木曜の午後、校庭には古い箒が一列に並べられていた。
空はよく晴れていた。
芝生は乾いている。
遠くで湖が光を返し、城の影が地面の上に長く落ちている。
だが、エリアスの視線は空へ向かなかった。
足元の箒に止まっていた。
学校備品らしい古さがある。
握りの革は擦れ、何人もの手に使われた跡が残っていた。
柄には細かな傷が走っている。
穂先も何本か折れ、先端の長さは完全には揃っていない。
それでも、雑ではない。
穂先の束ね方。
柄と穂先の接続。
重心の位置。
握った時に手の中で回りすぎない太さ。
傷は多いが、芯が歪んでいるものは少ない。
使い古されている。
だが、道具としての形は崩れていなかった。
ザビニが隣で箒を見下ろした。
「思ったより、ぼろいな」
「古いだけだ」
「違うのか?」
「違う」
エリアスは、足元の箒から目を離さなかった。
「均衡は崩れていない」
ザビニは一瞬だけ黙り、それから口元を動かした。
「箒相手に、人間みたいな評価してるな」
「事実だ」
ケイは自分の箒の横に立ち、鞄の紐がないことに気づいたように、ローブの袖を握った。
「これ、本当に飛ぶんだよね」
「飛ぶから授業になるのでしょう」
ロウルが答える。
声は落ち着いているが、背筋は普段より硬い。
「地面に置いた箒へ、上がれ、と命じるそうです。上級生はそう言っていました」
ケイは箒を見下ろした。
「命じて、来なかったら?」
「来るまで言うんじゃないか」
ザビニが言った。
「来なかったら?」
「恥をかく」
ケイの顔が嫌そうに歪む。
「落ちるよりはましだけどさ」
その時、笛の音が鳴った。
マダム・フーチが歩いてくる。
短い灰色の髪。
黄色い目。
歩き方に無駄がない。
「全員、箒の左側に立ちなさい。さあ、ぐずぐずしない!」
グリフィンドールとスリザリンの一年生たちが、ばらばらに位置を直した。
芝生が靴底で擦れる。
誰かが小さく笑い、別の誰かが息を飲む。
ハリーは、向こう側の列にいた。
ロンが隣で何かを言っている。
ハーマイオニーは箒を睨むように見下ろしていた。
ネビルは顔色が悪い。
エリアスは一度だけ全体を見たが、すぐ足元へ戻した。
今日見るべきものは、まずこれだった。
「右手を箒の上へ出して」
フーチの声が飛ぶ。
「そして、はっきり言う。上がれ!」
一斉に声が上がった。
「上がれ!」
ザビニの箒は、少し間を置いて手元へ跳ねた。
ロウルの箒は、真っ直ぐ上がったが、握られる寸前でわずかに傾いた。
ケイの箒は地面で震え、半分だけ浮きかけて落ちた。
「……今、来かけたよね?」
ケイが小さく言う。
「来かけたな」
ザビニが返す。
「それ、失敗より悔しくない?」
「もう一度試せばいいだけです」
ロウルが静かに言った。
エリアスは、自分の右手を箒の上に置いた。
命令。
発声。
意図。
距離。
杖ではない。
手の中にない。
地面に置かれた道具へ、言葉を投げる。
「上がれ」
箒は跳ねた。
というより、呼びかけへ返事をしたようだった。
掌へ柄が収まる。
革の擦れた感触。
古い木の硬さ。
わずかに残る冷たさ。
エリアスは握ったまま、しばらく黙った。
今、何に反応した。
声か。
手か。
意図か。
魔力か。
命令語か。
箒は震えていない。
暴れてもいない。
握られた瞬間に、ただ静かになった。
杖のように先回りしてこない。
月桂樹の杖が時々見せる、こちらの意図を測るような遅れもない。
だが、ただの棒でもない。
呼んだ。
来た。
それだけのはずなのに、そこに何かがある。
「一回で来たな」
ザビニが言った。
「来た」
「嬉しそうじゃないのに、嬉しそうだぞ」
「意味が分からない」
「顔じゃなくて、手」
ザビニはエリアスの右手を見た。
箒を握る指が、少しだけ強くなっていた。
エリアスは力を緩めた。
「全員、箒にまたがりなさい。地面を強く蹴ったら、数フィート浮いて、前傾して、ゆっくり戻る。わたしが笛を吹くまで飛び上がらないこと!」
フーチの声に、列が少し緊張した。
エリアスは箒へまたがった。
柄が体重を受けた瞬間、箒の下に薄い反発が生まれた。
地面へ沈まない。
体を支える。
だが、完全には浮いていない。
まだ命じていない。
それでも、何かが待機している。
エリアスは膝の角度を変えた。
右へ体重を寄せる。
箒がわずかに応じる。
戻す。
応じる。
前へ重心を移す。
穂先がわずかに下がる。
戻す。
すぐ戻る。
反応に迷いがない。
それだけで、胸の奥が熱くなった。
「レン」
ケイの声がした。
「これ、今ちょっと浮いた気がするんだけど」
「浮いている」
「やっぱり?」
「まだ動かすな」
「動かしてないよ。たぶん」
ケイの手は柄を強く握っている。
指の関節が白い。
箒はそれに合わせて、少しだけ硬く止まっていた。
ロウルは、姿勢を整えながらフーチの指示を待っている。
正しい。
だが、体重移動が慎重すぎる。
箒は動けるのに、術者側が止めている。
ザビニは、最初から少し力を抜いていた。
不安を顔に出さない代わりに、握りが軽い。
その分、箒がわずかに遊ぶ。
握り。
重心。
力の逃がし方。
反応の道筋は、それぞれ違っていた。
フーチの笛が鳴る。
地面を蹴る。
箒が浮いた。
体が地面から離れる。
数フィート。
高くはない。
だが、足の裏が芝生を失った瞬間、周囲の音が少し変わった。
風。
ローブの裾。
柄へ返る微細な震え。
エリアスは前へ体重を移した。
箒が進む。
強く押していない。
ただ、移した分だけ返ってくる。
戻す。
止まる。
右へ。
曲がる。
左へ。
戻る。
制動に遅れが少ない。
入力が、運動へ変わる。
荒い。
古い。
学校備品として使い回されている。
それでも、構造としては恐ろしく完成している。
「おい」
ザビニが近くをふわりと横切った。
「顔、変わってるぞ」
「今は黙ってくれ」
「やっぱり嬉しそうじゃん」
「静かにしてくれ。反応が切れる」
「箒と会話中か」
「会話ではない」
そう言いながら、エリアスはまた重心を移した。
箒は応じる。
前へ出した分だけ、前へ。
戻した分だけ、止まる。
手の中に、結果が返ってくる。
唇の奥で、息が浅くなった。
楽しい、という言葉が一瞬だけ浮かぶ。
エリアスはすぐに消した。
だが、消しても手の中の感触は残る。
地面では、ネビルの箒が不自然に跳ねていた。
「ロングボトム! 待ちなさい!」
フーチの声が飛ぶ。
次の瞬間、ネビルが上がった。
高すぎる。
速すぎる。
足が箒から浮きかけ、両手だけでしがみついている。
生徒たちが一斉に声を上げた。
ネビルの箒は、術者の意図を拾っているようには見えなかった。
握りが固い。
体が後ろへ引ける。
重心が暴れる。
その揺れが、さらに箒を乱す。
「止まれ!」
フーチが叫ぶ。
だが、ネビルは止まれなかった。
上へ。
横へ。
校庭の端へ。
エリアスは高度を上げかけて、止めた。
距離がある。
角度も悪い。
今の自分に、暴れている箒とネビルの体重を同時に受け止める手順はない。
飛べば、二つ目の事故になる。
エリアスは歯を噛み、高度を落とした。
ネビルの体が、校庭の端で傾いた。
落ちた。
鈍い音がした。
芝生ではない。
何か硬いものに当たった音。
「動かないで!」
フーチが駆け出す。
エリアスの箒は地面近くで止まった。
足が芝へ触れる。
ネビルはうずくまっていた。
顔は青白い。
片腕を抱え、手首のあたりを動かせずにいる。
折れている。
少なくとも、そう見える角度だった。
フーチが膝をつき、手早く確認する。
声は鋭いが、手つきは迷っていない。
「わたしが戻るまで、誰一人として飛んではいけません。破れば退学になるものと思いなさい!」
ネビルは唇を震わせながら立たされ、フーチに支えられて城へ連れて行かれた。
生徒たちのざわめきが残る。
エリアスは、ネビルが歩けることを確認してから、地面へ落ちた箒へ視線を移した。
箒は芝生の上に転がっている。
穂先が少し乱れた。
柄に新しい傷はない。
暴れてはいない。
ネビルを振り落としたわけではない。
握りが固まった。
体が引けた。
重心が崩れた。
箒はそれに応じた。
応じてしまった。
「見たか?」
ドラコ・マルフォイの声がした。
振り向くと、マルフォイが小さな硝子玉を手にしていた。
掌に収まるほどの丸い玉だった。
内側には白い煙のようなものが閉じ込められ、光を受けるたびに淡く揺れる。
安物ではない。
少なくとも、ネビルが粗末に扱っていい品には見えなかった。
「まったく、あれでよく魔法使いを名乗れるよな」
クラッブとゴイルが笑う。
マルフォイは、こちらへ目を向けた。
「レン、君も見ただろ?」
「見た」
「なら――」
「静かにしてくれ」
マルフォイの口が止まった。
「何?」
「今それどころじゃない」
エリアスは箒を見ていた。
芝生に転がる箒。
自分の手元の箒。
マルフォイの指に挟まれた硝子玉。
事故の余韻が残っているのに、マルフォイだけが別の遊びを始めようとしている。
マルフォイの眉が動いた。
「それどころじゃないって、何を――」
「その玉をどうするつもりだ?」
エリアスはようやく視線を上げた。
マルフォイは一瞬だけ口元を歪める。
「高いところに置いてやるのさ。ロングボトムが取りに来られるようにね」
「効率が悪い」
「何だって?」
「彼は今、医務室へ行った。取りに来ない。取りに来られるなら、怪我人ではない」
近くでザビニが、笑いかけてやめた。
マルフォイの顔に、少しだけ苛立ちが浮かぶ。
「君、本当に面白くないね」
それでも声は荒れない。
むしろ、わざと整えたように軽かった。
「スリザリンで暮らしていきたいなら、もう少し賢くなるべきだよ」
「助言か」
「警告だよ」
「なら、記憶しておく」
マルフォイは箒へまたがった。
「ポッター! 欲しけりゃ取りに来い!」
ハリーが動いた。
ロンが何か叫ぶ。
ハーマイオニーの声も聞こえた。
だが、ハリーは箒へまたがる。
エリアスは、その瞬間、マルフォイではなくハリーの箒を見た。
地面を蹴る。
反応が速い。
ハリーの箒が上がる。
迷いが少ない。
握りに余計な力がない。
体が箒に遅れていない。
初めての動きではない。
そう見えるほど、自然だった。
列車で見たハリーは、魔法界の道具に慣れているようには見えなかった。
それなのに、今の姿勢は崩れない。
マルフォイが上へ逃げる。
ハリーが追う。
箒の性能差だけではない。
学校備品の箒だ。
古い。
癖もある。
反応も完璧ではない。
だが、ハリーの入力は無駄が少なかった。
前へ。
上へ。
制動。
旋回。
言葉にすれば単純だが、その間の体重移動が自然すぎる。
ザビニが低く言った。
「ポッター、飛べるんだな」
「ああ」
エリアスは答えた。
「かなり、な」
マルフォイが硝子玉を投げた。
白い球が空へ弧を描く。
ハリーの箒が動く。
速い。
箒の反応は悪くない。
だが、柄は跳ねすぎていない。
穂先も遅れていない。
進む方向を迷っていない。
動かしているのは、箒ではなくハリーの体だった。
ハリーの肩が落下線へ入る。
膝が沈む。
箒の先が下がる。
急降下。
ローブが風で鳴る。
地面が近づく。
誰かが叫んだ。
ハリーは手を伸ばす。
掴む。
そのまま、地面すれすれで制動した。
箒の穂先が芝をかすめる。
だが、落ちない。
転ばない。
白い硝子玉は手の中にある。
覚えた手順をなぞった動きではなかった。
考えてから曲がったのでもない。
球が落ちる前に、体がもうその線へ入っていた。
箒への入力が、身体から直接出ている。
エリアスは息を吐いた。
「才能だな」
声は小さかった。
ザビニが横を見る。
「珍しいな。お前がそう言うの」
「観測結果だ」
「言い方」
ハリーの方では、グリフィンドールの何人かが息を呑んだまま固まっている。
ロンは口を開けている。
ハーマイオニーは青ざめていた。
スリザリン側では、マルフォイが苦虫を噛み潰した様な顔をしていた。
クラッブとゴイルは笑っていいのか分からない顔をしている。
その時、校庭へマクゴナガル教授が速足でやってきた。
背筋はまっすぐ伸びている。
唇は細く結ばれ、ローブの裾だけが足元で鋭く揺れていた。
マクゴナガル教授は、ハリーの腕を取った。
声はここまで届かない。
だが、叱りつけるなら、その場で十分だったはずだ。
教授は立ち止まらない。
周囲へ説明もしない。
歩幅は速く、眼鏡の奥の目はいつもの厳しさよりも強く光っていた。
怒っていないわけではない。
むしろ、厳格な姿勢の下で、何かを抑えきれていないように見えた。
ハリーが何か言いかけても、教授は短く返すだけで、城の方へ進んでいく。
周囲がざわついた。
「退学か?」
ケイが小さく言った。
「それにしては、教授の様子が通常の叱責とは違います」
ロウルが答える。
「叱るためだけなら、あそこまで急がないでしょう」
「何かあるな」
ザビニが目を細めた。
エリアスに分かるのは、ハリーがその場で処分されなかったこと。
そして、今の飛び方が、ただの違反として片づけられていないことだけだった。
エリアスは、手の中の箒へ視線を戻した。
フーチが戻ってくるまで、生徒たちは勝手に飛べなかった。
ネビルが落ち、ハリーが無断で飛んだ直後だ。
笑い声は消え、芝生の上には、誰もまたがっていない箒だけが並んでいる。
それでも、エリアスは箒を握っていた。
握りの革。
柄の重心。
わずかな傷。
体重を預けた時の反応。
浮上時の軽さ。
制動時の返り。
あの返りを、もう一度確かめたい。
高く飛ぶ必要はない。
速く飛ぶ必要もない。
ただ、入力にどこまで追従するのかを見たい。
指先に力が入る。
ザビニが隣で言った。
「返したくなさそうだな」
「まだ見ていないことが多い」
「それ、返したくないって意味だろ」
「違う」
「違わないな」
ロウルが静かに言った。
「授業用の備品です。返さなければなりませんよ」
「分かっている」
指先が、革の擦れを少し強く押した。
だから、余計に不快だった。
フーチが戻ると、授業は早めに切り上げられた。
ネビルの怪我と、無断飛行があった以上、続行しない判断は正しい。
「箒を元の位置へ戻しなさい。乱暴に扱わないこと!」
生徒たちは、それぞれ箒を地面へ置いていく。
エリアスも、自分の箒を持って列へ戻った。
手を離す。
箒は他の箒と並べられた。
それだけだった。
それだけなのに、指先にまだ握りの感触が残っている。
革の擦れ。
木の硬さ。
浮上前の、あのわずかな反発。
もう一度触りたかった。
握る。
体重を預ける。
命じる。
傾ける。
戻す。
箒は、そのどれか、あるいは全部を読んで、運動へ返していた。
完璧ではない。
古く、傷もあり、反応には個体差もある。
それでも、道具としての完成度は異常だった。
校庭の端で、グリフィンドールの生徒たちがまだざわついている。
スリザリン側では、マルフォイが眉間を寄せたまま、先ほどの一件について話していた。
ケイは箒から離れて、ようやく息を吐いている。
ロウルはフーチの戻っていった方を見てから、並べ直された箒へ視線を移した。
ザビニは、こちらを見て薄く笑っていた。
エリアスは、並べられた箒をもう一度だけ見た。
学校備品。
使い古された訓練用の箒。
それでも、あれほど応答した。
なら、最高級の箒はどうなる。
そう考えた瞬間、胸の奥が静かに熱を持った。
空を飛びたいのではない。
この道具を、もっと知りたかった。