歌住サクラコは胃が痛い   作:53860

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「私の良心は神の言葉に捕らえられています」
(マルティン・ルター)


個人面談、あるいは行間の言葉

 

 今日は準備を念入りにした。

 資料は52ページ。

 図版、年表、参考文献13冊分。これだけあれば、どんな質問にも答えられる。

 そう思いたかった。

 エマの前では、資料の厚さは関係ないかもしれない。

 それでも、何も持たずに臨むよりはいい。

 たぶん。

 サクラコは机の上に資料を揃えた。

 

 お茶も茶菓子も用意しない。ただ経典だけを是とする。

 エマは、そういう人だった。

 経典については誰よりも詳しい。シスターフッドの歴史にも、儀式の由来にも、古い礼拝文にも精通している。

 その点については、サクラコも信頼していた。

 エマは定刻通りに来た。

 

「どうぞ」

 

 扉が開いた。

 寿福院エマは、いつものように経典を抱えて入ってきた。白髪のおさげが揺れる。

 サクラコは少しだけ背筋を伸ばす。

 

「エマさん。今日はよいお天気ですね。朝は少し冷えましたけれど、昼には陽も出てきましたし、こういう日は礼拝堂の光もやわらかくて――」

 

 エマが懐中時計を取り出した。

 盤面を見る。

 サクラコは話しながら、少し嫌な予感がした。

 

「それで、体調はいかがですか。季節の変わり目ですし、経典室は少し冷えるでしょうから」

「変わりない」

「そうですか。お変わりないようで何よりです」

 

 エマは懐中時計に視線を戻す。

 天気の話はなかったことにされた。

 今日のために用意したアイスブレイク用の話題がある。

 丁寧で、温かみのある一段落。

 全部、飲み込んだ。

 

「……もしかして、この後にご予定でも? それでしたら、申し訳ないです。急なお話でしたから、エマさんも――」

「おい」

 

 低い声だった。

 サクラコは、そこでようやく口を閉じた。

 

「長い」

「え?」

「首長は貴様だ。媚びる必要なし」

「媚びているつもりはありません」

 

 でも、怯えてはいるのかもしれない。

 先週の礼拝後、サクラコはエマにこっぴどく批判された。経典から引用すべき箇所が違う、と言われたのだ。

 サクラコにも言い分はあった。

 礼拝の流れ。参列者の顔。あの日の空気。そこで届けるべき言葉。

 だが、エマにとっては、まずテキストだった。

 お互いに一理ある。だから困る。

 二時間に及ぶ激論の末、決着はつかなかった。

 

「なら削れ」

「……何をですか」

「下らない前置き。冗長。蛇足。無駄」

「無駄とまで言いますか」

 

 どうやらアイスブレイクは不要らしい。

 少なくともエマにとっては、余計な御託になっている。

 サクラコは少し反省した。

 

「引用。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」

「え?」

「優先順位を誤るな。貴様の本題ではない」

「……そうですか。では、本題に入ります」

 

 エマが経典を机に置いた。

 重い音がした。

 

「待て」

「はい?」

「その前に。先週の続き。礼拝の引用についてだ」

「……まだ続いていたのですか」

「決着はついていない」

 

 サクラコは、机の上の資料に視線を落とした。

 その厚みが、急に頼りなく見えた。

 エマは経典を開いた。

 指先が、迷いなく頁を押さえる。

 

「引用箇所の選定が不適切。聞き手の情緒に迎合。結果、意味が曖昧化。雰囲気で語る。説教ではなく慰撫。経典への侮辱」

「だから、迎合したわけでは」

「まだある。黙祷の挿入。あれは最悪。沈黙を便利に使うな。語るべき場で黙る。聞き手への責任転嫁。首長の怠慢」

「みなさんを見て語ることの何が」

「経典の解釈が浅い。柔らかくした。耳触りをよくした。意図的な解釈変更。それは信仰の剥製に過ぎない」

「……」

「疑問。なぜ第四節から第九節までを提示しない。省略不可。一連のテキストが礼拝と合致。だが、貴様は切除した。理由は明白。都合がよかったから」

「……違います」

「違わない。顔を見た。空気を見た。流れを見た。だからなんだ。経典軽視。全て人間の都合。そもそも礼拝も酷い。会衆に媚びる内容。理解可能。不誠実な信仰」

「は……」

 

 これである。

 濁流のように押し寄せる言葉。

 溺れそうになるほど、息苦しい。

 サクラコの胃が、きりりと痛む。

 こうなったエマを止めるのは、正論では難しい。

 だから、サクラコはつい立ち上がってしまった。

 

「ハレルヤ!」

 

 自分でも、なぜその言葉が出たのかわからなかった。

 面談室の時が止まった。

 エマが、目を点にしてサクラコを見ている。

 たぶん、初めて見た顔だった。

 

「……ついに狂ったか」

「エマさん!」

 

 サクラコは両手を机についた。

 

「その!全然、は、ハレルヤじゃありません!」

「意味不明」

「私もそう思います!」

「なら、なぜ言った」

「こうでもしないと止まらないですよね!?」

 

 エマは黙った。

 経典に置かれた指は、止まっていた。

 

「今日の面談は、まずこの資料について議論します!」

 

 サクラコは分厚い資料を手に取った。

 勢いで持ち上げたせいで、紙の端が少しずれた。

 

「先週の礼拝については、後日議論します!日程を再調整した上で!然るべきルートを通じて!」

「官僚的逃避」

「逃げません!ですが!今日はこの資料です!」

「強引。専横。腐敗」

「これは円滑な運用の標準的な手順です!」

 

 昨日、リコが言っていた言葉を使った。

 たぶん、文脈的に間違いではない、はずだ。

 エマは不満そうにサクラコを見た。

 

「制度。運用。規律。縛りを増やして逃れる。悪辣な支配者」

「そうさせたのはエマさんです!」

「なんだと」

「でも規律も大事です!引用します!預言がなければ民はわがままにふるまう!しかし律法を守る者はさいわいである!」

「……異議を認める」

 

 エマは資料を受け取った。

 渋々、嫌々ながら。

 でも、受け取りはした。

 

「引用の選定は及第点。適用は雑」

「何か言いましたか!?」

「……この資料はなんだ」

 

 サクラコは一息ついた。

 深呼吸して、自分を落ち着かせる。

 少し、体温が上がった気がした。

 ペン子の周りが暑い理由を知った。

 

「最近のシスターフッドの歴史をまとめたものです。先代から現在までの運営体制、儀式の変遷と装飾、派閥ごとの活動記録と注意点、引き継ぎ事項を整理しました」

「分厚い」

「大切な話を残そうとしたら、つい項目が増えてしまって……」

「そうか」

 

 エマは、表紙を見ている。

 ちょっとだけ嘘をついた。

 本当はリコとアレクシアが、あれもこれもと項目を増やしてしまい、分量が四倍になった。

 収拾がついているかどうかは、今も少し自信がない。

 でも、ここで二人の名前を出すと、批判の嵐が来る。

 だから、あえてサクラコは触れなかった。

 世の中には、知らなくていいこともある。

 サクラコは、少し大人になっていた。

 

「贅肉。堅物。装飾過多だ」

「……それって、私に対する悪口ですか?」

「違う。貴様ではない。だが、心当たりがあるだろう」

「…………少なくともそのような酷いあだ名の友人は、私たちの周りにいないはずです」

「ふん」

 

 紙の擦れる音だけが、面談室に響く。

 エマの指が止まった。

 

「32ページ。四行目」

「はい」

「『継橋ネガイ首長は、各派閥の自主性を尊重し、寛容な姿勢で多様な活動を見守った』だと?」

「ええ。ネガイ様の時に、テスマさんやペン子さんのようなグループが沢山生まれました」

 

 エマの鋭い視線に、サクラコは身じろいだ。

 無関心でも、不快感でも、怒りでもない。

 失望だった。

 

「貴様は、本心から、あの女をそう評しているのか?」

 

 ぶっきらぼうな物言いだ。

 そこはいつもと変わらない。

 でも、なんだか悲しそうだった。

 

「不採用」

「え?」

「寛容ではない。放置」

 

 エマは赤ペンを取った。

 

「見守ったのではない。流した」

「それは、あまりにも」

「引用。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」

 

 サクラコは言葉に詰まった。

 

「あの女は全部流した。ゆえに、信頼ではない。寛容でもない。奉仕でもない」

「でも、色んな宗派の方が自由に活動できるようになったのも事実です」

「経典に照らせ。羊を置き去りにして逃げる者を、牧者とは呼ばない」

 

 サクラコは返事に詰まった。

 ひどい言葉だった。

 でも、言い返せなかった。

 

「……では、何と書けばいいのですか」

「無責任な首長の暗黒期」

「それは書けません」

 

 サクラコは資料を見た。

 ここだけは自分が書いた。

 そうしないといけないと思ったから。

 寛容。

 自主性。

 見守った。

 柔らかくしないと、書けなかった。

 

「書けないなら、せめて覚えておけ」

 

 エマの赤ペンが、ページの余白を叩いた。

 

「引用。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに泣き叫ぶ。しかし主は、その日、あなたたちに答えてはくださらない」

 

 サクラコは何も言えなかった。

 赤ペンの音だけが、やけに大きく聞こえる。

 ……いや、いくらなんでも長すぎるのではないか。

 このペンには弾倉があるのかもしれない。

 そんなことを考えてしまうくらい、容赦がなかった。

 

「次に44ページ。伝統に基づく儀式。根拠となる経典のテキストなし」

 

 エマは赤ペンで大きなバツを書いた。

 

「記述なし。根拠なし。信仰ではなく習慣。口承は誤読される。増殖する。そして信仰は失われる」

 

 エマは眉間に皺を寄せている。

 

「貴様は、ヤツの金ぴか拝金主義に近づいている」

「違いますね」

 

 エマの片眉が、わずかに上がった。

 

「アレクシアさんは装飾品で威光を示そうとしています。それは金ぴか主義でも、ましてや拝金主義でもありません」

「同義」

「明らかに、違います」

「本質は同じ。装飾への執着。信仰の空洞化」

「いいえ。今の言葉は、原典に照らし合わせて明確に誤っています」

「原典だと」

「確かにあの方は、金銀財宝を好みます。ですが、本人が最も重視しているのは『神の威光』であり、『荘厳さ』であり、『美しい信仰』です」

「……」

「それを雑にまとめるのは、アレクシアさんの言葉を聞いていないということです」

 

 サクラコは、少しだけ息を吸った。

 

 前から言いたかったことが、口をついて出た。

 

「エマさんは、経典の一文字には厳しいです。でも、人の言葉には、時々とても乱暴です」

 

 エマは黙った。

 

「経典を正しく扱うことは大切です。でも、人の言葉を雑に扱ってよい理由にはならないと思います」

「人間の言葉は信用ならない」

「そうですね」

「感情で歪む。記憶で歪む。都合で歪む」

 

 サクラコには痛いほどわかった。

 人は言葉を誤解する。

 でも、ちゃんと向き合えば、ちょっとだけ伝わるはずだ。

 

「ならば、流せ。雑音をすべて抱えるな」

「では、どれを流して、どれを受け止めるべきか、どう判断するのですか」

「臨機応変」

「曖昧ですね」

「柔軟に対応せよ」

「リコさんみたいです」

 

 エマは舌打ちした。

 

「一緒にするな。あいつは苦手だ」

「意外です」

「経典まで制度に当てはめようとする」

「……なるほど」

「納得するな」

 

 エマは不愉快そうに、赤ペンの先で机を叩いた。

 

「監督不行届」

「は?」

「首長の怠慢。加藤リコの暴走」

「ちゃんとお話しています」

「効果なし。意味なし」

「斟酌されてしまうのです」

「だから人間の言葉は信用ならない」

 

 サクラコは、少しだけ黙った。

 それから、静かに言った。

 

「経典を記したのも、人間です」

 

 エマは黙った。

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 

「揚げ足取りなのは分かっています」

 

 サクラコは静かに続けた。

 

「経典は人間の手で記されたものではあっても、主の言葉である。エマさんは、そう仰るのでしょう」

「……」

「それでも、読み、写し、伝え、解釈してきたのは人間です。ならば、人間の言葉と完全には切り離せません」

 

 サクラコは、エマを見た。

 

「この揚げ足取りも、エマさんが普段やっていらっしゃることです」

 

 言ってから、少し言いすぎたかもしれないと思った。

 けれど、取り消さなかった。

 エマの片眉が、わずかに上がった。

 

「歌住サクラコ」

 

 フルネームで呼ばれた。

 叱責される時の響きだった。

 サクラコは思わず背筋を伸ばした。

 

「はい」

 

 エマは、笑みを浮かべた。

 獲物を前にした猛獣のようだった。

 

「楽しいな」

「……え?」

「貴様と話すのは、楽しい」

 

 面談室の空気が、一瞬だけ止まった。

 

 サクラコは、今の言葉を理解するのに少し時間がかかった。

 

「……褒めてるんですよね?」

「評価している」

「それは、褒めているのでは?」

「さぁな」

 

 エマは赤ペンを置いた。

 いつもの無表情に戻った。

 さっきの笑みが嘘だったように、経典を机の上へ滑らせる。

 

「貴様の言葉は、少なくとも論点に触れる」

「論点」

「信仰と対峙する。極めて神学的だ」

 

 エマは淡々と言った。

 

「リコは組織へ逃げる。アレクシアは伝統へ逃げる。テスマは体験へ逃げる。ペン子は多幸感へ逃げる」

「皆さん、逃げているわけでは」

「貴様は逃げない。時々、間違った場所へ刺してくる」

「間違った場所なのですか」

「深い場所ではある」

 

 それは、褒め言葉なのだろうか。

 サクラコには判断がつかなかった。

 

「だから退屈しない。話し相手に不足なし」

「そう、でしょうか?」

「経典の話で、腹を刺される機会は少ない」

「お腹を刺したつもりはありません」

「そういうことにしておこう」

 

 エマは短く言った。

 けれど、ほんの少しだけ声が柔らかかった。

 

「ただ」

 

 エマの視線が、資料へ落ちた。

 

「貴様は危うい」

「危うい……。なぜですか」

「貴様は、聞く。理解する。覚える。反論するときでさえ、相手の言葉を捨てない」

 

 エマは赤ペンの先で、資料の余白を軽く叩いた。

 

「贅肉の無駄話も、聞いて、理解して、覚えている」

「贅肉はやめてください」

「今は争点ではない」

「無視できない表現をしたのはエマさんです」

「……東邦アレクシアの言葉を理解しようとするモノ好きは貴様くらいだ」

「そんなこと」

「ある」

 

 面談室の空気が、少しだけ冷えた。

 

「そうやって、受け止めてばかりいる。私の言葉さえも」

「それは、悪いことですか」

「悪くはない。が、危険」

 

 エマは淡々と言った。

 

「放流しないダム。いずれ決壊する」

 

 サクラコは、すぐには言葉を返せなかった。

 人間の心なんてわからない。

 だから、せめて聞いて、受け止めて、覚える。

 それらは、サクラコにとって大切なことだった。

 

「……では、どうすればいいのですか?」

「流せ」

「流す?」

「適度に。雑に」

「それが、友達の言葉でも?」

「特に」

 

 エマの声は、低かった。

 

「近い者の言葉ほど重い。だから危険」

 

 サクラコは、何も言えなかった。

 エマは視線をそらした。

 ほんの少しだけ。

 

「全部を抱えるな。全部に意味を与えるな。全部を覚えているな」

「ですが、それでは」

「壊れるより良い」

 

 エマの声は、いつもより少しだけ硬かった。

 それから、短い間があった。

 

「貴様が心配だ」

 

 サクラコは瞬きをした。

 エマは窓の方を見ていた。

 こちらを見ていなかった。

 

「……エマさん」

「……今のは忘れろ」

「忘れません」

「人の言葉は流せと言ったはずだ」

「大切な言葉まで流すとは言っていません」

「歌住サクラコ」

「私の個人的な体験ですから。エマさんに罵られたとしても、絶対に忘れません」

「……好きにしろ」

 

 エマは視線をそらしたまま、短く言った。

 資料に視線を落とす。

 そして、赤ペンを取った。

 サクラコは身構える。

 けれど、エマはしばらく何も書かなかった。

 やがて、最後のページの余白に、小さく書いた。

 聞き流せ。

 

「それは……評価ですか?」

「診断。貴様にふさわしい処方」

「では、エマさんにもお願いがあります。今後は、相手の言葉を、ちょっとでもいいから聞いてください」

「内容による」

「内容によらずです。まず話を聞いてください」

 

 エマは小さく頷いた。

 納得したのか、していないのか、よくわからない頷きだった。

 資料の赤入れは止まっていた。

 おそらく半分ほど赤くなっているだろう。

 原文よりも、エマの注釈の方が多いページもあった。

 

「提案」

「はい」

 

 エマは経典を抱え直した。

 

「次回のお茶会は、装飾を排した状態で行う」

「装飾を排した状態?」

「皆、全裸に聖書一冊で参加せよ」

 

 間があった。

 

「……ついに狂いましたか」

「言うようになったな」

「エマさんのおかげです」

 

 また小さく頷いた。

 全裸。一糸まとわぬ全裸。

 桃髪の友人を思い出しかけて、サクラコは思考を止めた。

 これ以上、考えてはいけない。

 

「全裸って……それはもう、ただの変質者ではないでしょうか」

「経典がある」

「経典があれば変質者ではない、という話にはなりません」

 

 エマは再び笑みを浮かべた。

 

「冗談だ」

「……言うようになりましたね」

「貴様たちのせいではないか」

 

 サクラコは返事に詰まった。

 エマは扉に向かう。

 

「引用」

「またですか」

「今回は慰撫ではない」

 

 そして、一度だけ振り返った。

 

「主がすべての災いを遠ざけてあなたを見守りあなたの魂を見守ってくださるように」

 

 扉が閉まった。

 サクラコは、しばらくその扉を見ていた。

 そして、顔を手で覆った。暖かいと感じた。

 窓の外からリコとテスマが言い争う声が聞こえる。

 シスターフッドは今日も賑やかである。

 




次回、個人面談を終えたシスターフッドが再集結します。成果確認の時間です。
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