境界線を超えた亡霊   作:piyu

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計算された休息

 泥のような、深く、果てのない眠りだった。

 

 この十年間、白坂葵の夜は常に、いつ敵の奇襲によって命を奪われるか分からない緊張感と隣り合わせだった。戦争では、隠密性の高いトリオン兵の接近や、敵軍の攻勢によって陣地を攻撃されるリスクが常にあった。

 それだけではない。彼女が生存のために強制されていたのは、戦闘だけではなかった。上位者からの欲望を満たすための、逃げ場のない性的な搾取。誰が自分を強引に組み敷きに来るか分からないという、戦場以上に精神を削り取る屈辱が、彼女の夜を支配していた。浅い眠りの中でさえ、彼女の脳はトリオンの微かな揺らぎや、廊下を歩く足音を過敏に拾い続けていた。熟睡などという贅沢は、向こうの世界では自ら死を受け入れ、自尊心を完全にドブに捨てることに等しかったのだ。

 

 それが、どうだろう。 スプリングの効いたベッドは、彼女の重みを均等に分散し、吸い付くように優しく肉体を包み込んでいた。室温は高精度な環境制御によって一定に保たれ、不快な湿気も、鼻を突く臭いも一切ない。

 

 数時間、あるいは半日以上が経過しただろうか。 葵がゆっくりと瞼を持ち上げた時、部屋は自動調光によって、夕暮れ時のような穏やかな薄明かりに包まれていた。身体を小さく起こすと、衣服の擦れる衣擦れの音だけが静かに室内に響く。これほどまでに完璧な静寂を経験したのは、あの日、三門市でゲートに巻き込まれる以来のことだった。

 

「……これが、故郷か」

 

 ポツリと呟いた声は、自身のものとは思えないほど掠れていた。しかし、頭脳は驚くほど明晰だった。長年の疲労の澱が、この一回の睡眠によって劇的に洗い流されたかのような感覚。葵はベッドから足を下ろし、素足に伝わる上質なカーペットの柔らかな感触を確かめながら、壁際のライティングデスクへと向かった。

 

 彼女の目的は明確だった。両親の捜索と安全確保については、先ほど城戸司令たちとの間で正式に取引の条件として成立している。ボーダーという組織がその圧倒的な情報網と権力を使って動く以上、一個人が闇雲に三門市を歩き回って探すよりも、遥かに確実で効率が良い。両親の件は、全面的にボーダーの組織力に任せる。それが最も合理的な判断だった。

 

 ならば、今この「鳥籠」の中で自分が成すべきことは何か。それは、この十年で激変した玄界――特に、この三門市を実質的に統治している「ボーダー」という組織の社会的な立ち位置を正確に把握し、この世界に再定着するための、今後の身の振り方を計算することだ。

 デスクの前に腰掛け、最新型の情報端末の起動スイッチに触れる。 瞬時に画面が発光し、洗練されたユーザーインターフェースが目の前に展開された。葵は迷うことなく、ボーダーが一般向けに公開しているデータ、および内部の一般隊員向けに開示されている歴史と組織構造のアーカイブへとアクセスを開始した。

 彼女の指先が、流れるような速度で画面をタップしていく。 最初に彼女が目を向けたのは、三門市の復興史、大戦の記録、そしてそれに伴う「ボーダー」という組織の急成長のプロセスだった。

 

「……なるほど。単なる謎の防衛組織から、今やここまで社会に深く根を張っているのね」

 

 画面に映し出されたニュース記事、行政との提携書類、そして広報の記録を眺める葵の目が、冷徹な観察者のそれへと変わっていく。かつてのボーダーは、市民にとって「よく分からない怪しげな武装集団」に過ぎなかったはずだ。しかし画面の中の現在は違った。メディアを巧みにコントロールし、「ボーダーがこの街は守っている」という深い関係を市民との間に築き上げている。三門市における独自の避難システム、警戒区域の設定。それらは、自分が知っていた「原作」の知識以上に、地に足のついた現実的な「権力」としてこの街を覆っていた。

 

 葵は画面をスクロールする手を止め、ボーダー内部の階級制度と、隊員の待遇に関する規約を凝視した。A級、B級、C級という明確なピラミッド構造。そして、それに応じた手当や社会的な保証。ボーダーに所属する隊員の多くは、中学生や高校生といった未成年の子供たちだった。支給される手当の額に目を走らせ、葵はふっと小さく眉を動かした。命がけの防衛任務の対価として考えれば、決して目を剥くような高額というわけではない。

 

(これ、割とアルバイトみたいな感覚に近いんじゃない……?)

 

 一般社会の物価と照らし合わせても、少し割の良い学生のバイト手当の延長線上にある数字。そんなごく普通の子供たちが、命に関わるような前線の防衛戦を平然と担い、この街の平和を維持している。そのいびつで、同時に驚異的なシステムを、葵は一歩引いた視点から冷徹に、どこか感心すら覚えながら俯瞰していた。近界の過酷な軍事社会を見てきた彼女からすれば、この玄界の防衛体制は非常に特殊で、興味深いものに映った。

 

 そして、それほど膨大な数の未成年を破綻なく統制できている理由も、画面のデータから透けて見えてくる。

 

(これほどシステム化された組織だもの。一度でもその隊員としてのリストに名前が載れば、戸籍から生活に至るまで、すべてをボーダーに握られることになる。それは『保護』という名の、完璧に計算された管理構造だわ)

 

 だが、その管理体制についても、葵にとっては大した問題ではなかった。自分の居場所や動向を握られることなど、これから来るべき戦いに備えるための必要経費に過ぎない。

 

 彼女の脳裏にあるのは、自身の持つ「原作知識」だった。この先、アフトクラトルをはじめとする近界の強国による大規模な侵攻が、この三門市を襲うことになる。さらに、ボーダーが近界への遠征を敢行すれば、留守になった玄界の防衛線はいっそう手薄で過酷なものになるはずだ。それらの大戦に直面した時、一般人の立場のままでいては、ただ巻き込まれて避難を強いられるだけの無力な存在に戻ってしまう。迫り来る侵攻に的確に対処し、自分の力を十全に発揮するためには、やはりボーダーの関係者――正規の「隊員」として前線に立てる資格を得るべきではないか。一般人として平穏の中に隠れるか、防衛の戦力として内側に潜り込むか。葵は、後者の選択肢を本格的に検討し始めていた。

 

 ただ、無条件に頭を下げて忠実な兵隊になり、上層部の都合だけで便利に消費されるのだけは合理的ではない。ボーダーの防衛システムに深く片足を突っ込みつつも、自分自身の目的と主導権を失わないために、どう動くべきか。

 

(……城戸司令たちと、もう一度交渉の席につく必要があるわね)

 

 どう条件を切り出し、何を対価として求めれば、主導権を担保したまま、最高の形で防衛戦の最前線に潜り込めるか。思考の海は、どこまでも深く、冷徹だった。公開されている情報や原作知識を脳内で再構築し、次なる交渉のシミュレーションを組み立てていく。

 上層部を納得させるための完璧なプロットを構築する作業に、葵は完全に没頭していた。

 

 自分がどれほどの時間をその思考に捧げていたのか、葵自身、全く自覚がなかった。ただ、視界の端がわずかに明滅し始めた、その時だった。

 

 コン、コン、というノックの残響に、葵の身体がわずかに強張る。しかし、ここが近界(ネイバーフッド)ではなくボーダー本部の一室であることを思い出し、ゆっくりと深く息を吐き出した。思考の海から、現実の肉体へと意識を引き戻す。

 

「……入ってください」

 

 掠れた声で応じると、静かな駆動音と共にドアがスライドした。

 

「――白坂さん。失礼しますね」

 

 入ってきたのは、トレイを両手でしっかりと抱えた沢村響子だった。彼女は部屋に入るなり、デスクの前で微動だにせず画面を睨みつけている葵の姿を見て、小さく息を吐いた

 

「やっぱり、お声がけして正解でした。端末の利用ログが、朝から一度も途切れていなかったので、もしやとは思っていましたが」

 

 沢村は、トレイをデスクの空いているスペースへと滑り込ませた。そこから立ち上る、信じられないほどに香ばしい、復帰後初めて嗅ぐ優しい香りが、葵の鼻腔をダイレクトに刺激する。

 

「……沢村、さん」

 

「お昼の時間を、大幅に過ぎていますよ。一度も食事のリクエストが届かないので、様子を見にきました。これをどうぞ。本日の日替わりメニュー、温野菜のスープとカツサンドです」

 

 葵は、言われて初めて、自分の胃袋が強烈な空腹感を訴えていることに気がついた。思考の回転にすべてのリソースを割いていたせいで、肉体の発する悲鳴を完全に無視していたのだ。

 

「……ごめんなさい。少し、熱中しすぎていたみたい」

 

「構いませんが、身体を壊しては元も子もありませんよ。まずはこれを食べてくださいね」

 

 沢村は椅子の横に立ち、葵がトレイに向き合うのを静かに見守った。葵は差し出されたおしぼりで指先を拭い、まずはスープのカップを手に取った。ゆっくりと口に運ぶ。

 

「――っ」

 

 じゅわっと、野菜の甘味とスープの旨味が、乾ききった喉を通り抜けて胃へと落ちていく。その圧倒的な滋養の感覚に息を呑みながら、続けてカツサンドを一口齧った。サクサクとした衣の食感と、ジューシーな肉の旨味、そして甘酸っぱいソースの味が口いっぱいに広がる。

 

「美味しい……」

 

 向こうの世界の、ただ生存するためだけに口にする味気ない配給食とは根本から違う。食べることを楽しむために作られた料理。思わず漏れた本音に、沢村の表情が目に見えて柔らかくなった。

 

「それは良かったです。うちの食堂は、美味しいと評判ですから。……それで、随分と熱心に考えていたようですが、何か気になることでもありましたか?」

 

「私がいなかった十年の間に起こった、三門市の変化に思いを馳せていてね」

 

 葵はそう言って、再びカツサンドに手を伸ばした。サク、と小気味よい音が室内に響く。それを咀嚼し、飲み込むのを、沢村は急かすことなく穏やかな笑みを浮かべて待っていた。

 

「ふふ、十年の空白があるんですものね。でも、街の様子もだいぶ変わったでしょう? 本部の外も、昔に比べるとずいぶん綺麗に復興したんですよ」

 

 葵はスープのカップを傾け、温かい液体をゆっくりと喉に流し込んだ。完全に胃に収まるのを確かめてから、ぽつりと呟く。

 

「ええ……。画面越しでも、それはよく分かったわ」

 

 それからしばらく、部屋には葵が食事を進める静かな音だけが流れた。沢村はただその様子を、邪魔をしないように、けれどもしっかりと見守っている。最後の一切れを口に運び、残ったスープもすべて飲み干すと、葵は小さく息を吐き出して、おしぼりで丁寧に指先を拭った。

 

 お腹が満たされたことで、張り詰めていた神経がさらに緩み、心地よい疲労感が再び身体を巡り始める。こうした、自分の食事が終わるのをただ穏やかに待ってもらえる時間や、他愛のない世間話が交わせる環境そのものが、彼女にとっては奇跡のような安らぎだった。

 

 沢村は、綺麗になった皿とカップを満足そうに確認すると、一呼吸おいてからトレイを手際よくまとめた。

 

「よく食べてくれて安心しました。まずは、しっかりとこの部屋で英気を養ってくださいね。もし他に知りたいことや、日常生活で必要なものがあれば、いつでもそのインターホンで私を呼んでください。それでは、失礼しますね」

 

 沢村が、今度こそ優しい笑みを残して部屋を後にする。ドアが静かに閉まり、再び一人になった部屋で、葵は深く椅子にもたれかかった。スープの温かさが、まだ胸の奥にじんわりと残っている。

 

(ボーダーに組み込まれるルートは、いくつか作れる。問題は、あの上層部に対して、どのタイミングで、どうやって私のカードを切って踏み込むか、ね……)

 

 城戸司令たちには両親の捜索と安全確保を約束させた。だが、彼らが本当に両親を見つけ出した時、ボーダーはどう動くか。

 

(両親が社会的にどう扱われるのか、それが確約されるまで、私が主導権を握ってコントロールしなきゃ意味がない。そのための条件を呑ませるには、まだカードは伏せておきたい)

 

 未だに盤上に出していないカード。これらをいつ、どう開示してボーダーの核心へと切り込んでいくか。

 次なる交渉のシナリオを頭の中で組み立て直しながら、葵は静かに目を閉じた。穏やかな日差しが、彼女の横顔を静かに照らし出していた。

 

 




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