金曜の朝、地下へ向かう階段は、妙に冷たかった。
ホグワーツの城内は、数日経ってもまだ地図にならない。
動く階段。笑う肖像画。曲がった先で変わる廊下。こちらを試すように開く近道。
それでも、朝の移動には少しずつ型ができていた。
スリザリンの一年生たちは、地下へ向かう時だけ足取りが落ち着く。
上へ向かう時よりも迷いが少ない。
湖の気配と湿った石の匂いが、寮から教室へ続く道筋を薄く示している。
ザビニは、肩に鞄をかけたまま、欠伸を噛み殺していた。
「金曜の朝から地下か」
「寮も地下です」
「だから余計にだよ。朝くらい、窓が欲しいだろ」
ケイは鞄を抱え直しながら、階段の下を見た。
「魔法薬学って、スネイプ教授だよね」
声が少し硬い。
クィレル教授の授業は、不気味だった。
匂いがあり、恐怖があり、術者自身の揺れがあった。
ただ、授業の中身には筋があった。
恐怖。呼吸。発声。杖圧。魔力流動。
人間側の崩れを観測できた。
魔法薬学は、さらに違うはずだった。
素材がある。
順序がある。
温度がある。
時間がある。
投入し、刻み、加熱し、待つ。
呪文学では、杖が返事を遅らせた。
変身術では、世界が先に答えを出した。
闇の魔術に対する防衛術では、術者自身が揺れた。
魔法薬学なら、変化の過程を追える。
それだけで、呼吸が少し楽になる。
「スネイプ教授は、厳しいと聞いています」
「誰から?」
ザビニが聞く。
「上級生からです。課題の分量、失敗時の減点、作業中の私語への対応。それから、グリフィンドールには特に厳しい、と」
「最後のはありがたい話じゃん」
ザビニは軽く言った。
ロウルは目だけで咎める。
「公平性の問題です」
「スリザリンが言うと説得力あるな」
「ザビニ」
「はいはい」
ケイは二人のやり取りを聞きながら、鞄の紐を握り直した。
「失敗したら、爆発とかするのかな」
「可能性はあります」
ロウルが真面目に答えた。
「そこは嘘でも、しないって言ってほしかった」
「薬学で嘘は危険です」
それは正しい。
薬は、失敗しても失敗の形が残る。
色。匂い。粘度。温度。泡。沈殿。
兆候が出る。
原因がある。
変化の跡が残る。
まともであることと、安全であることは違う。
それでも、追える可能性がある。
地下へ降りるほど、空気は冷たく湿っていった。
石壁は湿っている。
廊下の燭台には小さな炎が揺れ、床には薄い冷気が溜まっていた。
DADAの教室のような、匂いで呼吸を拒ませる不快感ではない。
乾燥した根。
粉砕された鉱物。
金属器具。
古い水。
火にかける前の鍋の匂い。
教室の扉は重かった。
中へ入ると、冷気がさらに濃くなる。
地下教室には、長い机が並んでいた。
各席に大鍋、秤、ナイフ、すり鉢、乳棒、小皿が置かれている。
壁際の棚には、瓶がずらりと並んでいた。
液体に沈んだもの。
乾燥したもの。
粉末。
硬い塊。
ラベルの文字は古く、けれど整っている。
薬品臭。
乾いた素材。
金属。
火を使う前の、冷えた鉄。
棚の瓶は、どれも同じ向きに並んでいた。
刃物は机の端に寄せられ、鍋の下には火を受けるだけの空間が空いている。
危ないものほど、置き場所が決まっている。
鍋と火の距離。
素材置き場と作業面の距離。
水場までの動線。
教師が全体を見渡せる位置。
視線を動かすほど、机の並びがただの整列ではないことが分かる。
ここは、失敗しないためだけの場所ではない。
失敗した時、すぐに分かるように作られている。
「お、グリフィンドールもいる」
ザビニが小さく言った。
教室の反対側に、ハリーとロンがいた。
二人ともローブの襟元を気にしている。
ハリーは棚の瓶を見て、少し顔をこわばらせていた。
ロンは口をへの字に曲げ、棚の瓶から目を逸らしていた。
ハーマイオニーはすでに教科書を開き、机の上に道具を整えている。
その手は早い。
羽根ペン、教科書、秤。
一つ置くたびに、位置を確かめるように指先が止まる。
ハリーがこちらに気づいた。
目が合うと、小さくうなずく。
こちらも軽く返す。
それ以上はしなかった。
まだ、誰も大きな声を出していない。
薬品棚の瓶と、机に置かれた大鍋だけが、先に授業を始めているようだった。
やがて、扉が閉まった。
音は大きくない。
それでも、どこかの机で動いていた羽根ペンが止まった。
スネイプ教授が入ってきた。
黒いローブ。
黒い髪。
細く、音の少ない歩き方。
ただ歩いているだけなのに、教室の温度が一段下がったように感じる。
怖い教師、というだけでは足りない。
クィレル教授の恐怖は、空気を乱した。
スネイプ教授の存在は、空気を切った。
彼は教卓の前に立ち、生徒たちを見渡した。
急がない。
誰かを笑わせるつもりも、安心させるつもりもない。
その沈黙だけで、机の上の道具まで姿勢を正したように見えた。
授業が始まる、というより。
査定が始まる。
そう感じた。
「ここでは、魔法薬の繊細な調合と、正確な煮沸の技術を学ぶ」
低い声だった。
教室の後ろまで届く。
怒鳴ってはいない。
しかし、聞き逃す余地がない。
「杖を振り回すような馬鹿げた真似は、ほとんど必要ない。だから諸君の多くは、この静かで精妙な魔法を理解できないだろう」
スネイプ教授の視線が、机の上の鍋を一つずつなぞるように動いた。
「正しく扱えば、名声を瓶詰めにし、栄光を醸し、死にさえ栓をすることができる。もっとも、諸君が普段わたしの教えている連中より、少しはましならばの話だが」
何人かの生徒が背筋を伸ばした。
ケイも、喉を鳴らさないように唾を飲み込んでいる。
机上の大鍋は、まだ冷たい。
だが、スネイプ教授の言葉が落ちたあとでは、ただの金属容器には見えなくなっていた。
調合。
煮沸。
瓶詰め。
醸造。
栓をする。
どれも、結果だけを呼び出す言葉ではない。
刻む。
量る。
加える。
熱する。
待つ。
変わる。
魔法薬学なら、変化の過程を追える。
そう思った。
スネイプ教授の視線が、突然ハリーで止まった。
「ポッター」
教室の空気が、そこで変わる。
ハリーの肩が小さく固まる。
ロンの顔が一瞬だけこちらを向き、すぐにスネイプ教授へ戻った。
「アスフォデルの粉末に、ニガヨモギの浸出液を加えると、何になる?」
問いが落ちてから、ハーマイオニーの手が上がった。
早い。
迷いがない。
生ける屍の水薬。
その名は、エリアスも知っている。
教科書の後ろの方に、短く載っていた。
強い眠りをもたらす薬。
ただし、調合の詳細まではない。
一年生の初回で扱う内容ではない。
ハリーは口を開き、すぐ閉じた。
「分かりません」
無理もない。
問題は、ハリーが答えられないことではない。
なぜ、今それを問うのか。
なぜ、手を上げている者ではなく、黙っている者へ向けるのか。
質問の形をしている。
だが、知識確認としては噛み合っていない。
ハリーの答えに、スリザリン側の何人かが、小さく笑った。
マルフォイは隠そうともしなかった。
隣の二人も、それに合わせて肩を揺らしている。
だが、笑いは寮全体へ均一に広がったわけではない。
ザビニは口元だけを動かした。
声にはしない。
ロウルは羊皮紙へ視線を落としたままだった。
何も見ていないふりをしている。
しかし、羽根ペンの先は動いていない。
ケイも少し笑った。
けれど、周囲より一拍遅い。
周囲に遅れて、合わせたような笑いだった。
女子の列では、ダフネ・グリーングラスが表情を変えずに前を見ていた。
スネイプ教授は続ける。
「では、ベゾアール石はどこから得られ、何に使う?」
ハーマイオニーの手が、また上がった。
スネイプ教授の視線は動かない。
ハリーは机の上を見た。
答えは、そこにはない。
「分かりません」
「では、モンクスフードとウルフスベーンの違いは?」
ハリーの顔が少し赤くなる。
ロンの手が、机の下で握られているのが見えた。
ハーマイオニーの腕は、ほとんど痛そうなほど上がっている。
それでも、スネイプ教授はそちらを見なかった。
「……分かりません」
「やれやれ。名声だけでは、どうにもならんようだな」
スリザリン席から、抑えた笑いが広がった。
マルフォイは隠そうともしなかった。
隣の二人も、それに合わせて肩を揺らしている。
ベゾアール。
モンクスフード。
ウルフスベーン。
どれも、エリアスは名前を知っている。
ベゾアールは、有名な解毒素材として教科書の前の方に載っていた。
モンクスフードとウルフスベーンも、危険植物の項目で触れられている。
索引まで潰さなくても、丁寧に予習していれば目に入る範囲ではある。
だが、初回の一年生全員へ向ける問いとしては、順番がおかしい。
答えられる生徒はいる。
にもかかわらず、答えられない生徒へ問いが向かい続けている。
知識を確かめるためではない。
知らないことを晒すための問いに見えた。
エリアスは静かに手を上げた。
その動きに、スリザリン側の笑いが少しだけ弱まった。
スネイプ教授の視線が、初めてハリーから外れる。
黒い目がこちらを向いた。
「……ミスター・レン」
「アスフォデルの粉末とニガヨモギの浸出液から作られるのは、生ける屍の水薬です。強い眠りをもたらす薬だと記載されています」
エリアスは一拍置いた。
「ただ、詳細な調合工程までは載っていませんでした」
教室が静まる。
スネイプ教授の目が、わずかに細くなった。
その沈黙は短い。
だが、こちらの返答のどこを切り分けるか測っているようだった。
「ベゾアール石は、ヤギの胃から取れる石です。多くの毒に対する解毒に用いられます」
ハーマイオニーの腕が、ゆっくり下がる。
「モンクスフードとウルフスベーンは、同じ植物を指す別名です。アコナイトとも呼ばれます」
スネイプ教授は、すぐには何も言わなかった。
褒める気配はない。
驚いた様子もない。
ただ、答えそのものではなく、答えた者を測っているような沈黙だった。
「教科書は読んできたようだな」
「はい」
「ならば、読んだことと、扱えることの違いも覚えておくことだ」
冷たい声だった。
だが、先ほどハリーへ向けていたものとは違う。
切り捨てるためではない。
釘を刺すための声だった。
「スリザリンに五点」
マルフォイがハリーの方を見て、口元を歪めた。
ザビニは短く口笛を鳴らし、ロウルは何も言わず羽根ペンを動かした。
エリアスは手を下ろした。
「他の者はなぜ今のやり取りを記録しない?」
空気が跳ねた。
羽根ペンが一斉に動く。
インク瓶が鳴り、羊皮紙を擦る音が教室へ広がった。
ハーマイオニーは、最初から書き取っていたらしい。
すでに次の行へ入っている。
ロンは慌ててインクをこぼしかけ、ハリーは半拍遅れて羽根ペンを掴んだ。
スネイプ教授は、それを見もしなかった。
スネイプ教授は、ようやく黒板へ向き直った。
「今日作るのは、おできを治す薬だ」
杖の先が黒板へ向く。
材料と手順が、細い字で次々に刻まれていった。
乾燥イラクサ。
蛇の牙。
ツノナメクジ。
ヤマアラシの針。
水。
火加減。
投入順。
攪拌。
教室のあちこちで、椅子の脚が小さく鳴った。
ケイが大鍋を見て、鞄の紐を握り直す。
「本当にやるんだ」
「魔法薬学ですから」
ロウルが言った。
だが、声は少し硬い。
ザビニは大鍋を見て、こちらに目を向けた。
「組むなら、レンでいいか」
「構わない」
「じゃ、爆発しない方向で頼む」
「爆発させる予定はない」
「予定は、な」
ザビニはそう言いながらも、道具を手元に寄せた。
無駄口はある。
だが、手は止めない。
材料皿が机に並ぶ。
白い牙。
乾いた葉。
湿ったナメクジ。
硬い針。
小瓶の水。
乾燥イラクサは軽く、指で触れると葉の端が細かく割れた。
蛇の牙は白く硬い。
ツノナメクジは、皿の上で冷たく湿っている。
ヤマアラシの針は乾いていて、見た目より軽い。
この針だけは、まだ鍋に近づけない。
火にかけたまま入れれば、反応が跳ねる。
教科書の注意書きは短かった。
だが、短い注意ほど危険なことがある。
ザビニがナメクジの皿を少し遠ざけた。
「これ、本当に入れるのか」
「入れる」
「薬ってもっと上品なものだと思ってた」
「効果に上品さは関係ない」
「言い切るなよ」
近くの机で、誰かが乳鉢を強く叩きすぎた。
ごん、と鈍い音が響き、スネイプ教授の視線が飛ぶ。
「砕くのであって、殺すのではない」
教室の空気が縮む。
ザビニは小さく笑った。
「殺す前提の音だったな」
「手元を見ろ」
「見てるよ」
鍋へ水を入れる。
底が隠れる。
少し揺らすと、鈍い銀色の鍋肌が水の下で歪んだ。
多すぎない。
だが、火を受ければすぐに底を晒すほど少なくもない。
火をつけると、ピューターの鍋肌がじわりと温まり始めた。
地下の冷気の中で、鍋の上だけ空気が薄く揺れる。
水面はまだ静かだ。
やがて、鍋底に銀色の小さな泡が出る。
泡の縁が、少し荒い。
火を少し落とす。
「もう火を変えるのか」
ザビニが聞いた。
「泡が荒い」
「泡を見る授業なのか?」
「薬を見る授業だ」
「なるほど。お前もう鍋と会話してるだろ」
答えずに、乾燥イラクサを軽く砕いた。
葉を潰しすぎない。
塊のままだと抽出にむらが出る。
細かすぎると、濁りが早く出る可能性がある。
熱い水へ落とす。
乾いた葉が、湯の中でゆっくり開いた。
ぱち、と小さな音がする。
青臭い薬草の匂いが立ち上がり、湯気に混ざって鼻の奥へ届いた。
透明だった水に、薄い緑が差す。
液体が、ただの水ではなくなっていく。
遠くの机で、誰かが咳き込んだ。
焦げではない。
イラクサを一気に入れすぎた匂いだ。
スネイプ教授の声が、すぐに飛ぶ。
「鍋へ投げ込むな。慎重に素材を扱え」
声の先で、一人の生徒が慌てて木杓子を握り直した。
ザビニが蛇の牙を手に取る。
「これ、どのくらい細かくするんだ?」
「粗い粒が残ると溶け方にばらつきが出る。粉にしすぎても、最初だけ反応が強くなる。教科書の図に近い粒度でいい」
「図に近い粒度、ね」
ザビニは牙を乳鉢へ入れた。
「お前、料理でもそんなこと言うのか」
「料理は知らない」
「だろうな」
乳棒が石の内側で鳴る。
ごり、ごり。
乾いた硬い音。
砕けた牙の粉が、乳鉢の内側に白く貼りついていく。
ザビニの手元が、音に合わせてわずかに沈む。
少し粗い粒が残る。
「もう少し」
「はいはい」
ごり。
音が少し軽くなる。
粉の抵抗が減った。
「このくらいか」
「いい」
「ようやく褒めた?」
「判定しただけだ」
「可愛げないな」
粉末を少量ずつ鍋へ落とす。
液面に白い粉が散る。
すぐに溶け、泡の縁が細かくなった。
薄い緑が、青みを帯びる。
匂いが少し重くなる。
ただの薬草臭ではなく、乾いた骨粉に似た匂いが熱に溶けた。
鍋底の音が変わった。
泡が細かく弾ける音の間隔が、少しだけ詰まっている。
「今の音、やばいのか?」
ザビニが聞いた。
「まだ違う。反応が進んだだけだ」
「やばい音もあるんだな」
「ある」
その答えに、ザビニはほんの少しだけ鍋から距離を取った。
教室全体が、低い音で満たされていく。
ぶくぶく。
ごり、ごり。
金属が机に当たる音。
誰かの小さな悲鳴。
スネイプ教授の低い声。
自分の鍋は、手順に従って変わっている。
火を落とせば、泡は細かくなる。
蛇の牙を加えれば、液の色は青みを帯びる。
攪拌の速さを揃えれば、液面の乱れも収まる。
行った処理が、次の変化として返ってくる。
ツノナメクジを刻む番だった。
ナイフを入れると、刃に粘液が絡む。
冷たい。
湿っている。
切るというより、押し分ける感触に近い。
潰しすぎれば粘液が多く出る。
大きすぎれば、熱の入り方にむらが出る。
ザビニは皿の中身を見て、口元を引きつらせた。
「これはお前がやれ」
「さっきから僕がやっている」
「助かる」
隣の机から、ぬるりと何かが床へ落ちる音がした。
ケイの肩が跳ねる。
落ちたナメクジを拾おうとした生徒の手が止まる。
スネイプ教授の声が飛んだ。
「床へ落ちた素材を鍋へ戻すつもりなら、その薬は君が飲むことになる」
生徒の手が引っ込む。
ザビニが小さく言った。
「説得力あるな」
「ある」
刻んだナメクジを、攪拌しながら投入する。
液体が重くなった。
木杓子へ返る抵抗が変わる。
さらさらと回っていた液が、鍋の縁で遅れる。
表面にとろみが出て、湯気も少し重い。
青緑が濃く沈む。
匂いも変わる。
湿った生臭さが薬草臭に混ざり、地下教室の空気をさらに厚くした。
「うわ」
ザビニが低く言った。
「今のは、かなり薬っぽくなくなった」
「薬は飲みやすさで決まらない」
「その理屈、食事には使うなよ」
攪拌を続ける。
時計回り。
回数を数える。
速度を一定にする。
鍋の中央だけでなく、縁に残る成分を巻き込む。
途中で止めると、粘りが底へ沈む。
強く回しすぎると、泡が荒れる。
ゆっくりすぎると、温度差が出る。
周囲の鍋でも変化が始まっていた。
泡が大きすぎる鍋。
焦げに寄った匂い。
濁りが強すぎる液。
途中で攪拌方向が変わった机。
どれも、鍋の方に先に出る。
スネイプ教授は、机の間を滑るように移動していた。
足音は少ない。
だが、止まる先には必ず乱れた鍋がある。
「火が強すぎる」
「刻み方が粗い」
「その順番では濁る」
「鍋を見ろ。教科書を見る前に鍋を見ろ」
言葉は冷たい。
だが、指摘は鍋の状態から外れていない。
泡。
色。
匂い。
火加減。
刻み方。
投入の順番。
スネイプ教授の視線は、そこを外さない。
優しい教師には見えない。
それでも、薬液のどこが崩れているかは見逃していなかった。
煮込みに入ると、教室の緊張は少し種類を変えた。
待つ時間だった。
だが、何もしない時間ではない。
液面を見る。
泡を見る。
鍋縁の付着を見る。
匂いを見る。
鍋底から返る熱を見る。
薬液は、静かに変わり続けている。
ザビニは木杓子を持ったまま、横目でこちらを見た。
「待つだけでも忙しいんだな」
「待つから忙しい」
「また変なこと言ってる」
「変化が遅い時ほど、見逃すと戻せない」
ザビニは、少しだけ真面目な顔で鍋を覗いた。
その時、教室の反対側で、泡の音が変わった。
鋭い。
過熱ではない。
反応が跳ねた音。
視線がそちらへ行く。
ネビル・ロングボトムの鍋だった。
液面の泡が大きく、重い。
濁りが強すぎる。
鍋底から上がる反応が不規則だ。
火はまだ落ちていない。
横に置かれたヤマアラシの針へ、ネビルの手が伸びる。
違う。
まだ火から下ろしていない。
「入れるな!」
声が出た。
ネビルの手が止まる。
だが、止まりきらなかった。
指先が針を弾き、数本が鍋の縁を越えた。
液面が持ち上がる。
針が沈む。
熱が残ったまま、反応が噛み合う。
次の瞬間、飛沫が弾けた。
悲鳴。
薬液が飛び、ネビルの腕や顔に赤く腫れたおできが浮かび始める。
周囲の生徒が椅子を引く音が重なる。
ロンが何か叫んだ。
ハリーが立ち上がりかける。
その時にはもう、スネイプ教授が動いていた。
黒いローブが翻る。
彼はネビルの鍋へ歩いたのではない。
切り込むように近づいた。
「離れろ!」
低い声が教室を裂いた。
スネイプ教授は鍋を危険な角度から遠ざけ、火を止め、近くの生徒を下がらせた。
無駄がない。
声は冷たい。
だが、判断は速い。
「ロングボトム、貴様は今すぐ治療室へ行け」
ネビルは震えていた。
顔には痛みで涙が浮かんでいる。
近くの生徒が支える。
スネイプ教授の視線が、ハリーへ向いた。
「ポッター、お前はなぜ注意しなかった?」
ハリーの顔が固まる。
「ロングボトムが失敗すれば、少しは自分が良く見られるとでも思ったか?」
「僕は――」
「グリフィンドールから五点減点」
ハリーがネビルの隣にいたことは事実だ。
だが、原因を作ったわけではない。
順番。
温度。
火から下ろす前に入ったヤマアラシの針。
事故の筋は、鍋に残っている。
スネイプ教授がそれを読めないはずがない。
それでも、減点した。
私情が混ざっているように見える。
理由は分からない。
ハリーの何が、あの男の視線をあそこまで冷たくするのかは読めない。
ただ、正しい評価ではない。
ハーマイオニーは顔を赤くし、唇を強く結んでいた。
ロンの手が机の端を掴む。
ハリーは口を開きかけ、結局何も言わなかった。
スリザリン側から、小さな笑いが起きる。
マルフォイ周辺だけが、露骨だった。
それ以外は、薄い笑いが少し遅れて広がる。
ザビニは笑わなかった。
「今のは、ひどいな」
声は小さい。
エリアスにだけ届く程度だった。
ロウルは鍋から目を離さず、低く言った。
「口に出すべきではありません」
「分かってるよ」
ケイは何も言わなかった。
ただ、自分の鍋を見つめる手が少し震えている。
スネイプ教授を見る。
危険に気づくのは速い。
処置も迷わない。
薬液のどこで失敗したのかも、見誤っていない。
薬学者としては、疑いようがない。
それでも、教育者としては好きになれそうになかった。
実習は再開された。
教室の空気は、さっきより硬い。
生徒たちは、鍋をよく見るようになった。
少なくとも、薬液から目を離す者は減った。
スネイプ教授は、巡回を続ける。
ザビニが小声で言った。
「続けるのか」
「続ける」
「根性あるな」
「ここで止める方が危ない。火は落とした。次は針を入れる前に鍋を火から下ろす」
「了解」
ザビニは、今度は軽口を挟まなかった。
自分たちの鍋へ戻る。
色は淡い。
濁りは許容範囲。
泡は細かい。
匂いは少し青いが、焦げではない。
液面は鈍く光っている。
火から下ろす。
鍋底の音が、少しずつ静まる。
ぶくぶくという低い音が遠のき、表面の泡が小さく痩せていく。
熱はまだ残っている。
ここで急ぐと同じことになる。
一拍置く。
まだ早い。
もう一拍。
ザビニが黙ってこちらを見る。
「今?」
「まだ」
鍋縁の泡が消える。
湯気の勢いが落ちる。
薬液の表面が、ゆっくり重くなる。
「今」
ヤマアラシの針を入れる。
針は液面に触れ、静かに沈んだ。
小さな泡が鍋の縁へ集まり、すぐに消える。
刺激臭が薄れ、色が落ち着く。
濃い緑が、澄んだ青緑へ寄っていった。
スネイプ教授が横に立っていた。
黒い袖が、視界の端に入るまで気づかなかった。
彼は鍋を覗き込む。
次に、刻まれた材料の残りを見る。
乳鉢の粉の粗さを見る。
最後に、こちらの羊皮紙へ目を落とした。
「手順は読んでいるようだな」
褒め言葉には聞こえなかった。
「はい」
「読んだだけで満足する者は、薬学には向かない。鍋を見ろ。教科書ではなく、反応を見ろ」
「見ています」
スネイプ教授の視線が、そこで初めて少しだけ止まった。
言い返したと思われたかもしれない。
だが、事実だった。
見ている。
泡。色。匂い。粘度。温度。鍋底の反応。
すべて、見ている。
スネイプ教授は、鍋へ視線を戻した。
「なら、続けろ」
それだけだった。
ザビニが小さく息を吐いた。
「生き残ったな」
「授業中だ」
「そういう意味じゃない」
ロウルが別の机からこちらを見ていた。
短くうなずく。
ケイは、まだ自分の鍋とスネイプ教授の背中を交互に見ていた。
最後は濾過だった。
漉し布を漏斗へ固定する。
熱すぎれば布が痛む。
冷めすぎれば粘度が上がり、落ちが悪くなる。
小瓶を押さえるザビニの指先が、少しだけ緊張している。
「こぼしたら?」
「減点だろう」
「そこは否定しろよ」
薬液を流す。
ぽた、ぽた、と音がする。
最初の数滴は濃い。
続いて、滑らかな青緑が糸のように落ちた。
残渣が布に溜まり、匂いが少し柔らかくなる。
小瓶はじんわり温かい。
教室のあちこちでも、同じ音がしていた。
ぽた。
ぽた。
誰かの瓶が机へ当たる音。
別の机で、薬液をこぼしたらしい短い悲鳴。
スネイプ教授の冷たい減点の声。
エリアスとザビニの薬は、淡い青緑で、濁りは少ない。
教科書の挿絵にかなり近い。
スネイプ教授は瓶を見た。
光に透かす。
粘度を見る。
瓶底に残る濁りを確かめる。
「……悪くない」
短い沈黙のあと、瓶を机へ戻す。
「スリザリンに二点」
それだけ告げて、次の瓶へ移った。
特段、褒められたわけではない。
だが、薬は評価された。
実践した工程と結果が確実につながった。
その事実だけが、小瓶の底に残った淡い青緑よりもはっきり残っていた。
授業が終わる頃、地下教室の空気は最初より重くなっていた。
薬品の匂い、火の匂い、失敗した鍋の焦げた匂い。
そして、誰も口にしない緊張。
ハリーはロンと一緒に道具を片づけていた。
口元を引き結んだまま、鍋から目を離さない。
ハーマイオニーは羽根ペンを握ったまま、結局、教科書を閉じた。
ネビルの席は空いている。
スネイプ教授は教卓の前で羊皮紙を整理している。
黒い袖から出た手は、細く、迷いがなかった。
危険に気づくのは速い。
処置も正確だった。
薬液のどこで失敗したのかも、見誤っていない。
ただ、その正確さが、必ず生徒を守る方へ向くとは限らない。
ザビニが横で言った。
「レン」
「何だ」
「次も組むか」
「構わない」
「じゃあ、次も爆発しない方向で」
「努力する」
「そこは断言しろよ」
地下廊下に、ザビニの小さな笑いが落ちる。
振り返らなかった。
背後の教室には、まだ薬品と火の匂いが残っている。
乳鉢の硬い音も、鍋底の小さな泡の音も、指に残るナメクジの冷たさも、まだ消えていない。
火を落とせば、泡が変わった。
材料を加えれば、色が変わった。
攪拌を揃えれば、液面が落ち着いた。
処理が、結果として返ってくる。
魔法薬学には、それがあった。
地下の冷気を吸い込む。
喉の奥に、薬草と焦げの匂いが薄く残った。
近づけるものほど、深く入り込める。
その近さだけが、いつまでも舌の奥に苦く残っていた。