三門市の「警戒区域」。その深部はもはや「街」としての機能を完全に喪失していた。かつては分譲住宅が整然と並び、子供たちの笑い声が絶えなかったはずの区画。それが今や、アスファルトの隙間から雑草が不格好に顔を出し、割れた窓ガラスが虚無を覗かせるゴーストタウンへと成り果てている。
葵は、
彼女の神経は、鋭敏に研ぎ澄まされていた。警戒すべきは、ここを徘徊しているかもしれないイレギュラーなトリオン兵ではない。最も恐ろしいのは、ボーダーの「監視の目」だ。警戒区域内には無数のカメラが配置されており、たとえレーダーに映らない生身の人間であっても、隠しカメラや巡回中のボーダー隊員に見つかれば、その時点で彼女の計画は破綻する。彼女は遮蔽物の影から影へと、慎重な足取りで、十年の記憶を頼りに進んでいった。
「……見つけた」
ふと、足を止めた。門柱は震災のような衝撃で半分以上が崩れ、無惨な姿を晒している。だが、そこには確かに見覚えのあるプレートが残っていた。
『白坂』
文字が掠れ、薄汚れたその表札を見つめた瞬間、肺の奥が締め付けられるような感覚に襲われる。あの日、林へと探検に出かける際、背中で聞いた母の「気をつけてね」という声。それが最後になるとは思いもせず、彼女はこの門を飛び出したのだ。十年前、バムスターの胃袋へと吸い込まれた瞬間に見た景色は、薄暗い夕暮れの森だった。自宅の風景を最後に見たのは、もっと平和な、日常のひとコマに過ぎなかった。その断絶が、今の彼女には何よりも痛ましく感じられた。家が崩れているのは、あの日以降の混乱のせいか、それとも後の戦闘に巻き込まれたのか。
「ただいま……なんて。今更、どの面下げて言えるんだろうな」
誰に聞かせるでもない独り言を吐き捨て、彼女は玄関先へと歩み寄った。ドアは震動で外れたのか、不自然に歪んだまま隙間を開けて静止している。葵は周囲の屋根や電柱に監視カメラがないかを執拗に確認し、死角を通って音もなく屋内へと滑り込んだ。
家の中には、かつての家族の生活が、剥製のように固定されていた。床には埃が積もり、倒れた家具が長い年月の経過を物語っている。だが、そこには不思議と死の気配はなかった。ただ、主を失った空間が、誰かが戻ってくるのを待ちくたびれて、そのまま眠りに落ちたような、静かな空虚だけが漂っている。
葵は足元を警戒しながら、リビングへと向かった。テーブルの上には、あの日出すはずだったであろう茶碗が、乾ききった状態で転がっている。葵はふと、リビングの棚に倒れていた写真立てを拾い上げた。ガラスが砕けたその中には、自分を抱き上げる父と、隣で微笑む母の姿。そして、中央で無邪気に笑う、金髪碧眼の幼い自分。
「……この子は、もういない。私は、私になっちゃったんだよ」
震える指先で、写真の中の自分の顔をなぞる。当時は「男なのに女の子の体だ」という違和感に悩みながらも、両親の愛に守られていた。それが、近界での十年でどうなったか。過酷な環境で生き抜き、夜は男たちの獣のような欲望を処理するだけの、番号で呼ばれる備品。名前ですらなく、ただの数字として扱われ続けた蹂躙の日々。魂は引き裂かれ、尊厳は泥にまみれた。彼女はそっと写真を抜き取り、胸元のポケットへと滑り込ませた。それが、彼女がこの世界に戻ってきてから最初に得た、自分自身の破片だった。
「……さて。浸っている暇はないな」
彼女は切り替えるように強く瞬きをすると、二階の主寝室へと向かった。狙いは、父親がクローゼットの奥に隠していた手提げの金庫だ。避難する際、父は重要書類や通帳などは真っ先に持ち出しただろう。だが、慎重すぎてあちこちに予備を分散させる父の性格なら、回収しきれなかった「何か」が残っているはずだ。
葵は床板を剥がし、隠されていた小さな金庫を引き出す。それは電子ロックでも複雑なダイヤル式でもない、古びた鍵式のものだった。今の彼女にとって、そんなものを開けるのは容易いことだ。持ち合わせた針金を差し込み、手応えを探る。カチリ、という軽い音とともに蓋が開いた。中を確認すると、やはり公的な書類や通帳の類は一切残っていなかった。父が家族を守るために持ち出したのだろう。だが、その代わりに残されていたのは、父が個人的に蓄えていたであろう数束の一万円札だった。
葵は、その札束をじっと見つめた。これがあったからといって、失われた十年が埋まるわけではない。だが、これからボーダーと渡り合い、この世界でもう一度立ち上がるためには、どうしても必要なものだった。彼女はそれを奪うような罪悪感ではなく、父が自分に残してくれた「最後のお守り」を受け取るような、静かな感謝とともに背嚢へと詰め込んでいく。
最後に、彼女は自分の部屋だった場所へ向かった。そこはリビング以上に荒れ果てていた。天井が一部抜け落ち、雨漏りのせいで壁紙が黒ずんでいる。学習机の引き出しを開けると、中には当時大切にしていたキャラクターものの文房具や、書きかけの日記帳。
彼女は日記帳をパラパラとめくった。
『きょうは、おとうさんと、三門公園にいったよ。アイスがおいしかったです』
幼い、しかし懸命な筆跡。その文字を見つめていると、胸の奥が焼けるように熱くなる。地獄のような近界の夜、番号で呼ばれ自分が誰なのかさえ分からなくなりそうになった時、彼女を繋ぎ止めていたのは、こうした断片的な記憶だった。
「……私は、確かにここにいたんだ」
日記帳を抱きしめるようにしてから、彼女は部屋の隅にある古い姿見の前に立った。ひび割れた鏡に映るのは、十年の地獄を潜り抜けてきた少女の姿。金糸のような髪、吸い込まれるような碧眼。成長を経てさらに際立ち、誰もが目を留めるであろう凄絶な美貌へと完成されていた。だが、その目はかつての写真に写る少女のような無垢な輝きを失っている。代わりに宿っているのは、他者を寄せ付けないほどに鋭く、そして深い闇を見つめてきた者特有の冷徹な眼光だ。美しいと評される以上に、その瞳は見る者を射すくめるような険しさを湛えていた。
「……白坂葵。……そうだよ。私は、死んでない」
鏡の中の自分を見据え、彼女は静かに決意を固める。懐には、再生のための資金と、自分という人間を証明する記憶。これを手に、彼女は次は「境界の外」――ボーダーが管理する、今の三門市へと向かう。
そこには、自分を死んだと信じ、悲しみの中に置いてきた家族がいるかもしれない。彼女は、彼らともう一度「家族」として会わなければならない。それがどんなに困難な道のりであっても。
葵は最後に一度だけ、荒れ果てた自分の部屋を振り返り、未練を断ち切るように跳び出し、センサーの死角を突いて廃墟の中へと消えていく。
白坂葵、二度目の人生の過去の回収。その第一段階は、静かに、しかし決然とした意志とともに完了した。
<人物紹介>
白坂 葵 17歳
身長165 cm
誕生日 7/15
好きなもの 家族、お母さんが作ったオムライス
作者の一言
段落分けが難しいです。