境界線を超えた亡霊   作:piyu

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取引

 ボーダー本部の最深部に位置する第一応接室。そこは、外世界の喧騒から完全に遮断された、冷たい静寂が支配する密室だった。部屋の中央に置かれた重厚な楕円形のテーブルを挟み、対峙する構図が作られている。

 片側に座るのは、「24番」こと、葵。そしてもう片側には、玄界(ミデン)の防衛組織、ボーダーの最高幹部たちが居並んでいた。最高司令官である城戸正宗を筆頭に、防衛本部長の忍田真史、本部開発室長の鬼怒田本吉、メディア対策室長の根付栄治、そして外務部長の唐沢克己。その忍田のすぐ後ろには、本部長補佐である沢村響子が、手元に情報端末を構えて控えていた。三門市の防衛と運営を司る頭脳のすべてが、一人の少女を品定めするように見つめている。

 

 そして、部屋の壁際、および出入り口付近には、微塵の隙もない布陣で護衛が配されていた。黒いスーツを完璧に着こなした二宮匡貴率いる二宮隊の面々。そして、近界民(ネイバー)への剥き出しの敵意を視線に宿した三輪秀次率いる三輪隊。彼らはトリガーにいつでも手をかけられる体勢で、葵のわずかな挙動も見逃さないよう全身の神経を研ぎ澄ませていた。

 その緊迫した空気の中で、一人だけ異質なオーラを放っている男がいた。実力派エリート、迅悠一。彼は護衛たちの列から少し離れた壁に背を預け、手にした「ぼんち揚」の袋に指を突っ込みながら、ぼんやりとした目で葵を見ていた。その佇まいは緊張感とは無縁に見えるが、彼の瞳の奥にある『目の前の人間の少し先の未来が見える』という副作用(サイドエフェクト)は、すでにこの部屋で起こるいくつかの可能性を捉え始めているはずだった。

 

(――なるほど。これがボーダーの中枢というわけね)

 

 葵は机の上に両手を軽く重ね、表情を一切変えずに彼らの視線を受け止めていた。同時に、彼女の卓越した副作用(サイドエフェクト)が、室内の「ある違和感」を捉えていた。

 

 部屋の隅、一見するとただの壁に見える空間。そこに潜むトリオン反応が葵の目に視えていた(・・・・・)。光学迷彩トリガー『カメレオン』による隠密潜伏。ボーダー側が用意した、万が一の際の保険だろう。

 

(……姿を隠した隠密が一人。いいでしょう、気づかないフリをしてあげるわ)

 

 葵は潜伏者のいる方向へ一切視線を向けることなく、ただ正面の城戸司令へと視線を固定した。沈黙を破ったのは、城戸だった。椅子の背に深く寄りかかり、冷徹な両眸が葵を真っ直ぐに射抜く。

 

「香取隊からの報告は受けている。人型の近界民であり、ボーダーへの『亡命』と、それに伴う『情報の取引』を希望している、と。……まずは、あなたの口から直接聞こう。なぜ、この玄界へ亡命を希望する?」

 

 城戸の声は低く、感情が削ぎ落とされていた。その質問は、交渉のテーブルにつくための最低限のハードルだった。

 

 

 葵は小さく息を吸い込み、あらかじめ脳内で構築していた「表向きのストーリー」を語り始めた。

 

「私は捕虜であり、奴隷のように酷い扱いを受けていました。自由はなく、ただ彼らの都合の良い道具として扱われ、戦わされる日々でした」

 

 葵の言葉に、開発室長の鬼怒田がフンと鼻を鳴らした。

 

「近界の国々じゃ珍しくもない話じゃな。捕虜を道具扱いするのは、向こうの連中がよくやることだ。だが、それだけの理由で命がけの密航をし、ここまで乗り込んできたというのか? 奴隷同然の身分からどうやって逃げ出した」

 

「ええ、当然、ただ逃げ出すだけではすぐに連れ戻されます。だから私は機を見計らい、彼らに対して『処置』を施しました」

 

「処置?」

 

 忍田本部長が鋭い眉をひそめる。葵は視線を一段と冷たく静かなものへと変え、爆弾を投下するように告げた。

 

「国の遠征部隊――そのメンバーを、皆殺しにして逃げてきました」

 

「っ!?」

 

 室内の空気が、物理的な衝撃を伴って凍りついた。 壁側にいた三輪秀次が、明確な殺気と共に一歩前に踏み出し、弧月を強く握りしめる。二宮匡貴は表情こそ崩さなかったが、その切れ長の目が細められ、強烈な圧力が葵に注がれた。二宮隊の犬飼や辻も、息を呑む気配を見せる。

 

「皆殺し……だと?」

 

 鬼怒田が椅子から身を乗り出し、目を見開いた。

 

「冗談を言っているようには見えないな」

 

 唐沢が、顎に手を当てながら面白がるような、しかし極めてシビアな目で葵を見つめる。

 

「本当のことよ」

 

 葵は淡々と、さも当然の日常であるかのように言葉を続けた。

 

「私は遠征部隊を殺して遠征艇を奪い逃げてきました。国にとって、遠征部隊の全滅は大損失です。今頃あちらの世界は大騒ぎになっているでしょうし、もし私の生存が知れ渡れば、彼らは総力を挙げて私を抹殺しにくる。だからこそ、私は彼らの手が届きにくいこの玄界へ逃げ込み、あなたたちに『保護』を求めているのです」

 

 少女一人が、近界の一国の遠征部隊を皆殺しにした。その言葉の持つ異常な重量感に、ボーダー上層部は一瞬、言葉を失った。嘘ハッタリにしてはリスクが高すぎる。しかし、彼女の放つただならぬ気配と、一切の揺らぎがない瞳は、その言葉が真実であることを物語っていた。

 部屋の隅でぼんち揚を口に運んでいた迅悠一の手が、ピタリと止まる。彼の目は、葵の過去、あるいは未来の不確定な光を必死に読み解こうとするかのように、鋭く光っていた。

 

 

「……俄かには信じがたい話だな」

 

 城戸司令が、微動だにせず葵を見据えたまま言った。

 

「仮にそれが事実だとするならば――お前は一国の遠征部隊を一人で屠るほどの危険な存在ということになる。ボーダーの目的は三門市の防衛だ。それほどのリスクを抱え込み、近界の国からの報復を呼び込むだけのメリットが、今のところボーダーには見当たらない」

 

「そう言うと思っていました」

 

 葵は予測通りといった風に、わずかに口角を上げた。

 

「ですが、私を拒絶すれば、あなたたちはより大きな破滅を迎えることになります。先ほど香取隊の皆さんにもお伝えしましたが、私は近いうちにこの街が狙われることになる、ある近界国家の『侵攻の兆候』についての情報を持っています」

 

「侵攻の兆候……! 具体的な国名と、時期はいつだ!」

 

 忍田本部長が身を乗り出す。防衛の責任者として、その情報は喉から手が出るほど欲しいものだった。

 

「それは、お答えできません」

 

 葵はにべもなく突っぱねた。

 

「私の安全と亡命の受け入れが完全に承認され、適切な住居と身分が保障されるまでは、情報の核となる部分は一切開示しません。ただ、これだけは言っておきます。その国が送り込んでくる兵力、および人型近界民の質は、あなたたちが過去に経験した規模を遥かに凌駕している。何の備えもなしに迎え撃てば、この組織ごと、街は消滅するわ」

 

「ふざけるな!そんな曖昧なハッタリで脅せると思ってるのか!」

 

 鬼怒田が机を叩いて激昂した。

 

「お前が持っている情報が、本物であるという証明がなければ、今のお前は交渉の席につく価値がないわ!」

 

「それなら、価値の証明なら、これで十分かしら」

 

 葵が静かに告げると同時に、彼女の左手の親指に嵌められた指輪が、禍々しい輝きを放ち始めた。

 

 キィィィン……と、耳鳴りのような硬質なトリオン音が室内に響き渡る。次の瞬間、葵の背後から、空間を切り裂くようにして一対の「大きな羽」が展開された。それは漆黒の羽。だが、鳥のそれとは根本的に異なっていた。羽の一枚一枚が、鏡面のように磨き上げられた鋭利な鋼刃(ブレード)によって構成されており、それぞれが独立して機能している。まるで意思を持つ無数の刃の集合体。それが葵の背後で美しく、あるいは「遠征部隊を単身で屠った」という言葉に絶対の説得力を持たせるだけの、圧倒的な凶悪さを持って羽ばたいた。

 

人間の命とそのトリオンのすべてを捧げて作られる、最高峰の兵器。

ブラックトリガー(・・・・・・・・)

 

「――ッ!! 警戒!!」

 

 三輪が叫ぶのと同時に、室内の護衛が一斉に爆発的な動きを見せた。三輪隊の面々が、二宮隊の面々が、それぞれの武器を葵へと向ける。一触即発、コンマ数秒後にはトリオンの嵐が吹き荒れる猛烈な緊張感が室内を支配する。

 

 

「全員、武器を収めろ!」

 

 その怒号は、忍田本部長ではなく、最高司令官である城戸正宗の口から放たれた。城戸司令の鋭い声に、二宮や三輪の動きがピタリと止まる。しかし、彼らの視線は未だ葵の背後の黒い鋼刃(ブレード)の羽に釘付けのままだ。

 

「こちらも戦闘の意思はないわ」

 

 葵はそう言って静かに目を閉じると、トリガーを解除し、何事もなかったかのように元の無抵抗な姿勢に戻る。

 

「……なるほど、単身で遠征部隊を壊滅させたという言葉に嘘はなさそうだ。ブラックトリガーの保持者か」

 

 城戸司令は深く息を吐き、落ち着きを取り戻しながら冷徹な計算を頭の中で巡らせ始めた。

 

「そちらの価値は認める。だが、こちらの要求をすべて断り、自分の要求だけを通そうというのは、交渉とは言わない。その『侵攻の情報』を小出しにするというなら、我々も無条件で保護することはできない」

 

「ええ、ですから私は、あなたたちにもう一つの『取引』を持ちかけにきたのです」

 

葵は重ねていた手を離し、今度はボーダー側に攻勢をかけるように、新たなカードを提示した。

 

 

 

「もう一つの取引だと?」

 

 根付が探るような視線を向ける。メディアをコントロールする彼にとて、亡命者の要求が世間にどう影響するかは死活問題だった。

 

「この街……いえ、この玄界のどこかにいるはずの、ある二人の人物を捜索し、私のもとへ連れてきてほしいのです」

 

「人物の捜索?」

 

 忍田が怪訝そうな顔をする。

 

近界民(ネイバー)のお前が、何故、この世界の人間を探す必要がある?誰を探しておる?」

 

 鬼怒田の言葉のあと、葵は一拍の、重い沈黙を置いた。室内の全員の視線が、彼女の唇に集中する。その場の全員が、息を潜めてその名前を待っていた。

 

白坂 健(しらさか けん)、そして白坂 凛(しらさか りん)。……この二人です」

 

 その二つの名前に、上層部の老人たちは眉をひそめた。城戸も、忍田も、鬼怒田も、根付も、その名前に直接の見覚えはなかった。三門市には数十万の市民が暮らしている。一介の民間人の名前を、上層部が暗記しているはずもなかった。

 

「白坂……? 聞き覚えのない名前だな。沢村、すぐに本部のデータベースを照合しろ。現在の登録データから検索をかけるんだ」

 

 忍田が背後を振り返りながら指示を出す。

 

「了解しました」

 

 沢村響子は即座に手元の情報端末を操作し始めた。静かな室内に、端末をタップする電子音だけが規則正しく響く。ボーダーが保有する、三門市民および玄界全域の戸籍、生存者、そして過去の事件の被害者データベースへの高速アクセスが開始された。

 

「……検索をかけます。『白坂 健』、および『白坂 凛』……」

 

 沢村の指が止まり、画面に表示された複数のデータが一つの項目へと絞り込まれていく。その画面を見つめる沢村の目が見開かれ、声が微かに震えた。

 

「出ました。白坂健、白坂凛。お二人とも……現在も三門市内に住む、一般の民間人です。」

 

「ですが……」

 

 沢村は画面をスクロールさせ、そのデータに紐づけられている『過去の記録』を読み上げようとして、息を呑んだ。

 

「ですが、このご夫婦の過去の履歴に、一件の重大な事案が登録されています。今から十年前、第一次大規模侵攻よりもさらに前、三門市で突発的に発生した原因不明の局地的な児童失踪事件。当時、このご夫婦には、まだ幼かった一人の娘さんがいました。名前は……白坂 葵。その娘さんが忽然と姿を消し――『ネイバーによる拉致の可能性が極めて高い』とされながらも、物的証拠がなく、現在も『行方不明』のまま捜索が続いている事案です」

 

 すべてのピースが、恐ろしいほどの速度で噛み合っていく。二宮は目を大きく見開き、姿勢を正した。三輪の目からは、先ほどまでの「近界民への敵意」が消え、代わりに底知れない動揺が広がっていく。

 城戸司令は、じっと葵を見つめていた。その冷徹な眼光の中に、かつてないほどの鋭い光が宿る。

 

「……24番。お前にとって、その白坂健と白坂凛という人物は、一体どういう関係だ」

 

 城戸の問いに、葵は取り繕うことも、冷徹なネイバーのフリをすることも、もうやめた。彼女はただ、一人の玄界の人間として、静かに、しかし部屋全体を圧するほどの重みを持った声で言い放った。

 

「決まっているでしょう」

 

 葵はふっと、自嘲気味な、しかし極めて強い意志の宿った笑みを浮かべた。

 

「私の、本当の両親よ」

 

「「「「「「「――っ!!」」」」」」」

 

鬼怒田が椅子から完全に立ち上がり、書類が机の上に散らばった。根付は言葉を失って口を開けたまま固まり、忍田は苦渋に満ちた表情で拳を固く握りしめた。沢村は端末を胸に抱きしめるようにして、目の前の少女を信じられないといった目で見つめている。

 

 壁際の護衛たちの動揺は、さらに凄まじかった。

 

「拉致された子供が……生きて戻ってきたっていうのか……」

 

 三輪隊の米屋陽介が、いつもの軽い調子を完全に失って呟く。三輪秀次は、目の前にいる少女が、自分と同じように「近界民によって人生を狂わされた被害者」であることを突きつけられ、激しい葛藤に身体を震わせていた。二宮隊の辻や犬飼も、言葉を失って葵を見つめることしかできない。葵は城戸司令の目を真っ直ぐに見据えた。

 

「お聞きになりたいのでしょう? なぜ私が、遠征部隊を皆殺しにしてここへ来たのか。理由は、今沢村さんが読み上げたのがすべてよ」

 

 葵は静かに、しかし一言一言に血を滲ませるようなトーンで告白を始めた。

 

「私は、あなたたちボーダーができる前……、あちら側の世界へ、近界民の手によって『さらわれた人間』よ」

 

 室内を、重く、痛烈な沈黙が支配する。ボーダー上層部にとって、「守れなかった過去の民間人」の存在は、最も触れられたくない、傷跡だった。

 

「向こうの世界で、私はトリオン能力の高さ故に生かされ、捕虜として、今日まで奴隷のように生き永らえてきた。」

 

 葵は自身の左手を掲げ、指輪型のトリガーを見せつけた。

 

「私はあちらの世界で、生き延びるために彼らの技術を盗み、彼らの戦術を学び、そして私をいたぶってきた連中に逆襲して、戻ってきた。……すべては、奪われた私の人生を、この世界で取り戻すために。そして、私をずっと待ち続けてくれている両親に会うためにね」

 

 彼女の告白には、嘘偽りのない「本物の憎悪」と「過酷な過去」が詰まっていた。だからこそ、その言葉の持つ説得力は、ボーダーの大人たちの胸を鋭く刺し貫いた。両親が生きて、この街で今も自分を捜し続けているという事実が、葵の瞳に宿る光を一層強く、揺るぎないものにしていた。

 壁に寄りかかっていた迅悠一が、静かに葵を見つめる。彼の目は、悲しみとも、驚きともつかない、複雑な色を帯びていた。彼のサイドエフェクトには、この少女が歩んできた地獄のような過去と、これから玄界にもたらす巨大な変革の未来が、ハッキリと見えているのだろう。

 

「私は近界民(ネイバー)としてここに来たのではないわ。私は、白坂葵という一人の玄界人として、自分の故郷へ戻ってきたの。……さあ、ボーダーの上層部の皆さん。これでもまだ、私を『危険な近界民(ネイバー)』として排除するか、あるいは『守るべき市民』として受け入れるか、悩むつもりかしら?」

 

 葵の鋭い問いかけが、密室の空気を完全に支配した。正体を明かした少女と、驚愕の事実を突きつけられた防衛組織。盤上の主導権は、今完全に葵の手へと渡っていた。城戸正宗は、深く、深く目を閉じ、これからの選択が持つ意味を冷徹に計算し始めるのだった。

 




林道支部長不在は迅のアドバイスです

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