最期の悪あがき
熱かった。
皮膚が焼けているのか。血が煮えているのか。それすら分からなかった。
なのに、骨の芯だけは凍っていた。
痛い、では足りない。
全身が引き裂かれていた。肉も、骨も、息も、音も、ぐちゃぐちゃに混ぜられていた。
体中に心臓がある。
そんな馬鹿げた感覚だけがあった。
頭で。喉で。胸で。腹で。指の先で。
ばらばらの場所が、ばらばらに脈を打っていた。
耳の奥では、甲高い音が鳴り続けていた。
きぃん
それだけだった。
叫び声もあったのかもしれない。足音もあったのかもしれない。石が崩れる音も、炎の音も、誰かの泣き声も。
何も聞き分けられなかった。
臭いだけがあった。
焦げた獣のような臭い。煙の臭い。焼けた布の臭い。それから、ひどく腐ったドブの臭い。
全部が混ざっていた。
息を吸おうとした。できなかった。
何かが、上にのしかかっていた。
重かった。けれど、温かかった。
もう、温かいはずがないのに。
左目のあたりが焼けていた。視界の半分が、赤く、黒く、濁っていた。
世界が溶けているのか、目が溶けているのかも分からなかった。
そのときだった。
頭の奥で、何かが割れた。
知らないはずの景色が流れ込んできた。
石の床。古い部屋。薄暗い廊下。冷たい声。笑い声。届かない、と告げられた夜。
それらは、名前になる前に痛みに飲まれた。
けれど、ひとつだけ分かった。
これは、俺の記憶だ。
ばらばらに壊れかけた肉体の中で、俺だけが、遅れて目を覚ました。
ああ。
そうか。
俺がこの世界で“僕”として目覚めた瞬間、このまま死ぬのだな、と理解した。
――などという、とびきり質の悪いブラックジョークを思い出すのは、これで何度目だろうか。
大きく息を吸い、吐いて、もう一度吸う。
胸の奥に残っていた熱と冷たさが、ゆっくりと薄れていった。
耳鳴りはない。焦げた臭いもない。下水の腐った臭いもない。
あるのは、古い木の床の匂いと、洗いたてのシーツの匂いだけだった。
窓の外から、セント・オールバンズの静かで退屈な朝の光が差し込んでいる。
遠くで車が走り、庭では鳥が鳴き、隣の家の誰かが、まだ眠そうに玄関を開けていた。
世界は今日も、何事もなかったように動いている。
腹が立つほど平和だった。
額に触れると、指先が冷や汗で濡れた。
「……またか」
小さく漏れた声は、十一歳の少年のものだった。
けれど、その声を聞いている意識は、時々、自分が十一歳であることを忘れる。
ベッドを降りると、床板がきしんだ。
机の上には、開きっぱなしのノートがある。
細かい文字と、線と、円と、矢印。
子どもの落書きには見えないが、完成した式にも見えない。
失敗した考えの残骸だった。
鏡の前に立つと、痩せた少年がこちらを見返していた。
黒に近い髪。薄い肌。年齢のわりに静かすぎる目。
そして、左目の周りから左側頭部にかけて残る火傷痕。
あの日の地獄が、まだ顔に貼りついている。
皮膚は少し引きつれ、色も他の場所とは違っていた。
古い傷なのに、夢を見た朝だけは、内側から熱を持つような気がする。
指先でその近くに触れても、痛みはない。
痛みはないはずだった。
公式の記録によれば、両親は爆発テロの犠牲者だった。
父、オーウェン・レン。
母、エレノア・ヘイル・レン。
どちらの顔も、エリアスは覚えていない。
写真はある。
祖母が大切にしまっていて、何度か見せてもらったこともある。
だが、記憶の中に二人はいなかった。
いるのは、熱と、冷たさと、臭いと、重さだけだ。
そして、もう温かいはずのないものの温かさ。
それだけだった。
祖母のマーガレットは、いつも同じように説明した。
あの夜、ひどい爆発があったこと。たくさんの人が死んだこと。エリアスだけが、奇跡的に助かったこと。
ロンドンでも最高レベルと言われる病院に運ばれたのだという。
助かる見込みはほとんどなかったらしい。
それでも、どうにか命だけは取り留めた。
祖母が話すのは、いつもそこまでだった。
病院の名前は言わない。医者の名前も言わない。どんな治療を受けたのかも言わない。
聞けば、祖母は答えたかもしれない。
けれど、聞く気にはなれなかった。
祖母は、エリアスの前ではよく笑う。
紅茶を淹れる時も、朝食を作る時も、庭の花に水をやる時も。
けれど、古い話になると、笑うまでの間が少し長くなる。
口元は上がっていても、カップを持つ指先だけが白くなっていることがある。
だから、聞かなかった。
聞かないことにした。
ただし、納得したわけではない。
あの傷。あの痛み。あの、体の奥から作り直されたような感覚。
ただの手術で説明できるはずがない。
鏡から離れると、狭い部屋が朝の光の中にあった。
ベッド。机。本棚。小さな鏡。窓辺の椅子。
祖母がきちんと整えてくれる部屋は静かで、子ども部屋にしては少し本が多すぎた。
本棚には、学校の教科書のほかに、図書館で借りてきた本が並んでいる。
医学書。古い民俗学の本。ラテン語の入門書。星図。子ども向けの歴史書。
どれも、足りなかった。
エリアスが知りたいことには、どれも届かない。
ベッドの脇に腰を下ろし、背筋を伸ばした。
目を閉じる。
吸う。止める。流す。
毎朝の習慣だった。
祖母には、呼吸を整えているだけだと説明している。
体が弱いから、落ち着くための練習だと。
嘘ではない。
ただ、全部ではない。
意識を、自分の内側へ沈めていく。
血管ではない。神経でもない。
それでも、確かに流れがある。
細く、頼りなく、けれど途切れない流れ。
それを背骨へ通す。胸へ回す。肩へ渡す。肘へ落とす。指先へ伸ばす。
何度も。何度も。
十年間、続けてきた。
雨の日も。熱を出した日も。祖母が泣いている夜も。あの男の名前を聞いた日も。
シリウス・ブラック
祖母はその名前を口にしない。
けれど、新聞や近所に住む大人たちの会話から、エリアスは知っていた。
両親を奪った事件に関わった男。
少なくとも、世間はそう信じている。
エリアスも、そう信じてきた。
呼吸が、ほんの少し乱れた。すぐに整える。
感情は、流れを濁らせる。濁った流れでは、何も届かない。
吸う。止める。流す。
十年。
ただの一日も欠かさなかった。
それなのに。内側を冷たく探っても、あるべきものがない。
魔力はある。流れもある。制御も、悪くない。
だが、そこにあるべきものがない。
一本も。
ただの一本も。
なぜ、僕の体には、いまだに一本の魔術回路すら形成されないのだろうか。
魔術回路。
その言葉を、頭の中で何度も転がした。
魔術師が神秘を扱うための、もう一つの神経。生まれつき肉体に備わった、目に見えない器官。少なくとも、前世の彼はそう教わっていた。
そして、それを持たない者は、魔術師にはなれない。
持っていても、本数が少なければ先は知れている。質が悪ければ、努力しても届かない。一族に蓄積された歴史がなければ、入口に立つことすら難しい。
それが、前世で彼が生きていた世界の常識だった。
時計塔。
イギリスはロンドンに存在する魔術協会の総本山。世界中の魔術師が集まり、学び、争い、互いを値踏みする場所。
エリアスは、そこにいた。
もっとも、中心にいたわけではない。
名門の嫡子でもなかった。何代も神秘を積み重ねた家の後継ぎでもなかった。生まれた時から未来を約束された天才でもなかった。
末端。
それが、いちばん正しい表現だった。
才能がなかったわけではない。努力をしなかったわけでもない。むしろ、努力だけなら誰にも負けないつもりだった。
眠る時間を削った。食事を削った。友人らしい友人も作らなかった。講義室の隅で古い羊皮紙を読み、地下の工房で手を焼き、失敗した術式の匂いを肺に入れ続けた。
それでも、届かなかった。
名門の子どもたちは、当たり前のように先へ進んだ。同じ講義を聞いても、同じ術式を写しても、同じ夜を越えても、結果が違う。
彼らの指先には、最初から道があった。彼らの体には、長い年月をかけて磨かれた回路があった。彼らの背後には、代々積み重ねられた研究と財産と、失敗を肩代わりしてくれる家があった。
エリアスには、それがなかった。
だから、考えた。
生まれで届かないなら、生まれる前へ戻ればいい。幼い肉体から鍛え直せばいい。神経がまだ柔らかい時期から、魔力を巡らせればいい。
呼吸と血流と意識をそろえ、魔力の道を肉体に刻み続ければいい。
そうすれば、血統に頼らずとも、奴らが持つものに近い道を作れるかもしれない。
馬鹿げている。
時計塔の誰かが聞けば、鼻で笑っただろう。
いや、実際に笑われた。
「それは研究ではない。願望だ」
そう言った者がいた。
正しい言葉だった。
だが、正しいだけの言葉は、時に何よりも腹立たしい。
願望で何が悪い。届かないことを受け入れろと、誰が決めた。
エリアスは、そういう人間だった。
知りたかったのではない。
届きたかった。
ただ理解するだけで満足できるなら、もっと楽に生きられた。本を読んで、講義を受けて、身の丈に合った魔術を選んで、末端の魔術師として小さく生きればよかった。
だが、それでは足りなかった。
根源。
その言葉を知ってしまった時から、彼はずっと病にかかっていた。
世界の奥底。
すべての始まり。
すべての答え。
それが本当にあるのなら、届かないまま死ぬことなど、どうして受け入れられるだろう。
だから、禁じられた道を選んだ。
転生。
正確には、幼児期からやり直すための術式。魂の記録を保ったまま、まだ何も定まっていない肉体へ移す。
そこで、最初の呼吸から魔力循環を組み上げる。血統という壁を、後天的な鍛錬で塗り替える。
理論だけはあった。失敗例もあった。禁忌の記録もあった。焼け残った手記もあった。
足りない部分は、自分で補った。
それが傲慢だったのだろう。
研究は見つかった。処分は決まった。追放は、ほとんど確定していた。
時計塔に残る道は、もうなかった。
だから最後の夜、術式を強行した。
負け犬の逃亡。禁忌に手を出した末端魔術師の悪あがき。
そう呼ばれても仕方がない。
だが、エリアスは本気だった。
これで血統を覆せる。これで最初からやり直せる。これで、今度こそ届く。
そう信じていた。
そして、目覚めた先があの爆心地だった。
熱。冷たさ。耳鳴り。焦げた臭い。腐った下水の臭い。重く、もう温かいはずのないものの温かさ。
どこまでが術式の失敗で、どこからが偶然だったのか、エリアスには分からない。
ただ一つだけ、十年経った今でもはっきりしていることがある。
わずか二歳にすら満たない身体で、生き残った。
死ぬまさに五秒前のような場所から、生き残ってしまった。
だからこそ、やめるわけにはいかなかった。
あの地獄が術式の到達点だったなどと、認められるはずがない。
息を吸った。
深く。
胸をふくらませるのではない。肺だけを満たすのでもない。
もっと奥だ。
背骨の内側に、細い管があると想像する。そこへ、ゆっくりと息を落とす。
止める。
数を数える。
一。二。三。四。
流す。
背骨から、胸へ。胸から、肩へ。肩から、肘へ。肘から、手首へ。手首から、指先へ。
そこまで届いたら、今度は逆に戻す。
指先から、手首へ。肘へ。肩へ。胸へ。背骨へ。
毎朝の訓練だった。
エリアスは、これを呼吸法と呼んでいる。
祖母には、体を落ち着かせるための練習だと言っていた。事故の後遺症で、時々悪夢を見るから。呼吸を整えれば、少し楽になるから。
間違いではない。
けれど、本当の目的は違う。
魔力を巡らせるためだ。
人間の体には、血が流れている。息が通っている。神経が走っている。
ならば、魔力にも道が必要なはずだった。
前世の世界では、それを魔術回路と呼んだ。
生まれつき持つ、神秘のための神経。魔術師にとって、才能の土台になるもの。
だから、その道を作ろうとした。
幼い肉体なら、まだ間に合う。骨も、筋肉も、神経も、心も、まだ固まりきっていない。
そこへ毎日、同じ流れを刻み込めばいい。
川が岩を削るように。獣道が森にできるように。
繰り返せば、肉体は覚える。
そう信じていた。
吸う。止める。流す。
背骨へ。胸へ。肩へ。肘へ。指先へ。
流れはある。
それは、確かだった。
目に見えるものではない。耳で聞こえるものでもない。
だが、分かる。
体の内側を、薄い熱のようなものが通っていく。
熱といっても、炎のような熱さではない。血の温度より、少しだけ遠い。けれど、冷たくもない。
それは、呼吸に合わせて動いた。
気を抜けば散る。強く押せば詰まる。
だから、力を込めすぎてはいけない。
川を押しても速くはならない。流れを乱せば、泥が舞うだけだ。
ゆっくりと巡らせる。
十年。
ただの一日も欠かさなかった。
幼い頃は、何度も失敗した。息を止めすぎて倒れかけたことがある。指先がしびれて、食器を落としたこともある。熱を出した夜、祖母に叱られて布団へ押し戻されたこともあった。
それでも、やめなかった。
やめれば、また届かない側へ戻る。
それが怖かった。
届かないことを受け入れる方が、死ぬより怖かった。
目を閉じたまま、意識をさらに深く沈める。
背骨。肋骨。心臓の裏。胃の下。腹の奥。
肉体を一つずつ確認する。
そこに道ができているか。流れが刻まれているか。魔術回路と呼べるものが、生まれているか。
何もない。
流れはある。制御もある。呼吸と魔力は、以前よりずっと噛み合っている。
けれど、回路はない。
一本もない。
ただの一本も。
ゆっくりと息を吐いた。
苛立ちは、呼吸を濁らせる。焦りは、流れを乱す。怒りは、判断を鈍らせる。
そう分かっているのに、胸の奥がざらついた。
十年だ。
赤ん坊のころから数えれば、十一年近い。自分で意識して訓練を始めてからでも、十年近く。
それでも、ない。
前世の記憶はある。魔術の理論もある。失敗の理由を数えるだけの頭もある。
なのに、体が応えない。
肉体の問題か。魂の定着が不完全だったのか。あの爆発で、何かが壊れたのか。
それとも――。
目を開けると、朝の光が床に四角く落ちていた。
埃が、その中でゆっくりと舞っている。
静かな部屋だった。
静かすぎて、考えがよく響く。
――この世界そのものが、僕の知る世界とは違うのではないか。
その考えは、ずっと前からあった。
けれど、エリアスはそれを認めていなかった。
認めれば、十年の訓練が別の意味を持ってしまう。
失敗ではない。
前提が違う。
そう考えれば、楽になるかもしれない。
だが、それは同時に、前世で積み上げた知識の土台が崩れるということだった。
時計塔。
魔術師。
魔術回路。
根源。
それらが、ここでは通用しないかもしれない。
そんなことは、まだ認められなかった。
息を吸う。止める。流す。
背骨へ。胸へ。肩へ。肘へ。指先へ。
薄い熱が、爪の裏まで届いた。
魔力はある。流れもある。制御も、悪くない。
けれど、そこにあるべきものだけがない。
魔術回路。
神秘を扱うための、もう一つの神経。
十年続けた。
赤ん坊のころから、ただの一日も欠かさずに。
それでも、一本も生まれなかった。
「……本当に、ここは」
前世と同じ世界なのか。
そのときだった。
窓の外で、羽ばたく音がした。
ぱさり、という軽い音。
一羽の梟が、窓辺に立っていた。
茶色い羽。丸い目。やけに堂々とした顔。
そのくちばしには、一通の封筒が挟まれていた。