それから十年の月日を経て、私は再び、三門市の境界を越える。
三門市の「境界」を越えた瞬間、肺の奥まで流れ込んできた空気は、驚くほど鉄臭く、そして泣きたくなるほど懐かしかった。
かつて、この街には活気があふれていた。学生たちの笑い声、商店街の賑わい、夕飯の支度を告げるどこかの家の匂い。しかし今、少女の目の前に広がるのは、そんな色彩がすべて剥げ落ちたような、灰色の静寂だ。
三門市、警戒区域。
かつて日常があった場所は、今や異界との接点となり、無惨な残骸を晒したまま静まり返っている。
「……やっと、帰ってきたんだな」
震える声を、低く、誰に聞かせるでもなく零す。立ち入り禁止を告げる、赤錆びたフェンス。十年の歳月は、その鉄線に蔦を絡ませ、より一層「ここから先は人の世ではない」という不気味な境界線を強調させていた。葵はしなやかな動作で、その高いフェンスを軽々と越える。かつて七歳の子供だった頃には、絶対に見上げることしかできなかった壁が、今の彼女にとっては羽虫一匹通さないための用すら成さないほど、脆く感じられた。
十年。
その年月は、一人の幼い少女を、別種の生き物へと変貌させるには十分すぎる時間だった。
葵の脳裏に、かつて「前世」と呼ばれた記憶が、霧の向こう側から浮かび上がる。この世界とは別の理で動いていた、平和すぎる世界。そこで彼女は、物語を消費する一人の観客だった。週に一度、ページをめくり、少年たちの戦いに胸を躍らせていた『ワールドトリガー』という名の物語。大学生だった自分が、なぜこの世界に、白坂家の長女として生まれ変わったのか。その理由は、天文学的な確率の悪戯なのか、あるいは神と呼ばれる存在の退屈しのぎなのか、今も分からない。ただ、この二度目の人生において、彼女は間違いなく愛されていた。
日本人離れした金髪と、吸い込まれるような碧い瞳。そんな彼女を、両親は「神様からの贈り物だ」と、宝物を扱うかのように愛おしく抱きしめてくれた。その温もり、父の髭の感触、母が紡ぐ柔らかな子守唄。それらがあったからこそ、彼女はあちら側の地獄のような日々の中でも、心を完全に壊さずに済んだのだ。
運命の歯車が狂ったのは、唐突で、そして残酷な形だった。
十年前。
近所の林を探索していたあの日。西日が差し込む視界の端で、空間がぐにゃりと歪んだ。
そこから現れたのは、巨大で、白く、無機質な怪物だった。
(……バムスター。……嘘だろ、なんで、ここにいるんだ……)
目の前の怪物の名前を、物語の知識として脳が弾き出したその瞬間に、彼女は理解したのだ。自分は今、まさにワールドトリガーの世界に直面しているのだと。ここは、あの大規模侵攻が起こる以前の、人知れず行われていた「静かな人さらい」の現場なのだと。
逃げようとした足は、震える七歳の子供のものだった。必死に喉を鳴らしても、悲鳴すら出なかった。バムスターの強靭な捕獲脚が、小さな体を容赦なく締め上げる。視界が反転し、空が遠ざかり、暗い「胃袋」の中へと放り込まれた時、白坂葵という少女の「日常」は、あまりにあっけなく、音を立てて崩壊した。
それからの十年の歩みは、一言で語るにはあまりに泥濘んでいた。攫われた先、
昼は泥にまみれて武器を取り、夜は獣のような男たちの欲望にその身を晒す。元は成人男性としての理性を持っていたことが、かえって彼女の精神を追い詰めた。女性の体を持つことへの根源的な違和感。そこに襲いかかる理不尽な暴力と蹂躙。自尊心は粉々に砕かれ、尊厳は軍靴で踏みにじられた。彼女は「少女」であることを辞め、軍という巨大な歯車を回すための、摩耗し続ける部品へと成り下がった。
生き残るために、彼女はすべてを学んだ。欺くための媚び。急所を正確に掻っ切るための技術。そして、何よりも冷酷に、目的だけを見据える鋼の意志。十年前、両親の膝元で笑っていたあの頃からは想像もつかないほど、その四肢には強靭なバネと、実戦で磨き抜かれた無駄のない筋肉が宿っている。
「……取り戻さなきゃ」
葵はフードを深く被り、前を見据えた。彼女がここに戻ってきたのは、単なる復讐のためではない。奪われた十年という時間。汚された誇り。そして、何よりも大切な――家族との絆。
それらを、もう一度この手に手繰り寄せるための「過去の回収」。彼女は、自分がただの「被害者」で終わるつもりは毛頭なかった。地獄で培ったすべての経験と、この世界を予知に近い精度で知る知識。それらすべてを武器にして、彼女は自分の人生を再構築すると決めていた。
吹き抜ける風が、彼女の金髪をわずかに揺らす。その風は鉄の匂いとともに、かすかに潮の香りを運んできた。前方には、蔦に覆われたかつての市街地が、亡霊のように立ち並んでいる。
(待ってて、お父さん、お母さん。……私はもう、泣くだけの子供じゃないから)
彼女は一歩、強く地面を蹴った。その一歩は、三門市という巨大な舞台へと戻ってきた、幽霊の帰還を告げる足音だった。彼女がかつて過ごしたあの家、あの部屋。そこにはまだ、彼女という人間を構成していた「破片」が残っているはずだ。
まずは、それを拾い集めるところから始めよう。白坂葵としての二度目の人生、その本当の意味での物語が、ここから幕を開ける。
初執筆です