歌住サクラコは胃が痛い   作:53860

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「共通善によって、愛は社会的な次元を獲得します」
(ベネディクト16世)



個人面談、あるいは善意の制度化

 

 面談室は静かだった。

 窓から午後の光が差し込む。サクラコが用意したお茶は、まだ湯気を立てていた。茶菓子は小さなクッキー。

 リコは甘いものを好むというより、出されたものを礼儀正しく食べる人だ。

 だから、あまり主張の強くないものを選んだ。

 今日は二人きりでお話をする。

 アレクシアも、エマも、テスマも、ペン子も、スズもいない。個人面談というのはそういうものだ。一対一で、落ち着いて話ができる。

 みんなとは何回もお茶会をした。

 そしてサクラコは学んだ。

 

 全員揃うと、収拾がつかない。

 

 だから誰にも言わず、密室の中、一対一で、お話をする。外部の干渉を排し、対象者と静かに向き合い、問題点を一つずつ取り除いていく。

 各個撃破である。

 自分で思いついた言葉に、サクラコは少しだけ傷ついた。

 リコは定刻通りに来た。

 ノックの回数まで規則正しかった。

 

「失礼いたします、サクラコ様」

「どうぞ。座ってください」

 

 リコが椅子を引いた。

 背筋はまっすぐ伸びていた。手は膝の上。視線は少しだけ伏せられている。完璧な姿勢だった。

 サクラコは少し、安堵した。

 今日は、会話が成り立ちそうだ。

 

「リコさん。実は最近、シスターフッドについて、問題がありまして」

「問題、ですか?」

 

 リコはまっすぐサクラコを見つめてきた。

 その瞬間、部屋の空気が硬くなった。

 

「学園内で、妙な噂が広まっているのです」

「……と、申しますと」

 

 サクラコは手元の書類を見た。先週から集め始めた、苦情とも噂ともつかないメモだ。

 

「シスターフッドが、政治的に暗躍している。生徒のありとあらゆる情報を集めている。他の組織にまで、不自然な影響力を持ち始めている。……そんな妙な噂を聞くのです」

 

 言っていて、頭が痛くなってきた。

 

「心当たりが、まったくないのです。一体誰がそんな不名誉なことを……私はただ、皆さんと穏やかに関わりたいだけなのに」

 

 自分でも情けないと思うが、声が沈んでいた。

 リコは聞いていた。

 じっと、静かに聞いていた。

 サクラコが言い終えると、リコは深く、丁寧に一礼した。

 

「ご安心ください、サクラコ様」

 

 顔を上げたリコの表情は、穏やかだった。

 仕事を完遂した人間の、満足した穏やかさだった。

 

「すべては計画通り、滞りなく進行しております」

 

 間があった。

 

「……はい?」

「シスターフッドの影響力は、着実に広がっております。サクラコ様の慈愛を、個人の善意ではなく、組織として届けられる段階に入りました」

 

 サクラコは天を仰いだ。

 主よ。

 慈愛とは、制度によってなされるものだったのでしょうか。

 この場にエマがいてほしいと思った。

 経典に則って、全否定してくれるだろうから。

 そんなことを考えるようになってしまった自分が、サクラコは少し怖くなった。

 

「……リコさん」

「はい」

「今、なんと言いましたか」

「滞りなく進行している、と申し上げました」

「それは、どういう意味ですか?」

 

 リコは手帳を開いた。

 

「まず、ティーパーティー関連の件について」

「待ってください。ティーパーティーって……あの?」

「はい。代表例が、茶葉申請書です」

「なぜ、シスターフッドが茶葉申請に絡むのですか?」

「現在、ティーパーティーの調達担当者と良好な関係を構築しております」

「調達担当者……」

「はい。先月、礼拝用茶菓子の共同発注を名目に、発注書式の確認作業へ参加いたしました」

「名目に」

「その過程で、関連書式として、桐藤ナギサ様が使用される茶葉の発注書式を改訂いたしました」

「なぜですか」

「シスターフッドとの友好関係を可視化するためです。現在、申請書の末尾には『サクラコ様への感謝』を三行以上記入する欄が設けられています」

「何をしているんですか」

「未記入の場合、差し戻されます」

「やめてください」

 

 サクラコは、桐藤ナギサが茶葉の申請書に感謝文を書いている姿を想像した。

 想像して、すぐにやめた。

 美しい文字で、美しい嫌味を書かれそうだから。

 そして、その嫌味はたぶん三行を超える。

 

「担当者の方も、当初は戸惑っておられましたが、現在は非常に協力的です。もう少しで、スリーパーとして機能するかと」

「スリーパー?」

 

 サクラコは聞き慣れない言葉を復唱した。

 意味はわからない。

 けれど、ロクでもないことだけはわかった。

 スリーパー。

 寝具とかだったらいいな。

 でも、リコはそんな話をしている感じではなかった。

 

「説明してください」

「普段は通常業務に従事し、有事の際にこちらの意図に沿って行動する協力者です」

「スパイじゃないですか」

「本人の職務意識を損なわない自然な浸透です」

「その方を、どうするつもりですか?」

「このルートを通じて、ティーパーティーとの継続的な接点を確保します」

「怪しい接点を持たないでください」

「怪しくはありません。組織的整合性を維持するための、調整プロセスの恒常化です」

「言い換えないでください」

 

 リコは手帳に何かを書いた。

 サクラコには見えなかった。

 見えなくてよかった気もした。

 

「次に、面談優先度分類表の件について」

「なんですか、それは」

「はい。生徒の皆様が抱える悩みを、不安感、孤立感、ストレス、周囲への影響度、そしてサクラコ様へのシンパシーに基づき、五段階で分類しております」

「サクラコ様へのシンパシー」

 

 サクラコは、聞き慣れない言葉を復唱した。

 聞き慣れたくもなかった。

 

「はい。救済を受け入れる心理的土壌として、重要な指標です」

「私への好感度を混ぜないでください」

「好感度ではありません。受容性です」

「同義です」

 

 エマみたいな言い方をしてしまった。

 あの、正論で人の退路を塞ぐ目を思い出してしまう。

 サクラコは小さく息を吐いた。

 

「……人の悩みは、他人が勝手に分類すべきではないと思います」

「では、手を差し伸べないのが正しいとお考えですか」

 

 サクラコは言葉に詰まった。

 

「…………そうとは言ってません」

「声を上げられる者は救えます。相談箱に投函できる者も、面談を申し込める者も。ですが、声を上げられない者はどうしますか」

「それは……」

「沈黙している者を見つけるには、組織的な枠組みが必要です」

 

 そうかもしれない。

 個人の善意には限界がある。

 見落とすこともある。間違えることもある。

 それは、きっと正しい。

 でも、組織なら間違えないという保証もない。

 

「それでも、悩みを胸の内に秘めたい人だっています」

「秘めたまま沈んでいく者を、見過ごせと仰るのですか」

「そうではありません。ただ、その仕組みが、人を追い詰めることもあります」

「それは管理を悪と見なす側の論理です」

 

 リコの声は静かだった。

 責めているようには聞こえなかった。

 だからこそ、余計に苦しかった。

 

「正しい管理は、人間の弱さを補うためにあります。それが結果的に救済につながるのです」

 

 サクラコは、すぐには否定できなかった。

 リコは間違っている。

 絶対に間違っている。……はずだ。

 けれど、誰にも見つけられないまま沈んでいく生徒がいることも、サクラコは知っていた。

 

「……でも、リコさん」

「はい」

「救われる側が怖がっているなら、それはもう救済ではありません」

 

 リコが、初めて黙った。

 その瞳は小さく揺れている。

 

「現在、A判定の生徒については、シスター二名による予備面談を実施しています」

 

 話を変えられてしまった。

 A判定。

 人の悩みに、成績表のような響きがついてしまった。

 

「本人の同意は?」

「救済を必要とする者は、しばしば自ら救済を拒みます」

「やはり怖いです」

「対象者の拒否反応は救済への前段階である可能性があります」

「その可能性を採用しないでください」

「なお、分類に使用している情報源は次の四つです。相談箱、礼拝出席記録、委員会活動記録、そして懺悔室の利用傾向」

 

 サクラコは動きを止めた。

 

「……懺悔室?」

「はい」

 

 懺悔室。

 その単語だけで、サクラコは背筋が冷えた。

 

「懺悔室の、何を見ているのですか」

「ご安心ください。内容そのものは記録しておりません」

 

 サクラコは、わずかに息を吐いた。

 

「ただ、懺悔室の担当シスターには適宜確認を取っております」

「取らないでください」

「記録には残しておりません」

「残さなければ良いという話ではありません」

「深刻な悩みを抱えた生徒を見逃さないためです」

「そうだとしても、懺悔室まで管理の対象にするのは違うと思います」

 

 リコの指が、手帳の上で止まった。

 サクラコは、天を仰ぎかけてやめた。

 さっき仰いだばかりだった。

 

「リコさん。私がいつ、そんなことを頼みましたか」

 

 声が少しだけ強くなった。

 リコの背筋が、さらに伸びる。

 もう十分伸びていたはずなのに。

 怒られることを想定していなかった顔だった。

 

「……サクラコ様が以前、仰ったではありませんか」

「何をですか」

「もっと皆様と深く関わりたい、と」

 

 サクラコは動きを止めた。

 言った。

 確かに言った。

 先月のお茶会で、シスターフッドと学園の距離感について話していた時だ。

 本心だった。

 怖がられずに、距離を置かれずに、皆と普通に関わりたい。

 それだけの願いだった。

 まさかそれが、申請書になり、分類表になり、懺悔室にまで届いてしまうなんて。

 

「あれは……」

 

 サクラコは絞り出すように言った。

 

「コミュニケーションの悩みでした。ただの、日常的な人間関係の話です」

「存じております。サクラコ様が、皆様と穏やかに関わりたいと願っておられたことは」

「では、なぜ」

「願いだけでは、人は救えません」

 

 リコは静かに言った。

 

「優しさは、制度として支えられなければ、都合よく消費されます」

「……それでも私はかまいません」

「私は嫌です」

 

 はっきりと拒絶された。

 リコがサクラコの言葉を、ここまで強く否定したのは初めてだった。

 普段は命令を待つ目が、今だけは命令を拒んでいた。

 

「誰もが、サクラコ様の優しさに甘える。言葉を求め、許しを求め、曖昧なまま、都合よく受け取ろうとする」

 

 リコは視線を落とす。

 

「犠牲になるのは、サクラコ様です」

 

 リコの手が、膝の上で小さく握られた。

 

「だから、境界が必要です」

「その境界を、私の代わりに勝手に引かないでください」

 

 サクラコは、少し強く言った。

 

「私の言葉を、私の知らないところで、別の形に変えないでください」

「持続性を担保するために制度化しています」

「それは、組織や制度を盾にしているだけではありませんか?」

 

 リコは黙った。

 まっすぐだった視線が、ほんの少しだけ外れた。

 怒られ慣れていないのに、怒られる姿勢だけは完璧だった。

 

「リコさん。貴女は、私だから従っているのですか」

 

 リコの動きが止まった。

 

「それとも、シスターフッドの首長だから従っているのですか」

 

 リコは答えなかった。

 いつもなら、首長の御意に従うのみです、と即答していたはずだった。

 けれど、今は違った。

 その沈黙が、面談室に落ちた。

 

「……どちらもです」

 

 やがて、リコは静かに言った。

 

「歌住サクラコ様が、シスターフッドの首長であられる。私にとって、それ以上の正統性はありません」

 

 サクラコは、すぐには返せなかった。

 リコの声には、いつもの熱があった。

 けれど、それだけではなかった。

 

「サクラコ様は、お優しすぎます」

「……リコさん」

「その優しさは尊いものです。ですが、善意を持つ者ほど、自分を後回しにします。だからこそ、周囲がそれを守る仕組みを整える必要があります」

「それは……」

 

 善意と組織は、混ぜてはいけないものなのではないか。

 少なくとも、今のリコに混ぜさせてはいけない気がした。

 けれど、リコが本気で信じていることまで、否定したいわけではない。

 でも、ここで曖昧に笑ったら、また同じことになる。

 サクラコは背筋を正した。

 

「私の言葉を聞かずに私を守ろうとして、私を置き去りにしています」

 

 リコは黙った。

 少しだけ、唇が動いた気がした。

 けれど、言葉にはならなかった。

 

「今から言うことを、ちゃんと聞いてください」

「……はい」

「茶葉申請書を元に戻す。調達担当者への怪しい接触をやめる。面談優先度分類表を廃止する。懺悔室の担当シスターへの確認もやめる。これを、そのままの意味で実行してください」

「そのままの意味、ですか」

「はい。そのままです。補足規定も、解釈も、斟酌も、内実化も、落とし込みも不要です」

「……アウフヘーベンは?」

「絶対にやめてください」

 

 リコが手帳を開きかけた。

 

「御命令を書面で残します」

「命令ではなく、お願いです」

「サクラコ様」

「リコさんを信頼していますから」

「……信頼」

 

 リコが小さく復唱した。

 

「はい」

 

 サクラコは微笑んだ。

 本当は、半分くらいしか信じられていない。

 けれど、嘘も方便だとサクラコは学んだ。

 それは宗教的な学びではなく、かなり政治的なものだった。

 

「承知いたしました。書面化は控えます」

「控えるではなく、しないでください」

 

 リコは困った顔をした。

 記録を禁じられて、少しだけ所在なさそうだった。

 

「………………はい」

「今の『はい』は、そのままの意味ですか」

「……はい」

「附帯資料は?」

「ありません」

「では、別添は?」

「……ありません」

「今の間は何ですか」

「…………関連資料は、破棄致します」

 

 あったらしい。

 危なかった。

 

「では、お願いします」

「善処致します」

「善処ではなく、実行してください」

「……実行致します」

 

 その声は、さっきよりも小さかった。

 リコが深々とお辞儀をする。完璧な礼だ。

 でも、信じたいのに、信じきれない。

 リコは、悪い人ではない。

 真面目で、誠実で、誰かのために自分を削るところがある。

 そういう人を、サクラコは責めきれない。

 それがたぶん、一番困るところだった。

 扉が閉まった。

 静かになった面談室で、サクラコは椅子に座り直した。

 お茶は完全に冷めていた。

 

 実行。

 

 その言葉だけが、頭の中で反響していた。

 茶葉申請書を元に戻すこと。

 懺悔室を、誰にも踏み込まれない場所に戻すこと。

 そういう意味であってほしい。

 より完璧に、より自然に、より気づかれない形でやり直す、という意味ではなく。

 窓の外で、遠くから「ハレルヤ」という声が聞こえた。

 シスターフッドは今日も賑やかである。

 

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