葵の告白は、第一応接室にいた全員の思考を完全にフリーズさせた。過去に守れなかった民間人の生存、そしてその民間人が自力でこの街に戻ってきたという事実。上層部も壁際の隊員たちも、それぞれの驚愕と葛藤の中で言葉を失い、ただ目の前の少女を見つめることしかできなかった。
そのすべての視線、すべての動揺を受け止めながら、葵はただ一人、完全に冷静だった。彼女はゆっくりと視線を動かし、楕円形テーブルの最奥に座る男を見据えた。
最高司令官、城戸正宗。
城戸の顔からは、一切の感情が削ぎ落とされていた。ただ、その右目に刻まれた古い傷跡が、室内の緊迫感を映すように見える。彼は深く、深く目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。その瞳には、先ほどまでの「未知の
「……白坂葵。十年前の、未解決拉致事案の被害者、か」
城戸の声は、驚くほど平坦だった。書類を散乱させて固まっている鬼怒田とは対照的に、彼は一瞬で状況を脳内の天秤へと載せてみせた。
「お前が玄界の人間であり、ボーダーが過去に守りきれなかった市民であることは理解した。だが、それによってお前への対応が変わるわけではない。お前が
城戸はデスクの上に両手を組み、淡々と、しかし絶対的な規律のトーンを孕んで言葉を続ける。
「我が組織の目的は三門市の防衛だ。過去の被害者だからという感傷だけで、現在生きている市民を危険に晒すような真似は、組織の長として断じて容認できない」
「それでいいわ。例外や同情を期待してここに来たわけじゃないもの」
葵は静かに微笑んだ。声を荒らげることも、取り乱すこともない。向こうの世界を生き抜いてきた彼女にとって、この程度の冷徹さは想定の範囲内だった。
「リスクとメリットの計算なら、私からあなたたちに、相応の数字を提示してあげる」
葵は椅子の背にゆったりと体を預け、室内を見渡した。
「私の要求は二つ。一つは、私の安全と玄界での身分の保証、および適切な生活の支援。もう一つは、私の両親――白坂健と白坂凛の完全な捜索と、彼らの身の安全の永続的な保護。彼らをこれ以上、
葵は自身の左手を掲げ、親指に嵌められた、黒い指輪を幹部たちの正面へと突きつける。
「もし、この条件を完全に、かつ迅速に実行してくれるなら。近いうちに発生するという侵攻の情報に加えて、私のこの『ブラックトリガー』もボーダーへ明け渡してあげるわ。もちろん、取引がすべて完了し、私の両親の安全がこの目で確認できた、その瞬間にね」
ブラックトリガーを差し出すという提案に、室内は再び深い静寂に包まれた。鬼怒田は立ち上がったまま、開いた口が塞がらない様子で葵の手元の指輪を凝視している。
ブラックトリガー。それは、卓越したトリオン能力を持つ人間が、その命とトリオンのすべてを注ぎ込んで遺す、最高峰の兵器だ。近界の国々においては、それ一本で国家の軍事バランスを容易にひっくり返し、国の命運を左右するほどの至宝。ボーダー全体を見渡しても、現在保有している本数はごく僅かだ。
それを、一介の少女が「差し出す」と言っている。両親の保護と、自身の生活の保証という、極めて個人的な要求のために。
「だが、ブラックトリガーは相性があるものだ」
城戸が、その圧倒的な価値を認めつつも、冷徹に問題点を指摘する。
「所有権を明け渡すと言ったところで、我が組織の隊員にその適合者がいなければ、ただの起動しない置物になる。それでは、リスクに見合うだけの価値があるとは言い難いな」
「そうかしら?もし適合者が現れれば、ボーダーは近界の大国に対抗しうる最高の矛を手に入れることになる。それに、仮に適合者が現れなかったとしても、私のブラックトリガーがあなたたちの管理下に置かれるということは、私がこれを使って暴れるリスクが完全に消滅するということ。三門市を防衛する組織として、これ以上のリスクヘッジはないはずよ」
城戸は黙然と葵の言葉を聞いていた。彼女の論理は、非の打ち所がないほどに完成されていた。適合すれば最大級の戦力となり、適合しなくとも最大級の脅威を無力化できる。
「……忍田本部長、あなたはどう思う?」
城戸が、隣に座る防衛の最高責任者に意見を求めた。忍田の心のなかでは、正義感と、防衛組織の長としての現実的な判断が交錯していた。
「……白坂葵。君の覚悟の重さは、十分に伝わった。一人の市民として、君の帰還を歓迎し、その両親との再会を助けることは、我々ボーダーが本来果たすべき義務だ。そこにブラックトリガーという代償を求めること自体、組織としては恥ずべきことかもしれない」
忍田は一度言葉を切り、視線を厳しくした。
「だが、防衛の現場を預かる身として言わせてもらえば……君が差し出すというブラックトリガーの価値は、あまりにも大きすぎる。それが我が組織にもたらす戦力的な意味、そして君の言う『近いうちに発生する大規模侵攻』への備えとして、そのカードを受け取らないという選択肢は、私には選べない。……城戸司令、私はこの取引に応じるべきだと考えます」
「鬼怒田開発室長の見解は」
城戸が次に、立ち上がったままの鬼怒田へ視線を向けた。鬼怒田は散らばった書類を気にすることもなく、顎を擦りながら葵の手元の指輪を凝視する。
「……ふん。適合者が現れなければただの置物になる可能性はあるが、もし現れた場合の戦力増強は計り知れん。それに、一国の遠征部隊を全滅させた戦力が、自ら監視下に入るのだ。反対する理由は、どこにもないわい。」
「唐沢部長はどう見る?」
城戸の問いに、それまで静観していた外務開発部長の唐沢克己が、眼鏡の奥の目を細めて緩やかに微笑んだ。
「私から言わせてもらえば、これほど割のいい投資はありませんね。彼女の要求は戸籍の復活と、民間人二人の永続的な保護だけ。ボーダーが持つ権限を使えば、大したコストもかかりません。それで近界の侵攻情報とブラックトリガーの所有権が転がり込んでくるのですから、ビジネスとしては利益しかありませんよ。ねえ、根付室長?」
振られた根付は、深く頷いた。
「ええ、メディア対策の観点から見ても、過去の被害者の帰還は、組織の支持率において非常に強力なカードになります。異論はありません」
「城戸司令。それで意見は固まったかしら?」
葵は、最後に残った最も巨大な壁――城戸正宗へと、最終的な決断を迫った。
城戸は動じない。リスクとメリットの天秤は、すでに完全に葵の側に傾いていた。城戸ほどの現実主義者が、この取引を蹴る理由はどこにも存在しない。だが、城戸は同時に、葵という少女の底知れなさ、そして彼女の言葉の裏にある不確定要素を警戒していた。
城戸は、おもむろに壁側の迅悠一へと視線を向けた。
「迅。お前はどうだ」
沈黙を守っていた実力派エリートが、呼びかけられて小さく息を吐いた。彼は手にしたぼんち揚の袋をそっとテーブルの上に置き、いつになく真剣な、深い瞳で葵を見つめた。
「……この取引を受け入れるとね、城戸司令。かなり良い未来につながるルートが見えてるんですよ」
迅の声は、静かに室内に響いた。彼の『目の前の人間の少し先の未来が見える』
「彼女がここに来て、この取引を持ちかけたこと自体が、俺たちにとって大きなプラスになる……それは、俺の目にハッキリと視えています」
「そうか」
城戸は迅の言葉を咀嚼するように呟いた。城戸は再び葵へと視線を戻した。その瞳には、すでに最終的な結論が下されていた。
「……いいだろう。白坂葵」
城戸司令の重々しい声が、密室の空気を決定づけた。
「お前の提示した取引を、我がボーダーは全面的に受諾する。お前の安全、および玄界での身分の保障。白坂健、白坂凛の両名の早急な捜索と、組織の総力を挙げた永続的な保護を約束しよう」
「……感謝するわ」
葵は表情を崩さずに応じた。
「ただし、条件がある」
城戸の鋭い眼光が、葵を射抜く。
「両親の捜索が完了し、彼らの安全が確認されるまでの間、お前の身柄はボーダー本部の監視下に置かせてもらう。当然、その間は許可なくトリガーを使用することは認めない。そして、我々の用意した住居への収容に応じること。それが、この取引を開始するための絶対条件だ。……異論はあるか?」
それは、実質的な軟禁の宣告だった。いくら玄界の市民であると判明したとはいえ、一国の遠征部隊を全滅させた相手を、無罪放免で街に歩かせるわけにはいかない。城戸としての、当然の、最低限のリスク管理だった。
しかし、葵はただ、フッと静かに笑っただけだった。
「ええ、当然の処置ね。こちらも異論はないわ。取引が完了するまでの間、許可なくトリガーに触れないわ。」
葵は両手を膝の上に戻し、背筋を伸ばした。その姿は、先ほどまでの狡猾な交渉人のそれではなく、確かに十年の歳月を経て帰還した、一人の少女の姿だった。
「さあ、次はあなたたちの番よ、ボーダーの皆さん。
私の両親を…………一刻も早く、探して」
葵の静かな、しかし絶対的な願いが、第一応接室に響き渡る。
城戸司令は沢村に目配せをし、葵の誘導と、白坂夫妻の捜索部隊の編成を命じるのだった。密室の交渉は終わり、物語は次なる、より巨大な激動のステージへと動き出そうとしていた。