境界線を超えた亡霊   作:piyu

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盤上の幕開け

「……はぁ、マジで退屈。なんでA級の上位連中が遠征行ってるからって、あたしたちがこんなにシフト増やされなきゃいけないわけ? 完全に割に合わないんだけど」

 

 静寂に包まれた夜の警戒区域。ボーダーのB級香取隊の隊長、香取葉子は、隊服のポケットに手を突っ込んだまま不満を隠そうともせずに歩いていた。

 

「文句言うなよ葉子。上が薄くなってる今だからこそ、防衛の穴を開けるわけにいかないだろ。ほら、ちゃんと周囲を警戒しろって」

 

 ガンナーの若村麓郎が注意を促し、その少し後ろをアタッカーの三浦雄太が苦笑いを浮かべながらついていく。いつも通りの夜間巡回の最中だった。彼らが交差点へと足を踏み入れた、その瞬間。

 

 ピキィン、と空間が凍りつくような硬質な音が響いた。

 

「っ!? ゲート……!? 近いぞ!」

 

 若村が叫び、突撃銃型トリガーを構える。三浦も瞬時に弧月の柄に手をかけ、身体を滑らせて香取の側面をカバーした。香取は誰よりも早く、『スコーピオン』を発現させて身構える。

 彼らのわずか十メートル先。アスファルトの真上で開いた極小のゲートから、そこに「それ」が現れた。

 巨大なトリオン兵ではない。現れたのは、暗色の機能的な衣服に身を包んだ、金髪の一人の少女だった。彼女は武器を構えるどころか、両手を頭の高さまで緩やかに上げ、手のひらを見せて完全に無抵抗の姿勢を取っていた。

 

「動かないで。私に戦う意思はないわ」

 

 あまりにも冷静で、平坦な声。不意を突かれた香取の動きが止まる。それでもスコーピオンの透明な刃は、まっすぐに少女の喉元に向けられたままだ。

 

『三人とも、そのまま待機。相手にトリガーの起動反応、および戦闘の予備動作は認められないわ。トリオン反応は一人分……人型よ』

 

 香取たちの耳にある通信機から、オペレーターである染井華の、冷静な声が走った。

 

「華、これどういうことよ? トリオン兵でもないし、ボーダーの隊服でもない。……まさか、人型のネイバーなわけ!?」

 

 香取が刃を向けたまま、鋭い視線で少女を値踏みする。葵は香取のスコーピオンの切っ先を見つめながら、瞬き一つせずに言葉を返した。

 

「ええ、あなたたちの認識で言えば、人型のネイバー。そう思ってもらって構わないわ。私はこちら側の世界へ、ある目的を持ってやってきた。……『亡命』を希望しにね」

 

「……亡命!?」

 

 若村が驚愕の声を上げ、銃口をわずかに揺らした。三浦は目を見開く。人型のネイバーが、突如として夜の警戒区域に現れ、無抵抗で亡命を求めてきた。その事実の異常さは、一瞬で現場の空気を凍りつかせるに十分だった。

 

 

「亡命希望……。確認だけど、あんたは一人だけで来たの?」

 

「ええ、私一人よ」

 

 葵が短く答えると、香取がさらに言葉を重ねた。

 

「亡命希望者が、なんでいきなりあたしたちの前に出てくるわけ? あんた、何者よ」

 

葵はゆっくりと両手を下ろし、自らの識別番号を口にした。

 

「私の名前を今ここで明かすことに意味はないわ。……差し当たり、あなたたちの記録には『24番』とでも記載しておいて」

 

「は? 24番? なにそれ、名前じゃないわけ?」

 

 香取が眉をひそめて突っ込むが、葵は淡々と応じる。

 

「ええ、ただの番号よ」

 

『葉子、麓郎、一度トリガーを収めて。彼女には今のところ戦闘の予備動作は認められないわ。……本部の指示と応援の到着を待つ間、刺激しないようにして』

 

 染井華の冷静な声が、現場の殺気を遮った。

 

「分かったわよ。華がそう言うならね」

 

 香取はスコーピオンの光を消した。若村と三浦も、華の指示に従ってゆっくりと武器を下げる。

葵はすかさず、次のステップへと切り込んだ。

 

「私の目的は、ここであなたたちと小競り合いをすることじゃない。玄界(ミデン)の上層部との直接交渉よ。私は近界(ネイバーフッド)の最新の技術データ、そして近いうちにこの街が狙われることになる、侵攻の予兆についての情報を持っている。これを亡命の受け入れ、および私の安全保障の取引材料として提示したいの」

 

 葵の口から出た「侵攻の予兆」という単語に、現場の三人の空気が引き締まる。

 

『……了解したわ。現在の状況を上層部へ転送します。三人とも、彼女を同行して本部へ向かって。歩きながら本部の具体的な指示を待ちましょう』

 

「まあいいわ、華がそこまで言うなら連れてってあげる」

 

 香取がそう言うのを聞きながら、葵は目の前の三人――香取隊の様子を冷静に観察していた。

 

(隊長の香取葉子は、直情的で不満を隠さないタイプに見えて、反応速度は素晴らしいわね。一方で、ガンナーの若村は慎重、アタッカーの三浦は周囲へのケアを怠らない。そしてオペレーターの染井華。彼女の冷徹な状況判断と的確な指示が、この一触即発の状況を綺麗にコントロールしている。非常にバランスの取れた、侮れない部隊ね)

 

 葵は彼女たちの実力を胸の中で評価しつつ、歩調を合わせて歩き出した。

 

 

 本部への道を、四人は静かに歩き始めた。隣を歩く若村はまだ少し緊張した様子で葵の動きを視野に入れており、三浦は後ろから見守るように歩調を合わせている。先頭を歩く香取は、先ほどまでの刺々しさを少し和らげ、どこか興味深そうに後ろの葵を振り返った。

 

「……ねぇ、24番」

 

「何かしら」

 

「あんたがさっき言ってた、侵攻の予兆があるって話。それって本当に確かなわけ? 私たちからしたら、いきなりそんなこと言われてもちょっと信じられないんだけど」

 

 香取の口調は、警戒というよりは純粋な疑問に近いものに変わっていた。葵は表情を崩さないまま、淡々と答えた。

 

「そうね、信じられないのも無理はないわ。でも、ハッタリで玄界(ミデン)の本部に乗り込むほど、私は命知らずではないの。私の持っているデータが本物かどうかは、これからの交渉で上層部が判断することになるわ」

 

「ふーん……まあ、確かに嘘ついてわざわざ本部に乗り込むメリットなんてないもんね」

 

 香取は納得したように頷くと、今度は葵の服装や佇まいをじろじろと眺め始めた。

 

「ていうかさ、あんた本当にネイバーなわけ? 喋り方も普通だし、見た目もそこら辺にいる女子高生って言われてもそこまで違和感ないんだけど。あっちの世界って、みんなそんな感じなの?」

 

「国によるわね」

 

予想外に柔らかくなった空気に、葵も少し口調を緩める。

 

「私がいたところは、比較的あなたたちの姿に近い人間が多かったわ。ただ、文化や技術の発展の仕方はかなり違うけれど」

 

「へぇ、そうなの。あっちのご飯とかって美味しいの? 服とかもそれ、あっちの流行り?」

 

 香取が興味津々といった様子で質問を重ねると、後ろを歩いていた若村が苦笑しながら口を挟んだ。

 

「こら葉子、連行中なんだから私情で質問攻めにするなよ」

 

「いいじゃない、別に。減るもんじゃないし。ねえ?」

 

 香取が葵に同意を求めるように悪戯っぽく笑う。その無邪気な様子に、若村も肩の力を抜いてため息を吐いた。

 

「お前なぁ……。でも、確かに普通に会話が通じすぎて、ネイバーって言われても実感が湧かないな」

 

「それだけ、あなたたちと私の間に本質的な違いがないということよ」

 

 葵は静かに微笑みながら、これからの展開に思考を巡らせる。香取たちの親しみやすい性格のおかげで、現場の緊張感はすっかり解消されていた。

 

(本部では、今頃私の出現と『亡命希望』、そして『侵攻の予兆』というキーワードが一気に上層部へ駆け巡っているはずだ。猶予を与えずに本部に乗り込むことで、彼らは私を排除すべき敵か見定める時間を失う。残された肢は、私を未知の脅威として警戒しつつも、まずは情報の真偽を確かめるために対等の交渉の席に着くことだけ)

 

 和やかな会話の裏で、葵は脳内でこれからの本部到着後のシミュレーションを確実に進めていた。

 

 

 しばらく歩くと、前方に巨大な要塞のような建築物が見え、染井華から指定された特別な入口へと誘導された。ボーダー本部。三門市の中心にそびえ立つ、対ネイバー防衛の絶対的な中枢。

 すでに染井華の手によって緊急の連絡が通されているため、物理的な隔壁が開かれ、彼らはスムーズに内部へと進む。

 指定された入口の自動ドアが開くと同時に、葵の視界に入ってきたのは、ただの防衛隊員ではない、ボーダーの圧倒的な防衛力の要たちだった。

 

 中央に立つのは、ボーダーの本部長であり、防衛の最高責任者である忍田真史。その鋭い眼光がまっすぐに葵を射抜く。その脇を固めるのは、一線を画す威圧感を放つ、ボーダーの精鋭たち――二宮隊の面々と、三輪隊の面々だった。誰もがいつでもトリガーを起動できる準備をし、微塵の隙もない陣形で葵を待ち受けている。

 

 A級上位陣の多くが不在とされるこの不自然に静かな三門市の夜。だが、この場に集まった戦力こそが、今のボーダーが即座に用意できる最高の壁だった。一人の亡命希望者の電撃的な来訪によって、ボーダーは今、完全に未知の揺らぎの中へと巻き込まれようとしていた。

 

 香取隊が忍田の前で一礼し、一歩後ろへと下がる。重苦しい沈黙が広がる中、中央の男がゆっくりと口を開いた。

 

「私がボーダーの本部長、忍田真史だ。……夜分遅くに突然の訪問だが、歓迎する雰囲気ではないのは容認してほしい。ここへ来た目的は、すでに現場の部隊から聞いている」

 

 威厳がありながらも理性的で、どこか懐の深さを感じさせる声。彼は葵の様子を注意深く観察し、その無抵抗の構えを確かめるように視線を落とした。

 葵は忍田の真っ直ぐな眼光を正面から受け止め、小さく口角を上げた。そして、一歩前に踏み出し、凛とした声で応じる。

 

「配慮に感謝します、忍田本部長。私は近界(ネイバーフッド)から来ました。仮名ですが、『24番』とお呼びください。お聞きになっている通り、私は玄界(ミデン)への亡命と、その引き換えとなる情報の提供を求めてここへ来ました」

 

 

 葵の堂々とした、それでいて礼節を弁えた自己紹介に、周囲の二宮や三輪の視線がわずかに動く。

 次なる舞台は、ボーダーの心臓部。冷徹な司令官たちとの、命がけの盤上遊戯が、いよいよ幕を開ける。

 

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