朝のホグワーツは、前夜とは別の場所のようだった。
昨夜の大広間には、儀式の熱があった。
湖を渡り、城へ入り、帽子をかぶり、寮へ分けられる。
すべてが順番に置かれていて、誰かが見えない手で場を整えているようだった。
だが、朝は違った。
地下の廊下を出た途端、城は動いていた。
生徒の足音。
ローブの擦れる音。
肖像画の話し声。
遠くで誰かが階段を駆け上がる音。
どこかの角で本の束が宙を滑り、慌てた上級生らしい少年がそれを追いかけている。
壁際の鎧は、通り過ぎる生徒に合わせるように首を少しだけ動かした。
夜の城が眠っていたわけではない。
ただ、朝の城は人間を流していた。
スリザリンの一年生たちは、上級生の後について地下から大広間へ向かった。
昨日よりも列は崩れている。だが、完全に自由でもない。
誰が前を歩き、誰が後ろへ下がるか。どこで声を落とすか。どの角で道を譲るか。
スリザリンの生徒たちは、まだ半分眠そうな顔をしながらも、それを自然にこなしている。
ザビニは、急いでいない。
だが、遅れてもいない。
隣を歩くでもなく、少し前を歩くでもなく、流れの中で自分の場所を確保している。
ロウルは、昨日聞いた道順を確認するように角の数を数えていた。
声には出さない。
だが、曲がるたびに視線が壁の特徴を拾っている。
ケイは、何度も周囲を見た。
上級生の背中。階段。壁の肖像画。
こちら。また上級生。
遅れることそのものより、遅れた時の周囲の反応を先に探しているような顔だった。
朝食の大広間は、夜よりも少し雑だった。
グリフィンドールの卓では、赤と金のネクタイが何人も立ったり座ったりしている。
ハリーとロンの姿も見えた。
ロンはパンを片手に何かを話し、ハリーはそれを聞きながら、皿の上の食べ物と大広間の入口を交互に見ている。
ハーマイオニーはすでに教科書を一冊出していた。食事をしながら、時々ページに目を落としている。
スリザリンの卓は、やはり声量が低かった。
朝だからといって緩みすぎない。
ただ、夜よりも会話の実用性が増している。
「一限は何だ?」
誰かが聞いた。
「呪文学だ」
上級生が答える。
「フリットウィック先生は遅刻には甘い方だが、初回から試すな。教室は三階西側。階段を二つ上がってから、廊下を右へ行く。ただし、朝は階段がよく変わる。人の流れだけで行くと四階へ持っていかれる」
それを聞いた一年生の何人かが、顔を上げた。
こういう情報が、当然のように流れてくる。
昨日ファーレイが言っていた通りだった。
教授の傾向。
教室の位置。
失敗しやすい導線。
それらが、寮の中で積み上げられている。
ロウルが小さくうなずいた。
「三階西側ですね」
ザビニはパンをちぎりながら言った。
「右って、どの右?」
「階段を上がった時の右です」
「その階段が動いたら?」
ロウルの手が止まった。
「……その場合は、上級生の流れを見ます」
「真面目だね」
「迷うよりはましです」
ケイの顔色が少し悪くなる。
「迷うのは困る」
「初日で迷わない奴なんていないだろ」
ザビニは軽く言った。
ケイは、安心するどころか、さらに視線を忙しく動かした。
エリアスは、上級生の説明を頭の中で分解していた。
三階西側。
朝は階段が変わる。
人の流れだけで行くと四階へ持っていかれる。
つまり、生徒の移動量が多い時間帯ほど、主要階段の接続先が変動する可能性が高い。
混雑緩和。
寮ごとの導線分離。
教師と生徒の移動経路の分離。
あるいは、城側の交通制御。
完全なランダムではない。
少なくとも、そう考える方が合理的だった。
朝食を終え、大広間を出る。
ここからが本番だった。
廊下には、生徒の流れがいくつもできていた。
赤と金。
青と銀。
黄と黒。
緑と銀。
色ごとにまとまるわけではないが、寮ごとの癖はある。
上級生は足取りが違う。
迷わず進む者。
途中で壁の前に立ち止まり、肖像画に何かを言って抜け道を開ける者。
階段が動き出す直前に速度を上げる者。
逆に、動くのを待つ者。
人の流れには、太さがあった。
一番多い流れが正解とは限らない。
むしろ、上級生の流れと下級生の流れは途中で分かれる。
教師らしい大人が通る廊下は、さらに別だ。
窓から入る光の方向は東。朝の光が右から差す廊下なら、南北軸は推定できる。
地下から上がった時の階段の角度、廊下の長さ、湿気の抜け方、石壁の古さ。
魔力の流れは、階段の根元で濃く、廊下の中央で薄くなる。
構造として読める。
読めるはずだった。
「こっちです」
ロウルが言った。
上級生から聞いた通り、階段を二つ上がる。
一つ目の階段は、問題なく上がれた。
二つ目の階段は、上がり切る直前でゆっくり動き始めた。
足元がずれた。
誰かが小さく声を上げる。
上級生の一人は慣れた様子で手すりを掴み、後ろの一年生に止まるよう合図した。
階段は、重い石の音を立てながら、別の踊り場へ向きを変える。
動きは滑らかだった。
乱暴ではない。
だが、建築物の一部が当然のように向きを変える光景は、見ていて気持ちが悪い。
周期はあるのか。
階段の端に刻まれた細かい傷。
石の継ぎ目。
手すりの摩耗。
移動中にわずかに濃くなる魔力の線。
人流が一定量を超えた時に動くのか。
時刻で動くのか。
あるいは、目的地によって振り分けているのか。
階段が止まる。
「……ここは?」
ケイが不安そうに言った。
「予定の踊り場ではありませんね」
ロウルの声にも、わずかな硬さがある。
ザビニの視線が、周囲を軽く流れた。
「じゃ、別の道だな」
「軽いな」
「重く言って道が戻るなら、重く言うけど」
それはそうだった。
左手側は人流が細い。
右手側は人が多いが、上級生中心。
正面の廊下は妙に静かで、壁にかかった肖像画がこちらを見ている。
三階西側へ向かうなら、窓の方角と階段の回転角から見て、右手側が最も近い。
だが、上級生が多すぎる。
初回授業へ向かう一年生の流れとは合わない。
「右だ」
そう判断した。
ロウルがうなずいた。
ケイの肩から、わずかに力が抜ける。
ザビニは何も言わず、最後尾についた。
右の廊下へ進む。
しばらくは順調だった。
窓の位置は合っている。
空気の湿度も少しずつ下がっている。
地下から遠ざかり、外壁側へ寄っている証拠だ。
壁の古さは一定。
床の摩耗は多い。
つまり使用頻度の高い廊下。
だが、角を曲がった瞬間、前方に人の流れが消えた。
さっきまで足音があったはずの廊下が、妙に静かだった。
壁には大きな肖像画がひとつ。
椅子に座った魔女が、編み物をしながらこちらを見ている。
「おやまあ」
肖像画の魔女が言った。
「また一年生かい」
ケイの顔がさらに青くなる。
「また?」
「この廊下、呪文学へ行けますか?」
ロウルが丁寧に聞いた。
魔女は編み棒を動かしながら、にこにこ笑った。
「行ける時もあるねえ」
ザビニが小さく笑った。
「便利な答えだな」
「今は?」
エリアスが聞いた。
魔女の目がこちらへ向いた。
絵の具でできた瞳なのに、妙に生きている。
「今は、行きたいなら戻った方が早いかもしれないね」
戻る。
来た廊下を振り返る。
そこにあるはずの角が、少し遠く見えた。
距離が伸びたわけではない。
少なくとも、見た目には。
だが、空気が違う。
さっきまであった生徒の気配が薄い。
ロウルが低く言った。
「戻りましょう」
「いや」
奥の窓から入る光。
床の傾き。
壁の魔力の流れ。
風向き。
完全に閉じている道ではない。
奥へ進めば、おそらく別の階段に出る。
そこから三階西側へ回り込める可能性がある。
「このまま進んだ方が近い」
ケイが息を呑んだ。
「でも、肖像画は戻れって」
「早いかもしれない、と言っただけだ。確定ではない」
ザビニがこちらを見た。
「そういうところ、面白いな」
「面白がる状況じゃない」
「いや、たぶん面白がる状況だろ」
ロウルは一拍置いたが、それから何も言わずについてきた。
四人は廊下の奥へ進む。
その判断は、途中までは正しかった。
廊下の先には確かに階段があった。
階段は上ではなく、斜め下へ続いている。
だが、踊り場から別の階段へ接続しており、上り返せば目的階へ戻れる構造に見える。
見える。
そのはずだった。
踊り場へ降りた時、下から大きな声が響いた。
「おい、こっちだって!」
ロンの声だった。
見下ろすと、下の階の廊下に赤毛の少年がいた。
隣にはハリーもいる。
二人ともローブの前を少し乱し、明らかに急いでいる。
「そっち、行き止まりだぞ!」
ロンが叫ぶ。
行き止まり?
階段の先は行き止まりには見えない。
むしろ、接続先はある。
窓の位置も合う。
「根拠は!」
「兄貴が言ってた!」
それは根拠なのか。
「どの兄だ!」
「パーシーだよ。こういうのだけは外さないんだ」
判断材料としては、あまり強くない。
ハリーが横から言う。
「こっち、さっき人がたくさん行ってた!あと、なんか明るい!」
なんか明るい。
ザビニが喉の奥で笑った。
「負けそうだな」
「何に」
「なんか明るい、に」
ロンが手を振った。
「急げよ! 階段、また動くぞ!」
その瞬間、足元の階段が低く軋んだ。
動く。
踊り場の継ぎ目で、魔力の流れが濃くなっている。
階段の根元に力が集まる。
周期ではない。
いや、周期だけではない。
人が乗っているか。
移動方向か。
目的地か。
考えるより早く、ロウルが言った。
「今は降りた方が安全です」
ザビニはもう動いていた。
ケイも慌てて続く。
エリアスも階段を降りた。
全員が下へ着いた直後、階段がゆっくり横へ動き始めた。
さっきまで繋がっていた踊り場から外れ、別の壁へ向かっていく。
もし上へ進んでいたら、完全に別方向へ運ばれていた。
ロンは勝ち誇った顔をした。
「な?」
「今のは、たまたまだ」
「たまたまでも当たりなら勝ちだろ」
勝ち負けの問題ではない。
ハリーは少し息を切らしながら笑った。
「僕たちも、たぶん迷ってるんだけどね」
「迷っているのに、人に道を示したのか」
「ロンが、こっちだって」
ロンは胸を張った。
「なんとなくだけどな」
根拠がない。
再現性がない。
論理がない。
だが、城はそちらを通した。
それが気に入らなかった。
気に入らないのに、無視できなかった。
ロンたちの廊下は、確かに流れがあった。
大きくはないが、細い人流が続いている。
一年生だけではない。
二年生、三年生らしい生徒も混じっている。
肖像画は、こちらを見て笑っていた。
さっきの編み物の魔女とは別の肖像画だ。
太った騎士が、剣を膝に置いている。
「急ぐなら左だ!」
騎士が言った。
ロンが即座に左へ曲がる。
「待て、なぜ信じる」
「兄さんたちが言ってた。こいつ、嘘つく時はもっと変な笑い方するんだ」
騎士は笑っていた。
「笑っているが」
「いつも笑ってる感じの笑いと、嘘ついてる時の笑いは違うんだよ」
そんな識別があるのか。
ハリーは一瞬だけ足を鈍らせたが、すぐにロンについていく。
足は止まらない。
根拠は薄い。
だが、二人は城と喧嘩していない。
廊下を左へ曲がる。
風向きが変わった。
さっきまで背中から押していた空気が、今度は前から流れてくる。
窓はない。
なのに、明るさが増す。
右の壁にあった鎧が、通り過ぎた後でわずかに向きを変えたような気がした。
いや、気のせいではない。
さっきまでは槍が廊下の奥を指していた。
今は階段の方を指している。
城が案内している。
そう考えるのは早い。
早いが、捨てきれない。
角を二つ曲がると、広い廊下に出た。
そこには、はっきりと人の流れがあった。
呪文学へ向かうらしい生徒も混じっている。
遠くに、フリットウィック教授の授業で使うらしい教室の扉が見えた。
ロウルが小さく息を吐いた。
「間に合いそうですね」
ケイはほとんど脱力していた。
ザビニはロンを見て言った。
「勘、便利だな」
ロンは少し得意げだった。
「だろ?」
ハリーは笑っていた。
馬鹿にする響きはない。
城に振り回されたことまで、どこか楽しんでいるような顔だった。
エリアスは笑えなかった。
廊下の向こうで、階段がまた動いている。
生徒たちは驚くでもなく、止まるでもなく、それぞれのタイミングで乗り、降り、曲がり、流れていく。
その動きは血流に似ていた。
心臓がどこにあるのかは分からない。
だが、城全体が生徒を循環させている。
地図を作るには、線が動きすぎる。
迷宮と呼ぶには、こちらを見すぎている。
廊下の壁に掛かった肖像画の一人が、こちらを見て小さく笑った。
まるで、ようやく気づいたか、とでも言いたげだった。
ホグワーツは、建物ではない。
少なくとも、ただの建物ではない。
機械でもない。
固定された魔法機構でもない。
単純な迷宮ですらない。
応答している。
その言葉が、胸の奥に残った。
「おい、エリアス」
ロンが呼んだ。
「お前らの授業、そこじゃないのか?」
気づけば、呪文学教室の扉の前だった。
授業開始までは、まだ少しだけ時間がある。
遅刻ではない。
だが、余裕があるとも言えない。
ザビニが扉の前で立ち止まる。
「初日から濃いな」
ロウルはローブの袖を整えた。
「原因の一部は、我々の判断です」
「我々?」
ザビニが笑う。
「主にレンだろ」
ケイが小さく言った。
「でも、間に合った」
その声は、さっきまでより少しだけ力が抜けていた。
扉の向こうから、軽い足音が近づく。
小さな影が、教室の中を動いた。
フリットウィック教授だった。
教授は扉のそばにいた一年生たちに気づくと、にこやかに目を細めた。
「おはようございます、皆さん。初日の城内散歩は、いかがでしたかな?」
温厚な声だった。
だが、こちらがどこかで迷っていたことは、たぶん分かっている。
誰も答えなかった。
フリットウィック教授は、少しだけ楽しそうに笑った。
「さあ、中へ。呪文学の初回授業を始めましょう」
教室へ入る直前、もう一度だけ廊下を振り返った。
生徒の流れ。
動く階段。
笑う肖像画。
向きを変えた鎧。
風の向き。
ホグワーツは、こちらを見ている。
そう断定するには早い。
だが、ただ読まれるだけの建物ではないことだけは、もう疑えなかった。
……難産でした。