遠征艇の心臓部。微かに脈動するトリオン供給系の駆動音だけが響く静寂の中で、葵はホログラム上に展開された星図を睨みつけていた。
コントロールパネルに表示されるのは、
「……アフトクラトルの軌道がこの位置。キセーンとレプトニカの干渉角を考えると、現在は第二周期の後半。おそらく原作の数ヶ月前……」
葵は補助席の肘掛けを指先で規則的に叩きながら、さらに思考を深める。今年だ。間違いなく、あの少年がこちらの世界にやってくる、原作と「同じ年」の十月。原作の物語が本格的に動き出す十二月まで、あと二ヶ月という極めて緊迫した時間軸に、彼女は立っている。
この時期、ボーダー本部の戦力配置には明確な「穴」があるはずだった。
「遠征だ。太刀川隊、冬島隊、風間隊……A級上位三部隊は今、こちら側にはいない」
三門市の平和を支える最大戦力たちの不在。それはボーダーが定期的に行う、
「……迅さん。あなたは今、何を視ている?」
実力派エリート、迅悠一。彼の持つ「未来視」のサイドエフェクトは、条件次第で数ヶ月先の事象までをも捉える。もし自分の出現がこの世界の因果を大きく歪めており、なおかつ自分が「三門市にとっての明確な脅威」であると彼に判断されているならば、迅は遠征のタイミングをずらすなり、本部に警告を発するなりして、何らかの手を打っているはずだ。
だが、現在の三門市はあまりに静かすぎる。自分がこの座標に遠征艇を潜伏させてから、不自然な追手も、本部周辺の警備が不自然に強化された気配もない。
(考えられる可能性は、大きく分けて二つ……)
一つは、迅がすでに自分の存在を予知の網に捉えていながらも、「現時点では危険性が低い」と判断して静観しているパターン。
あるいは――彼はまだ、私の帰還そのものを認知していない、という可能性。
迅の未来視は万能ではない。視るためには対象の直接的な視認が必要になる。自分がこの「切り離された座標」に潜伏し続けている限り、未来が視えていない可能性は十分に考えられた。
(もし後者なら、私がここでじっとしている限り、未来は動かない。……でも、太刀川隊たちが予定通り遠征しているということは、少なくともボーダー側が『不測の事態』を察知していないことの裏付けにはなる)
どちらにせよ、これ以上ただ潜伏を続けても確率は上がらない。手に入れた原作知識というアドバンテージを最も効果的に機能させるために、こちらから動いて、情報を確定させるしかなかった。
葵はまず、ボーダーの防衛体制をサンプリングするための仮説を立てた。おそらく、顕著に表れるのは「年齢層による時間帯の分離」だ。中学生や高校生を中心とした学生主体の部隊は、放課後から夜の浅い時間帯に集中的に防衛ラインに組み込まれる。逆に、深夜から明朝にかけての遅い時間帯、あるいは平日の日中は、大学生以上の隊員やボーダーの専従職員、および遠征経験を持つような実力派の大人組が主体となって動いているはずだ。
その推測を検証するため、葵は約一週間をかけて、三門市の警戒区域を対象とした徹底的な観察を開始した。遠征艇のゲート発生機能を駆動させ、警戒区域にゲートを開く。そこから放つのは、戦闘ではなく純粋なデータ収集を目的としたトリオン兵たちだ。地上には強固な装甲を持つバムスターと、近接戦型のモールモッドを。そして上空からの広域視点を確保するため、飛行型のバドを複数機、三門市の夜空へと滑り込ませた。
一週間に及ぶ監視の中で、バドや地上部隊の目から送られてくる映像が、遠征艇のメインモニターへリアルタイムに映し出されていく。葵はその映像を、食い入るように見つめ続けた。
特に注視したのは、大人組が動くはずの「夜間の遅い時間帯」だった。カメラが捉える三門市の夜景、そして時折発生するゲートに素早く対応するボーダー隊員たちの姿。一週間の間、夜間の防衛ラインをどれだけ観察しても、画面の中に太刀川慶、冬島慎次、風間蒼也といった面々の姿や、彼らの部隊の隊服を確認することはできなかった。
(……やはり、いない。上位三部隊は遠征中。私の原作知識は、現実のタイムラインと完全に一致している)
不在の証明を終えた葵は、蓄積された一週間分の映像データから、現在防衛に当たっている各部隊の巡回方角と特性のマッピングへと移行した。感情的な要素を排し、誰が「最初の交渉の窓口」として適格かを見極めるための分析だ。
「東側、夜間の時間帯は三輪隊が定時でルートに入っているわね……」
画面に映し出されるのは、バムスターを一瞬で解体する鋭い斬撃と、統率された銃撃。ネイバーに対する攻撃性が極めて高い部隊だ。
「接触の窓口としては、対話の余地なく戦闘に発展するリスクが大きすぎる。除外ね」
次に、北側の防衛ラインに目を向ける。
「北側を守っているのは二宮隊。あの男なら、提示する利益が合理的であれば感情を排して上層部へ繋ぐ可能性があるけれど、もし交渉を求めて接触したこちらに対して、初手で容赦のない高火力攻撃を仕掛けられた場合、こちらの安全が担保できない。まだ手札が少ない今の段階で、あの火力と正面から向き合うのは危険ね」
二宮の圧倒的な火力を相手にするのは、万が一の事態を考えると分が悪い。急な接触により、こちらの意図が伝わる前に力で圧殺されるリスクは避けるべきだった。
そこで葵は、西側の方角、物々しい大人組ではなく、学生たちの活動に重なる「夜の浅い時間帯」のデータに焦点を絞る。
「西側、この時間枠の巡回は……香取隊」
A級昇格を視野に入れつつも、現在はB級の上位に位置する部隊。画面の中では、赤茶色の髪をなびかせた少女――香取葉子が、モールモッドの群れを鮮やかな身のこなしで切り伏せていた。その動きに淀みはないが、時折、他の隊員からの指示に対して不満げな表情を見せているのが映像からも見て取れる。
そして何より、そのオペレーターである染井華。彼女の、極めて冷静沈着な状況分析能力と、隊の情報を一手に統括する手綱の硬さは、ボーダーの中でも極めて優れている。
(香取隊なら、突発的な異常事態が起きても、オペレーターの染井さんが即座に冷静な対応を取るはず。万が一、現場でトラブルに発展して香取さんがこちらに斬りかかってきたとしても、私の手数の多さなら、決定的な致命傷を避けつつ対処し、場をコントロールできる)
接触のターゲットは決まった。城戸司令の思想に直結する本部主流派でありながら、こちらが安全マージンを確保しやすい適切な窓口。香取隊だ。
問題は、その接触の方法だった。パトロール中の彼女たちの前にどうアプローチするか。当初は、トリオン兵にスピーカーを取り付け、姿を隠したままメッセージを残して数日後に交渉の席を設ける、という間接的な手法を考えていた。上層部を揺さぶる策だ。
しかし、葵はコンソールの前で、自身の左手の親指を見つめた。そこに嵌められた、鈍い光を放つ指輪状のトリガー。
(……いや、日和る必要はない。不気味な通信で数日待たせるより、現実に肉体を晒して『交渉』の席をその場で無理やり作る方が、ボーダーには確実に効く。ボーダーに数日もの猶予を与えれば、報告を受けた上層部が、こちらの指定場所に完璧な待ち伏せや罠、最悪の場合はブラックトリガーを含む戦力を総動員して準備してくる可能性がある。そうなれば、かえってこちらの退路が断たれかねない。それに、何より時間が惜しい)
原作開始まであと二ヶ月。悠長に鬼ごっこをしている暇はない。万が一、香取葉子が話を聞かずに襲いかかってきたとしても、この親指のトリガーが持つ力があれば、彼女の猛攻を完全に捌き切り、無力化することなど容易だ。その圧倒的な実力の提示こそが、最も手っ取り早い信頼の担保になる。
(直接、行く。彼女たちの目の前に、私が自ら降り立つ)
方針は決まった。葵は即座に、自分が拘束された場合の「保険」の構築に移る。 もし、自分が本部で不当に拘束され、遠征艇への定期連絡が一定時間途絶えた場合――
彼女の指が、二つの自動プログラムをシステムにセットした。一つ目は、艇内に格納された侵略用トリオン兵の全起動。三門市の各所にランダムにゲートを開き、市街地に進軍することで、ボーダーの関心を葵の拘束から「街の防衛」へと強制的に転換させる。
二つ目は、情報の全方位発信。あちら側の世界で収集した近界の技術情報、そして「十年前の被害者」としての記録。これらが自動で外部へ拡散されるよう設定した。
「対話には、力による担保が必要。……それはあちら側の地獄で学んだ、最も確実な教訓」
親指の指輪をそっとなぞる。思考に呼応して頭を支配する、あの方程式を思い描く。これを使うのは、あくまで交渉が物理的に決裂した時だけでいい。
「防衛パターンの解析、保険の準備、退路の確保。……すべて完了したわ」
葵は冷徹な手付きでコンソールのメインスイッチを切り替えた。モニターの映像が一斉に消え、暗転した画面に、今夜の香取隊の巡回ルートである警戒区域の座標が静かに点滅を始める。
「……よし。行こう」
遠征艇の転送シークエンスが起動し、葵の身体がゲートに包まれていく。十月の冷たい夜風が吹く三門市。静寂に包まれた廃墟の街へと、一人の「帰還者」が今、直接その足を踏み下ろそうとしていた。
今週は忙しいので投稿頻度遅くなるかもしれません。
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