初めての授業日を終えた翌朝、朝食の大広間は昨日より少し遠く感じられた。
呪文学。魔法史。変身術。
頭の中には、まだ三つの授業の残響が残っている。
杖の遅れ。
古い制度の層。
完全な針への不快感。
寝不足というほどではない。
だが、思考の底に薄い疲れが沈んでいた。
朝食を手早く済ませ、スリザリンの一年生たちは闇の魔術に対する防衛術の教室へ向かった。
その廊下は、他の教室へ続く道よりも少し暗かった。
実際に灯りが少ないわけではない。
壁の松明は燃えているし、窓からは朝の光も差している。
それでも、近づくにつれて空気の質が変わっていく。
最初に感じたのは、匂いだった。
ニンニク。
乾いた薬草。
古い布。
薬品のような、鼻の奥に残る刺激。
それらが混ざり、廊下の空気に薄く染み出していた。
だが、気になったのはそこではなかった。
匂いの奥に、別のものがある。
湿った鉄のような、冷えた獣の息のような、分類できない不快感。
腐敗でも、血でもない。
ただ、呼吸の奥へ薄く張りつく。
ケイが小さく眉を寄せた。
「……なんか、臭いね」
ザビニは口元だけを動かした。
「防衛術って、まず鼻を守る授業なのか」
軽口だった。
けれど、いつものように完全には軽くない。
笑う前に、少しだけ息を止めている。
ロウルは何も言わなかった。
ただ、教室の扉の前で呼吸を浅くした。
顔には出さない。
しかし、呼吸は明らかに浅くなっている。
「クィレル先生って、いつもこんな匂いなのかな」
ケイが声を落とした。
近くにいた上級生が、こちらを一瞥した。
注意というほどではない。
だが、あまり大きな声で言うな、という程度の視線だった。
「吸血鬼避けだって聞いた」
別の一年生が小声で言う。
「吸血鬼?」
ケイの声が少し高くなる。
「旅先でひどい目に遭ったとか、外国で何かあったとか、いろいろ言われてる」
「噂だろ」
ザビニが言った。
「でも、変なターバンを巻いてるって聞いた」
「変なものを変だと言うだけなら誰でもできるぞ」
ロウルが静かに返した。
「二人とも、教室の前でその話を続けるべきではありません」
「はいはい」
ザビニは軽く流した。
だが、その目は扉から離れていない。
「隠している匂いの方が問題だ」
ザビニがこちらを見る。
「何だそれ」
「強すぎる。別のものを潰すための匂いに近い」
それ以上は言わなかった。
まだ、隠されているものが何かは分からない。
エリアスは扉の前で一度だけ息を整えた。
呪文学の教室は明るかった。
机、黒板、教師、生徒、課題。
そこには順序があった。
変身術の教室は硬かった。
厳格で、無駄がなく、世界へ何かを通すための緊張があった。
この教室は違う。
扉が開く。
中の空気は、廊下より濃かった。
壁には、乾いた薬草の束が吊るされている。
棚には、瓶や布袋や、用途の分からない小さな箱が並んでいた。
窓はあるが、カーテンが半分ほど引かれており、光は細く切られている。
教室全体が、何かを外へ漏らさないように閉じているようだった。
生徒たちは、いつもより静かに席へ着いた。
見える範囲のスリザリンの一年生たちも、ここでは声を落としている。
朝食の卓や廊下とは違う。
匂いが、会話の量を減らしている。
ザビニは席に腰を下ろし、棚の上の瓶を見た。
「派手な授業かと思ってた」
「派手な方が困ります」
ロウルが言った。
「初回から何かに襲われるよりは、まだいいでしょう」
「それはそうだけどな」
ケイは机の上に両手を置いたまま、教室の前方を見ている。
落ち着かない視線だった。
扉。
教卓。
棚。
窓。
それから、教卓の奥に覗く紫色の布。
逃げ道を探しているのかもしれない。
本人にその自覚があるかどうかは別として。
「薬草学の教室とも違うんだろうな」
ザビニが言った。
「まだ受けていません」
ロウルが返す。
「予想くらいはできるだろ。これは育てる匂いじゃない。何かを遠ざける匂いだ」
その言い方は、少しだけ正しかった。
この匂いは、作るためのものではない。
隠すか、避けるか、追い払うための匂いだ。
ただし、何を。
教卓の奥から、足音がした。
小さく、ためらうような足音だった。
クィレル教授は、教卓の前に立つまでに一度だけ足を止めた。
紫のターバン。
青白い顔。
目の下には、眠れていない者の影がある。
頬はこけ、唇の色も薄い。
片手は杖を持っているが、指先が微かに震えていた。
「み、皆さん。お、おはようございます」
声は細かった。
何人かの生徒が、笑うでもなく、背筋を伸ばすでもなく、中途半端な顔をした。
笑っていい相手ではない。
だが、頼れる教師にも見えない。
吃音そのものは、不自然ではない。
緊張すれば言葉は詰まる。
恐怖すれば呼吸は浅くなる。
人前に立つのが苦手な教師なら、それだけで説明できる。
だが、少しだけずれている。
息が詰まる前に、声が止まる。
視線が逃げる前に、肩が強張る。
発声の揺れと、魔力の流れが、同じ周期で乱れていない。
怖がっている。
それは間違いない。
だが、崩れ方が揃っていない。
そう見えた。
クィレル教授は教卓に置いた羊皮紙へ視線を落とし、何度か瞬きをした。
その間に、教室の匂いがまた意識へ戻ってくる。
ニンニク。
乾いた薬草。
古い布。
その奥にある、分類できない不快感。
呼吸を浅くする。
拒絶ではない。
観測のためだ。
匂いは強すぎる。
強すぎる匂いは、別の匂いを隠す。
ならば、隠されているものがある。
ただし、今は分からない。
「こ、この授業では、皆さんに、闇の魔術から身を守る方法を学んでもらいます」
クィレル教授の声は、時々細く切れる。
「闇の魔術は、こ、怖いものです。危険です。ですが、怖がっている時ほど、ま、魔法は、失敗しやすくなります」
生徒たちの何人かが、少しだけ姿勢を正した。
クィレル教授は、杖を持つ手を胸の前で止めた。
指先は震えている。
その震えは、隠しきれていない。
「恐怖すると、息が浅くなります。声が震えます。杖を握りしめます。そ、そうすると、魔法は、まっすぐ出ません」
恐怖。
呼吸。
発声。
杖圧。
魔力流動。
エリアスは順に並べた。
恐怖は、感情ではなく、出力を乱す要因として扱える。
少なくとも、今はそう分類できる。
呪文学では、杖が返事を遅らせた。
変身術では、世界が先に答えを出した。
防衛術では、術者自身が乱れる。
それなら観測できる。
ようやく、対象がある。
今日初めて、安堵に近いものがあった。
ただ、胸の奥に残る匂いが、それを濁らせている。
クィレル教授は黒板へ向かった。
その動きはぎこちない。
杖で短い語句を書こうとして、一度だけ先端が滑った。
恐怖時の反応
呼吸
発声
杖
集中
字は少し震えていた。
ザビニが小さく囁いた。
「字も怖がってるな」
ケイがザビニを横目で見た。
けれど、何も言わなかった。
ロウルは低い声で言った。
「聞こえますよ」
ザビニは肩をすくめたが、それ以上は言わなかった。
クィレル教授は振り返る。
「こ、怖がるな、ということではありません。恐怖は、誰にでもあります」
そこで一度、言葉が止まった。
言葉を選んでいるような間だった。
「恐怖を消すことは、できません。消えたように思えても、体は覚えています。息が止まった瞬間、杖は遅れます。手が震えることより、震えたことに気づかない方が、危険です」
その一文だけ、妙に通った。
吃音は残っている。
声も細い。
それでも、その言葉には教科書の平坦さがなかった。
恐怖を知っている者の言葉に聞こえた。
外側から眺めた知識ではなく、身体の内側で何度も確かめた者の言葉に近い。
ケイは、先ほどより真剣な顔になっていた。
ロウルも羽根ペンを取る。
ザビニは軽口を引っ込め、教卓の方を見た。
クィレル教授は、教卓の上に小さな木片を置いた。
尖ってもいないし、危険物にも見えない。
ただ、乾いた木の短い棒だった。
「今日は、攻撃呪文を扱いません」
何人かが、あからさまにほっとした顔をした。
「まずは、恐怖で基本がどれほど崩れるかを見ます。簡単な発声と、杖先の固定です」
派手ではない。
だが、悪くない。
いきなり呪文を撃たせるより、ずっと理にかなっている。
クィレル教授は、生徒たちに杖を構えさせた。
「杖先を、机の上の印に向けてください。声を出す時、呼吸を止めないこと。杖を握りしめないこと。発声は短く、まっすぐ」
机には、小さな黒い点が描かれている。
対象指定のための印か。
あるいは、ただの視線固定点か。
「では、合図で声を出してください。呪文ではありません。ただ、声と杖先を合わせるだけです」
生徒たちは、どこか緊張を欠いた手つきで、緩やかに杖を構えた。その先端は、どれもかすかに下がっている。
クィレル教授は、教卓の端に手を置く。
「始めます」
次の瞬間、クィレル教授は机を軽く叩いた。
乾いた音が教室に響いた。
大きな音ではない。
危険でもない。
それでも、何人かが肩を跳ねさせた。
ケイの杖先が大きく揺れる。
ザビニは笑いかけたが、笑いきれなかった。
ロウルは姿勢を崩さなかったが、杖を持つ指に力が入っている。
前の席の生徒は、声を出すタイミングそのものを失った。
エリアスの杖先は動かなかった。
ただ、胸の奥で呼吸が一拍だけ詰まる。
音への反射。
不意打ちへの反応。
首の後ろに小さな熱が走り、指先がわずかに冷える。
それを、声に出る前に戻す。
吸う。
止める。
流す。
肩へ上がろうとした力を、腕へ逃がす。
指先の圧を均す。
杖先を黒い点へ戻す。
反応はあった。
恐怖していないのではない。
驚かなかったのでもない。
ただ、表へ出る前に処理しただけだ。
生徒たちは、合図に合わせて短く声を出した。
結果は、ばらばらだった。
声が浅い。
杖先がぶれる。
呼吸が止まる。
短い音が途中で切れる。
魔力を流していない者でさえ、身体の硬さが杖先に出ている。
エリアスの声は乱れなかった。
杖先も動かない。
だが、胸の奥にはまだ反射の痕跡が残っている。
それを失敗とは呼ばない。
成功とも呼ばない。
反応を処理した。
それだけだった。
クィレル教授の視線が、一瞬だけこちらで止まった。
褒められたわけではない。
注意されたわけでもない。
吃音を笑ったわけでも、怯えたわけでも、演習に失敗したわけでもない。
反応を、表へ出す前に処理した。
その違いを、あの教師は見たのかもしれない。
クィレル教授の指が、杖の表面を一度だけ強く押さえた。
すぐに視線は外れる。
それだけだった。
だが、確かに見られた。
そう感じた。
「い、今のように、驚いた時、体は先に反応します。肩が上がる。息が止まる。杖がぶれる。防衛術では、その一瞬が、とても危険です」
説明は筋が通っている。
ロウルが小さくうなずいた。
「恐怖時に基礎が崩れる、という説明は筋が通っています」
「でも地味だな」
ザビニが囁く。
「防衛術って、もっと派手な授業だと思ってた」
「派手になる状況は、たぶん危険な状況だよ」
ケイが言った。
声は小さい。
だが、今の演習を笑って流す調子ではなかった。
クィレル教授は、もう一度机を叩いた。
今度は先ほどより弱い。
それでも、反応は出る。
一度目より少し小さいが、完全には消えない。
三度目。
四度目。
生徒たちは少しずつ慣れていく。
声は安定し、杖先の揺れも小さくなる。
だが、完全には消えない。
恐怖というより、予期された刺激への反応だ。
本物の危機ではない。
それでも崩れる。
なら、実際の危険ではもっと崩れる。
教室全体の反応が、少しずつ分かれていく。
ケイは初回の揺れが大きい。
だが、二度目以降の修正が早い。
揺れた直後に、握りを変えている。
ロウルは最初から崩れが小さい。
しかし、崩れを抑えるために力で固定している。
硬い。
安定しているが、急な変化には弱いかもしれない。
ザビニは、体の反応より表情を先に整える。
笑みは戻る。
だが、杖先には一瞬だけ出る。
それぞれ、違う。
恐怖そのものではなく、恐怖への処理の仕方が違う。
観測できる。
分類できる。
だが、クィレル教授を見ると、その分類が揺らいだ。
クィレル教授が杖を上げる。
手は震えていた。
だが、魔力の流れは、震えと同じ周期ではなかった。
呼吸は浅い。
声も途切れる。
視線も落ち着かない。
それなのに、杖先へ流れるものだけが、時折、妙に鋭くなる。
恐怖で乱れている。
そう片づけることはできる。
だが、それだけではない。
恐怖で乱れた流れなら、呼吸、発声、筋緊張、魔力の揺れは同じ方向へ崩れるはずだ。
だが、クィレル教授のそれは、崩れ方が揃っていない。
呼吸は浅く逃げる。
声は細く縮む。
手は震えている。
なのに、魔力だけが、ときおり鋭い。
ニンニクと薬草の匂いの奥にある、分類できない不快感。
それに似たものが、魔力の流れの奥にも薄く混じっている気がした。
見えない。
分からない。
だが、ある。
今は、情報が足りない。
「も、もう一度」
クィレル教授が言った。
生徒たちは再び杖を構える。
今度は、クィレル教授が机を叩く前に、教室の空気が少し硬くなった。
来ると分かっている音を待つ緊張。
それもまた、恐怖の一種なのだろう。
乾いた音。
発声。
何人かの声は安定した。
何人かは、待っていたせいか、かえって固くなった。
ケイは小さく息を吐いた。
「分かってても、びくっとするね」
「それが普通でしょう」
ロウルが言う。
「普通って嫌だな」
ケイはそう言ったが、今度は少しだけ笑った。
クィレル教授は、その笑いの方を見なかった。
ただ、机の端を支える指が少し白くなっている。
疲れているように見える。
授業の進行だけで、体力を削られているようだった。
それでも、彼は続けた。
「こ、怖がることは、恥ではありません。ですが、怖がったまま、何をするかを、覚えなければなりません」
まただ。
その一文だけ、妙に通る。
臆病な教師の言葉には聞こえなかった。
恐怖を知っている者の言葉に近い。
ザビニは、今度は茶化さなかった。
ロウルは真面目に書き取っている。
ケイは教卓の方を見たまま、小さく呟いた。
「……あの先生、大丈夫なのかな」
答えは誰も持っていなかった。
クィレル教授は、机の間をゆっくり歩いた。
歩幅は小さい。
時折、教卓の方へ視線が戻る。
それでも、彼は戻らなかった。
一人ずつ、杖先を見る。
手の力を見る。
口元を見る。
呼吸を見る。
頼りない。
遅い。
だが、見ている場所は間違っていない。
「つ、杖を、握りすぎています」
ケイの横で、クィレル教授が言った。
ケイの肩が跳ねる。
「す、すみません」
「謝らなくていいです。気づけば、直せます」
ケイは指の力を抜いた。
杖先の揺れが少しだけ収まる。
「そうです」
クィレル教授は小さくうなずいた。
「恐怖は、消せません。ですが、どこに出るかは、見られます」
その言葉に、エリアスの指がわずかに止まった。
どこに出るかは、見られる。
感情を否定しろ、ではない。
怖がるな、でもない。
恐怖が、どこへ出るかを見る。
それなら、理論として扱える。
クィレル教授はロウルの机へ移る。
「固定しすぎです」
ロウルの眉がわずかに動いた。
「固定しすぎ、ですか」
「は、はい。動かないことと、固まることは違います」
ロウルは一拍置き、静かにうなずいた。
「理解しました」
ザビニが横で小さく笑う。
「ロウルでも固いって言われるんだな」
「授業中です」
「はいはい」
クィレル教授はザビニの杖先を見た。
ザビニの口元には、まだ薄い笑みが残っている。
「顔ではなく、杖が動いています」
その笑みが止まった。
「……見てるんですね」
「見ています」
細い声だった。
だが、そこだけは詰まらなかった。
ザビニは軽く息を吐いたが、それ以上は言わなかった。
クィレル教授は最後に、エリアスの机の近くで止まった。
近づくと、匂いが濃くなる。
ニンニクと薬草。
古い布。
その奥にあるもの。
「ミ、ミスター・レン」
名前を呼ばれた。
「はい」
クィレル教授は、杖先を見て、それから手元を見た。
視線は顔へ上がらない。
いや、一度だけ上がり、すぐに戻った。
距離が近い。
声の細さより、呼吸の浅さの方が先に分かる。
「反応は、ありますね」
言い切るような声ではなかった。
確認するような声だった。
「あります」
「ですが、外へ出る前に、戻している」
「そのつもりです」
クィレル教授の指が、また杖の表面を押さえた。
今度は先ほどより短い。
「よ、よいことです。ですが、戻したものが消えたと思わないように」
その言葉で、胸の奥に残っていた反射が、少しだけ重くなる。
消えてはいない。
処理しただけだ。
クィレル教授は、それ以上言わなかった。
視線はもう、次の机へ移っている。
だが、十分だった。
この教師は、見ている。
少なくとも、恐怖がどこに出るのかは見ている。
「クィレル先生」
呼びかけると、クィレル教授の足が止まった。
次の机へ向かいかけていた肩が、小さく揺れる。
「は、はい。ミスター・レン」
「恐怖は、必ず魔法を乱すものですか」
クィレル教授は、すぐには答えなかった。
細い指が、杖の表面を一度だけなぞる。
「……必ず、ではありません」
その一言だけ、吃音が消えていた。
ケイが目を瞬かせた。
ザビニの薄い笑みも、そこで止まる。
ロウルの羽根ペンが、羊皮紙の上で動きを止めた。
クィレル教授は、すぐに視線を落とした。
「きょ、恐怖は、魔法を乱します。けれど、時に、意識を一点へ狭めることもあります。危険です。ですが、無意味ではありません」
恐怖は、乱す。
だが、集中を狭めることもある。
呼吸は浅くなる。
視野は狭まる。
声は震える。
杖圧は乱れる。
けれど、意識が一点へ絞られるなら。
その一点を、出力方向へ接続できるなら。
恐怖は、ただのノイズではないのかもしれない。
クィレル教授は、それ以上答えなかった。
細い肩が、一度だけ上下する。
それから、黒板へ向き直った。
恐怖時の反応
呼吸
発声
杖
集中
その下に、震える字で一行を書き足した。
基本を崩さないこと
さらに、少し間を置いて、もう一行。
恐怖の出る場所を見ること
「じ、次回から、より具体的な防衛呪文や、危険な生物への対処を学んでいきます。今日は、こ、ここまでです」
椅子の脚が床を擦る音が、あちこちで小さく鳴った。
生徒たちは荷物をまとめ始める。
派手な魔法はなかった。
誰も怪我をしていない。
それなのに、教室を出る時の空気は、他の授業より重い。
廊下へ出ても、匂いは鼻の奥に残っていた。
ザビニは扉から少し離れてから、ようやく息を吐いた。
「地味だったな」
「地味でしたね」
ロウルが言った。
「ですが、内容は筋が通っています。恐怖時に基礎が崩れる、というのは理解できます」
「理解はできるけどさ」
ザビニは教室の扉を振り返った。
「ずっとあそこにいたら、鼻がおかしくなる」
ケイは教科書を抱え直し、教室の扉を見た。
「あの先生、本当に防衛術の先生なんだよね」
誰もすぐには答えなかった。
答えられるだけのものを、まだ誰も持っていなかった。
廊下の空気を吸う。
教室の空気よりは薄い。
それでも、匂いは消えない。
呪文学では、杖が遅れた。
変身術では、世界が先に答えを出した。
防衛術では、術者自身が揺れていた。
呼吸。
発声。
恐怖。
魔力。
どれか一つが乱れれば、魔法は形を失いかねない。
なら、恐怖とは何か。
ただのノイズか。
それとも、魔法へ接続する別の経路なのか。
まだ、分からない。
だが、少なくとも、これまでの授業とは違った。
ここには対象がある。
危険がある。
崩れる理由がある。
対処すべき現象がある。
読めるかもしれない。
その瞬間、教室の奥で感じた不快感が、もう一度だけ鼻の奥に戻った。
ニンニク。
薬草。
古い布。
それらの奥にあったものだけが、名前を持たないまま残っている。
読めるものばかりではない。
それでも、目を逸らす気にはなれなかった。