「共通善によって、愛は社会的な次元を獲得します」
(ベネディクト16世)
面談室は静かだった。
窓から午後の光が差し込む。サクラコが用意したお茶は、まだ湯気を立てていた。茶菓子は小さなクッキー。
リコは甘いものを好むというより、出されたものを礼儀正しく食べる人だ。
だから、あまり主張の強くないものを選んだ。
今日は二人きりでお話をする。
アレクシアも、エマも、テスマも、ペン子も、スズもいない。個人面談というのはそういうものだ。一対一で、落ち着いて話ができる。
みんなとは何回もお茶会をした。
そしてサクラコは学んだ。
全員揃うと、収拾がつかない。
だから誰にも言わず、密室の中、一対一で、お話をする。外部の干渉を排し、対象者と静かに向き合い、問題点を一つずつ取り除いていく。
各個撃破である。
自分で思いついた言葉に、サクラコは少しだけ傷ついた。
リコは定刻通りに来た。
ノックの回数まで規則正しかった。
「失礼いたします、サクラコ様」
「どうぞ。座ってください」
リコが椅子を引いた。
背筋はまっすぐ伸びていた。手は膝の上。視線は少しだけ伏せられている。完璧な姿勢だった。
サクラコは少し、安堵した。
今日は、会話が成り立ちそうだ。
「リコさん。実は最近、シスターフッドについて、問題がありまして」
「問題、ですか?」
リコはまっすぐサクラコを見つめてきた。
その瞬間、部屋の空気が硬くなった。
「学園内で、妙な噂が広まっているのです」
「……と、申しますと」
サクラコは手元の書類を見た。先週から集め始めた、苦情とも噂ともつかないメモだ。
「シスターフッドが、政治的に暗躍している。生徒のありとあらゆる情報を集めている。他の組織にまで、不自然な影響力を持ち始めている。……そんな妙な噂を聞くのです」
言っていて、頭が痛くなってきた。
「心当たりが、まったくないのです。一体誰がそんな不名誉なことを……私はただ、皆さんと穏やかに関わりたいだけなのに」
自分でも情けないと思うが、声が沈んでいた。
リコは聞いていた。
じっと、静かに聞いていた。
サクラコが言い終えると、リコは深く、丁寧に一礼した。
「ご安心ください、サクラコ様」
顔を上げたリコの表情は、穏やかだった。
仕事を完遂した人間の、満足した穏やかさだった。
「すべては計画通り、滞りなく進行しております」
間があった。
「……はい?」
「シスターフッドの影響力は、着実に広がっております。サクラコ様の慈愛を、個人の善意ではなく、組織として届けられる段階に入りました」
サクラコは天を仰いだ。
主よ。
慈愛とは、制度によってなされるものだったのでしょうか。
この場にエマがいてほしいと思った。
経典に則って、全否定してくれるだろうから。
そんなことを考えるようになってしまった自分が、サクラコは少し怖くなった。
「……リコさん」
「はい」
「今、なんと言いましたか」
「滞りなく進行している、と申し上げました」
「それは、どういう意味ですか?」
リコは手帳を開いた。
「まず、ティーパーティー関連の件について」
「待ってください。ティーパーティーって……あの?」
「はい。代表例が、茶葉申請書です」
「なぜ、シスターフッドが茶葉申請に絡むのですか?」
「現在、ティーパーティーの調達担当者と良好な関係を構築しております」
「調達担当者……」
「はい。先月、礼拝用茶菓子の共同発注を名目に、発注書式の確認作業へ参加いたしました」
「名目に」
「その過程で、関連書式として、桐藤ナギサ様が使用される茶葉の発注書式を改訂いたしました」
「なぜですか」
「シスターフッドとの友好関係を可視化するためです。現在、申請書の末尾には『サクラコ様への感謝』を三行以上記入する欄が設けられています」
「何をしているんですか」
「未記入の場合、差し戻されます」
「やめてください」
サクラコは、桐藤ナギサが茶葉の申請書に感謝文を書いている姿を想像した。
想像して、すぐにやめた。
美しい文字で、美しい嫌味を書かれそうだから。
そして、その嫌味はたぶん三行を超える。
「担当者の方も、当初は戸惑っておられましたが、現在は非常に協力的です。もう少しで、スリーパーとして機能するかと」
「スリーパー?」
サクラコは聞き慣れない言葉を復唱した。
意味はわからない。
けれど、ロクでもないことだけはわかった。
スリーパー。
寝具とかだったらいいな。
でも、リコはそんな話をしている感じではなかった。
「説明してください」
「普段は通常業務に従事し、有事の際にこちらの意図に沿って行動する協力者です」
「スパイじゃないですか」
「本人の職務意識を損なわない自然な浸透です」
「その方を、どうするつもりですか?」
「このルートを通じて、ティーパーティーとの継続的な接点を確保します」
「怪しい接点を持たないでください」
「怪しくはありません。組織的整合性を維持するための、調整プロセスの恒常化です」
「言い換えないでください」
リコは手帳に何かを書いた。
サクラコには見えなかった。
見えなくてよかった気もした。
「次に、面談優先度分類表の件について」
「なんですか、それは」
「はい。生徒の皆様が抱える悩みを、不安感、孤立感、ストレス、周囲への影響度、そしてサクラコ様へのシンパシーに基づき、五段階で分類しております」
「サクラコ様へのシンパシー」
サクラコは、聞き慣れない言葉を復唱した。
聞き慣れたくもなかった。
「はい。救済を受け入れる心理的土壌として、重要な指標です」
「私への好感度を混ぜないでください」
「好感度ではありません。受容性です」
「同義です」
エマみたいな言い方をしてしまった。
あの、正論で人の退路を塞ぐ目を思い出してしまう。
サクラコは小さく息を吐いた。
「……人の悩みは、他人が勝手に分類すべきではないと思います」
「では、手を差し伸べないのが正しいとお考えですか」
サクラコは言葉に詰まった。
「…………そうとは言ってません」
「声を上げられる者は救えます。相談箱に投函できる者も、面談を申し込める者も。ですが、声を上げられない者はどうしますか」
「それは……」
「沈黙している者を見つけるには、組織的な枠組みが必要です」
そうかもしれない。
個人の善意には限界がある。
見落とすこともある。間違えることもある。
それは、きっと正しい。
でも、組織なら間違えないという保証もない。
「それでも、悩みを胸の内に秘めたい人だっています」
「秘めたまま沈んでいく者を、見過ごせと仰るのですか」
「そうではありません。ただ、その仕組みが、人を追い詰めることもあります」
「それは管理を悪と見なす側の論理です」
リコの声は静かだった。
責めているようには聞こえなかった。
だからこそ、余計に苦しかった。
「正しい管理は、人間の弱さを補うためにあります。それが結果的に救済につながるのです」
サクラコは、すぐには否定できなかった。
リコは間違っている。
絶対に間違っている。……はずだ。
けれど、誰にも見つけられないまま沈んでいく生徒がいることも、サクラコは知っていた。
「……でも、リコさん」
「はい」
「救われる側が怖がっているなら、それはもう救済ではありません」
リコが、初めて黙った。
その瞳は小さく揺れている。
「現在、A判定の生徒については、シスター二名による予備面談を実施しています」
話を変えられてしまった。
A判定。
人の悩みに、成績表のような響きがついてしまった。
「本人の同意は?」
「救済を必要とする者は、しばしば自ら救済を拒みます」
「やはり怖いです」
「対象者の拒否反応は救済への前段階である可能性があります」
「その可能性を採用しないでください」
「なお、分類に使用している情報源は次の四つです。相談箱、礼拝出席記録、委員会活動記録、そして懺悔室の利用傾向」
サクラコは動きを止めた。
「……懺悔室?」
「はい」
懺悔室。
その単語だけで、サクラコは背筋が冷えた。
「懺悔室の、何を見ているのですか」
「ご安心ください。内容そのものは記録しておりません」
サクラコは、わずかに息を吐いた。
「ただ、懺悔室の担当シスターには適宜確認を取っております」
「取らないでください」
「記録には残しておりません」
「残さなければ良いという話ではありません」
「深刻な悩みを抱えた生徒を見逃さないためです」
「そうだとしても、懺悔室まで管理の対象にするのは違うと思います」
リコの指が、手帳の上で止まった。
サクラコは、天を仰ぎかけてやめた。
さっき仰いだばかりだった。
「リコさん。私がいつ、そんなことを頼みましたか」
声が少しだけ強くなった。
リコの背筋が、さらに伸びる。
もう十分伸びていたはずなのに。
怒られることを想定していなかった顔だった。
「……サクラコ様が以前、仰ったではありませんか」
「何をですか」
「もっと皆様と深く関わりたい、と」
サクラコは動きを止めた。
言った。
確かに言った。
先月のお茶会で、シスターフッドと学園の距離感について話していた時だ。
本心だった。
怖がられずに、距離を置かれずに、皆と普通に関わりたい。
それだけの願いだった。
まさかそれが、申請書になり、分類表になり、懺悔室にまで届いてしまうなんて。
「あれは……」
サクラコは絞り出すように言った。
「コミュニケーションの悩みでした。ただの、日常的な人間関係の話です」
「存じております。サクラコ様が、皆様と穏やかに関わりたいと願っておられたことは」
「では、なぜ」
「願いだけでは、人は救えません」
リコは静かに言った。
「優しさは、制度として支えられなければ、都合よく消費されます」
「……それでも私はかまいません」
「私は嫌です」
はっきりと拒絶された。
リコがサクラコの言葉を、ここまで強く否定したのは初めてだった。
普段は命令を待つ目が、今だけは命令を拒んでいた。
「誰もが、サクラコ様の優しさに甘える。言葉を求め、許しを求め、曖昧なまま、都合よく受け取ろうとする」
リコは視線を落とす。
「犠牲になるのは、サクラコ様です」
リコの手が、膝の上で小さく握られた。
「だから、境界が必要です」
「その境界を、私の代わりに勝手に引かないでください」
サクラコは、少し強く言った。
「私の言葉を、私の知らないところで、別の形に変えないでください」
「持続性を担保するために制度化しています」
「それは、組織や制度を盾にしているだけではありませんか?」
リコは黙った。
まっすぐだった視線が、ほんの少しだけ外れた。
怒られ慣れていないのに、怒られる姿勢だけは完璧だった。
「リコさん。貴女は、私だから従っているのですか」
リコの動きが止まった。
「それとも、シスターフッドの首長だから従っているのですか」
リコは答えなかった。
いつもなら、首長の御意に従うのみです、と即答していたはずだった。
けれど、今は違った。
その沈黙が、面談室に落ちた。
「……どちらもです」
やがて、リコは静かに言った。
「歌住サクラコ様が、シスターフッドの首長であられる。私にとって、それ以上の正統性はありません」
サクラコは、すぐには返せなかった。
リコの声には、いつもの熱があった。
けれど、それだけではなかった。
「サクラコ様は、お優しすぎます」
「……リコさん」
「その優しさは尊いものです。ですが、善意を持つ者ほど、自分を後回しにします。だからこそ、周囲がそれを守る仕組みを整える必要があります」
「それは……」
善意と組織は、混ぜてはいけないものなのではないか。
少なくとも、今のリコに混ぜさせてはいけない気がした。
けれど、リコが本気で信じていることまで、否定したいわけではない。
でも、ここで曖昧に笑ったら、また同じことになる。
サクラコは背筋を正した。
「私の言葉を聞かずに私を守ろうとして、私を置き去りにしています」
リコは黙った。
少しだけ、唇が動いた気がした。
けれど、言葉にはならなかった。
「今から言うことを、ちゃんと聞いてください」
「……はい」
「茶葉申請書を元に戻す。調達担当者への怪しい接触をやめる。面談優先度分類表を廃止する。懺悔室の担当シスターへの確認もやめる。これを、そのままの意味で実行してください」
「そのままの意味、ですか」
「はい。そのままです。補足規定も、解釈も、斟酌も、内実化も、落とし込みも不要です」
「……アウフヘーベンは?」
「絶対にやめてください」
リコが手帳を開きかけた。
「御命令を書面で残します」
「命令ではなく、お願いです」
「サクラコ様」
「リコさんを信頼していますから」
「……信頼」
リコが小さく復唱した。
「はい」
サクラコは微笑んだ。
本当は、半分くらいしか信じられていない。
けれど、嘘も方便だとサクラコは学んだ。
それは宗教的な学びではなく、かなり政治的なものだった。
「承知いたしました。書面化は控えます」
「控えるではなく、しないでください」
リコは困った顔をした。
記録を禁じられて、少しだけ所在なさそうだった。
「………………はい」
「今の『はい』は、そのままの意味ですか」
「……はい」
「附帯資料は?」
「ありません」
「では、別添は?」
「……ありません」
「今の間は何ですか」
「…………関連資料は、破棄致します」
あったらしい。
危なかった。
「では、お願いします」
「善処致します」
「善処ではなく、実行してください」
「……実行致します」
その声は、さっきよりも小さかった。
リコが深々とお辞儀をする。完璧な礼だ。
でも、信じたいのに、信じきれない。
リコは、悪い人ではない。
真面目で、誠実で、誰かのために自分を削るところがある。
そういう人を、サクラコは責めきれない。
それがたぶん、一番困るところだった。
扉が閉まった。
静かになった面談室で、サクラコは椅子に座り直した。
お茶は完全に冷めていた。
実行。
その言葉だけが、頭の中で反響していた。
茶葉申請書を元に戻すこと。
懺悔室を、誰にも踏み込まれない場所に戻すこと。
そういう意味であってほしい。
より完璧に、より自然に、より気づかれない形でやり直す、という意味ではなく。
窓の外で、遠くから「ハレルヤ」という声が聞こえた。
シスターフッドは今日も賑やかである。