ようこそ根源があふれた魔法の学校へ   作:shinkyu10

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手応え

 

 

 

 

金曜の朝、地下へ向かう階段は、妙に冷たかった。

 

ホグワーツの城内は、数日経ってもまだ地図にならない。

動く階段。笑う肖像画。曲がった先で変わる廊下。こちらを試すように開く近道。

それでも、朝の移動には少しずつ型ができていた。

 

スリザリンの一年生たちは、地下へ向かう時だけ足取りが落ち着く。

上へ向かう時よりも迷いが少ない。

湖の気配と湿った石の匂いが、寮から教室へ続く道筋を薄く示している。

 

ザビニは、肩に鞄をかけたまま、欠伸を噛み殺していた。

 

「金曜の朝から地下か」

「寮も地下です」

「だから余計にだよ。朝くらい、窓が欲しいだろ」

 

ケイは鞄を抱え直しながら、階段の下を見た。

 

「魔法薬学って、スネイプ教授だよね」

 

声が少し硬い。

 

クィレル教授の授業は、不気味だった。

匂いがあり、恐怖があり、術者自身の揺れがあった。

ただ、授業の中身には筋があった。

恐怖。呼吸。発声。杖圧。魔力流動。

人間側の崩れを観測できた。

 

魔法薬学は、さらに違うはずだった。

 

素材がある。

順序がある。

温度がある。

時間がある。

投入し、刻み、加熱し、待つ。

 

呪文学では、杖が返事を遅らせた。

変身術では、世界が先に答えを出した。

闇の魔術に対する防衛術では、術者自身が揺れた。

 

魔法薬学なら、変化の過程を追える。

それだけで、呼吸が少し楽になる。

 

「スネイプ教授は、厳しいと聞いています」

「誰から?」

 

ザビニが聞く。

 

「上級生からです。課題の分量、失敗時の減点、作業中の私語への対応。それから、グリフィンドールには特に厳しい、と」

「最後のはありがたい話じゃん」

 

ザビニは軽く言った。

 

ロウルは目だけで咎める。

 

「公平性の問題です」

「スリザリンが言うと説得力あるな」

「ザビニ」

「はいはい」

 

ケイは二人のやり取りを聞きながら、鞄の紐を握り直した。

 

「失敗したら、爆発とかするのかな」

「可能性はあります」

 

ロウルが真面目に答えた。

 

「そこは嘘でも、しないって言ってほしかった」

「薬学で嘘は危険です」

 

それは正しい。

 

薬は、失敗しても失敗の形が残る。

色。匂い。粘度。温度。泡。沈殿。

兆候が出る。

原因がある。

変化の跡が残る。

 

まともであることと、安全であることは違う。

それでも、追える可能性がある。

 

地下へ降りるほど、空気は冷たく湿っていった。

 

石壁は湿っている。

廊下の燭台には小さな炎が揺れ、床には薄い冷気が溜まっていた。

DADAの教室のような、匂いで呼吸を拒ませる不快感ではない。

 

乾燥した根。

粉砕された鉱物。

金属器具。

古い水。

火にかける前の鍋の匂い。

 

教室の扉は重かった。

 

中へ入ると、冷気がさらに濃くなる。

 

地下教室には、長い机が並んでいた。

各席に大鍋、秤、ナイフ、すり鉢、乳棒、小皿が置かれている。

壁際の棚には、瓶がずらりと並んでいた。

液体に沈んだもの。

乾燥したもの。

粉末。

硬い塊。

ラベルの文字は古く、けれど整っている。

 

薬品臭。

乾いた素材。

金属。

火を使う前の、冷えた鉄。

 

棚の瓶は、どれも同じ向きに並んでいた。

刃物は机の端に寄せられ、鍋の下には火を受けるだけの空間が空いている。

危ないものほど、置き場所が決まっている。

 

鍋と火の距離。

素材置き場と作業面の距離。

水場までの動線。

教師が全体を見渡せる位置。

 

視線を動かすほど、机の並びがただの整列ではないことが分かる。

ここは、失敗しないためだけの場所ではない。

失敗した時、すぐに分かるように作られている。

 

「お、グリフィンドールもいる」

 

ザビニが小さく言った。

 

教室の反対側に、ハリーとロンがいた。

二人ともローブの襟元を気にしている。

ハリーは棚の瓶を見て、少し顔をこわばらせていた。

ロンは口をへの字に曲げ、棚の瓶から目を逸らしていた。

ハーマイオニーはすでに教科書を開き、机の上に道具を整えている。

 

その手は早い。

羽根ペン、教科書、秤。

一つ置くたびに、位置を確かめるように指先が止まる。

 

ハリーがこちらに気づいた。

目が合うと、小さくうなずく。

 

こちらも軽く返す。

 

それ以上はしなかった。

 

まだ、誰も大きな声を出していない。

薬品棚の瓶と、机に置かれた大鍋だけが、先に授業を始めているようだった。

 

やがて、扉が閉まった。

 

音は大きくない。

それでも、どこかの机で動いていた羽根ペンが止まった。

 

スネイプ教授が入ってきた。

 

黒いローブ。

黒い髪。

細く、音の少ない歩き方。

ただ歩いているだけなのに、教室の温度が一段下がったように感じる。

 

怖い教師、というだけでは足りない。

 

クィレル教授の恐怖は、空気を乱した。

スネイプ教授の存在は、空気を切った。

 

彼は教卓の前に立ち、生徒たちを見渡した。

急がない。

誰かを笑わせるつもりも、安心させるつもりもない。

その沈黙だけで、机の上の道具まで姿勢を正したように見えた。

 

授業が始まる、というより。

 

査定が始まる。

 

そう感じた。

 

「ここでは、魔法薬の繊細な調合と、正確な煮沸の技術を学ぶ」

 

低い声だった。

 

教室の後ろまで届く。

怒鳴ってはいない。

しかし、聞き逃す余地がない。

 

「杖を振り回すような馬鹿げた真似は、ほとんど必要ない。だから諸君の多くは、この静かで精妙な魔法を理解できないだろう」

 

スネイプ教授の視線が、机の上の鍋を一つずつなぞるように動いた。

 

「正しく扱えば、名声を瓶詰めにし、栄光を醸し、死にさえ栓をすることができる。もっとも、諸君が普段わたしの教えている連中より、少しはましならばの話だが」

 

何人かの生徒が背筋を伸ばした。

 

ケイも、喉を鳴らさないように唾を飲み込んでいる。

 

机上の大鍋は、まだ冷たい。

だが、スネイプ教授の言葉が落ちたあとでは、ただの金属容器には見えなくなっていた。

 

調合。

煮沸。

瓶詰め。

醸造。

栓をする。

 

どれも、結果だけを呼び出す言葉ではない。

 

刻む。

量る。

加える。

熱する。

待つ。

変わる。

 

魔法薬学なら、変化の過程を追える。

そう思った。

 

スネイプ教授の視線が、突然ハリーで止まった。

 

「ポッター」

 

教室の空気が、そこで変わる。

 

ハリーの肩が小さく固まる。

ロンの顔が一瞬だけこちらを向き、すぐにスネイプ教授へ戻った。

 

「アスフォデルの粉末に、ニガヨモギの浸出液を加えると、何になる?」

 

問いが落ちてから、ハーマイオニーの手が上がった。

 

早い。

迷いがない。

 

生ける屍の水薬。

 

その名は、エリアスも知っている。

教科書の後ろの方に、短く載っていた。

強い眠りをもたらす薬。

ただし、調合の詳細まではない。

一年生の初回で扱う内容ではない。

 

ハリーは口を開き、すぐ閉じた。

 

「分かりません」

 

無理もない。

 

問題は、ハリーが答えられないことではない。

なぜ、今それを問うのか。

なぜ、手を上げている者ではなく、黙っている者へ向けるのか。

 

質問の形をしている。

だが、知識確認としては噛み合っていない。

 

ハリーの答えに、スリザリン側の何人かが、小さく笑った。

 

マルフォイは隠そうともしなかった。

隣の二人も、それに合わせて肩を揺らしている。

 

だが、笑いは寮全体へ均一に広がったわけではない。

 

ザビニは口元だけを動かした。

声にはしない。

 

ロウルは羊皮紙へ視線を落としたままだった。

何も見ていないふりをしている。

しかし、羽根ペンの先は動いていない。

 

ケイも少し笑った。

けれど、周囲より一拍遅い。

周囲に遅れて、合わせたような笑いだった。

 

女子の列では、ダフネ・グリーングラスが表情を変えずに前を見ていた。

 

スネイプ教授は続ける。

 

「では、ベゾアール石はどこから得られ、何に使う?」

 

ハーマイオニーの手が、また上がった。

 

スネイプ教授の視線は動かない。

 

ハリーは机の上を見た。

答えは、そこにはない。

 

「分かりません」

「では、モンクスフードとウルフスベーンの違いは?」

 

ハリーの顔が少し赤くなる。

ロンの手が、机の下で握られているのが見えた。

ハーマイオニーの腕は、ほとんど痛そうなほど上がっている。

 

それでも、スネイプ教授はそちらを見なかった。

 

「……分かりません」

「やれやれ。名声だけでは、どうにもならんようだな」

 

スリザリン席から、抑えた笑いが広がった。

 

マルフォイは隠そうともしなかった。

隣の二人も、それに合わせて肩を揺らしている。

 

ベゾアール。

モンクスフード。

ウルフスベーン。

 

どれも、エリアスは名前を知っている。

 

ベゾアールは、有名な解毒素材として教科書の前の方に載っていた。

モンクスフードとウルフスベーンも、危険植物の項目で触れられている。

 

索引まで潰さなくても、丁寧に予習していれば目に入る範囲ではある。

 

だが、初回の一年生全員へ向ける問いとしては、順番がおかしい。

 

答えられる生徒はいる。

にもかかわらず、答えられない生徒へ問いが向かい続けている。

 

知識を確かめるためではない。

知らないことを晒すための問いに見えた。

 

 

 

エリアスは静かに手を上げた。

 

その動きに、スリザリン側の笑いが少しだけ弱まった。

 

スネイプ教授の視線が、初めてハリーから外れる。

 

黒い目がこちらを向いた。

 

「……ミスター・レン」

 

「アスフォデルの粉末とニガヨモギの浸出液から作られるのは、生ける屍の水薬です。強い眠りをもたらす薬だと記載されています」

 

エリアスは一拍置いた。

 

「ただ、詳細な調合工程までは載っていませんでした」

 

教室が静まる。

 

スネイプ教授の目が、わずかに細くなった。

 

その沈黙は短い。

だが、こちらの返答のどこを切り分けるか測っているようだった。

 

「ベゾアール石は、ヤギの胃から取れる石です。多くの毒に対する解毒に用いられます」

 

ハーマイオニーの腕が、ゆっくり下がる。

 

「モンクスフードとウルフスベーンは、同じ植物を指す別名です。アコナイトとも呼ばれます」

 

スネイプ教授は、すぐには何も言わなかった。

 

褒める気配はない。

驚いた様子もない。

ただ、答えそのものではなく、答えた者を測っているような沈黙だった。

 

「教科書は読んできたようだな」

「はい」

「ならば、読んだことと、扱えることの違いも覚えておくことだ」

 

冷たい声だった。

だが、先ほどハリーへ向けていたものとは違う。

 

切り捨てるためではない。

釘を刺すための声だった。

 

「スリザリンに五点」

 

マルフォイがハリーの方を見て、口元を歪めた。

ザビニは短く口笛を鳴らし、ロウルは何も言わず羽根ペンを動かした。

 

エリアスは手を下ろした。

 

「他の者はなぜ今のやり取りを記録しない?」

 

空気が跳ねた。

 

羽根ペンが一斉に動く。

インク瓶が鳴り、羊皮紙を擦る音が教室へ広がった。

 

ハーマイオニーは、最初から書き取っていたらしい。

すでに次の行へ入っている。

 

ロンは慌ててインクをこぼしかけ、ハリーは半拍遅れて羽根ペンを掴んだ。

 

スネイプ教授は、それを見もしなかった。

 

 

 

 


 

 

 

 

スネイプ教授は、ようやく黒板へ向き直った。

 

「今日作るのは、おできを治す薬だ」

 

杖の先が黒板へ向く。

材料と手順が、細い字で次々に刻まれていった。

 

乾燥イラクサ。

蛇の牙。

ツノナメクジ。

ヤマアラシの針。

水。

火加減。

投入順。

攪拌。

 

教室のあちこちで、椅子の脚が小さく鳴った。

 

ケイが大鍋を見て、鞄の紐を握り直す。

 

「本当にやるんだ」

「魔法薬学ですから」

 

ロウルが言った。

だが、声は少し硬い。

 

ザビニは大鍋を見て、こちらに目を向けた。

 

「組むなら、レンでいいか」

「構わない」

「じゃ、爆発しない方向で頼む」

「爆発させる予定はない」

「予定は、な」

 

ザビニはそう言いながらも、道具を手元に寄せた。

無駄口はある。

だが、手は止めない。

 

材料皿が机に並ぶ。

 

白い牙。

乾いた葉。

湿ったナメクジ。

硬い針。

小瓶の水。

 

乾燥イラクサは軽く、指で触れると葉の端が細かく割れた。

蛇の牙は白く硬い。

ツノナメクジは、皿の上で冷たく湿っている。

ヤマアラシの針は乾いていて、見た目より軽い。

 

この針だけは、まだ鍋に近づけない。

 

火にかけたまま入れれば、反応が跳ねる。

教科書の注意書きは短かった。

だが、短い注意ほど危険なことがある。

 

ザビニがナメクジの皿を少し遠ざけた。

 

「これ、本当に入れるのか」

「入れる」

「薬ってもっと上品なものだと思ってた」

「効果に上品さは関係ない」

「言い切るなよ」

 

近くの机で、誰かが乳鉢を強く叩きすぎた。

ごん、と鈍い音が響き、スネイプ教授の視線が飛ぶ。

 

「砕くのであって、殺すのではない」

 

教室の空気が縮む。

ザビニは小さく笑った。

 

「殺す前提の音だったな」

「手元を見ろ」

「見てるよ」

 

鍋へ水を入れる。

 

底が隠れる。

少し揺らすと、鈍い銀色の鍋肌が水の下で歪んだ。

多すぎない。

だが、火を受ければすぐに底を晒すほど少なくもない。

 

火をつけると、ピューターの鍋肌がじわりと温まり始めた。

地下の冷気の中で、鍋の上だけ空気が薄く揺れる。

水面はまだ静かだ。

やがて、鍋底に銀色の小さな泡が出る。

 

泡の縁が、少し荒い。

 

火を少し落とす。

 

「もう火を変えるのか」

 

ザビニが聞いた。

 

「泡が荒い」

「泡を見る授業なのか?」

「薬を見る授業だ」

「なるほど。お前もう鍋と会話してるだろ」

 

答えずに、乾燥イラクサを軽く砕いた。

 

葉を潰しすぎない。

塊のままだと抽出にむらが出る。

細かすぎると、濁りが早く出る可能性がある。

 

熱い水へ落とす。

 

乾いた葉が、湯の中でゆっくり開いた。

ぱち、と小さな音がする。

青臭い薬草の匂いが立ち上がり、湯気に混ざって鼻の奥へ届いた。

透明だった水に、薄い緑が差す。

 

液体が、ただの水ではなくなっていく。

 

遠くの机で、誰かが咳き込んだ。

焦げではない。

イラクサを一気に入れすぎた匂いだ。

スネイプ教授の声が、すぐに飛ぶ。

 

「鍋へ投げ込むな。慎重に素材を扱え」

 

声の先で、一人の生徒が慌てて木杓子を握り直した。

 

ザビニが蛇の牙を手に取る。

 

「これ、どのくらい細かくするんだ?」

「粗い粒が残ると溶け方にばらつきが出る。粉にしすぎても、最初だけ反応が強くなる。教科書の図に近い粒度でいい」

「図に近い粒度、ね」

 

ザビニは牙を乳鉢へ入れた。

 

「お前、料理でもそんなこと言うのか」

「料理は知らない」

「だろうな」

 

乳棒が石の内側で鳴る。

 

ごり、ごり。

 

乾いた硬い音。

砕けた牙の粉が、乳鉢の内側に白く貼りついていく。

ザビニの手元が、音に合わせてわずかに沈む。

少し粗い粒が残る。

 

「もう少し」

「はいはい」

 

ごり。

 

音が少し軽くなる。

粉の抵抗が減った。

 

「このくらいか」

「いい」

「ようやく褒めた?」

「判定しただけだ」

「可愛げないな」

 

粉末を少量ずつ鍋へ落とす。

 

液面に白い粉が散る。

すぐに溶け、泡の縁が細かくなった。

薄い緑が、青みを帯びる。

匂いが少し重くなる。

ただの薬草臭ではなく、乾いた骨粉に似た匂いが熱に溶けた。

 

鍋底の音が変わった。

 

泡が細かく弾ける音の間隔が、少しだけ詰まっている。

 

「今の音、やばいのか?」

 

ザビニが聞いた。

 

「まだ違う。反応が進んだだけだ」

「やばい音もあるんだな」

「ある」

 

その答えに、ザビニはほんの少しだけ鍋から距離を取った。

 

教室全体が、低い音で満たされていく。

 

ぶくぶく。

ごり、ごり。

金属が机に当たる音。

誰かの小さな悲鳴。

スネイプ教授の低い声。

 

自分の鍋は、手順に従って変わっている。

 

火を落とせば、泡は細かくなる。

蛇の牙を加えれば、液の色は青みを帯びる。

攪拌の速さを揃えれば、液面の乱れも収まる。

 

行った処理が、次の変化として返ってくる。

 

ツノナメクジを刻む番だった。

 

ナイフを入れると、刃に粘液が絡む。

冷たい。

湿っている。

切るというより、押し分ける感触に近い。

潰しすぎれば粘液が多く出る。

大きすぎれば、熱の入り方にむらが出る。

 

ザビニは皿の中身を見て、口元を引きつらせた。

 

「これはお前がやれ」

「さっきから僕がやっている」

「助かる」

 

隣の机から、ぬるりと何かが床へ落ちる音がした。

ケイの肩が跳ねる。

落ちたナメクジを拾おうとした生徒の手が止まる。

 

スネイプ教授の声が飛んだ。

 

「床へ落ちた素材を鍋へ戻すつもりなら、その薬は君が飲むことになる」

 

生徒の手が引っ込む。

 

ザビニが小さく言った。

 

「説得力あるな」

「ある」

 

刻んだナメクジを、攪拌しながら投入する。

 

液体が重くなった。

 

木杓子へ返る抵抗が変わる。

さらさらと回っていた液が、鍋の縁で遅れる。

表面にとろみが出て、湯気も少し重い。

青緑が濃く沈む。

 

匂いも変わる。

湿った生臭さが薬草臭に混ざり、地下教室の空気をさらに厚くした。

 

「うわ」

 

ザビニが低く言った。

 

「今のは、かなり薬っぽくなくなった」

「薬は飲みやすさで決まらない」

「その理屈、食事には使うなよ」

 

攪拌を続ける。

 

時計回り。

回数を数える。

速度を一定にする。

鍋の中央だけでなく、縁に残る成分を巻き込む。

 

途中で止めると、粘りが底へ沈む。

強く回しすぎると、泡が荒れる。

ゆっくりすぎると、温度差が出る。

 

周囲の鍋でも変化が始まっていた。

 

泡が大きすぎる鍋。

焦げに寄った匂い。

濁りが強すぎる液。

途中で攪拌方向が変わった机。

 

どれも、鍋の方に先に出る。

 

スネイプ教授は、机の間を滑るように移動していた。

 

足音は少ない。

だが、止まる先には必ず乱れた鍋がある。

 

「火が強すぎる」

「刻み方が粗い」

「その順番では濁る」

「鍋を見ろ。教科書を見る前に鍋を見ろ」

 

言葉は冷たい。

だが、指摘は鍋の状態から外れていない。

 

泡。

色。

匂い。

火加減。

刻み方。

投入の順番。

 

スネイプ教授の視線は、そこを外さない。

 

優しい教師には見えない。

それでも、薬液のどこが崩れているかは見逃していなかった。

 

煮込みに入ると、教室の緊張は少し種類を変えた。

 

待つ時間だった。

だが、何もしない時間ではない。

 

液面を見る。

泡を見る。

鍋縁の付着を見る。

匂いを見る。

鍋底から返る熱を見る。

 

薬液は、静かに変わり続けている。

 

ザビニは木杓子を持ったまま、横目でこちらを見た。

 

「待つだけでも忙しいんだな」

「待つから忙しい」

「また変なこと言ってる」

「変化が遅い時ほど、見逃すと戻せない」

 

ザビニは、少しだけ真面目な顔で鍋を覗いた。

 

その時、教室の反対側で、泡の音が変わった。

 

鋭い。

過熱ではない。

反応が跳ねた音。

 

視線がそちらへ行く。

 

ネビル・ロングボトムの鍋だった。

 

液面の泡が大きく、重い。

濁りが強すぎる。

鍋底から上がる反応が不規則だ。

火はまだ落ちていない。

 

横に置かれたヤマアラシの針へ、ネビルの手が伸びる。

 

違う。

 

まだ火から下ろしていない。

 

「入れるな!」

 

声が出た。

 

ネビルの手が止まる。

だが、止まりきらなかった。

指先が針を弾き、数本が鍋の縁を越えた。

 

液面が持ち上がる。

針が沈む。

熱が残ったまま、反応が噛み合う。

 

次の瞬間、飛沫が弾けた。

 

悲鳴。

 

薬液が飛び、ネビルの腕や顔に赤く腫れたおできが浮かび始める。

周囲の生徒が椅子を引く音が重なる。

ロンが何か叫んだ。

ハリーが立ち上がりかける。

 

その時にはもう、スネイプ教授が動いていた。

 

黒いローブが翻る。

彼はネビルの鍋へ歩いたのではない。

切り込むように近づいた。

 

「離れろ!」

 

低い声が教室を裂いた。

 

スネイプ教授は鍋を危険な角度から遠ざけ、火を止め、近くの生徒を下がらせた。

無駄がない。

声は冷たい。

だが、判断は速い。

 

「ロングボトム、貴様は今すぐ治療室へ行け」

 

ネビルは震えていた。

顔には痛みで涙が浮かんでいる。

近くの生徒が支える。

 

スネイプ教授の視線が、ハリーへ向いた。

 

「ポッター、お前はなぜ注意しなかった?」

 

ハリーの顔が固まる。

 

「ロングボトムが失敗すれば、少しは自分が良く見られるとでも思ったか?」

「僕は――」

「グリフィンドールから五点減点」

 

ハリーがネビルの隣にいたことは事実だ。

だが、原因を作ったわけではない。

 

順番。

温度。

火から下ろす前に入ったヤマアラシの針。

 

事故の筋は、鍋に残っている。

スネイプ教授がそれを読めないはずがない。

 

それでも、減点した。

 

私情が混ざっているように見える。

理由は分からない。

ハリーの何が、あの男の視線をあそこまで冷たくするのかは読めない。

 

ただ、正しい評価ではない。

 

ハーマイオニーは顔を赤くし、唇を強く結んでいた。

ロンの手が机の端を掴む。

ハリーは口を開きかけ、結局何も言わなかった。

 

スリザリン側から、小さな笑いが起きる。

 

マルフォイ周辺だけが、露骨だった。

それ以外は、薄い笑いが少し遅れて広がる。

 

ザビニは笑わなかった。

 

「今のは、ひどいな」

 

声は小さい。

エリアスにだけ届く程度だった。

 

ロウルは鍋から目を離さず、低く言った。

 

「口に出すべきではありません」

「分かってるよ」

 

ケイは何も言わなかった。

ただ、自分の鍋を見つめる手が少し震えている。

 

スネイプ教授を見る。

 

危険に気づくのは速い。

処置も迷わない。

薬液のどこで失敗したのかも、見誤っていない。

 

薬学者としては、疑いようがない。

それでも、教育者としては好きになれそうになかった。

 

 

 


 

 

 

 

実習は再開された。

 

教室の空気は、さっきより硬い。

生徒たちは、鍋をよく見るようになった。

少なくとも、薬液から目を離す者は減った。

 

スネイプ教授は、巡回を続ける。

 

ザビニが小声で言った。

 

「続けるのか」

「続ける」

「根性あるな」

「ここで止める方が危ない。火は落とした。次は針を入れる前に鍋を火から下ろす」

 

「了解」

 

ザビニは、今度は軽口を挟まなかった。

 

自分たちの鍋へ戻る。

 

色は淡い。

濁りは許容範囲。

泡は細かい。

匂いは少し青いが、焦げではない。

液面は鈍く光っている。

 

火から下ろす。

 

鍋底の音が、少しずつ静まる。

ぶくぶくという低い音が遠のき、表面の泡が小さく痩せていく。

熱はまだ残っている。

ここで急ぐと同じことになる。

 

一拍置く。

 

まだ早い。

 

もう一拍。

 

ザビニが黙ってこちらを見る。

 

「今?」

「まだ」

 

鍋縁の泡が消える。

湯気の勢いが落ちる。

薬液の表面が、ゆっくり重くなる。

 

「今」

 

ヤマアラシの針を入れる。

 

針は液面に触れ、静かに沈んだ。

小さな泡が鍋の縁へ集まり、すぐに消える。

刺激臭が薄れ、色が落ち着く。

濃い緑が、澄んだ青緑へ寄っていった。

 

スネイプ教授が横に立っていた。

 

黒い袖が、視界の端に入るまで気づかなかった。

 

彼は鍋を覗き込む。

次に、刻まれた材料の残りを見る。

乳鉢の粉の粗さを見る。

最後に、こちらの羊皮紙へ目を落とした。

 

「手順は読んでいるようだな」

 

褒め言葉には聞こえなかった。

 

「はい」

 

「読んだだけで満足する者は、薬学には向かない。鍋を見ろ。教科書ではなく、反応を見ろ」

 

「見ています」

 

スネイプ教授の視線が、そこで初めて少しだけ止まった。

 

言い返したと思われたかもしれない。

だが、事実だった。

 

見ている。

泡。色。匂い。粘度。温度。鍋底の反応。

すべて、見ている。

 

スネイプ教授は、鍋へ視線を戻した。

 

「なら、続けろ」

 

それだけだった。

 

ザビニが小さく息を吐いた。

 

「生き残ったな」

「授業中だ」

「そういう意味じゃない」

 

ロウルが別の机からこちらを見ていた。

短くうなずく。

ケイは、まだ自分の鍋とスネイプ教授の背中を交互に見ていた。

 

最後は濾過だった。

 

漉し布を漏斗へ固定する。

熱すぎれば布が痛む。

冷めすぎれば粘度が上がり、落ちが悪くなる。

 

小瓶を押さえるザビニの指先が、少しだけ緊張している。

 

「こぼしたら?」

「減点だろう」

「そこは否定しろよ」

 

薬液を流す。

 

ぽた、ぽた、と音がする。

最初の数滴は濃い。

続いて、滑らかな青緑が糸のように落ちた。

残渣が布に溜まり、匂いが少し柔らかくなる。

小瓶はじんわり温かい。

 

教室のあちこちでも、同じ音がしていた。

 

ぽた。

ぽた。

誰かの瓶が机へ当たる音。

別の机で、薬液をこぼしたらしい短い悲鳴。

スネイプ教授の冷たい減点の声。

 

エリアスとザビニの薬は、淡い青緑で、濁りは少ない。

教科書の挿絵にかなり近い。

 

スネイプ教授は瓶を見た。

 

光に透かす。

粘度を見る。

瓶底に残る濁りを確かめる。

 

「……悪くない」

 

短い沈黙のあと、瓶を机へ戻す。

 

「スリザリンに二点」

 

それだけ告げて、次の瓶へ移った。

 

特段、褒められたわけではない。

だが、薬は評価された。

 

実践した工程と結果が確実につながった。

 

その事実だけが、小瓶の底に残った淡い青緑よりもはっきり残っていた。

 

 

 

 


 

 

 

 

授業が終わる頃、地下教室の空気は最初より重くなっていた。

薬品の匂い、火の匂い、失敗した鍋の焦げた匂い。

そして、誰も口にしない緊張。

 

ハリーはロンと一緒に道具を片づけていた。

口元を引き結んだまま、鍋から目を離さない。

ハーマイオニーは羽根ペンを握ったまま、結局、教科書を閉じた。

ネビルの席は空いている。

 

スネイプ教授は教卓の前で羊皮紙を整理している。

黒い袖から出た手は、細く、迷いがなかった。

 

危険に気づくのは速い。

処置も正確だった。

薬液のどこで失敗したのかも、見誤っていない。

 

ただ、その正確さが、必ず生徒を守る方へ向くとは限らない。

 

ザビニが横で言った。

 

「レン」

「何だ」

「次も組むか」

「構わない」

「じゃあ、次も爆発しない方向で」

「努力する」

「そこは断言しろよ」

 

地下廊下に、ザビニの小さな笑いが落ちる。

 

振り返らなかった。

 

背後の教室には、まだ薬品と火の匂いが残っている。

乳鉢の硬い音も、鍋底の小さな泡の音も、指に残るナメクジの冷たさも、まだ消えていない。

 

火を落とせば、泡が変わった。

材料を加えれば、色が変わった。

攪拌を揃えれば、液面が落ち着いた。

 

処理が、結果として返ってくる。

 

魔法薬学には、それがあった。

 

地下の冷気を吸い込む。

喉の奥に、薬草と焦げの匂いが薄く残った。

 

近づけるものほど、深く入り込める。

 

その近さだけが、いつまでも舌の奥に苦く残っていた。

 

 

 

 

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