住宅街を覆う夜の帳に紛れ、葵は人通りの絶えた路地の隅で足を止めた。周囲に潜む気配がないことを、壁越しに伝わる微かな震動のような感覚で確認し、精神を集中させる。
彼女が静かに意識を研ぎ澄ますと、空間がガラスの割れるような音を立てて歪み、黒い光を放つゲートが口を開けた。本来、このゲートは遠征艇に積み込まれた侵略用のトリオン兵を地上へ送り出すためのものだ。葵は、艇内に格納されているトリオン兵の一体をゲートの維持と目眩ましのために現実世界へと吐き出させ、それと入れ替わるようにして、歪む空間の向こう側へと足を踏み入れた。
ゲートを潜り抜けた先は、切り離された座標に鎮座する遠征艇の内部だった。ハッチが閉まると同時に、先ほどまで街に溢れていた空気の湿り気が遮断され、代わりに冷たく乾いた、使い古された機械の匂いが鼻腔を突く。葵は大きな溜息をつき、背負っていた重い背嚢を床に下ろした。コントロールパネルの微かな明かりを頼りに、補助席へと深く身を沈める。暗闇の中で、彼女の思考は再び千々に乱れ、そして一つの方向へと収束していく。
まず葵が確認したのは、現在の時間軸だった。図書館で読み漁った新聞記事や、スマートフォンで検索した直近のニュース。大規模侵攻の再来を予感させるような不穏な予兆も、アフトクラトルに関連するような異常な騒動の記録も、今のところどこにも見当たらない。三門市は、平穏という名の薄氷の上で静止していた。
「……原作開始、前」
確信を込めて、葵は呟いた。空閑遊真という特異点がこの街に現れる前の、嵐の前の静けさ。物語が大きく動き出す前の今こそが、自分が「盤上」に割り込むための好機だ。しかし、その盤上での立ち位置を誤れば、自分という駒はすぐに組織の濁流に飲み込まれてしまう。
「……でも、玉狛は選べない」
暗い船内に、自分の声が低く響く。真っ先に思い浮かぶのは、やはり玉狛支部だ。あそこには近界民に対して融和的な林藤支部長がおり、あそこに行けば自分は「近界から生還した同胞」として、温かな歓迎を受けるだろう。玉狛はネイバーに対しても優しく、その共存を本気で願っている。この十年の地獄を思えば、その優しさに甘えてしまいたいという衝動は、あまりにも抗いがたい誘惑だった。
しかし、葵は暗闇の中で強く首を振った。原作の知識が囁いている。玉狛には、いずれ空閑遊真がやってくる。もし今、自分が玉狛に加われば、本部の城戸司令はさらに玉狛への警戒を強めるだろう。そうなれば、遊真がボーダーに受け入れられ、三雲修や雨取千佳と共に歩むはずの未来に、余計な摩擦を生んでしまうかもしれない。彼らには、あの絆が必要だ。私のエゴで、物語を壊すわけにはいかない。
何より、迅悠一との接触も徹底的に避けなければならなかった。彼に会えば、十中八九は玉狛への所属を勧められるだろう。彼の下に入れば安全は保証されるが、それは同時に「玉狛の色」がつくことを意味する。一度そうなってしまえば、本部の主流派からは最初から強い警戒の対象となり、城戸司令との直接的な交渉が難しくなってしまう。迅の「未来視」に不用意に触れ、自分の真意を盤面の上で先読みされる前に、こちらから仕掛ける必要があるのだ。
選ぶべきは、本部。それも、城戸司令の直下だ。
それは決して容易な道ではない。近界民に対して一切の妥協を許さない城戸司令との対峙。彼の冷徹なまでの合理主義に、自分の存在がどう映るのか。だが、もし彼に「この娘と協力関係を築くことが、ボーダーの利益に直結する」と判断させることができれば、組織のリソースを、自分の望む「平穏」の回復――すなわち両親の捜索と安全確保に割かせることが可能になる。
もちろん、ボーダーを悪の組織だと思っているわけではない。彼らは市民を護るための法であり、秩序そのものだ。正当な手段で彼らの懐に入り込めば、相応の待遇は期待できる。それでも、自分の持っている情報と「トリガー」の特殊性が、巨大な機構の中でどう扱われるかについては、慎重に見極める必要があった。
葵は自らの左手を持ち上げ、その親指を見つめた。そこには、あちら側の地獄で培った、あまりにも重すぎる力が静かに脈打っている。近界の理の一部を理解し、それを制御し、なおかつ人間の心を失わずに帰還した一人の人間として。自分を単なる被害者ではなく、本部の有用な「手札」として売り込むのだ。交渉の材料は、十年前のネイバーによる襲撃の被害者という立場と、親指に宿るこの「トリガー」。そして、近界の環境について実体験として語れる情報そのものだ。深部までをすべて完璧に知り尽くしているわけではないが、ボーダーが喉から手が出るほど欲しがる「生きた知見」は持っている。
「……よし」
一呼吸おき、思考を整理する。必要なのは確かな事実と、提示できる実利のみ。自分という存在が「不確実な脅威」ではなく、「対話可能な協力者」であることを、その場で見せる「戦力」と「知識」によって証明するしかない。
だが、ただ丸腰で飛び込むほど葵は楽天家ではなかった。彼女は遠征艇のシステムを操作し、複数の「保険」をセットする。もし自分が本部で不当に拘束され、一定時間内に解除コードが入力されなければ、この遠征艇が自動で「最悪のシナリオ」を開始するように。それはボーダーを脅かしかねない劇薬だが、交渉のテーブルに着くための最低限の担保だった。
「あくまで、予備プラン……」
もし万が一、完全に交渉が決裂すれば、その時は親指のトリガーを解放し、自力で包囲網を突破して逃走する。しかし、それは両親と共に過ごすはずの平穏な未来を閉ざすことを意味する。力による脱出も、自動プログラムも、あくまで最終手段。目的はあくまで、彼らの正義の中に自分の居場所を確立することにある。
あちら側では、文字を書き残す余裕も、紙やペンといった物資さえ贅沢品だった。逃亡生活の中で葵が培ったのは、すべてを脳内に刻み込む執念だ。忘れてはいけない三門市の街並み、家族の笑顔、そして近界で目にした異形の技術体系。それらは今、彼女の記憶の中で鮮明に整理されている。どの情報を小出しにし、どの情報を「切り札」として秘めておくか。近界での交渉は常に命がけだったが、対話の通じる人間を相手にする今は、まだ希望がある。
(迅の未来視に完全に捉えられる前に、城戸司令に直接、こちらの『価値』を突きつける……)
玉狛という温かな逃げ道を自ら断ち、最も険しい中枢へと切り込む。それが、失われた十年を一気に取り戻し、家族との平穏を取り戻すための唯一のルートだ。
「……待ってて。今度こそ、私が守るから」
葵は覚悟を決め、遠征艇の予備電源を落とした。完全な沈黙と闇が訪れる。潜伏者から、ボーダーを揺るがす交渉人へ。彼女の決意は、鋼鉄の船壁よりも冷たく、強固に固まっていた。これから、彼女は「帰還した被害者」という顔で、三門市の中心へと歩き出す。その足取りに、もはや迷いはない。
<左手のトリガー>
トリガー名 ???
左手の親指にはめられた指輪状のトリガー
そのトリガーは鳥のように空を舞う
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