ようこそ根源があふれた魔法の学校へ   作:shinkyu10

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空を掴む者

 

 

 

 

木曜の午後、校庭には古い箒が一列に並べられていた。

 

空はよく晴れていた。

芝生は乾いている。

遠くで湖が光を返し、城の影が地面の上に長く落ちている。

 

だが、エリアスの視線は空へ向かなかった。

 

足元の箒に止まっていた。

 

学校備品らしい古さがある。

握りの革は擦れ、何人もの手に使われた跡が残っていた。

柄には細かな傷が走っている。

穂先も何本か折れ、先端の長さは完全には揃っていない。

 

それでも、雑ではない。

 

穂先の束ね方。

柄と穂先の接続。

重心の位置。

握った時に手の中で回りすぎない太さ。

傷は多いが、芯が歪んでいるものは少ない。

 

使い古されている。

だが、道具としての形は崩れていなかった。

 

ザビニが隣で箒を見下ろした。

 

「思ったより、ぼろいな」

「古いだけだ」

「違うのか?」

「違う」

 

エリアスは、足元の箒から目を離さなかった。

 

「均衡は崩れていない」

 

ザビニは一瞬だけ黙り、それから口元を動かした。

 

「箒相手に、人間みたいな評価してるな」

「事実だ」

 

ケイは自分の箒の横に立ち、鞄の紐がないことに気づいたように、ローブの袖を握った。

 

「これ、本当に飛ぶんだよね」

「飛ぶから授業になるのでしょう」

 

ロウルが答える。

声は落ち着いているが、背筋は普段より硬い。

 

「地面に置いた箒へ、上がれ、と命じるそうです。上級生はそう言っていました」

 

ケイは箒を見下ろした。

 

「命じて、来なかったら?」

「来るまで言うんじゃないか」

 

ザビニが言った。

 

「来なかったら?」

「恥をかく」

 

ケイの顔が嫌そうに歪む。

 

「落ちるよりはましだけどさ」

 

その時、笛の音が鳴った。

 

マダム・フーチが歩いてくる。

短い灰色の髪。

黄色い目。

歩き方に無駄がない。

 

「全員、箒の左側に立ちなさい。さあ、ぐずぐずしない!」

 

グリフィンドールとスリザリンの一年生たちが、ばらばらに位置を直した。

芝生が靴底で擦れる。

誰かが小さく笑い、別の誰かが息を飲む。

 

ハリーは、向こう側の列にいた。

ロンが隣で何かを言っている。

ハーマイオニーは箒を睨むように見下ろしていた。

ネビルは顔色が悪い。

 

エリアスは一度だけ全体を見たが、すぐ足元へ戻した。

 

今日見るべきものは、まずこれだった。

 

「右手を箒の上へ出して」

 

フーチの声が飛ぶ。

 

「そして、はっきり言う。上がれ!」

 

一斉に声が上がった。

 

「上がれ!」

 

ザビニの箒は、少し間を置いて手元へ跳ねた。

ロウルの箒は、真っ直ぐ上がったが、握られる寸前でわずかに傾いた。

ケイの箒は地面で震え、半分だけ浮きかけて落ちた。

 

「……今、来かけたよね?」

 

ケイが小さく言う。

 

「来かけたな」

 

ザビニが返す。

 

「それ、失敗より悔しくない?」

「もう一度試せばいいだけです」

 

ロウルが静かに言った。

 

エリアスは、自分の右手を箒の上に置いた。

 

命令。

発声。

意図。

距離。

 

杖ではない。

手の中にない。

地面に置かれた道具へ、言葉を投げる。

 

「上がれ」

 

箒は跳ねた。

 

というより、呼びかけへ返事をしたようだった。

 

掌へ柄が収まる。

革の擦れた感触。

古い木の硬さ。

わずかに残る冷たさ。

 

エリアスは握ったまま、しばらく黙った。

 

今、何に反応した。

 

声か。

手か。

意図か。

魔力か。

命令語か。

 

箒は震えていない。

暴れてもいない。

握られた瞬間に、ただ静かになった。

 

杖のように先回りしてこない。

月桂樹の杖が時々見せる、こちらの意図を測るような遅れもない。

だが、ただの棒でもない。

 

呼んだ。

来た。

 

それだけのはずなのに、そこに何かがある。

 

「一回で来たな」

 

ザビニが言った。

 

「来た」

「嬉しそうじゃないのに、嬉しそうだぞ」

「意味が分からない」

「顔じゃなくて、手」

 

ザビニはエリアスの右手を見た。

箒を握る指が、少しだけ強くなっていた。

 

エリアスは力を緩めた。

 

「全員、箒にまたがりなさい。地面を強く蹴ったら、数フィート浮いて、前傾して、ゆっくり戻る。わたしが笛を吹くまで飛び上がらないこと!」

 

フーチの声に、列が少し緊張した。

 

エリアスは箒へまたがった。

 

柄が体重を受けた瞬間、箒の下に薄い反発が生まれた。

地面へ沈まない。

体を支える。

だが、完全には浮いていない。

 

まだ命じていない。

それでも、何かが待機している。

 

エリアスは膝の角度を変えた。

右へ体重を寄せる。

箒がわずかに応じる。

 

戻す。

 

応じる。

 

前へ重心を移す。

穂先がわずかに下がる。

 

戻す。

 

すぐ戻る。

 

反応に迷いがない。

 

それだけで、胸の奥が熱くなった。

 

「レン」

 

ケイの声がした。

 

「これ、今ちょっと浮いた気がするんだけど」

「浮いている」

「やっぱり?」

「まだ動かすな」

「動かしてないよ。たぶん」

 

ケイの手は柄を強く握っている。

指の関節が白い。

箒はそれに合わせて、少しだけ硬く止まっていた。

 

ロウルは、姿勢を整えながらフーチの指示を待っている。

正しい。

だが、体重移動が慎重すぎる。

箒は動けるのに、術者側が止めている。

 

ザビニは、最初から少し力を抜いていた。

不安を顔に出さない代わりに、握りが軽い。

その分、箒がわずかに遊ぶ。

 

握り。

重心。

力の逃がし方。

 

反応の道筋は、それぞれ違っていた。

 

フーチの笛が鳴る。

 

地面を蹴る。

 

箒が浮いた。

 

体が地面から離れる。

数フィート。

高くはない。

だが、足の裏が芝生を失った瞬間、周囲の音が少し変わった。

 

風。

ローブの裾。

柄へ返る微細な震え。

 

エリアスは前へ体重を移した。

箒が進む。

強く押していない。

ただ、移した分だけ返ってくる。

 

戻す。

止まる。

 

右へ。

曲がる。

 

左へ。

戻る。

 

制動に遅れが少ない。

 

入力が、運動へ変わる。

 

荒い。

古い。

学校備品として使い回されている。

それでも、構造としては恐ろしく完成している。

 

「おい」

 

ザビニが近くをふわりと横切った。

 

「顔、変わってるぞ」

「今は黙ってくれ」

「やっぱり嬉しそうじゃん」

「静かにしてくれ。反応が切れる」

「箒と会話中か」

「会話ではない」

 

そう言いながら、エリアスはまた重心を移した。

箒は応じる。

 

前へ出した分だけ、前へ。

戻した分だけ、止まる。

手の中に、結果が返ってくる。

 

唇の奥で、息が浅くなった。

 

楽しい、という言葉が一瞬だけ浮かぶ。

 

エリアスはすぐに消した。

だが、消しても手の中の感触は残る。

 

 

 

 

地面では、ネビルの箒が不自然に跳ねていた。

 

「ロングボトム! 待ちなさい!」

 

フーチの声が飛ぶ。

 

次の瞬間、ネビルが上がった。

 

高すぎる。

速すぎる。

足が箒から浮きかけ、両手だけでしがみついている。

 

生徒たちが一斉に声を上げた。

 

ネビルの箒は、術者の意図を拾っているようには見えなかった。

握りが固い。

体が後ろへ引ける。

重心が暴れる。

その揺れが、さらに箒を乱す。

 

「止まれ!」

 

フーチが叫ぶ。

 

だが、ネビルは止まれなかった。

 

上へ。

横へ。

校庭の端へ。

 

エリアスは高度を上げかけて、止めた。

 

距離がある。

角度も悪い。

今の自分に、暴れている箒とネビルの体重を同時に受け止める手順はない。

 

飛べば、二つ目の事故になる。

 

エリアスは歯を噛み、高度を落とした。

 

ネビルの体が、校庭の端で傾いた。

 

落ちた。

 

鈍い音がした。

 

芝生ではない。

何か硬いものに当たった音。

 

「動かないで!」

 

フーチが駆け出す。

 

エリアスの箒は地面近くで止まった。

足が芝へ触れる。

 

ネビルはうずくまっていた。

顔は青白い。

片腕を抱え、手首のあたりを動かせずにいる。

 

折れている。

 

少なくとも、そう見える角度だった。

 

フーチが膝をつき、手早く確認する。

声は鋭いが、手つきは迷っていない。

 

「わたしが戻るまで、誰一人として飛んではいけません。破れば退学になるものと思いなさい!」

 

ネビルは唇を震わせながら立たされ、フーチに支えられて城へ連れて行かれた。

 

生徒たちのざわめきが残る。

 

エリアスは、ネビルが歩けることを確認してから、地面へ落ちた箒へ視線を移した。

 

箒は芝生の上に転がっている。

 

穂先が少し乱れた。

柄に新しい傷はない。

暴れてはいない。

ネビルを振り落としたわけではない。

 

握りが固まった。

体が引けた。

重心が崩れた。

箒はそれに応じた。

 

応じてしまった。

 

「見たか?」

 

ドラコ・マルフォイの声がした。

 

振り向くと、マルフォイが小さな硝子玉を手にしていた。

 

掌に収まるほどの丸い玉だった。

内側には白い煙のようなものが閉じ込められ、光を受けるたびに淡く揺れる。

安物ではない。

少なくとも、ネビルが粗末に扱っていい品には見えなかった。

 

「まったく、あれでよく魔法使いを名乗れるよな」

 

クラッブとゴイルが笑う。

 

マルフォイは、こちらへ目を向けた。

 

「レン、君も見ただろ?」

「見た」

「なら――」

「静かにしてくれ」

 

マルフォイの口が止まった。

 

「何?」

「今それどころじゃない」

 

エリアスは箒を見ていた。

芝生に転がる箒。

自分の手元の箒。

マルフォイの指に挟まれた硝子玉。

 

事故の余韻が残っているのに、マルフォイだけが別の遊びを始めようとしている。

 

マルフォイの眉が動いた。

 

「それどころじゃないって、何を――」

「その玉をどうするつもりだ?」

 

エリアスはようやく視線を上げた。

 

マルフォイは一瞬だけ口元を歪める。

 

「高いところに置いてやるのさ。ロングボトムが取りに来られるようにね」

「効率が悪い」

「何だって?」

「彼は今、医務室へ行った。取りに来ない。取りに来られるなら、怪我人ではない」

 

近くでザビニが、笑いかけてやめた。

 

マルフォイの顔に、少しだけ苛立ちが浮かぶ。

 

「君、本当に面白くないね」

 

それでも声は荒れない。

むしろ、わざと整えたように軽かった。

 

「スリザリンで暮らしていきたいなら、もう少し賢くなるべきだよ」

「助言か」

「警告だよ」

「なら、記憶しておく」

 

マルフォイは箒へまたがった。

 

「ポッター! 欲しけりゃ取りに来い!」

 

ハリーが動いた。

 

ロンが何か叫ぶ。

ハーマイオニーの声も聞こえた。

だが、ハリーは箒へまたがる。

 

エリアスは、その瞬間、マルフォイではなくハリーの箒を見た。

 

地面を蹴る。

 

反応が速い。

 

ハリーの箒が上がる。

迷いが少ない。

握りに余計な力がない。

体が箒に遅れていない。

 

初めての動きではない。

 

そう見えるほど、自然だった。

 

列車で見たハリーは、魔法界の道具に慣れているようには見えなかった。

それなのに、今の姿勢は崩れない。

 

マルフォイが上へ逃げる。

ハリーが追う。

 

箒の性能差だけではない。

学校備品の箒だ。

古い。

癖もある。

反応も完璧ではない。

 

だが、ハリーの入力は無駄が少なかった。

 

前へ。

上へ。

制動。

旋回。

 

言葉にすれば単純だが、その間の体重移動が自然すぎる。

 

ザビニが低く言った。

 

「ポッター、飛べるんだな」

「ああ」

 

エリアスは答えた。

 

「かなり、な」

 

マルフォイが硝子玉を投げた。

 

白い球が空へ弧を描く。

 

ハリーの箒が動く。

 

速い。

 

箒の反応は悪くない。

だが、柄は跳ねすぎていない。

穂先も遅れていない。

進む方向を迷っていない。

 

動かしているのは、箒ではなくハリーの体だった。

 

ハリーの肩が落下線へ入る。

膝が沈む。

箒の先が下がる。

急降下。

 

ローブが風で鳴る。

地面が近づく。

 

誰かが叫んだ。

 

ハリーは手を伸ばす。

 

掴む。

 

そのまま、地面すれすれで制動した。

 

箒の穂先が芝をかすめる。

だが、落ちない。

転ばない。

白い硝子玉は手の中にある。

 

覚えた手順をなぞった動きではなかった。

考えてから曲がったのでもない。

球が落ちる前に、体がもうその線へ入っていた。

 

箒への入力が、身体から直接出ている。

 

エリアスは息を吐いた。

 

「才能だな」

 

声は小さかった。

 

ザビニが横を見る。

 

「珍しいな。お前がそう言うの」

「観測結果だ」

「言い方」

 

ハリーの方では、グリフィンドールの何人かが息を呑んだまま固まっている。

ロンは口を開けている。

ハーマイオニーは青ざめていた。

 

スリザリン側では、マルフォイが苦虫を噛み潰した様な顔をしていた。

クラッブとゴイルは笑っていいのか分からない顔をしている。

 

その時、校庭へマクゴナガル教授が速足でやってきた。

 

背筋はまっすぐ伸びている。

唇は細く結ばれ、ローブの裾だけが足元で鋭く揺れていた。

 

マクゴナガル教授は、ハリーの腕を取った。

 

声はここまで届かない。

だが、叱りつけるなら、その場で十分だったはずだ。

 

教授は立ち止まらない。

周囲へ説明もしない。

歩幅は速く、眼鏡の奥の目はいつもの厳しさよりも強く光っていた。

 

怒っていないわけではない。

むしろ、厳格な姿勢の下で、何かを抑えきれていないように見えた。

 

ハリーが何か言いかけても、教授は短く返すだけで、城の方へ進んでいく。

 

周囲がざわついた。

 

「退学か?」

 

ケイが小さく言った。

 

「それにしては、教授の様子が通常の叱責とは違います」

 

ロウルが答える。

 

「叱るためだけなら、あそこまで急がないでしょう」

「何かあるな」

 

ザビニが目を細めた。

 

エリアスに分かるのは、ハリーがその場で処分されなかったこと。

そして、今の飛び方が、ただの違反として片づけられていないことだけだった。

 

 

 

 


 

 

 

 

エリアスは、手の中の箒へ視線を戻した。

 

フーチが戻ってくるまで、生徒たちは勝手に飛べなかった。

ネビルが落ち、ハリーが無断で飛んだ直後だ。

笑い声は消え、芝生の上には、誰もまたがっていない箒だけが並んでいる。

 

それでも、エリアスは箒を握っていた。

 

握りの革。

柄の重心。

わずかな傷。

体重を預けた時の反応。

浮上時の軽さ。

制動時の返り。

 

あの返りを、もう一度確かめたい。

 

高く飛ぶ必要はない。

速く飛ぶ必要もない。

ただ、入力にどこまで追従するのかを見たい。

 

指先に力が入る。

 

ザビニが隣で言った。

 

「返したくなさそうだな」

「まだ見ていないことが多い」

「それ、返したくないって意味だろ」

「違う」

「違わないな」

 

ロウルが静かに言った。

 

「授業用の備品です。返さなければなりませんよ」

「分かっている」

 

指先が、革の擦れを少し強く押した。

だから、余計に不快だった。

 

フーチが戻ると、授業は早めに切り上げられた。

ネビルの怪我と、無断飛行があった以上、続行しない判断は正しい。

 

「箒を元の位置へ戻しなさい。乱暴に扱わないこと!」

 

生徒たちは、それぞれ箒を地面へ置いていく。

 

エリアスも、自分の箒を持って列へ戻った。

 

手を離す。

 

箒は他の箒と並べられた。

 

それだけだった。

 

それだけなのに、指先にまだ握りの感触が残っている。

革の擦れ。

木の硬さ。

浮上前の、あのわずかな反発。

 

もう一度触りたかった。

 

握る。

体重を預ける。

命じる。

傾ける。

戻す。

 

箒は、そのどれか、あるいは全部を読んで、運動へ返していた。

 

完璧ではない。

古く、傷もあり、反応には個体差もある。

 

それでも、道具としての完成度は異常だった。

 

校庭の端で、グリフィンドールの生徒たちがまだざわついている。

スリザリン側では、マルフォイが眉間を寄せたまま、先ほどの一件について話していた。

ケイは箒から離れて、ようやく息を吐いている。

ロウルはフーチの戻っていった方を見てから、並べ直された箒へ視線を移した。

ザビニは、こちらを見て薄く笑っていた。

 

エリアスは、並べられた箒をもう一度だけ見た。

 

学校備品。

使い古された訓練用の箒。

 

それでも、あれほど応答した。

 

なら、最高級の箒はどうなる。

 

そう考えた瞬間、胸の奥が静かに熱を持った。

 

空を飛びたいのではない。

 

この道具を、もっと知りたかった。

 

 

 

 

 

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