境界線を超えた亡霊   作:piyu

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9話:故郷の味

  城戸正宗をはじめとするボーダー上層部との、実利と欺瞞に満ちた交渉は、ひとまずの妥結という形で幕を閉じた。白坂葵という、十年前の近界民(ネイバー)による拉致事案の生き残りであり、同時に一国の遠征部隊を単身で壊滅させた規格外の存在。その少女が提示した「両親の捜索と永続的な保護」という条件を、ボーダーはブラックトリガーの譲渡と近界民(ネイバー)の侵攻情報という見返りと引き換えに、全面的に呑んだのだ。

 

「――白坂葵さん。これより、あなたに滞在していただく専用の部屋へご案内します。私に付いてきてください」

 

 城戸の微かな目配せを受け、それまで直立不動で控えていた本部長補佐・沢村響子が、張り詰めた面持ちのまま一歩進み出た。

 葵は取り乱すことも、過剰な安堵を見せることもなく、ただ静かに頷いた。両膝の上に置いていた手を離し、ゆっくりと席を立つ。

 

 歩き出す葵の背中を、立ち尽くしたままの鬼怒田本吉や、眼鏡の奥の目を鋭く光らせる唐沢克己の視線が追う。

 部屋を出る直前、葵はドアの脇に寄りかかっていた迅悠一の横を通り過ぎた。迅は手にしたぼんち揚の袋を軽く揺らし、いつもの飄々とした笑みを浮かべ、声にのらない口の動きだけで「またね」と告げた。葵はその胡散臭い『実力派エリート』を冷ややかな一瞥であしらい、沢村の後ろに従って応接室を後にした。

 

 

 案内された通路は、通常のボーダー隊員たちがランク戦の合間に談笑したり、作戦室へ向かうために行き交ったりする賑やかなエリアとは、厚い隔壁によって遮断された場所に位置していた。通り抜けるドアはすべて電子ロックで制御され、沢村が持つ特権的なマスターキーがなければ開くことすら叶わない。

 

 しかし、それは決して「監禁のための区画」といった陰惨な場所ではなかった。壁は清潔な白で統一され、天井からは柔らかな間接照明が通路を照らしている。空気は完璧に空調管理され、微かに新築の建物のような匂いが漂っていた。歩く足音を吸収するような床の構造も相まって、むしろどこか、大企業の役員フロアや、医療機関の特別病棟のような静けさと清潔さがある。

 

「白坂さん。あなたにしばらく滞在してもらう区画は、ボーダーの役員や、有事の際に秘匿すべき重要賓客が一時的に使用するための施設です」

 

 前を歩く沢村が、振り返ることなく事務的な、しかしどこか配慮の混ざった声で説明を始めた。

 

「軟禁、という言葉を使えば聞こえは悪いかもしれませんが……私たちの意図としては、あくまで『一般隊員の目に入らないための措置』です。現在のボーダーには、あなたのような複雑な事情を持った方を、一般の子供たちと同じように広報やランク戦の場に出せるだけの、開かれた土壌がまだありません。特に、あなたが持っているトリガーの存在は、一般隊員に知られるだけで不必要な混乱を招きます。ですから、これはあなたを不当に縛るためのものではなく、お互いの安全のための隔離だと理解していただけると助かります」

 

「それぐらい分かっているわ。」

 

 葵の声は冷徹なほどに平坦だった。彼女の視線は、通路の各所に設置された監視カメラの死角や、建物の構造を正確に捉えていた。その観察眼は、玄界の最新技術に対する好奇心ではなく、純粋に兵士としての防衛本能に近いものだった。

 

「その程度の不自由は文句を言うつもりはないわ。向こうの世界の、奴隷小屋に比べれば、ここは随分と上等な部屋のようだしね」

 

 葵の口から淡々と語られる「奴隷小屋」という単語に、沢村の背中が微かに強張った。

 

 本部長補佐として、多くの近界民の脅威を見てきた沢村だったが、自分よりも遥かに年下の、本来なら高校に通って友人と笑い合っているはずの少女から、これほど生々しい地獄の片鱗を突きつけられるのは初めてだった。手元の情報端末に表示された、十年前の無邪気な少女の写真が、今の葵の冷徹な横顔と重なり、沢村の胸に鋭い痛みを走らせる。

 

「……生活必需品や、三食の食事に関しては、すべてこちらの職員が手配します。部屋の中には個別のアメニティやシャワー、それから玄界の現在の情報を閲覧できる情報端末も用意してあります。外への通信や一般回線への接続は制限されていますが、ボーダーがまとめた近界民《ネイバー》に関する公開データや、この十年の三門市の歴史などは自由に見ることができます。」

 

「それは助かるわ。私にとっても、この十年の玄界の『進化』は知っておく必要があるもの」

 

 葵はそう言って、自動ドアが滑らかに開閉する様子をじっと見つめた。彼女の記憶にある十年前の三門市は、近界民(ネイバー)という存在すら知られていない、ただの地方都市だった。それが今や、巨大な防衛基地が街の中心に聳え立ち、トリオンという未知のエネルギーを公然と利用する組織が社会のインフラを担っている。その変化のスピードは、彼女が向こうの世界で生き延びるために費やした時間の凄まじさを、逆説的に物語っていた。

 

「それから……」

 

 沢村が少し言葉を濁し、ようやく少しだけ振り返って葵を見た。

 

「これは組織としての決定ではなく、私個人の言葉ですが。……おかえりなさい、白坂さん。そして、あなたを、守りきれなかったこと、ボーダーの人間として、本当に申し訳なく思っています」

 

 それは、規律に縛られた幹部たちの中にあって、沢村がどうしても口にせずにはいられない、良心だからの言葉だった。

 

 葵は、その言葉を受けてほんの一瞬だけ、意外そうに目を見開いた。だが、すぐにその瞳にいつもの冷静な光を戻し、小さく首を振った。

 

「謝罪は不要よ、沢村さん。当時のあなたたちに、止めることは不可能だった。それは私が誰よりも知っているわ。」

 

 沢村は悲しげに眉をひそめたが、それ以上は何も言わず、再び前を向いて歩き出した。彼女の背中は、組織のルールと、目の前の少女が背負ったものの重さの間に挟まれ、どこか痛々しく見えた。

 

 

「おーい、沢村さん、お嬢さん。ちょっと待ってよ、置いてかないでよ」

 

 背後から、緊張感を綺麗にそぎ落としたような、のんきな声が静かな回廊に響いた。振り返ると、第一応接室の扉の前で別れたはずの迅悠一が、ひょこひょこと軽い足取りで追いついてくるところだった。その手には、先ほどテーブルの上に置いていたはずの、あの派手なパッケージの『ぼんち揚』の袋がしっかりと握り直されている。

 

「迅? あなた、彼女の誘導は私が――」

 

「まあまあ、沢村さん。城戸さんから途中まで同行を許可されてるんだよね。実力派エリートのフットワークの軽さを舐めないでほしいなぁ」

 

 迅はそう言って親しみやすい笑みを浮かべると、沢村の横をすり抜けて葵のすぐ隣へと並んだ。沢村は困ったようにため息をついたが、迅の同行が全体の安全、あるいは葵の精神的なケアに寄与すると判断したのか、それ以上は咎めず、再び数歩先を歩いてセキュリティの解除を進め始めた。

 

「いやー、それにしてもお疲れさん、白坂葵さん。城戸さん相手にあそこまで対等に交渉する女の子、初めて見たよ。はい、これ。頑張ったご褒美」

 

 迅は歩きながら、何の躊躇もなく、ぼんち揚の袋を葵の前に差し出した。

 

「結構よ。」

 

 葵は前を向いたまま、冷たく突き放した

 

「これ、玄界の銘菓、ぼんち揚だよ? 十年前にも絶対食べたことあるって。ほら、美味しいからさ」

 

 迅は彼女の頑なな態度を気にした風もなく、袋を葵の目の前で軽く揺らす。ガサガサ、という小気味良い袋の音。そして、微かに隙間から漂ってきた、香ばしい醤油と出汁の香り。

 

 その瞬間、葵の脳裏に、強烈な記憶のフラッシュバックが起きた。 十年前以上前。まだ近界民(ネイバー)の影すら迫っていなかった、平和だった三門市。夕方、外から帰ってきた自分を迎えてくれた母親の笑顔。居間のテーブルの上に置かれていた、まさにこのパッケージのお菓子。サクサクとした食感と、口いっぱいに広がる甘じょっぱい味。まだ自分が「白坂葵」という、ただの幸福な子供だった頃の、あまりにも眩しい記憶の断片。

 

(あ……これ、本当に……)

 

 葵の指が、自分でも無意識のうちに動いた。彼女は袋から、ぼんち揚を一枚、そっとつまみ取った。向こうの世界の、生きるためだけに詰め込む乾いた不味い配給食や、泥水のようなスープとは全く違う。綺麗な黄金色に揚げられた、懐かしいお菓子。

 

 彼女はそれを、ゆっくりと口に運んだ。カリッ、と静かな廊下に硬い音が響く。次の瞬間、じゅわっと口の中に広がったのは、あまりにも懐かしい、そしてあまりにも優しい、出汁が効いた醤油の旨味。脳の奥を直接揺さぶるような、幼い頃の記憶のすべて。

 

「あ……」

 

 喉の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなる。 向こうの世界へ連れ去られた直後は、それこそ声が枯れるまで泣き喚き、助けを求めていた。けれど、あちらの住人にとって子供の涙など、ただの耳障りな雑音か、あるいは格好の玩具でしかなかった。泣き声をあげるたびに、容赦のない拳が容赦なく叩きつけられた。痛みに蹲り、泥を舐めながら、彼女は生存のための最初のルールを身体に刻み込まされたのだ。

 涙は、何一つ状況を好転させない。それどころか、己が「獲物」であると周囲に喧伝し、さらなる暴力を呼び寄せるだけの印なのだと。隙を見せればすぐに喰い殺される地獄の中で、いつしか彼女の目から滴が零れることはなくなっていた。そうやって十年間、心を鉄の檻に閉じ込めてきたはずだった。

 

 なのに。ぽろ、と、大粒の涙が彼女の頬を伝って流れ落ちた。一枚の、小さなお菓子が、彼女が十年間頑なに張り巡らせていた鉄の檻を、一瞬で、跡形もなく粉砕してしまったのだ。

 

「あの、味……本当に、戻ってきたんだ……」

 

 声が、どうしようもないほどに震えていた。葵は溢れ出てくる涙を止めることができず、ただ通路の真ん中で立ち尽くしたまま、泣きながら二枚目のぼんち揚を口に押し込んだ。醤油の味が、涙の塩分と混ざり合って、どうしようもなく愛おしい味がした。自分は確かに、あの地獄を生き抜いて、自分がずっと焦がれ続けた故郷に帰ってきたのだという実感が、涙となって体から溢れ出していた。

 

 迅は、その様子を見てからかったり、驚いたりすることはしなかった。ただ、いつもの飄々とした笑みを少しだけ和らげ、静かな、しかし確かな温かさを持った瞳で彼女を見守っていた。

 

「うん。美味いでしょ?おかえり、白坂葵さん。君はもう、あっちの地獄にいるわけじゃない。ここは君の故郷だよ」

 

 葵は袖で乱暴に涙を拭い、鼻をすすりながら、いつもの冷徹な表情を取り戻そうと必死に呼吸を調えた。しかし、一度決壊した感情の残滓は簡単には消えず、彼女の白い頬は微かに赤らんだままだった。

 

「……不覚だわ。こんな、ただのお菓子一つで取り乱すなんて」

 

「いいんだよ、それくらい。十年間も頑張ってきたんだからさ」

 

 迅はそう言うと、手元に残ったぼんち揚の袋の口を軽く折り畳み、それを葵の前に差し出した。

 

「ほら、これ。残りは部屋でゆっくり食べなよ。一応、俺からの歓迎のしるしってことで」

 

 葵は差し出された袋を、ほんの一瞬だけ見つめた。それから、今度は拒絶することなく、細い指先でその派手なパッケージをしっかりと受け取った。抱え込んだ袋から伝わるわずかな重みと、カサリという微かな音が、今の彼女にとって何よりも確かな帰還の証だった。

 

「……一応、受け取っておくわ」

 

「うんうん。それじゃ、行こうか」

 

 迅は満足そうに笑うと、何事もなかったかのように再び軽い足取りで歩き出した。

 

 

 葵は、少しだけ落ち着きを取り戻した頭で、隣を歩くこの青年への「探り」を開始することにした。彼女には、前世の記憶――すなわち、この『ワールドトリガー』という作品の世界の知識があった。だから、目の前にいる迅悠一という男が、どのような能力を持っているかを正確に知っている。彼は『目の前の人間の少し先の未来が見える』という、極めて強力な副作用(サイドエフェクト)の持ち主だ。

 

 しかし、自分がその原作知識を持っていることを悟られるわけにはいかない。もし「あなたの未来視の能力を知っている」と不自然に露見すれば、自身の素性そのものに深刻な疑念を持たれ、城戸司令との取引すら破綻しかねない。

 

 葵はあくまで「単なる交渉相手としての不審と疑問」を装い、何も知らない人間のふりをして、迅の能力の核心を探るような口調で問いかけた。

 

「……ところで、迅さん。さっき応接室で、城戸司令に『良い未来につながるルートが見えてる』って言っていたわね。あれはどういう意味? どうしてそんなことが、あの場であなたにだけ断言できるの? まるで、これから起こることがあらかじめ分かっているみたいじゃない」

 

 葵の問いは、静かだが鋭かった。一般の人間であれば、ただのハッタリか、あるいは過剰な自信から来る言葉だと思うだろう。だが、彼女はそこに明確な「根拠」を求める体で、迅の顔を覗き込んだ。

 

 迅は、自分の頭をぽりぽりと掻きながら、あっけらかんとした様子で答えた。彼は自分の能力を、葵に対して特に隠すつもりはないようだった。

 

「ああ、言ってなかったっけ。俺の副作用《サイドエフェクト》はさ、目の前の人間の『少し先の未来』が見えるんだよね。だから、お嬢さんがこの先どうなるかも、なんとなく分かっちゃうんだ」

 

「未来が見える……?」

 

 葵は、驚いたように目を見開いてみせた。もちろん、内目的には「やはり隠さずに話したわね」という確信だったが、表面上は信じがたい異能を突きつけられた少女のリアクションを完璧に演じる。

 迅はそう言って、サングラスの奥の目を悪戯っぽく細めてみせた。

 

「さっきの交渉でもさ、城戸さんたちが君の取引を蹴って、力ずくでそのブラックトリガーを奪おうとした場合の未来も、いくつか見えてたんだよね。それはもう、三門市が大変なことになる、最悪なルートだったよ」

 

「妥当な未来ね。もしあの場で私を排除しようとするなら、私は徹底抗戦をえらぶつもりだったわ。そのための準備は、部屋に入る前から整えていたもの」

 

 葵は冷ややかに微笑んだ。その言葉に嘘はなかった。迅は苦笑しながら、再び通路の前方を見据える。

 

「でも、取引が成立したことで、その最悪な未来は綺麗に消えた。代わりに今、俺の目に映っているのはね……君が用意された部屋の、ふかふかのベッドで眠る未来だよ。それから――」

 

 迅は少しだけ声を落とし、どこか遠くを見るような目をした。

 

「近い未来、君がその肩の力を抜いて、この街の騒がしい日常に巻き込まれていく姿もね。うちの玉狛支部ってところが、また賑やかでさ。君みたいな訳ありの子供を放っておけないお節介な先輩たちがたくさんいるんだ。そういう連中と関わるルートが、今、すごく見えてる」

 

「……機会があったら、ね」

 

 葵はそれ以上、強く否定することはしなかった。先ほど手渡されたぼんち揚の袋の重みを感じながら、少しだけ視線を落とす。

 

「あはは、まあ機会があったら寄ってみてよ。歓迎するからさ」

 

 迅はそう言い、セキュリティゲートを通り抜ける沢村の背中を追って歩き出した。

 

「君がこれからどう動くか、俺は今から楽しみにしてるよ」

 

 葵はそれ以上の追及を止め、静かに後に従った。迅の服作用(サイドエフェクト)の性質、および彼が自分に対して悪意を持っていないことは、原作の知識と実際の会話を通じて十分に確認できた。

 

(未来視、か。本当に厄介な能力ね。だけど、この男が『良い未来になる』と保証しているのなら、私の両親との再会という結末も、その未来の中に含まれているはず……。今は、泳がされてあげるわ)

 

 

「到着しました。ここが、これからあなたが滞在することになるお部屋です」

 

 地下通路の最奥、ひときわ頑丈なセキュリティドアの前で、沢村が足を止めた。彼女が端末に固有のアクセスコードを入力すると、静かな電子音と共に扉が滑らかにスライドした。

 

 案内された室内は、葵が想像していた「隔離施設」のイメージを覆すほどに、充実した空間だった。広さは一般的なビジネスホテルのツインルームほどもあり、床には歩行音を吸収する上質なカーペットが敷き詰められている。中央には清潔な白のシーツが整えられたセミダブルのベッド、壁際には最新型の情報端末が置かれたデスク、衣服を収めるためのクローゼットが備え付けられていた。奥のドアの向こうには、ガラス張りのシャワールームと洗面台が見える。

 

「体裁こそ『一般職員との接触禁止』および『無断外出の制限』という形をとっていますが、室内での生活において不自由を強いるつもりはありません」

 

 沢村が室内のスイッチを入れ、照明の明るさを調節しながら説明を続ける。

 

「食事のメニューや必要な衣服のサイズなどは、デスクの上の端末からリクエストしていただければ、外の職員が随時お届けします。外への通信や一般回線への接続は制限されていますが、ボーダーがまとめた近界民に関する公開データや、この十年の三門市の歴史などは自由に見ることができます。……ただ」

 

 沢村は少し言葉を切り、デスクの横にある小さな壁掛けの通話機に目を向けた。

 

「白坂さんは十年間、玄界を離れていましたから、現在の電子機器の操作に不慣れな部分もあるかと思います。もしその端末の操作が分かりづらければ、こちらのインターホンのボタンを一つ押してください。それだけで、直接私のオフィスか、待機中の職員に繋がるようになっています。何かあれば、こちらを使っていただいても構いませんが……現時点で、何か問題はありますか?」

 

 その丁寧な配慮に、葵はデスクの上の情報端末へ視線を走らせ、小さく首を振った。

 

「配慮に感謝するわ。でも、画面の指示に従えば問題ないと思うわ。これくらいの手続きなら、向こうの世界の制御コンソールを弄るよりずっと簡単よ。インターホンの方も、本当に困った時だけ使わせてもらうわ」

 

「……そうですか。それなら安心しました。」

 

 沢村は少し驚いたように、しかしどこか安堵したように微笑み、事務的な、しかし心からの気遣いを込めた一礼を残して部屋の入り口へと戻っていった。迅はドアの枠に寄りかかったまま、最後に葵に向けて小さく手を挙げた。

 

「じゃあね、白坂葵さん。あまり根を詰めずに、まずはゆっくり休みきりなよ。美味いもんが食べたくなったら、俺宛てにリクエストしてくれれば、名物のどら焼きでも何でも差し入れするからさ」

 

「気が向いたらね、実力派エリートさん」

 

「では、私たちはこれで失礼します。何かあれば、コール機能を使って私をお呼びください」

 

 迅は満足そうに笑い、沢村と共に部屋を後にした。カシャ、という電子音と共に、重厚なセキュリティドアが閉まる。カチリ、というロックの音が室内に響き渡り、葵はついに、十年の歳月を経てようやく「一人きり」になる時間を手に入れた。

 

 完全な静寂が、部屋を満たす。葵はゆっくりと歩を進め、ベッドの端に腰を下ろした。スプリングの適度な弾力と、シーツの柔らかな感触が、彼女の身体に伝わる。その心地よさに、彼女は自分がどれほど疲弊していたかを、今更ながらに自覚させられた。玄界への強行帰還、そしてボーダー上層部との命がけの心理戦。彼女の精神は、すでに限界近くまで摩耗していたのだ。

 

 葵は立ち上がり、壁際の大きな窓へと近付いた。強化ガラスで覆われたその窓の向こうには、夜の三門市の街並みが、息を呑むような美しさで広がっていた。

 色とりどりのネオンサイン、絶え間なく行き交う車のヘッドライトの光の川。ビルの合間から見える、十年前と変わらない、眩しいほどの故郷の光。ここには、確かに生きた同胞たちの営みがあり、彼女がずっと焦がれ続けた「世界」が実在していた。

 

 葵はそっと、窓のガラスに右手を触れた。冷たいガラスの感触が、手のひらを通じて彼女の現実感を呼び覚ます。

 

「……お父さん。お母さん」

 

 ポツリと、誰に届くでもない呟きが、静かな部屋に落ちた。先ほどまでボーダーの幹部たちを震撼させていた、狡猾で冷徹な交渉人の仮面は、もうそこにはなかった。十年の空白を抱え、ただ両親に会いたいという一念だけで、地獄の底から這い上がってきた一人の、生身の少女の横顔が、夜のガラス窓に微かに映り込んでいた。

 

 彼女の指に嵌められた黒い指輪は、静かに彼女の体温を吸い上げている。取引は成立した。カードは場に出された。あとは、ボーダーが約束を果たすのを、この鳥籠の中で待つだけだ。

 

「私は、戻ってきたわ。……今度こそ、誰も、私たちを離せないようにしてあげる」

 

 葵は窓の外、無数の光がまたたく街並みのどこかにいるはずの、愛しい家族の面影を追い求めるように、じっと夜景を見つめ続けるのだった。

 

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