。
かぐやはただ、俯いたまま。
このまま俺がいては何も出来ないだろう思い、部屋を出ようと踵を返す。
「……彩葉、殺さないで」
その声に思わず、足を止めてしまった。
背中に、軽い衝撃が走る。
かぐやが、俺に抱きついていた。
振り返ろうとして、動きを止める。
回された腕が、背中に伝わる感触が――震えていた。
その感触に、既視感を抱いた。
――行っちゃヤダ……彩葉が死んじゃう。
「迎えが、来ちゃう……彩葉を、殺さないで」
かぐやが、続けた。
「ツクヨミは、仮想の世界は月と近いから……舟を飛ばさなくても干渉できた、だけ」
震える声で、続けた。
「舟が……舟が来たら……もっと皆に、迷惑かけちゃうから……!」
涙に濡れた声で――言った。
「運命は変わらないの! だから迷惑かけたく、ない! でも彩葉には死んでほしくないっ!」
まるで自分の中の矛盾を自覚したような声色。
運命は変わらない。
迷惑かけたくない。
いろはには死んでほしくない。
そのどれもが――本心だった。
背中に抱きつくかぐやは今、どんな顔をしているのだろうか。
そんなの……考えなくても分かった。
全てを受け入れたけど――いろはが死ぬ事だけは受け入れられない。
そんな顔だ。
ならばかぐやにそんな顔をさせたのは誰だ?
俺だ。
俺だけが……かぐやにそんな顔をさせたんだ。
涙と叫びで必死に訴えるかぐや。
そんな彼女の前で……思わず笑ってしまった。
かぐやの身体が大きく震えたのが分かる。
明らかに場違いな笑い。不似合いな、笑い。
でもさ……思っちゃったんだ。
何を身につけても、何を作っても、何を行動しても、その行動を変容させても。
最も俺の本質的な部分。
かぐやを不安にさせてしまう――その本質が、初めて出会った頃から何も変わっていないんだと。
考えてみれば、確かにそうだ。
俺はこれ以上何が出来る?
何も……出来ない。
月の使者がツクヨミだけじゃなく現実にも訪れるのなら、打つ手は絶たれた。
この"現実"において――魂を守る術なんて、存在しないのだから。
かぐやを月に帰さないなんて
それに今回の検証だって、例え上手く行ったって――。
いろはがかぐやの――かぐやを匿う俺の下に来なければ、何の意味も無いのだ。
月と地球じゃない。同じ世界にいながら……二人は離れ離れになったまま。
そしていろはは――俺を拒絶するのだから、俺の下に来るのを良しとするはずがない。
寧ろかぐやを俺から引き離す選択をするはずだ。
それが、俺が知ってるいろはで、かぐやの歴史から知り得た彩葉。
かぐやと彩葉。それがハッピーエンド。
俺が混ざれば、それはバッドエンド。
彩葉と
そこに至らなければそれは――超バッドエンドというやつだろう。
かぐやは彩葉に再び会いに行く。
そしてヤチヨとして、彩葉と共にいられる。
一時は離れても、最後には一緒にいられる。
これ以上の最良なんて――俺には思いつかないから。
静かに息を吐いた。
何も考えず、口を開く。
「大丈夫、死なないよ。大丈夫だから」
自然と、言葉が出た。
ああ……そういえば、こんな声だったか。
懐かしさを超えた、遥かに古い記憶が呼び起こされた様な感覚に、そんな感想を抱いた。
「……ほんと?」
そんなか細い声が耳に届いた。
「ほんとだよ。いろはは死なない。殺さないよ」
「……ほんと?」
「ほんとだよ」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
「……分かった」
そう言って、かぐやが静かに離れた。
ゆっくりと振り返り、その姿を視界に収める。
未だに濡れた瞳で、こちらを見上げるかぐやの姿。
ぼやけながらも俺の顔を映す深紅の目が、大きく見開かれた。
「……何で、泣いてるの?」
そう言われて、ようやくと自覚した。
頬に伝う感触を認識し、静かに指で触れてみれば、確かに濡れていた。
そうか……泣くって、こんな感覚だったのか。
さっきまで、真っ白な壁しかなくて気付かなかった。
そうか。泣いているのか。
意味が分からなくて、思わず笑った。
「何でだろ? 分かんないや」
そう言って、笑顔を浮かべた俺。
でもかぐやは――笑ってくれなかった。
不安げな顔で、俺を見つめていた。
そこには先程までの怯えは存在せず、不安げに俺を見つめていた。
かぐやにそんな顔しかさせられない自分に、何故か涙の量が増えた気がした。
けれど、何となく。
少しずつ、涙の意味が分かってきた気がする。
思い出してきた気がする。
悲しくはない。辛くはない。苦しくはない。
なのに、涙が出る理由。
……ああ、そっか。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ」
悲しくなくても、辛くなくても、苦しくなくても。
涙は出るんだ。
「ハッピーエンドが見れて、嬉しいんだ」
俺の言葉にかぐやはただ小首を傾げた。そりゃそうだ。
運命は変わらないんだから、ハッピーエンドは変わらないんだ。
だから俺がすべきは、迷惑をかけないこと。
細胞レベルで刻み込まれたルーティンはどう足搔いてもやってしまうだろう。
でもそれ以上の事をしなければ、迷惑にはならないはず。
"関わる"ルーティンだけ消す様に努力すれば、ハッピーエンド。
ハッピーエンドを見続けられる――それはきっと、ハッピーエンドだろう。
かぐやが、彩葉が、ヤチヨが。
それぞれが震わせ、接し合わせ、触れ合わせ――巡り合わせば。
即ち最良。ハッピーエンド。
涙を拭い、やがて止まる。
「ちょっと待ってて。ツクヨミに入れる様にしてくるから」
そう言って踵を返せば、腕を掴まれた。
振り返れば、深紅の双眸が俺を映す。
「名前、教えて?」
その言葉に思わず目を丸くする。
やがて笑みを浮かべた。
「君のハッピーエンドに俺の名前なんて不要だよ。君は俺のことなんて忘れて……ただ、いろはの事だけを考えるんだ」
いいね?
そう伝えれば、暫くと俺を見つめていたかぐやだったが……やがて、静かに手を離した。
今度こそ、室内にかぐやを置いて、部屋の扉を閉める。
最後まで俺を見つめていたかぐやが何を考えているかなんて、分からない。
分からなくて、よかった。
隣のドアを開けて自室に入る。
ゲーミングチェアに座り、パソコンを立ち上げた。
ヤチヨはまだ気付いていないのか、管理者権限は付与されたままだった。
それを使いかぐやのアカウントに侵入し、正常な状態に戻す。
かぐやの持つスマコンからログインしても正常に受け付ける様に全ての処理を解除する。
作業は一〇分程で終わった。
キーボードから手を離し、天井を見上げる。
染み一つない真白な天井。
それを見つめ、ふと思う。
染みの一つでもあったら、すごく気になってしまうかもしれない、と。
だから染みが一つも無くて良かった。
一つの染みも無い方が、良かった。
目を閉じて息を吐く。
作業が全て、終わった。
その思考を最後に、目を開けた。
パソコンを操作し、更に一〇分ほどで完了。
眼前のモニター内で忙しなく動き続ける文字列を僅かに眺め、立ち上がる。
ツクヨミに関わっていた全プログラムの削除処理だった。
それはあまりにも膨大で、接続してるデータサーバーの演算速度を鑑みても数日はかかる見込み。
だからその画面のままに放置して自室を出た。
隣の部屋のドアをノックする。
ガチャリと音がして、ドアが開かれたのだった。
開けたのはかぐや。
同時に、鼻腔へと――先程まで存在しなかった匂いが届いた。
思わずと目を向ければ、そこには大きなテーブルに並べられた二つの皿。
横並びのそれには、パスタが入っていた。
「彩葉のこと考えてたら、一緒にご飯食べたの思い出して……私の料理食べて彩葉、喜んでくれたから」
声が聴こえ、眼下へと顔を戻せば――、
「だから、一緒に食べよ?」
そう言ってかぐやは、俺に微笑んだのだった。
手を握られ、引かれ、椅子に座らせられる。
料理を近くで嗅げば自然と、身体が空腹を訴えてきた。
隣に座ったかぐやが顔をこちらに向けてくる。
何かを期待する様な眼差しで、俺を見つめていた。
置かれていたフォークを持ち、パスタを絡めて持ち上げる。
一口、食べた。
何故か、頬が緩んだ気がした。
隣から声が聴こえる。
「おいしー?」
その声に、気付けば口を開いていた。
「おいしいよ」
小首を傾げたかぐやに笑みを浮かべれば「えへへ、良かった」と満足げな反応が返ってきた。
そしてかぐやもまた、自分の食事を始めた。
何も言わないが、その表情は嬉しそうで、楽しそうで、食べ進めている。
ああ……そうか。
そんなかぐやを見て、気付いた。
気付かされた。
月に帰ると決めたかぐやは、変わってしまった訳じゃなかったと。
それはきっと、"成長"しただけなのだと。
だって――。
――トーヤ、おいしー?
――おいしいよ。
――むふふ~。
かぐやの本質は、魂にはあの頃のかぐやがちゃんと存在しているんだから。
顔を戻し、食事を再開する。
その後は何も話すことはなく、食事が終わった。
食べ終わった皿はそのままで良いと伝えたが、かぐやは首を横に振る。
「ダメ。お片付けまでが食事なんだから」
そう言って俺の食器とフォークも回収して奥の流しへと歩く後ろ姿を、見つめる。
……そっか。
内心でそんな声が浮かぶ。
かぐやはやはり、成長していただけなんだ。
本質は変わらずとも――食べ終えたオムライスの容器を俺が片付けた時のかぐやとは、違っていた。
慣れた手つきで洗い物を済ませたかぐやがこちらに戻ってくる。
俺を見つめ、僅かな沈黙。
「もう行かなきゃ」
その声が、終わりの合図だった。
「見送って、くれる?」
その言葉に、表情に言葉が詰まった。
でも――。
「一人きりじゃ、寂しいから」
「……そうだね」
かぐやはやはり、おねだり上手なままだった。
椅子に座ったままの俺。
その隣に再び腰を下ろしたかぐやが、椅子を動かして俺に近付く。
椅子同士が触れ合い、互いの肩同士が接し合う距離。
共にスマコンを装着し、起動する。
VR空間で視界が満たされた時、一度だけ手が、小さな柔らかい感触に包まれた気がした。
管理者権限はまだ削除されずに残っていたので、それを使って降り立つ位置を設定。
そのエリアをメンテナンスモードに切り替えて他のユーザーの侵入を不可にした。
そうして視界に映し出されたのは。
以前見た――幻想的な景色だった。
その直後――景色が無数の人影で埋め尽くされた。
世界が変わり、闇夜が支配する中――暖かく誰かを包み込む様な、大きな満月が現れたのだった。
その光景を見ながら、口を開く。
「彩葉との思い出、彩葉と一緒にいる時の気持ち、彩葉に対する気持ち……彩葉との音楽」
最後に、続ける。
「それだけを考えていれば、時間がかかるかもしれないけど、君はきっとハッピーエンドまで彩葉を一緒に連れて行けるから」
視界の端で、かぐやがこちらを見た様な気がした。
でも、どんな表情を浮かべているのかは分からない。
そしてきっと、分からないままの方がいい。
「できるね?」
そう訊ねれば、返事はなかった。
けれど視界の端で微かに、頷いた様な気がした。
視界の端で、かぐやの身体が浮き上がる。
そして徐々に月へと近付いていく。
顔を向ければそこには、この世界を見渡す笑顔のかぐや。
その口が、静かに開かれる。
「……みんな」
言葉を噛み締めるように、口を閉じた。
僅かに目を閉じて、やがて開く。
「彩葉」
虚空を見つめ、笑顔のかぐやが続ける。
「好き」
そして――言葉を締める。
「ありがとう」
「――ッ、ぅ、ぁ!」
心臓と、口をきつく押さえてかぐやにバレない様にする。
かぐやには俺の存在は不要。
真白なかぐやに、俺という染みを残すわけにはいかない。
彩葉と心で触れ合っているかぐやに、俺が入るわけにはいかない。
膝が震え、右足が膝をつく。
耐え切れず、左足の膝もまた、やや遅れて地面へとついた。
「ッ、ぐ……ぁ……ぁ、ぁ!」
見送ってと、かぐやは言った。
だから意地だけで、顔は上げ続ける。
月の使者がかぐやへと近付き、腕を伸ばす。
「おまたせ。ごめんね?」
暖かい笑顔のかぐやがそう告げれば。
表情の見えない月の使者もまた、微笑んだ気がした。
「く、ぁ、ッ……ぁ……ぁぁ……!」
視界がぼやける。暗くなり始める。
かぐやの姿がぼやける。
分離する。
まるで両の瞳でそれぞれのかぐやを認識しているかの様に、二つのかぐやがそれぞれにぼやけ、輪郭を失っていく。
意識が遠退く。視界が急速に暗くなる。
最後に見たのは――一面の銀だった様な気がした。
白羽遠矢。享年二十六歳。
けれどその死に顔――げに微笑みありけり。
けれどその心の内――飽くこともなくめでたかりけり。
めでたくてこそ果てにけれ、輪廻の
四〇〇〇〇八〇回目。
げにはっぴいえんどなりけり。
めでたし、めでたし。
ご覧いただき誠にありがとうございます!
一応これで完でも良いかなーとも思いつつ……。
ここまでを"前編"。
そしてこれからを"後編"として執筆も考えてはいます。
"後編"となるプロットも既にありますが、書こうかどうか迷ってますので是非コメントにて、後編を書いた方が良いかといったご意見いただければ幸いです~。